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第五十六話 死者の街に花束を(10)

 フローリアが住む屋敷の裏門で使用人に名を告げると、拍子抜けするほどすぐに通された。

 昨日の路地裏での出来事が、彼女の口からどのように伝えられたのかは不明だが、少なくとも俺は不審人物としては扱われなかったらしい。この名門、エルネスト家の格式が、不躾な対応を許さないだけかもしれない。

 応接間に案内された俺を待っていたのは、絵に描いたようにきちんと整えられた、どこか歴史の重みを感じさせる空間だった。重厚な調度品、手入れの行き届いた庭を望む窓、部屋の隅に静かに控えるメイドたちと、背筋を伸ばした執事。

 人の気配は――確かにある。昨日のアデラルド邸のような冷たさも、無機質さもない。メイドたちの目の奥には、わずかではあるがきちんとした意志が宿っているのが見て取れる。

 少なくとも、この屋敷のこの場に、“奴ら”のような死人はいないと判断する。

 ここに来るまでに、俺は簡単に彼女について調べていた。

 レクスヴィントという街の顔ともいえる名門、エルネスト家。その名を聞いて、まず思い浮かぶのは、現当主でこの街を治めるオズワルド・エルネスト伯爵と、その妻ヴァレリア伯爵夫人のふたりだ。子供はいない。跡継ぎの噂も聞かない。本家筋は、街の北にあるカントリーハウスに静かに暮らしているらしい。それが、いわばエルネスト家の「本流」。

 そして、フローリアはというと──三代前に分かれた本家の三男の子孫だ。傍流中の傍流。継承順位など、数字を並べれば二桁に届くかもしれない程度。名家の血筋には違いないが、本家筋とは繋がりも薄い。

 こういう街では、血統と名前だけでそれなりの権威は通用するが、彼女の場合はその名前すら、本家からは遠い影のような扱いだ。

 両親はすでに亡くなっている。伯父の庇護のもと、屋敷の一角を与えられて暮らしているという話だけど、その伯父ももちろん本家筋ではない。社交界でも表に出てくることはほとんどなく、街の名簿の隅に辛うじて記される程度の存在らしい。

 そんな、取るに足らないとされる貴族の娘にしては――あの時の目は、あまりにも澄みすぎていた。怯えているようで、その実、どこか遠い何かを見据えている。まるで、知らないふりをして、街の秘密の糸を手繰り寄せようとしているような、そんな気配を感じた。もちろん、ただの勘だ。探偵稼業で培った、いわば嗅覚のようなもの。俺のこの勘は、わりと外れない。

 あの娘は、この街で起こっている事件の周縁にはいない。もっと、その核心に近い場所にいる──少なくとも、その輪郭に手をかけているはずだ。

 昨夜のあの追跡者は、彼女のその立ち位置を知っていたか、あるいは知ったために追ってきた。

 だから、こうして屋敷まで来た。彼女は何かを知っている。そうだ、危険な場所にいる。

「お待たせいたしました、冴島さん」

 柔らかな声と共に、フローリアが入ってきた。昨日の路地裏での慌ただしさ、恐怖に引きつった表情とは打って変わって、今日は深緑の落ち着いたワンピースに身を包み、静かな、しかしどこか張り詰めた表情をしていた。透き通るような白い肌と、銀灰色の髪。そして、あの印象的な蒼い瞳。

「昨日は、本当にありがとうございました。冴島さん」

 彼女は丁寧に、しかしどこか申し訳なさそうに礼を述べる。

「おかげで、あの後、無事に家に帰ることができましたから」

 勧められたソファに腰を下ろした。執事が静かに紅茶を準備する。

「その後、何か変わったことはなかったか? 追われたり、見張られたりとか」

「いえ、特には……。ただ、やはり何者かに見られているような感覚は、今も消えずに残っています」

 そう言った彼女の瞳は、窓の外、どこか遠くを見ているようだった。警戒心、不安。

「昨日の奴らについて、何か心当たりは? どういう連中だ?」

 彼女は小さく首を振った。その仕草には、正直な困惑と、わずかな動揺が見て取れる。

「……わかりません。ただ、あの人たちは……どこか冷たい感じがしました。それに、あの異常な動き……人間、ではないように見えました」彼女は言葉を選びながら続ける。「それに、あの時、私は……“境”に近づきすぎてしまったのかもしれないと、思っています」

「“境”?」

 俺はその言葉に引っかかった。曖昧で、しかしこの街の雰囲気と妙に符合する響きだ。

「ええ……この街は昔から“境”の土地と呼ばれているのです。――港という場所は、異国とこの国、海と陸。そして――“生と死”。その境界、あるいはその間にある。そう言う場所が、ここレクスヴィントなのです」

 彼女の口から、淡々と語られた言葉に、背筋がすっと冷たくなるのを感じる。この街に着いてから感じていた、あの説明のつかない不穏さ。昼の顔と夜の顔。あの「生きた死体」。それらが、その言葉によって一本の線で繋がった気がした。

「“生と死の境”か……」

「昨日、旧市街の古書店で手に入れた、古い書物にそのことが書かれていました。この街を開いたのは、異国から来たある民だったと。彼らにとって、この港は“門”だったのです。現実の世界と、もう一つのどこかの世界を繋ぐための」

「その本、見せてもらえるか? 街の秘密に繋がるかもしれない」

 彼女は小さく頷き、部屋の隅に控えていたメイドの一人に視線を送る。メイドは無言で、しかし迅速に一礼し、音もなく部屋を出ていった。

「……そういえば、探偵さん。あの時、私に……“護衛を依頼するか”と尋ねましたよね?」

「ああ、覚えているさ」

「あれから、ずっと考えていました……私は、一体何者なんだろうって」

 彼女はティーカップを両手で包み込むように持ち、わずかに俯く。その仕草はか弱く見えるが、声には芯があった。

「まだ、自分でもはっきりしないのですが。でも、もしかしたら私は、あの本に書かれていたように……“境”に立つ者なのかもしれません」

 静かに、しかし重い告白だった。彼女の蒼い瞳が、決意を秘めて俺を真っ直ぐに見つめる。

「もう少しだけ……もう少しだけ、自分で確かめてみたいんです。自分が何者で、この街とどう関わっているのかを」

 言葉を区切って、彼女は絞り出すように言った。

「……だから、もし、もしもの時が来たら……誰にも、もうどうにもできなくなった時は、助けてください。探偵さん。私を、この街を……」

 俺は小さく頷いた。その瞳の奥に宿る、恐怖を押し殺した強い決意。それを軽く見るわけにはいかなかった。この厄介な依頼を引き受けてしまった時点で、もう「もしもの時」はそう遠くないだろうという予感もあった。俺は、探偵だ。そして、女と子供には甘い。

「わかった。約束だ。何があっても、お前を助ける。この依頼は、今、個人的なものになった」

 その言葉が、どれほどの重みを持つことになるのか、この時点ではまだ理解していなかったかもしれない。

 その時だった。

――遠く、屋敷の奥から、甲高い、悲鳴のような叫び声が聞こえた。

 俺たちは、同時に立ち上がる。声の方向は、メイドが本を取りに向かった方角だった。まずい。直感的にそう思った。

 俺はフローリアを制して、「ここで待ってろ!」とだけ告げ、廊下を駆け出した。見慣れない、しかし豪奢な屋敷の構造に一瞬迷いつつも、音のした部屋を見つけ、躊躇なく扉を開け放った。

 そこには――血にまみれ、床に不自然な形で崩れ落ちたメイドの姿があった。

 すでに息はない。その白い首元には、まるでナイフで切られたかのような、しかし致命的な傷跡が一筋走っていた。

「……殺されている」

 低い声で呟いた俺の背後から、焦燥を含んだ足音が近づく。フローリアが、顔を真っ青にして駆け寄ってきていた。

「……! 本が……ありません……!」

 彼女が指差す先。壁一面の立派な本棚に、ぽっかりと空間が空いている。おそらく、彼女が読んでいたという、あの「境」について書かれた古い書物が、そこに置かれていたのだろう。

 誰かが――あの本を狙っていた。メイドを殺害してまで、持ち去るほどの価値が、あの書物にはあったということだ。

「まさか……あの、死んだような人たちが……?」

 フローリアの声が震える。

「死者か、あるいはそれを操る黒幕か……どちらにせよ、“境”は俺たちが思っているよりも、ずっと深く、広い」

 そう、呟いた俺の脳裏に、昨夜遭遇した“人ならざる者”たちの、感情のない無表情がよぎった。彼らはただ追っていただけじゃない。何かを、あるいは何かを知っている者を「排除」するために動いていた。その標的の一つが、フローリアと、彼女が持っていたあの本だったのだ。

 フローリアの手が、小刻みに震えていた。俺は、そっとその冷たくなった小さな手を取って、力を込めて言った。

「大丈夫だ。約束しただろう。何があっても、必ずお前を助ける」

 彼女は、かろうじて小さく頷いた。その瞳には、恐怖と、そして俺への信頼が宿っているように見えた。

 屋敷の窓から、冷たい風が吹き込んできた。廊下を抜けていく風が、どこからか海の匂いを運んでくる。だがそれは、太陽の下で感じたような爽やかな潮の香りではなかった。どこか、生臭く、血と、古びた紙のような……乾いた、死の匂いだった。

 俺たちは――知らず知らずのうちに、“境”の深淵に、その足を踏み入れてしまったのだ。この事件は、もう後戻りできない地点まで来てしまった。

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