13話 銀座の江幸
銀座のクラブ「アリア」には、江幸という美貌と野心を兼ね備えた若いホステスがいた。
江幸は、いつか自分の店を持ち、裕福で自由な人生を手に入れることを夢見ていた。
そのためにはどんな努力も、小さな嘘も厭わなかった。
彼女は店のオーナー・栄作に取り入り、「ママの華子を巧みに操れば、いずれ店を譲る」という甘い言葉を信じて、
華子に尽くし、噂話や世間話で彼女の注意を夫から逸らし続けていた。
華子は栄作の浮気や夜遊びを警戒していたが、江幸の話術にすっかり気を許していた。
何カ月もその策略は続いた。
だがある晩、華子はついに江幸の裏切りに気付いた。
「江幸、あんた、私をおしゃべりで惑わせて、夫の栄作を好き放題させてたんだね」
江幸はごまかそうとしたが、華子の剣幕に心が折れ、ついに全てを白状してしまう。
華子は恐ろしい形相で江幸を睨みつけ、低い声で告げた。
「今日から、アンタは自分から男にも客にも話しかけるのは禁止。会話は、相手の言葉をオウム返しにするだけにしなさい」
華子は実は催眠術師だった。その言葉が江幸の心に沁み入り、彼女は本当に自分から何も言えなくなってしまう。
それから江幸は、ただ相手の言葉を繰り返すしかできない“無口なホステス”になった。
当然、客や同僚からは「つまらない」「愛想がない」と敬遠され、指名もチップも激減し、やがて仕事そのものも失った。
銀座のクラブ「アリア」には、成樹という若き店長がいた。
彼は端正な顔立ちと穏やかな物腰で、スタッフも客も、男女問わず多くの人が心を寄せていた。
だが成樹は、誰の好意にも応えることなく、自分から恋愛や特別な関係に踏み込むことがなかった。
誰よりも自分自身にこだわり、自分を映す鏡の前で過ごす時間が好きだった。
ある夜、江幸はカウンターの端から成樹を見つめていた。
ママの催眠のせいで、どうしても自分の気持ちを言葉にできない。
ただ成樹の言葉を静かに繰り返すことしかできなかった。
深夜の閉店間際、成樹はカウンターに一人残り、ふと小さくつぶやいた。
「誰か、ここにいるのか?」
江幸は離れた席から、そっと「いるのか?」とだけ、か細く返す。
「近くに来てくれ」
「くれ」
「なんで逃げるんだ」
「逃げるんだ」
成樹は不思議そうに辺りを見回し、声の主を探した。
江幸は胸を高鳴らせ、どうにかして彼に会いたい、話したいと強く願うのに、自分からは動けない。
「本当にいるなら、ここに来てくれ」
「くれ」と、江幸はまた小さく繰り返す。
とうとう江幸は、勇気を振り絞って成樹の前に姿を現した。
その瞬間、江幸はこれまで伝えられなかった想いをぶつけるように、成樹に近づこうとする。
だが成樹は戸惑い、思わず江幸を冷たく突き放す。
彼は超ナルシストで、もともと誰かと親しくなることや、他人の強い気持ちを受け止めることができない。
「ごめん、僕は君のことを好きにはなれない。近づかないでくれ」
「好きにはなれない……」と、江幸は弱々しく繰り返す。
羞恥と哀しみが胸いっぱいに広がり、江幸はそのまま夜の銀座の街に消えていった。
やがて彼女の姿を見かける者はいなくなり、
ただ夜の路地裏や静かな店の奥で、「好きにはなれない……」という声だけが、かすかに反響する“エコー”となって残ったという。
そして――成樹の冷たい態度に心を傷つけられた多くの女性たちは、
「成樹は、自分だけしか愛せない人」とささやき合った。
その噂は、やがて銀座中に広がっていった。
夜の銀座には、
自分自身しか愛せぬ者と、誰かの言葉を反響する者――
ナルシストと“エコー”だけが、毎日のように漂っている。