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第四十九話 死者の街に花束を(3)

 宿は、アデラルド男爵が手配してくれただけあって、なかなかに上等なものだった。街の中心である白翼広場から少しだけ外れた、比較的静かな路地裏にひっそりと構える小さな宿屋。《海猫亭》と名付けられたその宿は、古いが手入れの行き届いた木組みの外壁と、夕暮れ時には温かな光を灯すであろう真鍮製のランタンが落ち着いた、隠れ家のような印象を与えていた。

 部屋に案内され、重い鞄を床に下ろした俺たちは、しかし長旅の疲れを癒す間もなく、再び街へと繰り出した。時間は限られている。まずは、依頼の核心に触れることから始めなければならない。

 俺とイリスが目指すのは、港湾地区に聳え立つ《南海輸送統括官邸》。依頼主であるロイズ・アデラルド男爵の次男――エドワルド・アデラルドが、このレクスヴィントの海運と貿易を監督する、その監理統括官という要職を務めている建物だ。

 南の港に面したその官邸は、街の他の建物と同様、白壁に赤い窓枠という、一見すると洒落たデザインの壮麗な建物だった。近づいて見上げたその印象は、華やかというよりもむしろ冷たく、威圧的ですらあった。

「大きな建物ですね」

 隣を歩くイリスが、小さく呟いた。

「ああ。いろいろと俺等の街とは違う」

 俺は今回、北方の隣国アストラル地方の有力な貿易組合から派遣された「番頭」という触れ込みで、この官邸の門をくぐることにした。もちろん、真っ赤な偽りだ。イリスはその通訳兼書記という役どころ。表立って探偵だと名乗るわけにはいかない。内密に情報を集めるためには、時にこういう舞台役者のような芝居も必要になるのだ。

「準備はいいか、イリス?」

「はい」

 彼女は静かに頷いた。その瞳には、いつもの穏やかさの中に、任務に対する決意が宿っていた。

 重厚な鉄製の門扉の前で立ち止まり、控えていた衛兵に声をかける。

「アストラル貿易組合の者ですが、新規でのお取り次ぎ願えますでしょうか」

 衛兵は、俺たちの胡散臭い身なりを一瞥すると、警戒の色を露わにした。

「アポイントメントは?」

「ええ、事前に書状を送らせていただいております」

 そう言うと、イリスが手際よく、紋章入りの封筒を取り出して衛兵に差し出した。衛兵はそれを訝しげに受け取り、奥へと通じる扉の向こうへ消えていった。

 待つこと数分。再び現れた衛兵は、無表情のまま俺たちに応接室へと案内した。

 応接室は、広々としていて豪華だったが、どこか冷たい印象を受けた。

 しばらく待っていると、やがて小柄な初老の事務官が応対に出てきた。俺たちは形式的な貿易に関する相談、例えばレクスヴィント港の利用税や、特定の輸入品目に関する規制などについて、当たり障りのない会話を交わした。あくまで軽い世間話の流れの中で、この官邸の主であるエドワルド・アデラルド監理統括官について、それとなく水を向けることだった。

 事務官は、にこやかながらもどこかよそよそしい笑顔で言った。

「正確な執務を徹底して行われる方ですよ」

 事務官の口から語られるエドワルド評は、几帳面で仕事熱心、無駄なことを嫌い、私語はほとんどしない。時間には極めて厳格で、部下にもそれを徹底させる……。返ってくるのは、そんな表面的な言葉ばかりだった。だが、俺が本当に知りたかったのは、そうした客観的な評価ではなく、彼と日々接している人間たちが抱く「実感」だった。彼らが語るエピソードのニュアンス、声の調子、視線の動き。そこに、男爵が感じていた“違和感”の端緒が引っかかっているかどうか。

 そして、それは確かに、存在した。

 応接室で、味のしない紅茶をすすりながら事務官の話を聞いていた、ちょうどその時だった。窓の外、官邸の正面玄関前がにわかに騒がしくなった。重厚な黒塗りの馬車が静かに停車し、供回りを従えた一人の男が、ゆっくりと馬車から降りてくるのが見えた。

 エドワルド・アデラルド。

 長身で、やや痩躯。隙なく仕立てられた黒の礼装に身を包んだその姿には、どこか人間離れした、一種異様なほどの整然さがあった。背筋は定規で引いたように真っ直ぐで、歩き方、視線の動かし方、おそらくは呼吸のリズムすらも、完全に一定に保たれているように見える。その動きには、人間の持つ自然な“揺らぎ”というものが、まったく感じられないのだ。

 まるで、見えない何かの型に無理やり押し込められたかのような、作られた所作。表情は能面のように動かず、その目は、周囲の人間や景色を捉えているようでいて、その実、一度も誰をも何をも見ていないように思えた。その空虚な瞳は、ただ前方の空間だけを見据えている。

 俺は、思わず息をひそめ、その異様な姿を目で追った。

 ああいうタイプの人間は、たしかに“仕事はできる”のかもしれない。感情に左右されず、常に冷静で、効率的。しかしーー人間は、生身の人間は、あんなふうには動かない。あれではまるで、皮膚の下に温かい心臓ではなく、冷たい歯車が詰まっているかのようだ。

「……あれが、エドワルド・アデラルドか」

 俺が思わず低くつぶやくと、隣に座っていたイリスが、こくりと静かに頷いた。彼女の顔も、わずかに青ざめているように見えた。

「はい。……わたし、少し、寒気がします。彼は……まるで、誰かが『彼になっている』かのような……そんな気がして……」

 小声のイリスの言葉は、俺の実感を正確に言い表していた。人間味が薄れた、というような生易しい表現では足りない。

「事務官殿。貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。おかげで、レクスヴィント港の事情がよく理解できました」

 俺は事務官との話を適当なところで切り上げた。軽く心づけを添える。

「これはほんの気持ちです。願わくば、今後の良きお付き合いの印として、お納めいただけますように」

 事務官は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに職業的な笑顔を取り繕い、丁重にそれを受け取った。

 重々しい官邸の扉を抜け、再び陽光の下に出た俺は、最後にもう一度だけ、振り返ってその建物を仰ぎ見た。白い壁には午後の陽が燦々と降り注いでいた。でも不思議なことに、先ほど見たエドワルド・アデラルドの姿だけが、まるで陽光を拒絶するかのように、濃い影を纏っていたような気がしてならなかった。

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