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第七十五話 死者の街に花束を(29)

 ただ見据えることしかできなかったが、その視線には、次があるならば必ず貴様を地獄に叩き落としてやるという、確固たる執念が宿っていた。

 そのときだった――

 ホールの入口。俺たちが突入してきた通路と、港へと続く別の参道方面。

 二方向から、金属が軋み、石が砕けるような轟音が響き渡った。

 耳をつんざく衝撃音。

「なんだ!?」

「何事だ!」

「外部からの攻撃かっ!?」

 死者たちがざわめき、伯爵夫人の表情にも初めて動揺が走る。

 破壊された通路から、怒涛のように人影がなだれ込んできた。剣を手にした者、魔法を纏った者、警備隊の制服を着た者、冒険者と思しき者たち――その数は、伯爵夫人の死者に匹敵する。

 間違いない。ティナとリィゼが街を動かし、戦力を集めてくれたのだ!

「うぉおおおっ!」

「街を守れぇ!」

「伯爵夫人の儀式を止めろ!」

 怒号がホールを揺らす。突入した部隊と死者の群れの激突。剣戟の音、魔法の爆裂音、叫び声が交錯し、ホールは混沌に包まれた。

 俺たちに迫っていた圧力が、一気に緩んだ。

 混乱の中で、視界の隅に映った光景。

 警備隊と冒険者の混成部隊。その先頭で、銀の剣を輝かせながら突き進む人影。

 リィゼだ!

 死者の中を疾風のように駆け抜け、祭壇を目指して一直線に進んでいく。彼女の視線は、魔法装置に注がれていた。

「リィゼ!」

 枯れかけた喉から、力の限りに叫ぶ。

 伯爵夫人は、俺たちには無関心だったが、リィゼの動きには反応した。祭壇から冷たい魔力を放ち、彼女を阻もうとする。リィゼはそれを紙一重で避け、死者の間を抜けて台座に飛び乗った。手には、愛剣。

 そして、禍々しい光を放つ魔法装置に、全身の力を込めて剣を突き立てた!

 耳を裂くような金属音が響き、装置から火花が飛び散る。伯爵夫人の顔に、驚愕の色。

「遅くなったな、冴島!」

 リィゼの声がホールに響いた。その一言に、ティナと共に動いてくれたことへの感謝が込み上げる。

 彼女の一撃が、突破口を開いたのだ。

「イリス!」

 イリスの視線が、リィゼの行動と装置の異変に反応する。

 返事の代わりに、残された魔力のすべてを小さな手に集める。

 そして、リィゼが突き刺した装置へ向かって、祈りを込めるように魔法を放った。

 光が走る。魔法が直撃。

 イリスの魔法が魔法装置に命中した。装置は悲鳴を上げるかのように不気味な音を立て、激しく点滅し始める。火花が飛び散り、黒煙が立ち上った。機能停止の兆しだ。

 地響きが伝わり、裂け目が走るような音が鳴り響く。

 魔法装置は制御を失い暴走を始めた。祭壇全体が揺れ、フローリアを固定していたベルトが弾け飛ぶ。彼女の身体を覆っていた禍々しい光が急速に収縮し、やがて消えた。伯爵夫人の顔が、絶望と怒りに歪む。

 そして、装置は完全に沈黙した。

 儀式が、止まった。

 ホールの混乱が一瞬だけ収まり、死者たちの動きもわずかに鈍る。伯爵夫人の詠唱も止まったままだ。

 そのとき、ホールの入口付近――警備隊とギルド部隊の中から、聞き慣れた声が響いた。安堵と焦りの混じった叫びだった。

「冴島さん! 無事ですか!」

 ティナだ! 無事だったのか!

「ティナ! リィゼ!」

 全身の痛みを忘れ、力を振り絞って叫び返す。

「Ja!」

 シュロットも倒れ込みそうになりながら、力強く応える。

「はい! 大丈夫です!」

 イリスも、安堵と疲労の入り混じった声で応じた。

 短い言葉で互いの無事を確認し合う。絶望の淵から、一気に引き上げられるような安堵感。ティナとリィゼが街を動かし、ここへ辿り着いてくれた。そして、リィゼとイリスが儀式を止めた。フローリアは……。

 祭壇に目をやる。彼女を固定していた装置は停止し、ベルトも外れていた。意識はないようだが、彼女を包んでいた光は消え、穏やかな顔を取り戻している。助かった……!

 だが、その安堵は一瞬に過ぎなかった。

 祭壇の伯爵夫人が凄まじい形相で震えている。儀式を妨害された怒りに満ちたその身に、異様な変化が起き始めた。

「アァァアアアァァァアッ!!!」

 人間とは思えない絶叫がホールに響く。美しかったその顔が歪み、肌は青黒く、あるいは血のように赤く変色し、手足は異様に伸び縮みし始める。骨の軋む音が空気を切り裂き、身体から黒い霧が噴き出した。蝙蝠の翼や死者の骨のような構造物が一瞬現れては、また消える。

 儀式は半ば成功してしまっていた。魂の移行が不完全なまま、彼女の肉体と“境”の力、死者の力、そしてフローリアの血の一部が、強制的に融合しようとしていた。

 変化は加速し、伯爵夫人の身体はおぞましい異形へと姿を変えていく。もはやその美しさは跡形もない。そこにあるのは、憎悪と混沌、力の塊だった。

「探偵――っ!」

 怨嗟が込められたその声は、伯爵夫人のものだったが、もはや人間のものではない。深い憎悪が、俺へと向けられているのが分かる。

 異形と化した身体が、祭壇の上でゆっくりと立ち上がる。かつての美貌は崩れ去り、右半分にはかろうじて人の面影が残っているものの、左半分は青黒く変色し、骨格が歪み、頬はこけ落ちていた。露出した歯列には不揃いで鋭い牙が何本も並び、両目は正気を失っていた。一方は白濁し、もう一方は深い虚無のような漆黒に染まっている。

 身体は歪に伸び、関節は不自然な方向に曲がり、皮膚の下では何かが蠢いているようだった。肌の色も生者と死者、さらに腐敗の兆候が混ざり合い、まだら模様を描いている。背中には瘤のような突起が現れたり消えたりし、そこから鋭利な骨のようなものが覗く。

 かつて黒曜石のようだった髪は根元から抜け落ち、灰色に変色し、縮れて首筋に張り付いている。身体の一部は固体、他は霧のように揺らめき、液体とも気体ともつかない曖昧な形状をしていた。もはや生命体というより、災厄そのものだ。

 異形は、全身から禍々しい魔力を放出している。ホールの空気は凍りつき、重圧がのしかかるようだった。その魔力は、伯爵夫人のものだけでなく、“境”の力、死者の力、フローリアの血の力が混じり合って変質したものだった。

 その視線が俺たちを、いや、俺を捉える。牙を剥き、口元を不自然に歪める。

 まだ終わっていなかった。

 儀式は止めた。しかし、真の敵は想像を遥かに超えた存在へと変貌していた。ここで伯爵夫人の肉体と魂、“境”の力が融合し、新たな魔物が誕生してしまったのだ。

 クライマックスはこれからだ。最後の戦いが、いま、この異形との対峙から始まろうとしている。

 逃げ道はない。戦うしかない。

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