表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

13/30

13話 銀座の江幸

銀座のクラブ「アリア」には、江幸えこうという美貌と野心を兼ね備えた若いホステスがいた。

江幸は、いつか自分の店を持ち、裕福で自由な人生を手に入れることを夢見ていた。

そのためにはどんな努力も、小さな嘘も厭わなかった。

彼女は店のオーナー・栄作えいさくに取り入り、「ママの華子はなこを巧みに操れば、いずれ店を譲る」という甘い言葉を信じて、

華子に尽くし、噂話や世間話で彼女の注意を夫から逸らし続けていた。

華子は栄作の浮気や夜遊びを警戒していたが、江幸の話術にすっかり気を許していた。

何カ月もその策略は続いた。


だがある晩、華子はついに江幸の裏切りに気付いた。

「江幸、あんた、私をおしゃべりで惑わせて、夫の栄作を好き放題させてたんだね」

江幸はごまかそうとしたが、華子の剣幕に心が折れ、ついに全てを白状してしまう。

華子は恐ろしい形相で江幸を睨みつけ、低い声で告げた。

「今日から、アンタは自分から男にも客にも話しかけるのは禁止。会話は、相手の言葉をオウム返しにするだけにしなさい」

華子は実は催眠術師だった。その言葉が江幸の心に沁み入り、彼女は本当に自分から何も言えなくなってしまう。


それから江幸は、ただ相手の言葉を繰り返すしかできない“無口なホステス”になった。

当然、客や同僚からは「つまらない」「愛想がない」と敬遠され、指名もチップも激減し、やがて仕事そのものも失った。


銀座のクラブ「アリア」には、成樹なるきという若き店長がいた。

彼は端正な顔立ちと穏やかな物腰で、スタッフも客も、男女問わず多くの人が心を寄せていた。

だが成樹は、誰の好意にも応えることなく、自分から恋愛や特別な関係に踏み込むことがなかった。

誰よりも自分自身にこだわり、自分を映す鏡の前で過ごす時間が好きだった。


ある夜、江幸はカウンターの端から成樹を見つめていた。

ママの催眠のせいで、どうしても自分の気持ちを言葉にできない。

ただ成樹の言葉を静かに繰り返すことしかできなかった。


深夜の閉店間際、成樹はカウンターに一人残り、ふと小さくつぶやいた。

「誰か、ここにいるのか?」

江幸は離れた席から、そっと「いるのか?」とだけ、か細く返す。


「近くに来てくれ」

「くれ」

「なんで逃げるんだ」

「逃げるんだ」


成樹は不思議そうに辺りを見回し、声の主を探した。

江幸は胸を高鳴らせ、どうにかして彼に会いたい、話したいと強く願うのに、自分からは動けない。


「本当にいるなら、ここに来てくれ」

「くれ」と、江幸はまた小さく繰り返す。


とうとう江幸は、勇気を振り絞って成樹の前に姿を現した。

その瞬間、江幸はこれまで伝えられなかった想いをぶつけるように、成樹に近づこうとする。


だが成樹は戸惑い、思わず江幸を冷たく突き放す。

彼は超ナルシストで、もともと誰かと親しくなることや、他人の強い気持ちを受け止めることができない。

「ごめん、僕は君のことを好きにはなれない。近づかないでくれ」

「好きにはなれない……」と、江幸は弱々しく繰り返す。


羞恥と哀しみが胸いっぱいに広がり、江幸はそのまま夜の銀座の街に消えていった。

やがて彼女の姿を見かける者はいなくなり、

ただ夜の路地裏や静かな店の奥で、「好きにはなれない……」という声だけが、かすかに反響する“エコー”となって残ったという。


そして――成樹の冷たい態度に心を傷つけられた多くの女性たちは、

「成樹は、自分だけしか愛せない人」とささやき合った。

その噂は、やがて銀座中に広がっていった。


夜の銀座には、

自分自身しか愛せぬ者と、誰かの言葉を反響する者――

ナルシストと“エコー”だけが、毎日のように漂っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ