第六十四話 死者の街に花束を(18)
その後、伯爵たちが朦朧としたフローリアを連れて部屋を出ていき、俺は部屋に一人残された。
体は鉛のように重く、指一本動かすのも億劫だ。全身を駆け巡った、あの不気味な伯爵の術の後遺症だろう。
手首と足首に感じる鈍い痛み。縄だ。硬い麻縄のようなもので、椅子の肘掛けや脚にしっかりと縛り付けられている。
マグナムリングは外されちまったらしい。どこに持っていきやがった。あのジジイ……。
静寂だけが部屋を満たしている。見張りもいないようだ。
少なくとも、この部屋には。絶望的な状況だが、わずかに光が見えた瞬間だ。
このまま、奴らの好きにさせてたまるか。あの子を、あの悍ましい儀式のために利用させてたまるか。
まずは、この拘束を解く。
体勢を整えようと、体をわずかに捩る。麻縄は食い込んで痛いが、完全に身動きが取れないわけじゃない。椅子ごと、わずかに重心をずらしてみる。ギシッ、と古い木材が軋む音がする。伯爵の野郎、研究室なんて洒落た場所を使ってる割に、椅子の固定が甘ぇな。それとも完全に無力化したと、タカをくくってやがったか。
精神を集中させる。ボクシングで培った、体の芯に力を集める感覚。全身の筋肉を意識し、わずかにでも稼働できる部分を探る。手首を回そうとする。痛みが走るが、麻縄にはわずかな「遊び」があることに気づいた。完全に締め上げられているわけじゃない。
部屋の中を見回す。椅子からでは、届く範囲は限られている。しかし……机の端に、何かキラリと光るものが見えた。金具か何かか? 手の届くギリギリの場所だ。距離にして……あと、椅子の幅半分といったところか。
椅子ごと、少しずつ、わずかに移動する。体の重みと、足の裏の僅かな力。ギシギシと音を立てながら、床を滑るように、一ミリずつテーブルに近づいていく。倒れればおしまいだ。全身が軋み、痛みが走る。額には汗が滲む。わずかに痺れが残ってる。それでもわけにはいかねぇ。あの子は連れて行かれたんだ。あの悍ましい儀式のために。俺は、あの子に約束したんだ。
あと少し……あと少しだ……!
指先が、テーブルの端に触れた。そこにある金具。力を込めて、それを手前に引き寄せる。ゴトリ、と小さな音を立てて、金具がテーブルの上を滑ってきた。ペンか何かを固定するのに使われていた、金属製の小さな留め具だ。刃物のように鋭利ではねぇが、角がある。これなら……。
金具をなんとか指で挟み、手首の麻縄に当てる。力を込めて、金具の角を麻縄に押し付け、ゴシゴシと擦りつける。硬い麻縄は、簡単には切れねぇ。皮膚が擦れて痛いが、構ってられるか。精神を集中させ、一心不乱に手を動かす。腕の痺れと痛みに耐えながら、ただひたすらに、麻縄と金具と格闘する。
長い時間に感じられた。汗が目に入るのも気にせず、ただ削り続ける。硬い繊維が、少しずつ、少しずつ断ち切られていく感触がある。
プチッ、と音がした。
手首の麻縄が、ついに切れた。拘束が解けた右手を、ゆっくりと下ろす。麻縄が食い込んだ跡が生々しく残っている。血が滲んでいる。痛みよりも解放感が勝った。自由だ。
残りの麻縄は、切れた金具を使えば比較的容易だ。足首の縄を切り、椅子から立ち上がる。全身から、軋むような痛みが走る。術の後遺症と、無理な体勢での作業のせいだろう。まだ体が完全に言うことを聞かねぇ。だが、動ける。それで十分だ。
体勢を立て直す。まずは、自身の状態を確認する。怪我は……大きなものはないが、全身が消耗してる。魔力も、完全に回復したわけじゃねぇ。それに手元が不安だ。
やるべきことは、いくつかある。
第一に、フローリアの救出だ。
第二に、伯爵たちがやろうとしている儀式を調べること。可能なら阻止する。
そのためには力が必要だ。俺の力の大半は、あの魔法リングに依存してる。今の俺は、生身の素手で。魔法もまともに使えねぇ。この屋敷にいる「死者」相手には、正直分が悪すぎる。
だから、第三に、リングの捜索だ。奴らは俺のリングを、どこかこの屋敷にしまいやがったはずだ。
――全てを実行するためには、無事にここから脱出するか、あるいは、仲間に連絡を取る手段を見つける必要がある。
まずは、リングだ。そして、この屋敷の構造を知る。静かに動く。
部屋の扉を開け、廊下に出る。軋む音を立てないように、ゆっくりと。廊下は静かだ。あの冷たい空気が、漂っている。奴らが、この屋敷にも満ちている証拠だ。気配を殺し、足音を立てないように、慎重に廊下を進む。
屋敷の使用人たちは、おそらく皆、あの「死者」に替えられているだろう。
奴らは、生きた人間のような思考や感情は持たねぇが、見つかれば、多勢に無勢だ。
角を曲がる。
広い廊下だ。豪華な絨毯が敷かれているが、その色はどこか褪せて見え、壁の絵画も生命感がない。
廊下の向こうから……何か来る。
人影だ。二つ。音はしない。スルスルと滑るように移動してくる。
間違いない、「死者」だ。おそらく、この廊下を巡回しているのだろう。
瞬時に判断。隠れる場所は……。廊下の壁際に、背の高い飾り棚があった。間に合うか? 足音を殺し、ほとんど息を止めて、飾り棚の陰に滑り込む。体はまだ本調子じゃねぇ。少しでも無理な動きをすれば、痛みが走るし、息遣いが乱れる。慎重に、体を隠す。
「死者」たちは、何も気づかず、まっすぐにこちらへ向かってくる。彼らの顔は、相変わらず無表情だ。目は虚ろだが、僅かに赤い光を宿している。足音はほとんどしない。まるで、地面を滑るように、ただ移動している。飾り棚の前を通過していく。すぐそこを。手を伸ばせば届きそうな距離だ。緊張で、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。奴らに聞こえてないだろうか?
「死者」たちが通り過ぎていく。気配が遠ざかるのを確認し、ゆっくりと飾り棚の陰から這い出る。
冷や汗が背中を伝った。いま奴らに正面から出くわしたら、突破は難しい。逃げるしかない。
別の方向へ進路を変える。
屋敷の構造は複雑だ。迷子になりそうだ。どこかに伯爵や伯爵夫人、そしてフローリアがいるはずだ。勘を頼りに、奥へ奥へと進む。
扉の閉まった部屋がいくつもある。一つ一つ開けて調べるわけにはいかねぇ。音がするかもしれないし、中に「死者」がいるかもしれない。ただし、明らかに怪しい部屋、例えば、先ほどの研究室と似た雰囲気の部屋は、可能性が高い。
静かに移動を続ける。
別の廊下に出ると、再び「死者」の気配。今度は……部屋から出てくる?
扉の陰に素早く隠れる。出てきたのは、メイド服を着た「死者」だった。彼女もまた無表情で、手にトレイを持っているが、その上に何も乗ってねぇ。屋敷の使用人が、そのまま「死者」にされているのか。吐き気がするような光景だ。彼女は、ゆっくりとした動きで、廊下を奥へ歩いていく。
彼女が完全に視界から消えるまで待ち、再び移動を開始する。屋敷の使用人の動きを真似て巡回しているのか? あるいは、何か指示を受けて特定の場所へ向かっているのか? 奴らの行動パターンを見抜く必要がある。
俺はそっと移動を続けた。
夜の伯爵邸。死者たちの巣窟。ここから、あの子を助け出し、奴らの計画を阻止する。
気を引き締め直して、静かに扉を開け、部屋を出た。




