第九話 探偵は死なない(1)
昼下がりの探偵事務所というのは、戦場でもなければ楽園でもない。強いて言えば、静かな沼のような場所だ。何も起こらなければ、それはそれでありがたい。だが、何も起きないという日が続くと、今度は不穏の匂いがしてくる。
その日もそんな空気だった。俺は机にかじりついて、山ほどの報告書をまとめていた。三日前に解決した「浮遊庭園の密室事件」の報告がまだ片付いていない。こう見えて、探偵にも事務仕事はあるのさ。
「シュロット、そこのファイル取ってくれ」
「Ja」
無機質な返事を返したのは、我が探偵事務所の一員、シュロット。今は掃除の真っ最中だ。金属の足音をカタカタと鳴らしながら、器用に棚の上の埃を拭き取っている。
一方、エルフの少女、イリスは奥で昼食の後片付けをしていた。食器を洗いながら鼻歌を歌っているのが聞こえる。リズムも音程もどこか外れていて、妙に耳に残る。
それが止んで、事務所にイリスが顔をだした。
「はい、冴島さん。コーヒーです」
湯気の立つカップをそっと机に置いてくれる。こちらも気の利いた助手だ。つくづく、俺にはもったいない存在だと思う。
そんな昼のひと時を破るように、階下から軽快な足音が近づいたかと思うと、事務所の扉が勢いよく開いた。
「こんにちはー! あれっ? もう、お仕事中ですか?」
ティナだった。栗色の長い髪を揺らしながら、俺の顔を見るなりにっこりと笑った。
ギルドの受付嬢にして、俺の知ってる中で一番おしゃべり好きな女性。昼休みを利用してふらりと現れたらしい。
「見りゃ分かるだろ。書類の山と格闘中だ」
「残念。少し遅かったかぁ」
彼女は当然のように事務所内に入ると、来客用のテーブル前に腰掛け、自分の弁当箱を広げた。
「おいおい、ギルドにも食堂はあるだろう」
俺が呆れて言うと、ティナはにっこり笑って返した。
「でも、こっちの方が落ち着くんですよねー」
その言葉にイリスは微笑みつつ、お茶を淹れてティナの前に置いた。ティナは礼を言って、箸を手に取ると口を開く。
「そうそう、知ってますか? 最近、街で変な噂が流れてるんです」
この街で箸を使うのはウチくらいだろう。俺が使い始めたら、いつの間にかイリスやティナまでも真似する様になった。
「噂?」
俺は手を止めず、報告書にペンを走らせながら耳を傾ける。
「“黒ノ記章”っていう、不吉な記章が出回ってるらしいんです。それを受け取った人は、一週間以内に死ぬって」
冗談半分の口調だったが、イリスの顔がわずかに強張った。
「ただの都市伝説だろう。そういう話は昔からある」
「そう思ってたんですけど……実際に、何人か亡くなってるらしくて」
そう言って、ティナは俯いた。事務所に一瞬、沈黙が流れる。
「証拠はあるのか?」
「ううん、どれも死因不明で処理されてる。だから余計に不気味で。私たちギルドでも、対応を考えないといけないかもって話してます」
それは気になるが、食事しながら話す内容でもないな。
「……長居してると、またギルドマスターにどやされるぞ」
「はーい。じゃあ食べ終わったらすぐ戻ります」
ティナがパンを頬張りながら手を振るのを横目に俺は席を立ち、トレンチコートを羽織り――もちろん、この世界にはない。無理を言ってテイラーに作らせた――中折れ帽をかぶる。
失せ物探しの依頼がある。そろそろ街に出ることにした。
依頼人の失くしたのは、古い髪飾りだった。形見だというから、できれば見つけてやりたい。
通りに出ると、冬の空気は冷たく空気に少し緊張感が漂っていた。人々の顔に疲れが滲んでいるのは、気のせいじゃない。
調査は比較的、スムーズに進んだ。
故買屋と交渉し、ルートの口外禁止と引き換えに依頼物を手にする。
さて、事務所に戻ろうかという時だった。
人混みの向こうで叫び声が上がり、一人の男が商館の扉を突き破るようにして飛び出してきた。胸を押さえてよろめきながら、俺の足元に崩れ落ちた。
「っ……く、う……あ……」
駆け寄った俺が支えたのは、顔見知りの魔法商、アルザスだった。精悍な顔立ちは苦痛に歪み、唇からはうめき声が漏れている。
「アルザスさん! おい、どうした……!」
周囲に人だかりができ、誰かが警備隊を呼んでいる声が聞こえる。だが、アルザスは何も答えないまま、俺の腕の中で動かなくなった。
俺は彼の首筋に触れ、目を確認した。死んでいる。外傷はない。毒のような兆候も見当たらない。
死因は――何だ?。不思議なのは――
俺の首筋に、チクリとした痛みが走った。
「……ッ」
手を当てると、血。剃刀の刃が滑ったような浅い傷だ。トレンチコートの襟が切れていた。誰だッ?
振り返ったが、そこには野次馬だけで怪しい人物はいなかった。
今回の話は中編でしばらく続きます。お付き合いください。




