第六十五話 死者の街に花束を(19)
あの屋敷から逃げ出した後のことは、あまり鮮明に覚えていません。皆ちりじりに、ただ、必死に走って、リィゼさんが見つけてくれた、街の外れにある古い納屋のような場所に転がり込んだことだけは覚えています。
納屋の中は、埃っぽくて冷たい空気が満ちていました。私とティナさん、リィゼさん、そしてシュロット。四人だけ。冴島さんも、フローリアさんもいません。その事実が、鉛のように重く、心を圧迫しました。
ティナさんが、うう…と、押し殺したような嗚咽を漏らしています。無理もありません。
目の前で、大切な人が攫われて、捕まってしまったのですから。
私も、胸が締め付けられるように苦しい。
あの時、冴島さんの指示に従って逃げるしかなかった。それが、最善の選択だったのかもしれないけれど……。
リィゼさんも、壁に背中を預けて、深く息を吐いていました。
その顔には、悔しさ、怒り、それと疲労の色が濃く滲んでいます。
「……とにかく、ここでくすぶってても仕方ねぇ」
やがて、リィゼさんが重い口を開きました。その声は、普段の男勝りな調子とは少し違って、低く、覚悟を秘めているように聞こえました。
「冴島とフローリアを、あのままにしておくわけにはいかない」
皆、無言で頷きました。助けに行かなければならない。それは、そこにいる全員にとって、揺るぎない共通認識でした。
リィゼさんが、冷静に現状を分析し始めました。
伯爵の屋敷は、街の郊外にある広い庭園に囲まれた邸宅――宮殿に近い建物です。
今の私たちにとっては、単なる屋敷ではなく、要塞のように思えます。正面から乗り込むのは、私たち四人では無謀です。
「私たちに何ができるか……それを考えよう。私には戦闘と隠密。シュロットには力。ティナ、あんたには……」
リィゼさんが、言葉を選びながらティナさんを見ます。ティナさんは、拭いきれない涙を滲ませながらも、まっすぐにリィゼさんを見つめ返しました。
「私、何でもします! 役に立ちたいんです!」
その強い意志に、リィゼさんも頷きました。
「ああ。分かった。頼りにしてる。あとは、イリス……あんたの魔法だ」
リィゼさんの視線が、私に注がれます。私の魔法。それは、戦闘よりも、感知や解析、隠蔽、そして……未知の道を切り開くことに長けています。
「あの屋敷には、強力な魔力が満ちていた。伯爵や伯爵夫人の魔術に加え、街全体の『境』の力も利用している可能性がある。物理的な防御だけでなく、魔術的な防壁もあるだろう。通常の手段で潜入するのは難しい」
リィゼさんが、厳しい現状を突きつけます。
「だから、だ。イリス。あんたの魔法で、あの屋敷の……物理的な構造じゃなく、魔力の流れや、隠された経路を感知できないか?」
魔法による偵察。しかも、伯爵が支配する要塞に対して、広範囲に。それは、非常にリスクの高い行為です。向こうに気づかれる可能性も、魔力的な反撃を受ける可能性もあります。でも……。
「……やってみます」
私の返事に、リィゼさんが真剣な表情で頷きました。冴島さんがいない今、私が持っている力が、突破口を見つける唯一の希望なのかもしれません。
* * *
私たちは納屋を出て、伯爵の邸宅がある方角へ移動を開始しました。街の灯りが遠ざかり、辺りは森の暗闇に包まれていきます。夜の森の空気は冷たく、遠くで聞こえる虫の声だけが響いています。丘の上にそびえる屋敷は、闇の中でさらに巨大な墓標のように見えました。近づくにつれて、建物から放たれる、不穏な魔力の気配が強くなっていきます。
「死者」たちが巡回しているのでしょう。リィゼさんが、慎重にルートを選び、姿を隠しながら、敷地の外縁部に沿って進みます。森の木々や茂みを隠れ蓑にして、屋敷の壁に近づいていきます。
「この辺りなら、気づかれずに魔法を展開できるかもしれない」
リィゼさんが、地面に伏せながら声を潜めて言いました。屋敷の壁からは少し距離がありますが、これ以上近づくのは危険です。ここで、魔法偵察を行います。
私は静かに地面に膝をつき、魔力を集中させました。意識を研ぎ澄ませ、伯爵の屋敷全体を対象に、知覚魔法を広範囲に展開します。屋敷の物理的な構造、内部の魔力の流れ、隠された魔力的な防壁、「死者」たちの位置や数……。全てを感知しようと試みます。
私は静かに目を閉じ、魔力を集中させました。意識を研ぎ澄ませ、遠く、伯爵の屋敷がある方角へ向けます。伯爵の屋敷。街から少し離れた、森に囲まれた丘の上にある、という情報を思い浮かべます。
私の魔力が、空気中を伝播し、伯爵の屋敷があると思われる範囲へ広がっていきます。まず感じるのは、強固な魔力の防壁です。まるで、見えない壁にぶつかったかのように、私の魔力は弾かれます。でも、諦めずに、さらに魔力を送り込み、その壁の隙間や、魔力の流れのわずかな乱れを探ります。
意識は自分の身体を抜け出したように感じますが、それでも鼻から血が流れでたのを感じました。
伯爵夫妻の強力な魔力に加え、街全体の「境」の力、「死者」たちが発する不気味なエネルギー。それらが複雑に絡み合い、屋敷全体を覆っています。まるで、巨大な魔力の嵐の中にいるようです。でも、その嵐の中に、規則性があることに気づきました。屋敷の構造に沿って流れる魔力、警備の「死者」たちが発する微弱な信号……。
さらに深く、屋敷の根源へと意識を向けます。地下……地下深部。そこに、非常に強く、そして不穏な魔力の中心があるのを感じました。おそらく、あれが儀式場です。フローリアさんが連れて行かれた場所……。
儀式場へ続く経路を探ります。物理的な通路とは別に、魔力的な流れがあります。その流れの中に、わずかに、他の魔力とは異なる、しかし伯爵夫妻の魔力とも完全に一致しない、奇妙な波動を見つけました。それは、隠されている……でも、特定の魔力を持つ者になら感知できるような、細い、魔力の小道のようなものです。隠し通路……!
目を開けました。体に疲労感が残っていますが、収穫はありました。
「分かりました。あの屋敷の地下深部に、強い魔力の中心があります。おそらく儀式場です。通常の入口とは別に……魔力的に隠された、隠し通路を見つけました」
私の報告に、皆の顔に希望の色が浮かびます。
「隠し通路か……よし、それに賭けよう」
リィゼさんが、迷いなく決断しました。
作戦が決まりました。リィゼさんがリーダーです。私が隠し通路を開く魔法を発動させ、潜入経路を確保します。リィゼさんが先導し、隠密を最大限に活かして屋敷内部へ進みます。シュロットは、万一の際の物理的な障壁の突破と力な敵との戦闘を担当します。
そして、ティナさんは……。
「私、イリスさんのサポートをします! 魔法の補助とか、荷物持ちとか! 見張りもできます!」
彼女はハンカチで私の顔をぬぐい、肩を貸してくれました
ティナさんの力強い言葉に、リィゼさんも頷きました。ティナさんも、危険を承知で、私たちと共に来るのです。
作戦は、この魔法的に発見した隠し通路を利用した潜入です。物理的な防御を迂回し、儀式場に最も近いであろう地下を目指します。
私は静かに、隠し通路を開くための魔法の詠唱を開始しました。魔力が指先から流れ出し、地面へと吸い込まれていきます。シュロットは、私の邪魔にならないよう、しかしすぐに動ける体勢で控えています。リィゼさんが、鋭い視線で周囲を警戒しています。ティナさんは、私の様子を心配そうに見守っています。
魔法が成功すれば、隠された道が開かれるはずです。




