第三十話 若者の恋(前編)
探偵稼業というのは、案外、昼飯時に厄介ごとが飛び込んでくるもんだ。
その日も例に漏れず、下の酒場でマルダが焼いてくれた熱々のパンをちぎりながら、イリスが俺のためにと特別に淹れてくれた、具沢山の温かいスープに口をつけようとしていた矢先だった。
がらん、と控えめな音を立てて、探偵事務所の扉が開いた。木製の古い扉が、少しだけ軋む音を立てて内側に開く。振り返ると、そこには警備隊の制服に身を包んだ、まだ年若い男が立っていた。表情は極めて険しく、眉間には深い縦皺が刻まれている。まるで、世界中の重みを一人で背負っているかのような顔つきだ。その手に、少し遅れて事務所に入ってきた女性の小さな手が、そっと添えられていた。傍らの女性は俯き加減で、その顔はよく見えない。
「あの……冴島さん、いらっしゃいますか?」
男は震える声で、そう尋ねた。
俺はテーブルから立ち上がり、二人の前に進み出た。
「俺が冴島だが。どうした」
若者は名をルディと言った。見慣れない顔だ。まだ二十歳そこそこに見える、駆け出しの隊士だろう。隣の女性はセラ。冴えない、少し擦り切れたような給仕服に身を包んでおり、目元には隠しきれない疲労の色が滲んでいたが、顔を上げた時に見えたその整った顔立ちは印象的で、どことなく品のある仕草が目を引いた。
俺は彼女を見たことがある。貴族連中が通う高級レストラン《白の庭》で、忙しなくワイングラスを運んでいたのが、彼女だったはずだ。給仕の割には、妙に落ち着いた雰囲気を覚えている。
「……探偵さんにお願いしたいことがあって、来ました」
ルディは緊張した面持ちで、改めてそう言った。
「彼女を……セラさんを、二日だけ、この事務所に匿ってもらえませんか」
ルディの声は震えていた。ただの依頼ではない。何か切羽詰まった事情があることは、その声からも、彼の張り詰めた表情からも明らかだった。事情を詳しく聞けば、ある貴族がセラのことをしつこく追い回しているらしい。単なる好意の範疇を超え、店の主人にも圧力をかけ、セラの自由を奪おうとしているという。彼女は行くあてがなく、逃げ場を失っているのだと。
俺が眉をひそめ、どうしたものかと考えあぐねていると、傍らで成り行きを見ていたイリスが、心配そうにちらと俺を見た。その目は、きっと、「断るんですか?」「可哀想です」とでも言いたげだ。イリスは、根っからの善人だ。困っている人を見過ごせない。
「うちは宿じゃねぇぞ。探偵事務所だ」
口ではそう言った。迷惑な話だ、と内心思った。探偵稼業は危険と隣り合わせだ。下手に誰かを匿ったりすれば、事務所ごと巻き込まれる可能性だってある。それに、貴族相手のトラブルに首を突っ込むのは、面倒以外の何物でもない。
「お願いします」
ーーしかし、ルディの真剣な眼差しを前にすると、それ以上、冷たい言葉を続けることはできなかった。彼の目には、迷いも打算もない、真っすぐな火が灯っていた。愛しい女を守りたいという、純粋で強い火だ。その炎を見ていると、どうにも断りきれなくなった。
「……二日だ。それ以上は駄目だ。条件は、二日だけ、それだけだ」
俺は短く、そう告げた。
俺が依頼を受けると決めたのを聞いて、セラの顔に安堵の色が浮かんだ。彼女は深々と頭を下げた。その小さな背中に、それまでどれほど重いものがのしかかっていたのか、ありありと伝わってくるようだった。ルディも「ありがとうございます!」と、安堵と感謝がないまぜになった声で言った。
二日だけ。その間に、何とかしてやる。そう、心の中で呟いた。
* * *
夕食時、イリスは気を遣って、できるだけ穏やかな話題を振っていた。故郷の妖精の話や、最近覚えた新しい料理のこと。けれど、セラは相変わらず口数は少なく、短く返すばかりだった。彼女の心は、まだ貴族に追われている恐怖や、ルディのこと、そしてこれからどうなるのかという不安でいっぱいなのだろう。無理もない。
「……私の故郷には、風で音を鳴らす石があるんです」
ぽつりと、夕食の終わりに、彼女がそう言ったときだけ、ほんの少しだけ顔が和らいだ。遠く、故郷の空を見ているような、物憂げな瞳だった。どんな石なのか、なぜ音を鳴らすのか、詳しく尋ねようかと思ったが、彼女の静かな表情を見ると、それは彼女にとって、誰にも侵されたくない大切な思い出なのだろうと感じ、言葉を飲み込んだ。
夜は、事務所の一室にある唯一のベッドをセラに譲り、イリスが遠慮がちにソファで寝ることになった。俺は床に毛布を敷いた。狭い事務所だが、三人で寝るには十分だ。それで文句を言うやつは、ここにいない。
真夜中、ふと微かな気配に目を覚ました。神経が昂ぶっていたせいだろう。暗闇の中、セラの姿がベッドにないことに気づいた。まさか、逃げ出したのか? いや、それにしては気配が近すぎる。
俺は音もなく毛布から抜け出し、靴を履いて夜の街に出た。気配を辿ると、セラは一人で、暗い裏通りを歩いていた。彼女の小さな背中が、月明かりの下で僅かに揺れている。見失わぬよう一定の距離を保ち、彼女を追う。一体、どこへ向かっている?
向かった先は、下町の外れにある、ひと気のない古びた民家だった。壁は煤け、窓は板で打ち付けられている。こんな時間に、一体誰に会いに? セラは躊躇うことなくその家の扉をノックし、中へ入っていった。
俺は向かいの建物の影に身を潜め、息を殺して様子を窺った。家の中から話し声は聞こえない。ただ、張り詰めた沈黙だけが流れている。小一時間ほど経っただろうか、扉が再び開き、セラが出てきた。その顔には、夜に出かける前とは全く違う、どこか決意のようなものが浮かんでいた。
彼女はそのまま、足早に事務所へと戻っていった。俺も、気づかれないように距離を置いて、その後を追った。




