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第七十九話 死者の街に花束を(33)

 「冥界の門」が閉まり、重低音がホールに響き渡った後、嘘のような静寂が訪れた。つい先ほどまで、激しい剣戟の音、魔法の炸裂音、叫び声、うめき声、そして「死者」たちの奇声で満ちていた空間が、シンと静まり返る。警備隊や冒険者たちと戦っていた「死者」も、伯爵夫人の消滅と同時に力を失い、塵となって崩れ去った。ホールには、生き残った者たちの荒い息遣いだけが響いている。

 深い疲労感が全身を襲う。身体中の傷が痛み、魔力は文字通り底を尽きている。傍らのシュロットも、ボディのあちこちがひしゃげ、動きは鈍い。リィゼは剣を杖代わりに立ち、イリスは魔法の反動で倒れ込みそうになり、ティナが慌てて支えている。警備隊員や冒険者も皆、満身創痍だ。地面には倒れ伏した「死者」の塵のほか、犠牲となった者たちの姿も見える。勝利だ。間違いなく勝利。だが、大きな犠牲を伴った戦いだった。

 それ以上に、圧倒的な安堵感がホール全体を包み込んでいた。おぞましい異形は消え去り、「冥界の門」は閉じられた。街を、国を、そして世界を飲み込もうとしていた計画は止まったのだ。

 ホールの中心、祭壇のあった場所からは、伯爵夫人の異形が放っていた淀んだ魔力は感じられなくなった。代わりに冷たく、しかし静かな空気が流れている。

 イリスがゆっくりと身体を起こした。その金色の輝きに満ちた瞳がホールの空間を見据えている。

「……魔力が……」

 掠れた声で呟く。ティナが心配そうに彼女を見上げた。

 フローリアも、ティナに支えられながらホールの魔力の変化を感じ取っているようだった。覚醒した彼女の「境界を越える鍵」の力が、この場所の魔力的な状態を感知しているのだろう。

「急速に……失われていきます」

 弱々しい声が続く。

 イリスが頷く。

「伯爵夫人の儀式と、フローリアさんの力によって……この場所の魔力のバランスが大きく崩れてしまいました。特に『門』に関わる魔力が……」

 フローリアが説明を引き継ぐ。

「このまま、この場所の魔力はゼロに近くなるでしょう。再び満ちるには……数百年かかると思います」

 数百年。想像もつかない長い時間だ。あの伯爵夫人の、そしてフローリアが命がけで行使した力が、この場所の根源的な魔力を枯渇させたということか。あの「冥界の門」は、そう簡単には開かない場所となったのだろう。街の安全は、しばらく保たれる。

 フローリアがこちらへ視線を向けた。その瞳に微かな迷いと、決意の色が浮かんでいる。

「冴島さん」

 彼女が口を開く。その言葉は、この状況でなければ決して聞けない、奇跡のような可能性の提示だった。

「いま、この瞬間なら……」

 フローリアの声が朝焼けの港に響いた。

「門を、もう一度開けられるかもしれません。冴島さんの、元の世界に繋がる門を」

 それは、一瞬だけ開かれた「境界を越える鍵」による、俺への贈り物のような可能性だった。この場所の魔力が枯渇する寸前で、彼女の力が最も強く呼応する、この瞬間。

 元の世界。俺の探偵事務所。懐かしい故郷。

 その言葉に、一瞬、心が揺れたか? いや、迷いはなかった。

 俺はフローリアの申し出に迷わず、しかし温かい笑みで応えた。

「いらないな」

 はっきりと言い放つ。

「まだまだ、この世界でやらなくちゃいけない仕事がある」

 この世界で、探偵は俺一人。やるべきことは山積みだ。

「――それに」

 傍らのイリス、シュロット、リィゼ、そしてティナの顔を順に見た。共に死線を潜り抜けた、かけがえのない仲間たち。

「良い仲間たちがいる」

 心からの言葉だった。

「しばらくは、この世界にいる」

 フローリアは俺の言葉を聞き、理解したようだった。彼女の顔に安堵と穏やかな微笑みが浮かぶ。俺がこの世界を選んだことを受け止めてくれた。

 彼女の視線は水平線へと向かう。朝日がその小さな身体を照らしている。

「分かりました」

 生き残った警備隊員や冒険者たちは互いに声をかけ合い、倒れた仲間を助け起こしている。勝利の余韻と失ったものへの悼みが入り混じっている。

 俺たちはゆっくりと地下通路を辿り始めた。ホールの静寂を後にする。地下道は、来た時のような不気味な淀みはもうない。ただ、冷たい石の空気と疲労に満ちた足音だけが響く。シュロットが先頭を進み、リィゼが後方を見守る。イリスとティナはフローリアを挟んで歩いている。俺はその傍らを、痛む身体を引きずりながら歩いた。

 長い地下道の旅だった。疲労困憊の身体には一歩進むのも億劫だ。皆が無事であることが何よりの救いだった。

 地下道が終わり、外の空気が肌に触れたとき、思わず息を呑んだ。

 港だ。そして空が……白んでいる。

 レクスヴィントの港に、朝が来ようとしていた。

 海面が茜色に染まり始めている。水平線がゆっくりと明るくなっていく。夜の闇が後退していく。東の空から眩い光が差し込む。朝日だ。長く暗い夜が明け、新たな一日が始まろうとしている。

 港に立つ。潮の香り。冷たい海風が火照った身体に心地よい。遠くから街のざわめきが微かに聞こえる。混乱はこれから始まるだろう。突如消えた「死者」たち。そして、彼らにすり替えられていた要人たちのこと。街はこれからゆっくりと再生に向けて歩み始めなければならない。

 傍らに立つフローリア。その瞳は朝日を受けて輝いている。彼女の内に宿る「境界を越える鍵」の力、そしてこの場所との繋がりを感じているのだろう。彼女は、この港が「境」に最も近い場所の一つであることを理解している。

 フローリアが静かに、しかし強い意志を込めて言った。

「私は、この街で生きます。門の守り人として」

 それは彼女が受け入れた運命。血筋に課せられ、彼女自身が選んだ使命だ。この街を、そして「冥界の門」を未来永劫守り続ける。

「それが、私の使命です」

 朝日が完全に昇りきった。レクスヴィントの街全体が朝日の光に照らされる。

 俺たち、生き残った者たち。探偵、助手、冒険者、受付嬢、そして「境界を越える鍵」。それぞれの場所で、それぞれの使命を胸に、この世界を歩んでいく。

 終わりは、新しい始まり。

 港に立つ俺たちは、それぞれの新たな道が始まることを感じながら、朝日を浴びていた。


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