第四十五話 鳴らないオルゴールの旋律(中編)
その夜、俺は再びエリオルト邸を訪ねた。エリオルトは応接間で、ただ静かに座っていた。使用人は傍らに控えている。俺はエリオルトの部屋を見せてもらい、壁に飾られた肖像画を何枚か確認した。それは、エリオルトと亡き妻、そして息子夫婦、そしてまだ幼い孫、カルサールを描いたものだった。幸せそうに見える家族の姿が、鮮やかに描かれている。しかし、その肖像画から漂うのは、どこか冷たい空気だ。
特に、息子夫婦とその幼い子供を描いた肖像画の前で、俺は立ち止まった。若い頃の息子はエリオルトによく似ている。その隣には、息子に寄り添うように立つ若い女性と、その腕に抱かれた幼い子供。女性の顔には、上級区画の人間にはない、庶民的な優しさが滲み出ている。
エリオルトは俺の視線を追うと、小さく、感情のこもらない声で呟いた。
「あれは……息子とその妻、そして孫のカルサールを描かせたものです。肖像画家には最高の腕前を持つ者を呼び寄せたのですが……」
彼はそこで言葉を切った。
「息子さんは、肖像画の女性と結婚するのに、エリオルト様は反対されたそうですね」
俺が単刀直入に尋ねると、エリオルトは僅かに顔を強張らせた。
「……ええ。彼女は庶民の娘でしたから。家柄も、釣り合うものではなかった。息子の将来を考えれば、当然のことです。ですが、息子はどうしても聞き入れず……強硬な手段で結婚を押し切られてしまった。私の妻は、息子の選んだ相手だからと、反対こそしませんでしたが……」
彼の言葉には、息子に対する不満と、自分の考えが正しいという思いが滲み出ている。
「その後、息子さんはどうされたんですか?」
「息子は、結婚してすぐに、あの女と共に出て行きました。屋敷には二度と戻りませんでした。数年前に不慮の事故で亡くなったと聞いたのは、もう随分経ってからのことです」
そして、孫であるカルサールについては、こう語った。
「息子夫婦を失って、カルサールを引き取ろうとしたのですが……どうにも、私とあの子とは反りが合わなかった。あの子は、母親に似て、頑固で……私の言うことを全く聞き入れなかった。私が……私が、あの子の気持ちを理解してやることができなかったのです。私が悪かったのかもしれませんな」
そう言ったが、彼の声には悲しみも、後悔も、ほとんど感じられなかった。まるで、遠い昔の、他人事の出来事を語っているかのようだ。本当に、この孫のことを気にかけているのだろうか? それとも、その感情を押し殺しているだけなのか。しかし、彼の言葉の端々から、彼が、息子が庶民と結婚したこと、そして自分の意に反して屋敷を出て行ったことを、今も許せていない、あるいは理解できていないことが見て取れた。彼の「私が悪かったのかもしれませんな」という言葉は、形だけの反省であり、本心では孫ではなく、自分自身の『誇り』や『体面』の方が大事だったのではないか、と俺は感じた。
その翌日、イリスが一つの決定的な痕跡を発見した。屋敷の裏手に回ったイリスは、庭師に頼んで塀の近くを調べてもらい、外側からよじ登ったと思われる形跡を見つけたのだ。
「昨夜の雨で、地面が少しぬかるんでいたせいか、足跡と、それから何かを引きずったような跡が残ってたんです。高さ的にも、ここから誰かが塀を乗り越えて、屋敷の中に侵入した可能性が高いです」
イリスはそう報告すると、付け加えた。
「この足跡のサイズや、痕跡の感じからすると……たぶん、孫のカルサールさんだと思います」
カルサール。やはり、彼が関わっていたのか。なぜ彼は屋敷に侵入し、オルゴールの箱を盗んだのか? 母親の遺品であるオルゴール工房を受け継いでいるカルサールにとって、オルゴールは特別な意味を持つはずだ。
俺は情報屋ライラから聞いた情報を元に、町外れの、寂れたオルゴール工房に潜んでいたカルサールを見つけ出した。古い道具が散乱し、木屑と埃っぽい空気が漂う工房の一室。彼はそこに一人でいた。ボロボロの作業着を着ており、その手には、エリオルト邸から盗まれたはずの、あの美しい装飾が施されたオルゴールの箱が握られていた。箱の中には、オルゴール本体が収められている。
「それを盗んだのか」
俺が問いかけると、カルサールはしばらく沈黙した。何かを堪えているかのように、顔を歪めている。やがて、全てを吐き出すように、苦々しい声で言った。
「そうだよ。俺が盗んだ。じいさんは俺を捨てたんだ。俺の母さんが、じいさんの息子――俺の父親が事故で死んで、母さんも病気で死んで……俺だけ一人残されたとき、じいさんは、この俺を屋敷に入れてくれなかったんだ! 俺の母さんが、上級区画の人間じゃなかったからか!? 庶民だったからか!? 下町で、一人で、どうにか生きていくしかなかった! 母さんの残した、この工房を継いで……あいつは、血の繋がった家族より、自分の面子や、くだらねぇ『誇り』が大事だったんだ!」
彼の声には、長年溜め込んできたであろう、祖父に対する激しい怒りと悲しみが込められていた。母親を庶民だというだけで認めなかった祖父。母親の死後、自分を引き取ろうとはしたが、結局は屋敷に入れず、見捨てた祖父。カルサールにとって、エリオルトは自分と母親を蔑ろにした存在だったのだ。
「それで、復讐のつもりで、じいさんの大事な遺品を盗みに入った?」
俺がそう問い詰めると、カルサールは一度顔を逸らしたが、やがて再び俺を見て言った。
「……そうだよ。あいつが大事にしてた物を盗んで、困らせてやりたかった。それが、俺にできる唯一の復讐だと思ったんだ。でも……」
カルサールは手にしていたオルゴールの箱を、慎重に調べ始めた。イリスが言っていた、魔力の鍵で開く仕掛け。工房の道具を使って、その仕掛けを解除しようとしているらしい。そして、しばらくして、彼は箱の特定の箇所を触った。カチリと小さな音がして、箱の底の部分が僅かに持ち上がった。その隠し底の中に収められていたものを見て、俺は息を飲んだ。そこに音楽を奏でるはずのオルゴールの機構はなく、ただ一枚の、古い紙が丁寧に畳んで入れられていたのだ。
「なんだ、これ……」
カルサールは、その古い紙を俺に見せた。それは、手紙だった。
「俺が……俺が子供のころ、屋敷を出されたあと、ずっと……じいさんが書いてたらしい。内容は……謝罪の言葉と、『お前には、本当に申し訳ないことをした。お前の母さんを認めてやれなかったこと、そしてお前を屋敷に入れてやれなかったこと。いつか、この手紙とオルゴールを、お前に渡すつもりだった』って……」
カルサールの声が震えている。怒りなのか、悲しみなのか、それとも別の何かか。彼は手紙を見つめながら、自嘲するように呟いた。
「馬鹿かよ……いまさら……こんなもん……」
それは、エリオルトが、勘当同然で屋敷を出した息子夫婦、あるいは孫であるカルサールに宛てて、密かに書き綴っていた、彼自身の本心だった。息子が庶民の女性と結婚したことへの反対。息子夫婦を失ったことへの後悔。そして、幼いカルサールを引き取れなかったこと、向き合えなかったことへの謝罪。許しを請う気持ち。そして、いつか渡そうと、妻の大切な遺品であり、かルサールの母親が作ったオルゴールの箱の、さらに底に隠していたのだ。しかし、その「いつか」は訪れることなく、手紙はただ、ひっそりとオルゴールの箱の中にしまわれたまま、時を重ねていた。




