第二十五話 少年の拳(後編)
ある夕方、俺が事務所の窓辺で煙草に火をつけようとした時、事務所の前に人影が見えた。ライラだった。彼女は裏庭でシャドーをするピートの姿に気づき、しばらく立ち止まってそれを見ていた。そして、裏庭へ回ってきた。
「なにやってんの、ピート? それ、殴り合い?」
ライラの冴えた声に、ピートは動きを止めた。少し照れくさそうにしながらも、彼はまっすぐライラを見た。
「姉ちゃんを護るために、強くなるって決めたんだ」
ライラは少し驚いたような顔をした後、すぐに柔らかい表情になった。黙ってピートの頭を撫でた。その手つきは、まるで壊れ物を扱うように優しかった。しばらくして、ライラは俺に軽く会釈をして事務所を出ていった。
その夜、ピートが帰ったあと、事務所のソファで一杯やっていたら、ライラが事務所のドアをノックした。
彼女にも一杯を渡すと、少しして俺にだけ小さく呟いた。
「ピート、本当は臆病なの」
グラスを揺らすライラの横顔は、どこか遠いものを見るようだった。
「あの子、幼いころに家族を目の前で失ったのよ。その時のことが、ずっと辛い記憶になってて……なのに、あたしのために、あんな危ないことまで……」
感情を飲み込んだその横顔を、俺は覚えている。護りたい誰かのために、恐怖を押し殺して立ち向かおうとする姿を。それは、俺自身もよく知っている、どうしようもなく厄介で、そして美しい人間の性だ。
だが、その静けさは長く続かなかった。
ここは、後で聞いた話だ。訓練の五日目だった。ピートが一人、ステップの練習をしている時、ピートの知り合いのガキが血相を変えて飛び込んできたらしい。息を切らせながら、そいつは叫んだ。
「ライラさんが! ライラさんが、あのチンピラたちに……街外れの廃工場に連れていかれたって!」
ピートの顔から、さっと血の気が引いた。ステップの動きが止まる。全身が小刻みに震え始めた。
「俺、行く! 今度こそ護るんだ!」
ピートは叫び、駆け出そうとした。ガキはその前に立ち塞がる。
「待て。単独で乗り込むなんて無謀だ」
ピートは頭を振ると、一目散に廃工場の方へ駆け出したという。
グラン=ヴァレルの街外れにある廃工場は、昼間でも薄暗い、じめじめとした場所だった。交易路から少し外れた、かつて倉庫として使われていた建物だ。錆びた鉄骨が剥き出しになり、壊れた窓から吹き込む風が、埃っぽい匂いを運んでくる。ピートが乗り込んだ時、そこには三人の男と、椅子に縛り付けられたライラがいた。
「また来たか、チビ……懲りねぇ奴だな」
チンピラの一人が、汚い笑いを浮かべながら言った。他の二人も、面白そうにピートを見ている。
「今度はどうするつもりだ? その細腕で、俺たちに勝てると思ってんのか?」
嘲りの言葉が投げかけられる。だが、ピートは引かなかった。恐怖で顔は青白いが、黙って構えた。ガードを上げ、足を動かし、打つ。習ったばかりのボクシングの動きだ。チンピラたちは戸惑ったような顔をしたが、すぐに笑い出した。
「なんだその変な動き! くそったれ!」
力任せに殴りかかってくるチンピラたち。ピートは打たれる。ガードの上から、脇腹に、顔に。何度も吹き飛ばされそうになる。それでも、彼は下がらない。耐えて、前に出る。そして、隙を見て、俺に習った通り、小さく速いジャブやストレートを放つ。それはチンピラたちにとっては痛くも痒くもない攻撃だったかもしれない。だが、それは確かに、ピートの拳だった。冴島流、いや――もう、ピート自身の拳で戦っていた。
俺が廃工場の入り口にたどり着いた時、ピートはすでに満身創痍だった。顔は腫れ上がり、シャツは血と埃でぐしゃぐしゃだ。フラフラと倒れかけている。だが、それでも倒れていなかった。最後の力を振り絞って、目の前のチンピラに、渾身の一発を撃とうとしていた。
「……いいぞ、ピート。よくやった」
俺は残っていたチンピラ二人の間に割って入り、それぞれにマグナムパンチを一発ずつ叩き込んだ。鈍い音を立てて、二人は意識を失った。
そのあと、俺からの連絡を受けていた警備隊のガロが、部下を引き連れて駆けつけてきた。状況を説明し、チンピラたちを引き渡す。ガロは「やれやれだぜ」といつもの口調で言ったが、その目は俺に感謝の色を宿していた。ピートは、椅子から解放されたライラに駆け寄り、しばらく、ぐしゃぐしゃになった顔を彼女の胸に埋めて、しゃくりあげていた。ライラは何も言わず、ただひたすらピートの頭を撫でていた。その背中が、小さく震えているのが見えた。
数日後、事務所の裏庭で、再びシャドーボクシングをするピートの姿があった。顔の傷はまだ完全に消えてはいないが、動きには以前のようなぎこちなさはない。まだ未熟な動きだが、芯がある。一本筋が通ったような、そんな強さを感じさせた。
「なあ、師匠」
休憩中に、ピートが俺に話しかけてきた。
「ん?」
俺は吸いかけの煙草に目を落とした。
「……拳って、強くなるだけじゃダメなんだな」
廃工場での経験を経て、こいつなりに何かを掴んだらしい。
「そうだ。力任せに殴るだけじゃ、それはただの暴力だ」
俺は煙草の灰を払った。
「引くことも、護ることもできて、初めて“強さ”になる」
ピートは俺の言葉を噛み締めるように頷いた。そして、かたく拳を握り、その拳を俺に差し出した。少し大きくなった、血豆だらけの小さな拳だ。
「ありがとう。俺、もう逃げないよ」
俺は何も言わず、その拳に、自分の拳を軽く合わせた。確かな重みが返ってきた。それは、物理的な重さだけではなく、ピートがこの数日で掴み取った、見えない強さの重みだった。
風が止み、時計台の鐘が遠くで、ゴォン、と鳴った。茜色に染まる空の下、グラン=ヴァレルの街は静な夜を迎える準備を始めている。
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