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第五十二話 死者の街に花束を(6)

 レクスヴィントの午後は、独特の海の匂いを運んでくる風が吹いていた。

 港の喧騒から遠く離れ、富裕層が暮らす屋敷街〈アルトルーナ地区〉の高台へと差し掛かると、それまで街の喧騒に紛れていた潮の香りがふと途絶えた。代わりに磨き上げられた石畳の匂い、整然と並んだ街路樹の青臭い匂い。丹念に手入れされた垣根から漂う、どこか人工的な清潔さの匂いだ。

 ここでは、目に見えない金の力が、空気そのものの質を変えているように感じられた。

 アデラルド家の邸宅は、この地区の中でもひときわ堂々とした門構えを誇っていた。

 重厚な鉄柵の向こうに広がる正面庭園は、完璧なまでに手入れが行き届いている。

 だが、その完璧さが逆に、生命の息吹のようなものを感じさせなかった。

 色とりどりに咲いているはずの花々が、まるで精巧な造花のように、平面的に見えるのは、きっと俺の気のせいではないだろう。

 重い鉄製の門扉をくぐると、控えめに頭を下げた使用人が現れた。

 その動きは、まるでゼンマイ仕掛けの人形のようだ。

「冴島様、並びにイリス様、シュロット様でいらっしゃいますね。承っております。応接室へどうぞ。ご主人様は、間もなくお戻りになられます」

 使用人の立ち居振る舞いに、微塵の乱れもなかった。

 いや、むしろ乱れがなさすぎる。

 まるで、長年訓練された舞台俳優のようだ。

 案内された応接室は、広々として豪華絢爛ではあったが、肌を刺すような奇妙な寒気が漂っていた。

 豪華な暖炉には火が落とされ、天井から吊り下がる巨大なシャンデリアには、一本の蝋燭も灯っていない。

 大きな窓からは午後の柔らかな陽光が差し込んでいるが、床に伸びるその光の線が、まるで歪んだ鏡に映ったように、不自然に屈折しているように見えた。

 重厚なソファに腰を下ろすと、隣に座ったイリスが、銀色の装飾が施された香油瓶に静かに目を向けながら、眉をひそめて低く呟いた。

「……この部屋、香が……強すぎませんか? 何か、別の匂いを隠すために、わざと強く焚いているみたいです。まるで……死臭を誤魔化すように」

 イリスの後で、シュロットがまるで石像のように、ぴくりとも動かず直立不動の姿勢を保っていた。

 無言で俺たちの背後を守るその姿が、今はやけに心強く感じられた。

 小一時間ほどが過ぎた頃だろうか。

 重厚な木製のドアがゆっくりと音もなく開き、そこに現れた男を見た瞬間、俺は本能的に立ち上がっていた。

 警戒心が、全身の神経を逆撫でするように駆け巡ったのだ。

「……よく来てくださいました、冴島探偵」

 そう言ったのは、エドワルド・アデラルド。

 依頼主であるアデラルド男爵の一人息子だ。

 年齢は二十代半ばという話だったが、目の前に立つ彼からは、その年齢に普通に伴うはずの、若さ特有の活力や感情のようなものが、微塵も感じられなかった。

 まるで、精巧に作られた蝋人形のようだ。

 口元は、訓練されたように礼儀正しく微笑んでいた。

 その奥にあるはずの目が、全く笑っていない。

 いや――「何も宿していない」と表現した方が、より正確かもしれない。

 あれは、精巧な人間の表情の皮を被っただけの、空っぽの仮面だ。

 俺はとエドワルドは挨拶を交わしたのち、椅子に腰を下ろした。

「探偵というのは、実に便利な肩書きでね。どこへ行っても、なんとなく話が通ってしまう。まあ、胡散臭い連中を引き寄せる磁石でもあるんですが」

「はは……まさに、その通りでございますね」

 ――笑った。

 だが、その笑い声は、まるで録音された音源のように、全く心に響いてこない。

 表面的な音の羅列だ。

 隣で、イリスが控えめながらもあいづちをうつ。

 シュロットは、相変わらず微動だにしない。

 その金属の瞳は、静かにエドワルドの姿を捉えているようにも見えるが、果たして何を認識しているのだろうか。

 俺は、探るような視線をエドワルドに向けながら、話を切り出した。

「実は、男爵殿から、むこうの屋敷内で紛失した“ある品”について、内密にご相談を受けておりまして。――どうもこの街に流れた様子。その件で、貴方にもご協力いただければと思い、こうして顔を出した次第です。まずは、形式的なご挨拶、というわけですが」

「はい。父からも、貴方の普通でないご評判を耳にしておりました。信頼に足ると」

 嘘だ。

 エドワルドの言葉の端々には、微塵の人間的な温かさや信頼の念など感じられない。

 まるで、あらかじめ用意された定型文を口ずさむような、形式的な返答。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 会話を重ねるうちに、俺の抱く違和感は、雪だるま式に膨らんでいった。

 表情。

 会話の間の取り方。

 言葉の選び方――どれもが、完璧すぎるほどに“正しい”んだ。

 しかしその正しい言葉の裏にあるはずの、生きた感情のニュアンスが、ごっそりと抜け落ちている。

 まるで、誰かが書いた「人間らしい反応とはこうだ」という分厚いマニュアルを、一字一句違わずに読み上げているだけのような、薄っぺらさ。

 俺は、冷めてしまったカップにさりげなく手を伸ばすふりをして、応接室全体をゆっくりと見回した。

 磨き上げられた棚に飾られた、古めかしい銀の置時計。

 壁に掛けられた、高価そうな油絵。

 だが――それらの物には、長年そこに置かれてきたことによって生まれるはずの、生活の“擦れ”や歴史のようなものが、全く感じられない。

 まるで、博物館のショーケースの中に飾られた、ただの陳列品を見ているようだ。

 会話の末に、俺はあえて、核心に触れるような言葉を投げかけてみた。

「ところで、最近このあたりで、奇妙な噂を耳にしました。街の連中の間で、化け物みたいな怪人がいる……なんて。まあ、港町じゃ、そういう荒唐無稽な幽霊話も珍しくないですか」

 エドワルドは、俺の言葉に微塵も微笑みも浮かべなかった。

 瞬きひとつせず、まるで感情のないアンドエドワルドのように、淡々と答えた。

「それは……根も葉もない迷信です。おそらく、年老いた船乗りたちが、長い海の旅の疲れから見た、妄言の類いでしょう」

 ――迷信だと、これほども冷たいに言い切るには、その言葉があまりにも無機質すぎる。

 まるで、プログラムされた音声ガイダンスを聞いているようだ。

 重苦しい沈黙が流れる中、形式的な挨拶を終え、俺たちは応接室を後にした。

 邸宅の重い扉を抜け、庭を横切り、鉄製の門を出るまで、俺たちは誰も一言も口をきかなかった。

 冷たい鉄の門扉が重い音を立てて閉まったところで、ようやくイリスが、空気を震わせるように低い声で口を開いた。

「……あの方、やはり……何かが、根本的に、おかしいです」

「ああ。おかしいどころじゃねぇ。言葉は、文法的には正しい。だが、その言葉を発する口の表情と、その奥にあるはずの魂が、まるで別のように、完全に噛み合っちゃいない」

 俺は、ポケットから取り出した煙草に火をつけた。

 乾いた風が、燃えている先から立ち上る煙を、せわしなく横へと流していく。

「――まるで、精巧に作られた人間の皮を、誰かが無理やり被っているみてぇだったな」

 シュロットが、一歩遅れて重い足音を立てながら、無言で俺たちの後ろをついてくる。

 こいつの方が、十二分に人間臭い。

 イリスは、不安そうに眉をひそめながら、もう一度低い声で呟いた。

「屋敷全体が、信じられないほど静かでした。まるで、生きている人間の気配が、全く感じられません。……あれは、“家人のいるべき屋敷”の静けさじゃない」

 俺は、夕方の空を見上げた。

 陽はまだ中ほどの高さにあったが、黒い雲がひとつ、まるで重い毛布のように、アデラルド家の屋敷の上に低く垂れ込めていた。

 エドワルド・アデラルド。

 彼は確かに、物理的に“そこにいた”。

 だが、彼の内面には、“彼自身”ではない、別の“誰か”が、宿っているように感じられた。

 あの豪華な屋敷では、人間の姿をした、冷たい何かが、当たり前の顔をして、日常を、奇妙に演じているのだ。

 その認識が、俺の背筋に、冷たい悪寒を走らせた。

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