第七十八話 死者の街に花束を(32)
伯爵夫人の異形は、止まらねぇ。肉と魂、「境」の歪みが、予測不能な化け物を生み出していた。固体、霧、死者の手。姿は定まらず、ただ力だけが荒れ狂っている。俺たち四人は、その猛攻に必死で喰らいついているが、防戦一方だ。身体は限界を超え、魔力も底を突きかけていた。じりじりと、壁際へと押し込まれていく。
ホールの他も地獄だ。警備隊とギルドの部隊は、「死者」の群れに飲まれそうになっている。倒しても倒しても、奴らは立ち上がってくる。キリがねぇ。悲鳴、怒号、魔法の炸裂音。混沌。諦め。それらがホール全体を支配していた。
絶望的な戦況。その中で、ホールの隅。ティナに支えられたフローリアが、ゆっくりと立ち上がる。
瞼の奥に宿る光は、もはや儚さを残していなかった。強い意志を湛えたまなざし。彼女は、この戦場に渦巻く絶望と、異形が放つおぞましい力のすべてを、確かに感じ取っていた。
フローリアが、こちらに声をかけてくる。細いが、ホールの騒音を突き破るような力を持つ声。
「冴島さん」
異形の攻撃をかわしつつ、彼女を見る。立っている。無事だ。
「フローリア。――良かった」
安堵の声が漏れる。しかし、すぐに現実が押し寄せる。目の前の異形、そして限界を迎えた俺たちの体力と魔力。
「……少し、待ってろ」
異形に向き直り、歯を食いしばって痛む身体を叱咤する。
「もうすぐ終わらせる……!」
強がりだ。力は残ってねぇ。異形の爪が腹部をかすめ、鋭い痛みが走る。
「ぐっ――!」
呻き声が漏れ、身体が壁へと叩きつけられた。肺がつぶれそうになる。
「そんな……!」ティナの声が、遠くから聞こえる。
その瞬間、ホールにフローリアの声が響いた。凛とした、迷いのない、目覚めた者の声。
「門を開きます」
息を呑む。門? 何を言ってる。冗談じゃねぇ。隣でイリスも目を見開いている。彼女を庇いながら問い返す。
「――なんだって?」
フローリアはもう一度、はっきりと、揺るぎない声で言った。ティナに支えられながらも、姿勢を崩さずに。
「冥界の門を開きます。伯爵夫人を、向こう側へ!」
全身が粟立つ。恐ろしい提案だ。だが……! あのまなざしの奥に見える力。目覚めた「境界を越える鍵」。そうか。これが、この状況を打開する、唯一の道――最後の賭けなんだ。
迷っている暇はねぇ。
彼女はそっとまぶたを閉じた。ティナに支えられながらも、静かに、しかし確かに。その身体から、微かな光が立ち上る。それは、純粋で、だが圧倒的な魔力の奔流。
やがて、ホールの奥。巨大な「冥界の門」が、重たく響く音を発し始めた。石がきしみ、空気が揺れる。刻まれたシンボルが、不気味な光を放つ。
ゆっくりと、門が開かれていく。
開かれた門の奥に見えたのは、空間でもなければ光景でもなかった。ただ、ひたすらに暗かった。絶対的な闇。しかし、それは単なる闇ではない。すべてを吸い込み、何もかも無に帰す、底なしの虚無。そこから、冷たく恐ろしい、魂を凍てつかせるような気配が、津波のように押し寄せてくる。あれが……「向こう側」。死の世界への、本当の入口だった。
ホールの空気が一変する。冷たい気配、異形の魔力が混じり合い、空間を歪ませていた。
「門が開いた!」
リィゼの声が緊迫した空間に響き渡る。
「作戦を切り替える。伯爵夫人を、あの門へ追い込め!」
声を張り上げた。異形を倒す必要はもうない。門の向こうへ送り返せばいい。フローリアが築いたこの機を、絶対に逃してはならない。
戦術は一気に変わった。倒すのではなく、押し込むのだ。
シュロットが異形へ向かって突進する。その巨体を盾にして、異形を門のほうへ押し込む。リィゼは、逃げようとする異形の動きを剣で牽制。素早く正確に、歪な身体を斬りつける。イリスは残された魔力を振り絞り、異形の動きを鈍らせる魔法や門への誘導を助ける魔法を放つ。私は、リングの力で『マグナムパンチ』を放った。異形を門のほうへ吹き飛ばす軌道を狙いながら。魔力は残りわずかだが、これが最後の力だ。
異形の伯爵夫人は、門が開かれたことに気づき、その力に応えるような素振りを見せたが、自分を追い込もうとしている俺たちの狙いを察すると、激しく抵抗を始めた。おぞましい絶叫を上げて暴れ、必死に門から逃れようと力を振り絞る。
俺たちは総力を挙げて門へ押し込む。一進一退の攻防。門の淵がすぐそこだ。異形は必死に足掻き、こちらも満身創痍の身体に鞭打って押し込む。
ティナはフローリアを支え、彼女が門を開く力を維持できるよう耐え続けている。フローリアは目を閉じ、全身から微かな光を放ちながら門を開き続けている。その顔には苦痛の色が滲んでいた。この「門」を開け続けることが、彼女に計り知れない負担を強いているのは間違いない。
あと少し……もう少しで、異形を門の向こうへ追いやれる。
俺たちは最後の力を振り絞った。シュロットが渾身の力で異形を押し込み、リィゼが背中に連続斬撃を叩き込み、イリスが動きを完全に止める魔法を狙い澄まして放つ。
「マグナム――パンチ――!」
残された魔力を右拳のリングに全て集中させた。眩い光とともに轟音が響く。狙いはただ一つ。異形を門の向こう側へ、完全に吹き飛ばすこと。
拳が異形の身体に直撃。おぞましい断末魔が響き、異形は門の向こうへ勢いよく吸い込まれるように吹き飛ばされた。やった。終わった。
その瞬間。
「冴島――っ!」
異形が門の向こうへ消え去る寸前、その歪んだ腕を必死に伸ばし、こちら側へ向けて、右腕を掴んだのが見えた。
強烈な引力が働く。全てを飲み込む「向こう側」へ、身体が引きずり込まれそうになる。皮膚が粟立ち、細胞が悲鳴を上げる。抵抗するも、異形の最後の力と門の吸引力に抗えず、徐々に吸い寄せられていく。まずい。このままでは、俺も門の向こうへ――永遠に。
「nine!」
「冴島っ!」
シュロットとリィゼが間髪入れず飛びついてきた。シュロットは俺の胴体を巨大な体躯でしっかりと掴み、地面に踏みとどまるアンカーとなる。リィゼはシュロットの肩を掴み、必死に引き止める。二人の力は絶大だが、異形の吸引力も強い。身体は支えられながらも、少しずつ門へ引き寄せられていく。まるで命綱を握った綱引きだ。地獄との命綱の綱引き。
「冴島さん!」
イリスの切羽詰まった声。俺が門に吸い込まれそうな状況を見て、すぐに魔法を準備したらしい。その小さな身体に魔力が異様なほどに集まっている。危険だ。しかし彼女は迷わず、俺を助けることだけを考えている。
イリスが門の淵で俺の腕を掴む異形伯爵夫人へ魔法を放つ。おそらく最上位の呪文だ。それは眩い光の奔流となり、全てを浄化する力を放つ。
魔法が異形伯爵夫人に直撃。おぞましい断末魔が響き、腕を掴む力が緩んだ。
力が抜け、門の吸引力も消える。俺はシュロットとリィゼに引き戻され、ホールのこちら側へ戻った。
異形伯爵夫人はイリスの魔法を受け、完全に力を失い、開かれた「冥界の門」の奥へあっけなく消えていった。闇の中に完全に吸い込まれ、怨嗟の声も断末魔の叫びもすべて消え去った。
異形が消えた瞬間、開いていた「冥界の門」が重たく響く音を立てて、ゆっくりと、しかし抗えない力で閉じ始めた。開いた時と同じように、不気味な「向こう側」を隠すかのように閉じていく。
門が完全に閉まった折、ホール各地で警備隊や冒険者と戦っていた「死者」たちが一斉に動きを止めた。戦闘の音も悲鳴も叫び声もすべて消え、まるで砂が崩れるように身体がバラバラになり、塵となって跡形もなく崩れ去っていった。伯爵夫人の力を失ったことで、彼らを動かしていた力も消滅したのだ。
剣戟と魔法の轟音で満たされていたホールに、突如として絶対的な静寂が訪れた。
戦いは――
終わった。




