1話 嫉妬の指輪
指輪は、どこから現れたのか誰にもわからなかった。
ごく普通の黒い輪。宝石も刻印もない。ただ一つだけ、この指輪は“嫉妬”という感情を抱いた女性の指にだけ、そっと現れるのだ。
大学のキャンパスで、静かにすべてが始まった。
最初に指輪をはめたのは、目立たない女子学生だった。ある日、ふとした瞬間、人気のある友人の笑顔や肌の美しさに胸の奥がざわついた。気づくと、右手の薬指に見知らぬ黒い指輪がはまっていた。「いつの間に……」と思いながらも、違和感はすぐに消えた。その晩、鏡を見ると自分の顔色が明るくなった気がした。
数日後、彼女の友人は頬に大きな吹き出物を作り、明らかに元気をなくしていた。学内では「あの子、最近老けたみたい」と噂が立つ。だが、指輪の持ち主は知らぬふりをした。
やがて、指輪は彼女の指から消え、別の“嫉妬”を抱いた女子の手に現れた。
こうして、嫉妬の指輪は次から次へと女性たちの間を渡り歩いた。
美しいと呼ばれていた女性ほど、早く標的になった。モデル、インフルエンサー、街で評判の美人、テレビに映る女優やアイドル――どこかで誰かが彼女たちに嫉妬する。その瞬間、指輪が現れ、やがてその美は崩れていった。
SNSでは「最近、美人がいなくなった」「あのアイドルも普通の子みたい」とささやかれたが、何も証拠はなかった。
化粧品会社や美容外科がどれほど努力しても、誰ひとり“美しさ”を取り戻せなかった。
ある冬の夕暮れ、大学のカフェテリアで、ある学生が窓に映る自分の顔をまじまじと見つめていた。周囲の友人も同じような顔、同じような髪型に変わっていた。
「何か変だと思わない?」
そう呟くと、友人は肩をすくめて、すぐスマホの画面に目を落とした。誰も、自分たちが“美”というものを失っていることに本当は気づいていたが、口に出せなかった。
やがて、街から「美しい女性」という存在自体が消えた。
男たちもまた、女性を“魅力的”と思う気持ちを失っていった。
恋愛は減り、結婚も激減し、子どもは年々生まれなくなった。
始まりは、たった一つの指輪――それを知る者はいなかった。
それから長い年月が流れた。
かつての女性たちの姿は、どこにも残っていなかった。
街を歩く女たちは、古代の写真で見た“類人猿”のような輪郭と、灰色の瞳を持ち、感情のない顔で、ただ生きていた。
科学者たちは「人類の進化が逆行した」「未知の疫病だ」と騒いだが、何も解明できなかった。
やがて、男たちも恋や愛を語ることをやめ、社会からは歌も、踊りも、色彩も消えていった。
子どもは生まれなくなり、老人だけが静かに日々を重ねた。
やがて、世界は沈黙に包まれた。
愛も、恋も、嫉妬も、美しさも、もう誰にも思い出すことはできなかった。
最後の世代となったある日、廃墟の町で、ひとりの少年が埃まみれの黒い指輪を見つけた。
それは、何の意味も価値もない小さな輪だった。少年は無感動な手でそれを窓の外へ投げ捨てた。
外は曇り空。指輪が転がる音は遠く消え、何も起こらなかった。
少年は胸の内で、なぜか小さな物足りなさを覚えたが、それが何なのか言葉にできなかった。
彼には“美しい”という言葉も、“恋をする”という気持ちも、すでに思い出せなくなっていた。
その瞬間、世界の女性の美はすべて消滅してしまった。
この少年も恋をすることなく、種を繋ぐことなく、一生を終えるのであろう。
そして、人類はすべて滅びた――ただ、“嫉妬”という感情が力を持っただけで。