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10話 契約

 突然、別の部署から新しい同僚が配属された。

 彼は爽やかな青年で、誰にも礼儀正しく、仕事も早い。たちまち皆の人気者になった。


 自分は、というと、最近はどうにも仕事がうまくいかない。家庭もぎくしゃくしていた。

 そんな彼が、うらやましかった。飲み会の席で、つい本音がこぼれる。


 「君は、どうしてそんなに何事もうまくいくんだい?」


 青年はグラスを傾けて、微笑んだ。


 「実は、ある人と“契約”したんです」

 「契約?」

 「ええ。それから、人生が面白いほど良くなりました。――よかったら、君も紹介しましょうか」


 冗談半分で「頼むよ」と答えた。それが、すべての始まりだった。


 数日後、指定されたカフェに行くと、黒い服を着た妙齢の男が座っていた。

 男は静かに微笑み、「よく来られました」と言う。

 「ご安心ください。あなたには“万能感”を授けましょう」

 「万能感……ですか?」

 「はい。何事にも自信が湧き、失敗や恐れが消える力です」

 「……それだけですか?」

 「それだけで充分でしょう。契約は、今この瞬間、完了しました」


 細かな説明もないまま、すべては決まった。


 ――それから、人生が驚くほど回り始めた。


 根拠のない自信と高揚感があふれ、何事にも臆さず挑戦できる自分になっていた。

 仕事では次々と大きな案件が舞い込み、上司からも評価される。給料も上がる。

 家庭も円満になり、妻も子どもも、笑顔が増えた。


 「やっぱり、本物だったんだな」と思いながら、慌ただしくも幸せな日々が過ぎていく。


 だが、その万能感は“記憶”を対価に生まれていた。


 ある朝、奇妙な違和感があった。

 隣で寝ているはずの妻の“名前”が、どうしても思い出せない。


 仕事のしすぎで疲れているだけだ、と自分に言い聞かせて一日を終えた。

 けれど翌日には、子どもの名前も、実家の電話番号も思い出せなくなっていた。


 数日後、出社しても、同僚の顔がぼんやりとしか認識できない。

 朝の挨拶で名前を呼ばれても、誰のことだか分からない。

 ――ただ、仕事の成果だけは、ますます上がっていた。


 ふと気づけば、自分の“過去”がどんどん薄れていく。

 かつての友人や家族、愛した人の顔が思い出せない。

 嬉しかった記憶、辛かった出来事、誇りも、後悔も――

 全部が、雲のように消えていった。


 そんなある日、例の男が目の前に現れた。


 「あなたの人生はいかがですか?」


 「……幸せです。でも、何か大切なものを失った気がします」


 男は柔らかく微笑んだ。


 「あなたは希望どおり、最高の未来を手に入れた。その代償として“過去”を失っただけですよ」


 「このまま全部、消えてしまうんですか?」


 「あなたが望む限り、どこまでも」


 男は、楽しげに立ち去った。


 夜、ベッドでぼんやりと考える。

 目を閉じても、家族の顔も、自分の名前すら思い出せない。

 ただ、“幸せ”だったという感覚だけが、ぼんやり残っていた。


 ある朝、目覚めると、自分が誰なのかさえ分からなかった。


 生きている意味まで、忘れていく感覚があった。


 すると、あの男が現れた。


 「とても愉快な人生が見えました。あなたは本当に楽しませてくれました」


 「記憶を返してくれ」


 「悪魔との契約は破棄できません。あなたが、これからどのようにさまようか――見届けさせてください。死ねば、その魂もいただきますよ」


 ――もう、屍のように生きていくしかなかった。

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