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15話 問いの街

 その老人は、町のどこにでもいそうな、ただの老人に見えた。

 けれど町の人々はみな、彼を「知恵者」と呼び、一目置いていた。

 老人は広場の隅の石段に腰を下ろし、朝な夕な、人々の話を聞いていた。


 ある日、青年が老人のもとを訪れた。

 「先生、私は“正義”とは何かを知りたいのです」


 老人はゆっくりと首をかしげ、静かに言った。

 「わしにも分からん。だが、君はどう思うのかね?」


 青年は胸を張って答えた。

 「正義とは、悪を憎み、善をなすことです」

 「なるほど。では“善”とは何だろう?」


 青年は少し考えて、

 「困っている人を助けることです」

 と応えた。


 「それは常に正しいのかい?」

 「もちろんです」

 「では、盗賊が困っていたら、君は助けるのかね?」


 青年は一瞬、口をつぐんだ。

 「……それは、ちがうと思います」

 「なぜ違うのかい?」

 「盗賊は悪いことをしたからです」

 「なるほど、では“悪いこと”とは何だろう?」


 青年はまた考える。

 「人を傷つけたり、物を盗んだりすることです」

 「それは誰が決めたのだろう?」

 「……法律です」

 「法律はいつも正しいのかい?」


 青年は戸惑いながら答えた。

 「ときどき、正しくないこともあるかもしれません」


 老人はしばらく黙ったのち、静かに続けた。

 「昔、この町でも、法律によって善良な人が追放されたことがあったそうじゃ。

 そのとき、多くの人は、それを正しいと信じていた」


 青年は言葉に詰まる。


 「善や悪、正義というのは、人や時代、場所によって違うものかもしれんな」

 老人はやさしく微笑んだ。


 青年は俯き、

 「私は何も知らなかったようです」と言った。


 「そうかもしれん。だが、それに気づいたなら、君はもう昨日の自分とは違う」


 このやりとりを見ていた町の人々は、「なるほど」と頷く者もいれば、「面倒くさい老人だ」と眉をひそめる者もいた。


 ある晩、町の評議会で偉い役人がこう言った。

 「この老人は町の若者を惑わせている。伝統を疑わせ、みんなの心を乱しているのだ」

 「だが彼は、何か悪いことをしたのか?」と別の者が問う。

 「していない。しかし彼の問いは、人々の心を不安にする。町の秩序を乱しかねない」


 その後も老人のもとには、悩みや疑問を抱える者が絶えなかった。

 「人生の意味はなんですか?」

 「愛とは何ですか?」

 「勇気とは?」

 老人はいつも同じように首をかしげ、問い返した。


 「君はどう思うのかい?」


 相手が答えるたびに、さらに深く、優しく、疑問を返す。

 「愛するとは、ただ大切に思うことかい?」

 「その人のために自分を犠牲にすることも愛だろうか?」

 「勇気とは、ただ怖れを乗り越えることかい? それとも、怖れるべきものを見極めて逃げることも勇気なのかい?」


 ある若い兵士が言った。

 「私は戦場に立つとき、怖くてたまらないが、それでも前に出る。それが勇気だと教えられた」

 老人は首をかしげる。

 「怖いまま前に進むことは素晴らしい。だが、もし無意味に命を投げ出すことが勇気なら、誰にとっての善なのだろう?」


 兵士は長い間黙り込んだ。

 やがて言った。

 「私は、ただ“勇気ある者”と呼ばれたかっただけかもしれません」


 老人は静かにうなずいた。


 人々は次第に、自分の言葉が簡単に正しさに結びつかないことに気づき始めた。

 町には、不思議な沈黙と、静かなざわめきが満ちていった。


 老人の問答は、次第に町の偉い人々や、金持ち、役人、長老たちの耳にも入った。

 中には「もっと老人と話したい」という者もいれば、「あの老人は町を混乱させる悪人だ」と決めつける者もいた。


 ある日、評議会はついに決断した。

 「このままでは町の若者たちが、昔からの教えを疑い、伝統を捨ててしまう。あの老人は、町に害をもたらしている」


 そして、老人を法廷に呼び出した。

 老人は穏やかな表情のまま、裁判官の問いに答える。

 「あなたはなぜ、若者たちに問いかけるのか」

 「それは、彼らが自分の頭で考えるためです」

 「しかし、あなたの問いが人々を混乱させているのだ」

 「混乱とは、知らぬままにいるよりは、知ろうとするほうが良いのではないでしょうか」

 「あなたは神々を信じないのか」

 「私は神々について何も知らぬ。だが、知らぬことを知らぬという勇気を持ちたいのです」


 人々はざわめいた。


 「この老人は町の若者を堕落させている!」

 「町の神々を冒涜している!」


 法廷の評決はすぐに下った。

 老人には「町の秩序を乱した罪」で死刑が宣告された。


 老人の弟子たちは嘆き悲しみ、町の片隅で密かに救う方法を話し合った。

 しかし老人は逃げず、最後まで広場の石段に腰かけていた。


 毒薬の入った杯が差し出されると、老人は静かにそれを受け取った。

 そして、集まった人々に穏やかな声で言った。


 「私は、自分が何も知らないということだけを知っていた。

 誰もが正しいと思い込み、善や悪や正義や愛を語る。

 だが、その言葉の意味を本当に知る者はいない。

 考え続け、問い続けること。それだけが、人を少しだけ賢くするのかもしれない。

 ……さあ、そろそろお開きにしようか。

 私はこれから、あちらの世界でまた誰かと語り合うことになるだろうからね」


 老人は静かに毒薬を飲み干し、長い問答の旅を終えた。


 この話は、紀元前5世紀のギリシャの哲学者ソクラテスの生涯と「ソクラテス式問答法」が元ネタです。

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