表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

47/83

第四十四話 鳴らないオルゴールの旋律(前編)

 探偵稼業というのは、時に、普段足を踏み入れることのない世界へと、俺たちを連れていく。この街の上級区画。富と権力が集まる場所。そこにある邸宅には、庶民が暮らす下町とは全く違う空気が流れていた。朝から降り続いていた雨の気配すら、この区画の清潔すぎる石畳の通りには届かないかのようだ。磨き上げられた石畳は雨粒一つなく乾いており、そこに、俺の泥だらけの靴音だけが、場違いな響きを立てて浮いていた。

 指定された番地で立ち止まり、重厚な木製の扉をノックする。しばらく待つと、扉が静かに開き、恰幅の良い、制服を着た使用人が姿を見せた。彼は俺の全身を、上から下まで値踏みするような視線で一瞥し、あからさまに眉をひそめた。いかにも、この区画の住人ではない、汚れた部外者が来た、と言いたげな表情だ。しかし、俺が懐から探偵事務所の名刺を取り出し、彼の眼前に示すと、その態度は一変した。

「これは失礼いたしました! 探偵……様、でございますね。お待ちしておりました。エリオルト様がお待ちでございます」

 慌てた様子で使用人は居住まいを正し、恭しく俺を邸宅の中へと案内した。

 案内された応接間は、まるで時間が止まってしまったかのような、深閑とした静けさに満ちていた。室内に置かれた調度品はどれもこれも高価そうで、丁寧に手入れがされているのがわかる。磨き抜かれた銀の燭台は微かに光を放ち、暖炉には火が焚かれ、温かい空気が室内を満たしていた。壁には、この屋敷の歴代の主であろう人物たちの肖像画が飾られている。そして、部屋の中央にある大きなテーブルの上に、ただ一つだけ、不自然な空白があった。そこには本来、美しい装飾が施されたオルゴールの箱が置かれているはずだったのだが、今は何も置かれていない。

 そのテーブルの向かい、重厚なソファに腰を下ろしている男が、この屋敷の主、エリオルトだった。白髪の上品な老人だ。年齢はゆうに七十を越えているらしいが、背筋は驚くほどまっすぐで、その姿勢にはかつての威厳が感じられた。しかし、彼の顔には深い皺が刻まれ、どこか遠くを見ているような、物憂げな瞳をしていた。

「よく来てくれました、冴島さん。わざわざこのようなところまで」

 エリオルトはそう言って、俺に握手を求めてきた。差し出されたその手は、まるで氷のように冷たく、皮膚は紙のように薄く、今にも破れてしまいそうに見えた。その手に宿る冷たさと、彼の外見から受ける印象とのギャップに、俺は内心で僅かに身震いした。

「オルゴールが、盗まれたそうですね」

 俺は単刀直入に用件を切り出した。

「はい。妻の……亡き妻の大切な遺品でしてな。それはそれは美しい細工が施されたオルゴールの箱で、中には妻が愛した音色を奏でるオルゴールが収められていたのです。それが、昨夜、私の寝室から忽然と消えていたのです。戸締りも、寝る前に私がこの目でしっかりと確認しましたし、外部からの侵入経路もありませんでした。考えられるとすれば……」

 エリオルトはそこで言葉を切った。彼の視線が、部屋の隅に控えている付き人らしき男へと向けられる。

「内部の犯行、ということですか」

 俺が尋ねると、エリオルトは無言で、しかしはっきりと頷いた。応接間には今も、エリオルトの付き人らしい、背の高い痩せた男が控えていた。彼はただ黙って立っていたが、その視線はどこか落ち着きがなく、そわそわと泳いでいるように見えた。この付き人を含め、屋敷の全ての使用人が容疑者ということになる。

 その日、俺は屋敷の使用人たちに順番に聞き取りを行った。広大な庭の手入れを任されている庭師。豪華な料理を作る料理人。屋敷の掃除や雑事をこなすメイドたち。そして、エリオルトの付き人。だが、彼らは皆、まるで事前に打ち合わせでもしたかのように、同じ言葉を繰り返すばかりだ。

「いいえ、何も見ておりません」

「昨夜はぐっすり眠っておりましたので、何も気づきませんでした」

「オルゴールがなくなったことなど、今朝初めて知りました」

 全員が完璧に口裏を合わせているかのような不自然さ。誰かが嘘をついていることは明らかだった。あるいは、全員が何かを隠しているのかもしれない。

 イリスも一緒に来ていた。彼女は依頼人や関係者に不要な動揺を与えないよう、主に現場の調査に当たった。イリスは屋敷内、特にオルゴールが置かれていたエリオルトの寝室を隅々まで調べて回り、やがて小さく首を傾げた。何かを見つけた、あるいは何か違和感を感じた時の癖だ。

「冴島さん、オルゴールがあった部屋……ほんの微かなんですけど、魔力の痕跡があります」

 イリスは俺の傍に来て、小さな声でそう報告した。

「魔力の痕跡? オルゴールが魔道具だったのか?」

「……いえ、オルゴール本体や箱は、普通の物のようです。ただ、その箱の特定の開閉部分に何か仕掛けがあって、それを起動させるのに魔力が“鍵”として使われていた……そんな感じの痕跡なんです」

 その言葉に、俺の中で何かが引っかかった。単なる遺品のオルゴールに、なぜ魔力の鍵が必要なのか? 開けることで起動する仕掛けとは? それは、ただの美しい飾りではなかったということか。オルゴールの箱に隠された秘密。

 その日は一旦、屋敷を離れることにした。これ以上の聞き込みは無駄だと判断したからだ。オルゴールの箱にまつわる何か秘密がある。それを知る人物こそが、今回の盗難に関わっているはずだ。そして、使用人たちが一様に口を閉ざしている理由も、その秘密に関係しているのかもしれない。

 情報屋ライラの元を訪ねた。彼女は、この街の表から裏まで、あらゆる情報に精通している。

「上級区画のエリオルト? ああ、知ってるよ。昔は議会にも名を連ねてた、かなりの重鎮さ。街の政治にも大きな影響力を持ってた。でも、奥さんを亡くしてからは、すっかり表舞台から身を引いて、ほとんど屋敷に引きこもってるって噂だね」

 ライラは慣れた手つきで資料を捲りながら、淀みなく答えた。

「家族は? 他に身内はいないのか」

「いるにはいるさ。孫が一人。エリオルトの一人息子と、庶民の女の間にできた子供だって聞いたけどね。その女、たしか、街のオルゴール工房で働いてたって話だよ。エリオルトは息子の結婚に猛反対したらしいけど、押し切られたらしいね。孫の名前は……ええと、カルサール。今は下町の方で、細々と、たしか母親がやっていたオルゴール工房を受け継いでるって噂だよ。エリオルトとは、昔、どうも揉めたらしくて、勘当同然で屋敷を追い出されたって話だけど」

 孫がいたこと、そして勘当されたこと。その母親が庶民で、エリオルトが結婚に反対していたこと。そして、その母親がオルゴール工房で働いており、孫がその工房を受け継いでいること。オルゴールに魔力の鍵が仕掛けられていたことと、これがどう繋がる? 全ての線が、カルサールという人物に繋がっていくように思えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ