第三十八話 ツキイチのカレー(前編)
異世界に来て、どれくらい経っただろうか。
物騒な依頼にも、魔法にも、エルフにも、だいたい慣れた。慣れてしまった自分がちょっと怖いが、まあそれは置いとこう。
ある昼下がりのことだ。
いつものように「星降るグラス亭」の隅っこの席に腰を落ち着け、モーリを膝に乗せていた俺は、ふと、どうしようもなく――猛烈に――カレーが食べたくなった。
「はあ……カレー、食いたいなぁ」
つぶやいた俺の声に、カウンターの向こうでグラスを磨いていたマルダがピクリと反応する。
「カレー? それって何だい、冴島。肉の煮込みかい?」
「いや、違う。肉は入れるけど、もっとこう……複雑な香りと辛味があって、ルゥっていう、ドロっとしたソースみたいなもので煮込むんだ。ああ、くそ、説明が難しいな……」
思わず立ち上がって、手振りを交えながら語っていた。なんならスパイス棚まで見に行こうかって勢いだった。
それくらいには俺の胃袋と脳内は、あの黄金色のルゥで染まっていた。
「ふぅん……面白そうだね。それ、作ってみない?」
マルダの言葉に、俺は一瞬耳を疑った。
「マジで?」
「面白そうじゃないか。お代は取らない、あんたが満足する味ができたら、うちの新メニューにしてやるよ。ま、気長に試してみようじゃないか」
マルダはにやりと笑って、棚から帳面を取り出し、レシピを書く準備を始めた。
その様子に気づいたティナが「なになに? 新メニュー?」と目を輝かせて寄ってくる。
「あたしも手伝います! カレーって、なんか楽しそうです!」
助手のイリスも興味を持ったのか、物静かなままそっと俺の横に立ち、メモ用紙を開いた。
こうなったら腹をくくるしかない。
「よし……やってみるか。俺の記憶を頼りに、異世界カレーの再現だ」
そうと決まれば、問題は素材だった。
香辛料――スパイスだ。ターメリック、クミン、コリアンダー、ガラムマサラ……言葉にしても、この世界に通じるはずもない。
代用になりそうな植物や実、樹皮や花びらを探さねばならなかった。
「スパイスって……辛いんですよね? それっぽい香草なら、市場の西の薬師の店にあるかもしれません!」
ティナは張り切って市場へ駆けて行った。
イリスも図鑑を抱えて素材の鑑定を始める。やれやれ、また騒がしくなりそうだ。
「おいモーリ、どう思う?」
俺の膝の上で丸くなっていた猫が、「にゃ」とひと鳴きして、目を閉じた。
なるほど、つまり――「好きにしろ」ってことだな。了解。
* * *
「やっぱり……この世界の唐辛子っぽいヤツは、殺意が強すぎるな」
俺はスプーンを置いて、額の汗を拭った。目の前の皿には、第四試作目の“カレー風煮込み”がぐったりと沈んでいる。香りは……悪くない。が、食えば舌が焼ける。胃が軋む。涙腺が開く。
「ご、ごふっ……! これは……! あ、あたしの口の中が火を吹いてますぅ!」
ティナが悶絶しながら水差しを抱え込む。いや、水じゃだめだ、逆効果だと何度言えば――
「冴島さん、これ……戦闘で使える……レベルです」
隣ではイリスが涼しい顔で一口食べ、感想がそれだった。うん、まあわかる。敵兵の胃袋にこのルゥをぶち込めば、確かにしばらく戦意喪失するだろう。
試作開始から一週間が経っていた。
ティナが薬師の店で手に入れた“フレイノスの実”は香りこそ近かったが、辛味成分が常軌を逸していた。口にしただけで唇が腫れるレベル。
イリスが南の荒野から持ち帰った“ルーシャ草”は、香りは良かったが苦味が強く、煮込んでも取れず、食べた酒場の客が倒れた。マルダが慌てて解毒薬を持ってきたが、あと数分遅ければ死人が出てもおかしくなかった。
「……これ、冴島の故郷じゃ本当に食べられてたのかい?」
マルダが苦笑しながらも、調理台に立ち続けてくれることが救いだった。
材料選び、火加減、煮込み時間……毎度全力でやってくれる。厨房に立つその背中には、職人の意地が光っていた。
「本当なんだよ。子供の頃、家で母親が作ってくれてさ。ルゥを入れた瞬間に台所じゅうがスパイスの香りで満ちて……それだけで腹が鳴った」
言いながら、なんだか懐かしくて、胸の奥がじんわりした。
俺が探しているのは、ただの味じゃない。
〈帰れない故郷の一杯〉だった。
「……もう一回、やってみよう」
「ええ、もちろんです、先輩!」
「了解。今回は“黒角根”をベースにする」
俺たちはめげなかった。いや、めげる隙すらなかった。
というのも、今や“冴島の不思議料理”は酒場で妙な注目を集めつつあった。
「今日は誰が試食役なんだ?」
「俺の舌に賭けるぜ……!」
「先週のアレで三日寝込んだってのに、また行くのか?」
“危険な香りがするが、うまいかもしれない”
という悪名と期待が混ざった噂が広まり、酒場の常連冒険者たちが日替わりで試食役を買って出るようになった。
……いや、ありがたいけど、命は大事にしてくれ。
そんなある日――
「……これは、悪くないな」
「ほんとですか!?」
第七試作目。マルダの鍋から立ち昇る湯気に、なんとも食欲をそそるスパイシーな香りが混じっていた。
ティナが一口食べて、「辛いけど、ちゃんと甘味と香りがありますぅ!」と感涙。
イリスも黙って三杯おかわりした。無言の合格サインだった。
素材は、以下のとおり。
・ルーシャ草を干して煎った粉末(クミンの代用)
・フレイノスの実を半熟時に煮出して辛味だけを抽出(チリペッパー代用)
・グレイン花の蜜を煮詰めた甘味(玉ねぎの甘味の代わり)
・黒角根のすりおろしでコクを追加(ニンニク+しょうがの代替)
そして、最大の工夫は――“ルゥ”の再現だ。
マルダが大鍋で小麦粉と獣脂を炒め、そこにスパイスのブレンドを加えることで、見事な黄金のペーストが完成した。
それを煮込みに加えることで、驚くほど滑らかな口当たりと複雑な旨味が引き出された。
「……完成だな」
「冴島の“カレー”、誕生ですね!」
そう、これは確かに――俺の故郷の味だ。
あの日、異世界に紛れ込んだ俺が、初めて「おふくろの味がある」と思えた瞬間だった。
だが……この奇跡の料理が、後に予想もしなかった騒動を呼ぶことになるとは、まだ誰も知らなかったのだ――




