第六話 異世界探偵(助手)イリス
今回はイリス視点です。
朝の光が、事務所の窓から差し込んできた。カーテン越しの柔らかな陽射しは、埃の粒をきらめかせながら部屋を包む。
「イリス。お前、今日はひとりで動けるか?」
珈琲の匂いとともに、その声が響いた。冴島さんは、いつも通り黒のスーツに細いタイを締め、寝癖のついた髪を帽子で隠していた。目の下のクマは濃く、前の晩も遅くまで仕事をしていたのだろう。
「は、はい。任せてください!」
私は椅子から跳ね起きて、思わず背筋を伸ばした。胸の前で手を握り、少しだけ震える指をこっそり隠す。冴島さんに頼られるのは嬉しい。でも、それは同時に――少し、こわい。
初めての、ひとりの調査だから。
「浮気調査だ。対象は鍛冶屋の旦那。依頼人は、その奥さん。朝から夜までの行動を見てこい。尾行、聞き込み、張り込み……できる限り、手順通りにな」
「わかりました。ちゃんと……やってみます」
私の声に、冴島さんはほんの少しだけ口の端を上げた。
「男は仕事を任せたら、口を出さないもんだ。……だが、心配はする。気ィつけてな」
冴島さんがそう言ったとき、シュロットが「ja」と一言、頷いた。まるで、私がきちんと任務を果たせるかを見届けるつもりで。
* * *
依頼人は、鍛冶屋の奥さんだった。
「ねえ、お願いよ。あの人、最近妙に帰りが遅くって……。女の影があるとは言わないけど、なんだか落ち着かないのよ」
そう言って、奥さんは苦いかおをした。
「若い娘さんに頼むなんて変かもしれないけど……。でも、あんた、嘘はつかなそうだから」
嬉しかった。だけど、嬉しさと同じくらい、責任が重くのしかかった。
鍛冶屋の旦那さん——マルド・ドンガスさんは、無口な人だった。街では「鉄のマルド」なんて渾名で呼ばれてて、鍛冶の腕は折り紙付き。けど、浮気なんて……本当に?
私は冴島さんに教わった「三つの基本」を頭の中で繰り返した。
——張り込み。尾行。聞き込み。
うん。まずは張り込み。
* * *
鍛冶屋の工房は、石畳の通りを一本曲がったところにある。
朝早くから炭の匂いと、カンカンと金属を打つ音が響いている。私は工房の向かいにある古書店の軒先に隠れながら、メモ帳を手にじっと様子をうかがった。
「八時三十分、開店……火の調整がいつもより長い……」
ブツブツと呟きながら記録を取る。小さな冒険みたいで、少しワクワクした。
だけど、昼過ぎ——
「……?」
マルドさんが急に火を落として、工房の裏口からこっそりと出ていった。
私は慌てて後を追う。冴島さんの言葉が頭をよぎる。
《足音は殺せ。目立つな。なにより、見失うな》
マントの裾をつまんで走る。石畳に足音が響かないよう、気をつけて。
だけど、あと数歩で角を曲がろうとした瞬間——
「イリス」
心臓が跳ねた。
振り返ると、黒のスーツに中折れ帽を片手にした男が、煙草をくわえて立っていた。
「さ、冴島さん!?」
「やれやれ……やっぱり見に来ちまった。気になって、な」
「……もう、大丈夫です。今、尾行してるところで——!」
言いかけたときにはもう、角の向こうにマルドさんの姿はなかった。
「……!」
「見失ったか。まぁ、最初の一回目なんてそんなもんだ」
冴島さんは、いつもの調子でぼやきながら私の頭をくしゃっと撫でた。
「でも、お前、悪くない。張り込みの記録、ちゃんと残してるんだろ?」
私は、震える指でメモ帳を差し出した。
冴島さんはそれに目を通し、煙草を指で弾いてから言った。
「よし。この先はお前に任せる。ただし、何かあったら絶対一人で突っ込むな。俺か、シュロットに連絡すること。いいな?」
「……はい!」
* * *
それから三日。
私はひたすらに足で情報を集めた。工房に出入りする客、マルドさんが通う酒場、道具屋とのやり取り。
浮気の気配はない。むしろ、妙に周囲と距離を置いているようだった。
けれど、ある言葉が私の耳に引っかかった。
「あのマルド、最近裏路地で妙な連中と顔突き合わせてるってよ。ほら、南の地下道あたりでさ……」
南の地下道——。
そこはかつて戦争時代の名残で作られた抜け道で、今では物騒な連中のたまり場になっていると聞いたことがある。
まさか……。
浮気じゃなく、もっと悪いことをしてる?
私の中に冷たいものが流れた。
冴島さんなら、ここで一度引き返して再確認するだろう。でも、私は……
私は、私の目で見て、確かめたい。
* * *
夜。街の明かりが灯り始めた頃。
私はフードを目深にかぶり、南の地下道に向かった。
通りの人々が私を怪訝そうに見る。でも、もう怖くなかった。怖くなかったわけじゃないけど、それよりも気になることがあった。
……マルドさんは、本当に悪い人なんだろうか。
裏通りを抜け、古びた鉄扉の前で立ち止まる。扉の隙間から、明かりと声が漏れていた。
「……次の入荷は今週末だ。あの貴族向けの特注剣もな……」
「ガーレッドに渡す前に、例の刻印を忘れるなよ。あれがあるだけで、価格が倍になるんだ」
——刻印? 剣? 貴族?
私は扉の隙間から覗き込んだ。
中には数人の男たち。そして、マルドさんが……。
……その手には、煌めく魔剣が握られていた。
私はマルドさんの後を、街の裏路地から続く地下道へとついていった。彼の様子はいつになく慌ただしく、時折、振り返っては誰かに見られていないか気にするそぶりを見せていた。幸い、私の足音は風魔法で消してある。目立たぬよう灰色のマントを羽織り、姿勢を低くしてついていく。
地下へ降りる石の階段。湿った空気と、油の匂い。地面に近づくにつれ、ざわめきが聞こえた。話し声、荷車を引く音、鉄がぶつかり合うような鋭い響き。まるで…市場?
やがて視界が開けた。そこは、古代の遺跡のような広間。崩れかけた柱の間に、木箱や樽が積まれ、ランタンが天井から吊るされていた。男たちが数十人、あちこちで商談のようなものをしている。中にはフードを被った貴族風の者もいるし、明らかに冒険者とは違う装備をした男も混じっていた。
マルドさんは、その一角で箱を開けて見せていた。中には――黒い、艶のある刃。魔力を帯びた短剣と、細身の剣。それに、見たこともない銃のようなものまで。
「……やっぱり、これ……違法取引だよね……」
私は思わず呟いてしまった。手が震えるのを押さえて、マルドの会話に耳を澄ませる。
「……これが例の“深紅鋼”製の剣か。王都では一本で五百金だぞ」
「クチが堅いのが取り柄でしてな。武器は火の鍛冶場、契約は闇の路地で結ぶってね」
――冴島さんなら、きっと今ごろこう言うだろう。
『悪党はたいてい、冗談が下手だ』
私はポケットの中の魔導筆を握りしめた。冴島さんから借りた、魔力を帯びた記録用のペン。言葉と姿を、幻晶石に書き込むことができる。
そっと呪文を唱えながら、記録を開始する。《ミア・レコルト》。魔力が筆に宿り、ペン先が青く光る。
「……これだけ証拠が集まれば……でも、ここからどうやって抜け出すの……?」
警備の男たちは剣を腰に下げ、明らかに用心棒だった。ここで見つかれば、ただじゃ済まない。
その時、背後から空気が揺れた。
「誰だッ!」
バレた。しまった、魔力の光が――!
「小娘じゃねえか……まさか、警備隊の回し者か?」
目の前の男たちが動く。私は慌てて走り出した。迷路のような通路を、息を切らして駆け抜ける。
「捕まえろ!」
「逃がすなッ!」
――まずい、まずい、どうするの……! こんな時、冴島さんなら、どうする――?
でも、私には冴島さんのような強い言葉も、衝撃魔法のパンチもない。ただ――私には、魔法がある!
「《ミラージュ》!」
小さく唱えると、足元から無数の光の花弁が舞い、周囲の視界を奪う。ほんの数秒の目くらまし。でも、それでいい!
その隙に私は脇道に身を滑らせ、古い樽の後ろに身を潜めた。
息を殺す。心臓が壊れそうなほど鳴っている。
やがて、足音が遠ざかっていった。誰かが「ちくしょう、どこへ行きやがった」と舌打ちする声がして、ようやく静けさが戻ってきた。
私はゆっくり、膝をついたまま深く息を吐いた。
「……こわかった……でも……もうちょっとだけ……」
魔導筆を握り直す。あの会話と品物は、もう記録された。後は、取引相手の顔――もう一人の黒ローブの男の正体がわかれば――
その時だった。
「まったく、勝手に動きやがって……お前ってやつは……」
暗がりの向こうから、聞き慣れた声が聞こえた。
「……冴島さん!」
彼は、影から現れた。帽子のツバを軽く上げ、いつもの無精髭の顔に、困ったような笑みを浮かべていた。
「やれやれ。探偵の真似事はいいが、命まで投げ出す趣味はねえだろ?」
私は口を尖らせた。
「……来ないって言ったのに」
「来ないとは言ってねえ。“あとは任せた”とは言ったが、“見張ってない”とは言ってない」
そう言って、冴島さんは私の頭をくしゃりと撫でた。
「だが、よくやった。記録もばっちりだ。あとは警備隊の仕事だ」
ちょうどそのタイミングで、金属音とともに通路の奥から大きな影が現れる。
「ich」
シュロットが、私にそっと毛布を差し出した。体が冷えていたことに、私はその時やっと気づいた。
――――
翌日、マルドさんは警備隊に逮捕された。彼が密売していた武器の一部は、すでに盗賊団の手に渡っていたらしい。
事務所に戻った私は、依頼主である奥さん――アルダさんに報告をした。
彼女は涙を堪えながら、こう言った。
「……ありがとう。でも、一番つらいのは……彼が鍛えた剣が、人を傷つけるために使われていたってこと。私には……見抜けなかった」
その言葉は、ずっと胸に残った。
――人の心までは、見抜けない。
「冴島さん……私、どうすればよかったんでしょう」
ぼんやりと天井を見つめる私に、冴島さんはふっと苦笑した。
「……よくやったよ。あとは俺たち探偵の仕事じゃないってことさ」
そして、煙草の代用品をくわえながら、ぼそりと呟いた。
「男を信じる女は幸せになれねえ。男を信じられる女が幸せになるんだ」
それが、何の慰めにもなっていないと私は思ったけど、なぜだか、その言葉が少しだけ私の心を救った。
「……また、調査……やらせてもらえますか?」
「……ったく、もう懲りたって顔じゃねえな。いいぜ、イリス。お前はもう、探偵、俺の仲間だ」
その言葉が、冴島さんから聞けたこと――それが、私の一番の報酬だった。




