第五十話 死者の街に花束を(4)
午後の光が、街路を斜めに長く貫いていた。石畳の道に落ちる建物の影が、ゆっくりとその形を変えていく。
「ここでシュロットと落ち合ってから、アデラルド邸の訪問まで、あと三時間と少しあります。少し、休憩しますか?」
振り返ると、イリスが小さな手帳を開きながら言った。彼女はこういう時間管理に関しては、本当にきっちりしている。ありがたい存在だ。
「いや、休憩にはまだ早い。せっかくだ、少しこの辺りを歩いてみよう。旧市街地区だったか? この辺りは」
俺は肩を回して凝りをほぐしながら、周囲の古びた建物を見上げた。官邸のある新市街地区とは違い、こちらは歴史を感じさせる、落ち着いた空気が流れている。どこか煤けていて、それでいて味わい深い、まるで生きた博物館の展示室のような街並みだった。
ところどころ錆び付いたブリキの看板、使い込まれて飴色になった木の扉、軒先に無造作に置かれた年代物の鉢植え。どれもが長い年月をかけて、この街の風景の一部として溶け込んでいる。ただ漫然と歩いているだけで、様々な時代の、様々な人々の物語が囁きかけてくるような気がした。
「あっ、シュロット」
イリスの声に前を見ると、角を曲がった先から、ゴツゴツと重々しい足音を響かせて、あの金属の巨体がこちらへ向かってくるところだった。人通りの少ない路地では、その存在感は一層際立つ。
「ja」
シュロットは、ま巨大な金属の片手を軽く挙げた。その巨体に似合わず、案外律儀なやつだ。
「少し街を見て歩こう。旧市街の空気を吸いながら、情報屋のいる酒場の方へ向かうとしよう」
「はい、いいですね!」
イリスが嬉しそうに頷いた。シュロットも無言で後に続く。
狭く入り組んだ石畳の道を進む。両側には古びた家屋がひしめき合い、軒先には洗濯物が干されていたり、色褪せた露店の天幕が残っていたりする。どこか埃っぽく、それでいて人々の生活の匂いが色濃く漂う通りだ。古びた看板の下では、老人たちが日向ぼっこをしながらチェスのような盤上遊戯に興じている。路地裏からは、子供たちのはしゃぎ声と、香辛料の混じった煮込み料理の匂いが漂ってきた。
イリスは物珍しそうにきょろきょろと周囲を見回しながら、俺の横を歩いている。時折、小さな発見に目を輝かせている様子は、年相応の少女そのものだ。
「この通り、なんだか面白いですね。見てください、あそこは古道具屋さんでしょうか? 不思議なものがたくさん置いてあります」
彼女が指差す先には、薄暗い店内に、ガラクタとも骨董品ともつかない品々が山と積まれた店があった。埃をかぶったランプ、用途不明の機械部品、欠けた陶器の人形……。
「ああ、みたいだな。……まあ、残念ながら、俺の財布にはあまり優しくない通りかもしれんがな」
「ふふ、お土産とおやつはしばらく我慢、ですね」
イリスがくすくすと笑う。
「そういうお前は、さっき市場でしっかり買い込んでるじゃねえか」
俺が指摘すると、彼女は慌ててローブの袖で、抱えた紙袋を隠そうとした。袋の端からは、甘い香りのする焼き菓子らしきものがしっかりと覗いていた。あの華奢な体のどこに収まるのか、甘いものに関しては、彼女の胃袋は俺の数倍はありそうで、時々恐ろしくなる。
「まあ、たまにはそういうのもいいさ。楽しそうで何よりだ」
俺はそう言って、彼女の頭を軽くなでた。
そんな軽口を叩きながら、角を曲がろうとした、その時だった。
手前にある、古びた看板を掲げた古書店から、出てきた人物とぶつかりそうになった。
俺は咄嗟に身を引いて避ける。相手も驚いたように立ち止まった。
年の頃は、十六、七といったところだろうか。
陽光の下で、銀灰色にも見える長い髪が、午後の光を柔らかく跳ね返して、風にさらさらと揺れていた。白を基調とした、刺繍もレースもない、しかし上質な生地で作られた控えめなドレス。その細い腕には、革装丁の古書が何冊か抱えられている。
「ああ、すまねえ。前を見てなかった」
俺が先に詫びると、彼女は軽く会釈を返した。
「いえ、こちらこそ、ご無礼いたしました」
その声は鈴を転がすように澄んでいて、落ち着いた響きを持っていた。簡単な会釈の仕方も、ごく自然でありながら、そこそこの身分を感じさせる優雅さがあった。
こんな旧市街に、貴族の娘が一人で、か? いや、それにしては、服装にあまりにも気を使っていない。供の者もいないようだ。
彼女は、俺の顔を見上げると、まるで何かに引き寄せられたかのように、その場に立ち止まった。そして、その驚くほど蒼い瞳で、真っ直ぐに俺を見つめてきたのだ。
時間が、一瞬だけ、凍り付いたように感じた。
周囲の雑踏も、風の音も、遠い波の音も、すべてが遠のいていく。まるで、世界に俺と彼女だけしか存在しないかのような、奇妙な静寂。夢の中にいるような、非現実的な感覚だった。
彼女は、その美しい蒼い瞳で俺を捉えたまま、ぽつりと、しかしはっきりと聞き取れる声で呟いた。
「……あなた、“外の人”ですか?」
その、あまりにも唐突で、核心を突いた言葉に、俺の足は石になったようにその場に縫い付けられた。
「――どこか、遠い場所の響きがする」
その声は、風に溶けてしまいそうなほど静かで儚げでありながら、それでいて揺るぎない、不気味なほどの確信に満ちていた。
なんだ、この娘は――俺の正体を知っているのか? あるいは、何か特別な力を持っているとでもいうのか?
疑問が頭の中を渦巻くが、
「……は? 何を言って――」
俺が問い返そうとした瞬間、彼女は何かを察したように、表情を変えた。俺の背後に鋭い視線を投げかける。
彼女に問い質す間もなく、彼女は素早く身を翻し、走り出した。
その切羽詰まった声と同時に、俺の探偵としての勘が鋭く反応した。背後から感じる、微かだが明確な敵意の気配。
祝! 50話到達




