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第三十六話 紅い帳簿(中編)

 倉庫の奥に、ゼムはいた。姿を見せた彼は、あたしが記憶していたよりもずっと老けて見えた。手入れされていない顎髭は白くなり、目には深い疲労の色が滲んでいた。あたしは思わず立ち尽くした。

「あたしよ。覚えてる? ライラよ」

 声が震えた。ゼムはゆっくりと顔を上げ、あたしを見て、そして僅かに目を細めた。

「ああ、ライラか。随分、大きくなったな」

 その声は、あの頃と同じ、少し掠れた、けれど優しい響きだった。しかし、今のあたしは、彼の優しさだけに浸ることはできなかった。

「なんで……なんで今さら、帳簿なんて……あんなものを残したの? あの印は……ゼムの印だった」

 ゼムは答える代わりに、手にしていた葉煙草に火をつけた。炎が揺らめき、白い煙がゆらゆらと立ち上る。沈黙が倉庫を満たし、火のついた灰が、音もなく床に落ちた。

「あんたがあたしを救ってくれたのは、嘘じゃない。あたしは、あの時あんたがいなければ、きっと今ここにいなかった。それは感謝してる……でも、今もガキたちを使って薬を運ばせてるって、本当なの?」

 あたしの声は必死だった。肯定してほしくない。否定してほしい。そう願いながら、ゼムの返事を待った。

 その言葉に、ゼムは僅かに目を伏せて、そして、まるで自分自身に言い聞かせるように呟いた。

「正義だけじゃ、ガキは救えねぇんだよ」

 あまりにも弱い、けれどどこか重い言葉だった。言い訳なのか、あるいは彼が辿り着いた歪んだ結論なのか。どちらにせよ、それはあたしの中にずっとあった、もう一人の声でもあった。

 倉庫を出て、帰り道を歩きながら、あたしはひどく悩んだ。ゼムから聞いたことを冴島に話すべきか。それとも、全てを胸に秘め、ゼムを見逃すべきか。恩人であるゼムと、子どもたちを救おうとする冴島。どちらの味方をするべきなのか、あるいは、どちらの側にも立つべきではないのか。

 しかし――あたしが決断する前に、冴島はあたしを待っていた。

 月明かりの下、あたしは冴島の姿を認めた。彼は道の真ん中に立ち、あたしを見つけると、ゆっくりと近寄ってきた。表情は読めなかったが、その気配から緊張が伝わってきた。

「見つけたか」

 彼はそれだけを言った。

 あたしは反射的に、懐から肌身離さず持っている短剣を抜き、彼に向けた。なぜそうしたかも分からない

 冴島は驚かなかった。ただ、あたしから少し離れた場所にゆっくりと立ち止まり、目を細めただけだった。月の光が彼の顔の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。

「あなたには、わからない! あの人は――あたしを救ってくれた人なの」

 自分の声が震えていた。怒り、悲しみ、そして混乱がごちゃ混ぜになって、叫ぶしかなかった。

「救われた? てめぇが生き延びられたのは、あの薬のおかげか?」

 冴島の声は静かだったが、その言葉には鋭い棘があった。

「あんたの“恩人”が他の子どもを使って金稼いでたのをどう説明する? てめぇは運よく生き延びたかもしれない。だけどその影で、何人の罪のないガキが、てめぇと同じように道具として使い捨てられた? あいつがばら撒いた薬で、どれだけの子どもが体を壊し、未来を奪われた?」

 彼の言葉は、容赦なくあたしの心の傷を抉った。そうだ。あたしは救われた。でも、それは偶然だったのかもしれない。あたしのように救われなかった子どもたちが、この街には掃いて捨てるほどいた。

「それでも……それでも!」

 あたしは言葉に詰まった。探検の切っ先が震えているのがわかった。

「俺だって、全ての行動が理屈だけじゃない。情で動くことも、見過ごすこともある。だがな、“子どもを道具にする奴”だけは、俺の信条に反する。どんな理由があろうと、どんな事情があろうと、そこに例外はねぇんだよ」

 冴島の瞳に宿るのは、静かな怒りだった。それは炎のように燃え盛るものではなく、むしろ氷のように冷たい、それでいて確かに熱を持った、鋼のような怒りだった。彼の言葉には迷いがなかった。

(この人は、本気で子どもを守ろうとしている)

 自分の過去も、感情も、そして異世界から来たという出自さえも飲み込んで、それでもこの街の子どもたちのために、自身の正義を貫こうとしている。

 あたしは、初めて冴島という人間が、ただ遠巻きに物事を観察しているだけの「観察者」ではないことを知った。彼は、この世界の歪みに対して、自分自身の信念を持って立ち向かおうとしている人間だった。

 あたしはゆっくりと、探検を下ろした。怒りと、迷いと、ゼムへの懐かしさと、救われなかった子どもたちへの後悔が、全てが混じり合って、あたしの中で渦巻いていた。

「あたし、どうしたらいい?」

 途方に暮れて、あたしはそう呟いた。冴島は何も言わなかった。ただ、月明かりの下に立ったまま、静かに視線を遠い空に向けていた。まるで、答えは空にあるとでも言うように。

 あたしは、ゼムの元に戻る決意をした。あの人がどこまで堕ちたとしても、最後に誰かが見届けなければならない。そして、その役目は、あたしが果たすべきなのだろうと感じた。ゼムに救われたあたしだからこそ、できることがあるはずだと思った。


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