夜の彼女は
眼を覚ますとそこには、白いカーテンで四角に切り取られた天井があった。
ここは何処だ、と身を起こそうとした友和は、右眼の上の辺りに痛みと熱を覚えた。手を当てると、ざらっとした感触が返ってくる。同時に、湿布薬独特の臭いが友和の鼻をついた。
「あの時、俺……」
体育の時間にあった事を思い出そうとした時、
「気が付いたのかしらね」
そう言って、カーテン越しに人の形をした影が見えた。
「開けても良い?」
言うのとほぼ同時にカーテンが開けられ、柔和な表情の白衣の女性が顔を出す。
「ボールが当たったのは右目の少し上よ。片側パンダにならなくて良かったわね」
二十代後半と思しきその保険医は、楽しそうにそう言った。
「片側パンダって……、もうこんな時間か」
壁に掛けられている時計に目を遣り、もう既に放課後になっている事に気付く。
そっと額に手を当てる。
湿布越しにくっきりとコブが隆起しているのが分かる。
あの時、ピッチャーの千倉の身体がブラインドになって、友和は江藤のライナーを諸に食らったのだ。
(見えなかったな……。しかしソフトボールで倒れるなんて、格好悪いな……)
心の中で呟く友和だったが、もう少し真剣にやっていればと思わないでもない。殆ど事故のようなものだったのだ。
しかし、何となく江藤とは顔を合わせ難い感じだ。崎山や千倉と連れ立って謝りに来た直後という事もある。
何て言ってくるだろうか。普通に謝るのか、それとも友和のドジを責めるのか。
しかし、友和自身どう言ってこようとあまり気にするつもりもなかった。
それよりも、いい加減このベッドに寝ている事もないだろう。確かに額にコブが出来ているが、ソフトボールだった事が幸いして、それ程大きな怪我ではなさそうだ。もしこれが硬式の野球ボールだったら、保健室ではなく本当に病院送りになっていたかもしれない。
「どう? まだ痛むかしら。頭とかふらつく?」
「いえ、それ程でもないです。ありがとうございました」
友和が応えて、ベッドから身を起こす。一瞬、ずきん、と頭に響く痛みが走ったが、直ぐに引いていった。
「起き上がれる? まあ、ソフトボールだし当たった所もおでこだったから、そんなに気にはしていないけれどね。でも、もしも痛みが残るようだったら、絶対に病院に行くのよ」
「はい、分かりました」
友和がベッドの脇に丁寧に揃えられている内履きを履く。
(誰が俺の内履きを揃えたのだろう?)
友和がぼんやりとそんな事を考えていると、背凭れ付きの回転する椅子に座って足を組んでいる保険医がふっと笑った。
何だか気になったので彼女の顔を見詰めると、保険医は笑みを深くした。
「君って、冷たそうな雰囲気の割に結構人気あるのねえ。君を運んできた男の子達が、心配だからって授業が終わってから見に来たんだけど、その時、一緒に女の子のグループも来たわ。しかも、私がこの学校では見た事もない奇麗な女の子もね」
(館林が?)
友和は保険医の「学校で見た事もない奇麗な女の子」という言葉を聞いた瞬間、脳裏に館林さゆの姿が思い浮かんでいた。
「あの子が噂の美少女転校生かしら?」
保険医が楽しそうに言う。
(来たのか、あいつ……)
友和の想像が確信に変わると同時に、少し困惑した。
昼食の時は右脛を蹴られた記憶がまだ新しい友和にとって、彼女が自分を見舞いに現れるというのは、ちょっと結び付かなかった。
(まあ、キャラ作りだろうけどな……)
ちょっと意地悪な結論に達した友和は口許に苦笑を浮かべて、腰掛けていたベッドから立ち上がる。
「あ、待って待って。確かここに」
保険医はそう言って、友和の隣のベッドから、「よっと!」という掛け声と共に見覚えのある鞄とコートを掴み上げた。
「君のでしょう。男の子達が持って来てくれたのよ。教室まで取りに戻るのも面倒だろうしってね」
友和は保険医から江藤達の厚意を受け取ると、
「それじゃ、ありがとうございました」
礼を言って、保健室を後にした。
その夜。
友和は自室で、今日の授業で数学の教師から出された課題をこなすために机に向かっていた。
友和が家に帰って来ると、居間にいた亜紀子はその額に張られている湿布薬を見て「あらあら、友君。まあまあ、どうしたのかしらそのおでこ?」とおっとり口調で訊ねてきた。
友和が体育の時間に起こった事を話すと、笑顔を浮かべたまま翌日病院に行って検査する事を約束させられた。
「大丈夫だから。そんなに心配する事ないよ」
友和はそう言ったが、部活から帰って来た中学二年生の由季奈が、友和の姿を見るなり大騒ぎを始めたので、もう明日は病院に行くしかなかった。
(言い出すと聞かないからな、二人とも)
一人冷静な友和は心の中で呟くと、ちらりと目覚し時計に目を向ける。
もうすぐ十一時になろうとしていた。
明日は病院に行かなければならないから、そろそろ寝ようかと思う。
ノートに綴っていた計算式を終わらせると、友和は椅子に座ったまま伸びをした。
再度、時計を見る。
昨夜の今頃は公園で館林さゆと会っていたな、と友和は思う。
今夜ももしかしたら、あの少女は公園にいるのだろうか。
寒空の下、公園に一人佇む館林さゆの姿が友和の脳裏を掠め、心の中がざわついた。
それから何気なく友和は、自分の右瞼の上にあるコブに触れる。
この事がなかったら、友和は今夜も公園に行ったのだろうか。
思わず自問する友和だったが、それ以上に頭の中を埋め尽くしている事があった。
「見えなかったな……、本当に見えなかった……」
体育の時間、飛んで来た江藤のライナーを、友和は全く見えなかった。
千倉の身体がブラインドになったとか、そういう事で見えなかったのではない。
湿布薬の上からコブを擦っている友和の指が、徐々に下がり始め、眉毛から右瞼、そして眼球へと至る。
友和は暫く無言だったが、やがて疲れたように吐息すると、椅子から立って寝巻きに着替え始めた。
それから室内灯のフックから下がっている紐に指を掛けようとした時、こん、とカーテンを引いた窓の向こうから音がした。
友和がそちらに顔を向ける。
窓には厚みのあるカーテンがかかっており、当然外の様子は見えない。
すると、もう一度窓ガラスの方から音がした。今度は、少し感情が篭った、こん、だった。
「何だ?」
紐に掛けていた手を下ろし、カーテンに向かう。縁を掴んで一気に開けると――そこには窓ガラス一枚隔ててふわりふわりと宙に浮ぶ女子高生、館林さゆがいた。
「――ぅうおわああ!」
完璧に不意を突かれた事で、友和は喉の奥から叫び声を上げていた。
すると館林の方も友和の叫喚に驚いたようで、窓ガラス一枚隔てた向こうで眼を見開き、口許に人差し指を当てて「シーッ!」という仕草をする。
「いやいやそういう問題じゃないぞ!」
半ば混乱している友和が窓に手をかけようとして、ロックされている事に気付き錠を外した時、
「友くーん、夜中に大声出しちゃ、近所めーわくでしょー」
間延びした声と共に友和の部屋のドアが開けられて亜紀子――直立したキツネの姿が描かれている奇怪なパジャマ姿――が現われた。更に続いて、
「だからって、友兄の部屋にいきなり入るのはバッテンマーク! ちょ、ちょっとお母さんってば!」
亜紀子と似たような寝巻き姿――こちらは子ギツネのパジャマ姿――をした由季奈が入ってくる。
並んで立つと、成る程人間の親子とキツネの親子が勢揃いしている。ただ亜紀子のパジャマが胸の部分だけ異様に膨らんでいる影響で、キツネだか何だか分からない生物になっていたが。
亜紀子の長い髪と由季奈の短めの髪が共に湿っているのは、風呂に入った後だからか。
だが、友和にとってそんな事はどうでも良かった。
今はともかく窓だけは死守しなければ、と妙な使命感に芽生えた友和はカーテンの存在を思い出し、一気に引いて窓の外を見えないようにする。
「何してるの友兄?」
友和が部屋のカーテンに貼り付いている姿を見て、由季奈が不審そうな顔をする。
「ピーターパンになりたいのなら、夢の中だけにしてね」
結構辛らつな事を言われたような気がする。
しかし、どうやら館林の姿は見られていないようだ。
ほっと安堵したのも束の間、何やら母娘二人が今度は友和の部屋を物色しているのが見えた。
「ななな、何やってんだよ!」
思わず声を上げる友和に、
「だって友君、内緒でやると怒るじゃない?」
放りっぱなしの週刊のヤング系漫画雑誌をひっくり返し、しれっとそんな事を言う亜紀子。と、漫画雑誌の表紙を飾っている季節無視の水着姿のグラビアアイドルに「あら、こんな時期に大変ねえ」と一言。
友和は猛烈な恥ずかしさを覚えた。
「内緒でもなくても、勝手に人の部屋を漁るなよ!」
袋閉じのチェックまでされてはかなわないと、友和は亜紀子の手から漫画雑誌をひったくる。
「もーう、乱暴ねえ。だけど、年頃の男の子の実態をある程度理解しておかないとね。これも義務義務」
そんな事言いながら、どう見てもいかがわしい雑誌が隠されていそうな場所をピンポイントでチェックして行く亜紀子。流石にベッドの回りをうろうろされた時には冷や汗が出た。
「プライバシーってものがあるだろ!」
カーテンを死守しているのでそちら側に行く事が出来ない友和は、今にも気が狂いそうだった。
「その前に友兄、冬だからってちゃんと換気してよね。この部屋、男臭過ぎる!」
と、由季奈がこちらにやって来て、引いたカーテンを開けようとする。
「わ、分かった! 掃除でも何でもするから、早く部屋から出て行ってくれよ!」
こちらに迫って来た由季奈の肩を掴んでぐるっと半回転させ、亜紀子の方に突き飛ばす。
亜紀子は「きゃ、家庭内暴力反対―」とか言いながら、一向に崩れないモデル顔負けのボディをクッションにして、由季奈を危うげなくキャッチ。
「ほらほら、さっさと退散する。勉強の邪魔だから」
犬を追い払うように、しっしと手で仕草をする友和。
「ひどーい。そんな態度をとるんだったら、明日の朝ご飯作ってあげないんだから」
瞬間、友和の腹の虫が抗議の声を上げたような気がしたが、今は明日の朝食よりも窓の向こうの方が気になった。
「お母さん、言った事は必ず実行する人だからね。後悔しても遅いから」
由季奈がジト目でこちらを睨んでくる。
「あ、朝飯の脅迫ぐらいで俺は屈しないからな。ほら、本当に勉強の邪魔だから、すぐに俺の部屋から出て行ってくれ」
こっちも本気という事が分かったのか、亜紀子と由季奈が二人してぶーっと頬を膨らませて友和の部屋を出ると、ドアを閉める。
何故だかひどく疲労していて、友和は額に浮いた汗を拭う。
二人の足音が確実に遠ざかったのを確認してから、友和はのろのろとした動作でカーテンに向かい、ゆっくりと開ける。
そこには、ちょっと困惑気味な様子の館林さゆが浮んでいた。
錠は先程自分で外していたので、縁に手を掛ければすんなりと窓は開いた。
室内に入り込んできた真冬の夜の冷気が、友和の頭を幾分覚醒させてくれた。
「……それで、これはどういう事なんだ?」
額に当たる冷気を心地良く思いながら、館林を見上げる友和。
「それよりも、ちょっと入れてくれないかしら? いい加減寒くてたまらないから」
頬を冬の夜気で赤くして、館林は白い息をはいている。
「……まあ良いや。どうぞ」
友和としては言いたい事は多々あったが、このまま館林を門前払いする訳にもいかない気がした。
友和が一歩身を引くと、
「それじゃ、ちょっとお邪魔します……」
館林は小声でそう言うと、ゆっくりと友和の部屋に入って来た。無論、浮いたままで。
人一人が六畳一間の空間に浮んでいるというアンバランスさに、友和は絶句しかけたが、
「……待ってろ。今何か持って来るから。それと、部屋の中で浮くのは自重してくれ」
そう行って部屋を出て行こうとした。
「分かったわ」
館林の声を聞いてから友和はドアを閉めようとして、自分がずっと漫画雑誌を握り締めたままだった事に気が付き、ベッドの上に放り投げてから一階のキッチンに向かった。
取り敢えず、紅茶が入ったカップを二つとクッキーと煎餅を調達して部屋に戻ると、館林は部屋の隅で脱いだ靴を手にしたまま立っていた。
「何をしているんだ?」
そういって自分のベッドの上に紅茶とお菓子を載せた盆を置き、コップを一つ手に取って勉強机の椅子に座る。
「だって、何処に座れば良いか分からないから……」
両手に左右の靴を持ったまま、戸惑いの表情を浮かべている館林。
「そうだな……、まず靴はベランダに置いて、館林はベッドの上にでも座っていてくれ」
「うん……」
指示通りにベランダに靴を置いた館林は、友和のベッドにちょこんと腰掛ける。
「はい」
「あ、有難う」
友和がベッドに置いた盆から紅茶のコップを取って、館林に手渡す。
館林はそれを受け取ると、かじかんだ両指を温めるように両の手で包むように持つ。
コップから立ち昇る湯気の向こうにある館林の顔を何となく見ながら、友和は紅茶を一口飲んだ。熱さが喉の奥に流れていって、心地良い軌跡を残す。
「きれいなお母さんと妹さんね」
館林が湯気の向こうからそう言い、コップを傾けて紅茶を飲んだ。
「見えてたのか?」
「……うん、カーテンの端から少し部屋の中が見えてた。宇木君のお母さん、凄いのね」
「凄いって、何が?」
「……スタイル……。……胸、凄く大きい」
零すように、館林は言った。
友和は飲んでいた紅茶を吹き出しそうになった。
これは返答に困った。
確かに、亜紀子は子持ちだがまだ三十代――因みに一桁の数字を確かめようとすると笑顔で食事を減らされる――で、確かに出る所はやたら出ている身体なのだろうがそれが……色々考えて頭の中がとんでもない事になったので強制的に脳内から却下。
「それに妹さんも可愛らしいし。きっと大きくなったら宇木君のお母さんみたいに」
そう言って、館林が目を伏せる。その先にはベッドに放り投げた漫画雑誌の表紙グラビアがあった。
グラビアアイドルの肢体に注がれる館林の眼光が、冷たく鋭さを増したように思えた。
確かに館林は小柄な上に、同年代の女子と見比べても身体のメリハリが貧し――ぎらん、と効果音でも付きそうな物凄い眼差しが友和の横顔に突き刺さった。
これは早急に話題を変えなければ、と友和は判断。
「な、なあ、お前どうして俺の家に来たんだ? いや、それよりもどうして俺の家の場所を知ってるんだ?」
「……着けた」
ちょっとの間、友和は呼吸をするのを忘れた。
ひゅー、と変な口笛のような音と共に空気を吸い込み、友和は咳き込んだ。
「げほげほっ、つ、着けたって……それ、かなり怖いぞ。軽くストーカーだ」
「す、ストーカーだなんて、違うわよ。昨日の夜、宇木君が帰って行く方向と私の帰る方向が同じだっただけで、わ、私だって着けたくて着けたんだじゃないわよ。そ、そうね、言い方が悪かったわ。上から見てて覚えた。これでどうかしら?」
あまり実態は変わらない気がする。だが、これ以上引っ張るような話題ではなさそうだ。友和は再度話を方向転換させる。
「館林は、今夜もあの公園にいたのか?」
友和がそう言うと、我が意を得たとばかりに館林が身を乗り出した。
「そうよ。でも、今夜は来なかったわね、宇木君」
「い、いや、今日はまあ、この事もあったしな」
友和はそう言って、自分の額に張られている湿布薬を指差した。
「そうだろうと思ってた。だから、その……お、お見舞いに……」
急に声のトーンを落とすと、館林はもじもじしながら言った。
「へ?」
意表を突かれたような、ちょっと間の抜けた顔になる友和。
「み、見舞いって、少し時間を考えろよな……。まあ、こぶにはなってるけど、頭が痛いとかふらつくとかそういうのはないから、多分、大した事は無いさ」
「そう……」
館林が引き結んだ口唇から僅かに吐息をこぼすと、胸の前で小さく手を組んだ。
随分小さな手だと、友和は感じた。昨日の今頃は、あの手を握って友和は夜の空を泳いでいたのだ。
「宇木君が倒れたって聞いて、休み時間にみんなで保健室行ったんだけど、宇木君寝てるって言われたから、そのまま戻って来たの」
「そうみたいだな。保険医の人に聞いた」
「……それに、お昼休みの時、宇木君が急に行っちゃうから……」
「ああ……、あれは、何でもない」
「本当に? あの時の宇木君、凄く怖い顔をしていたわ。宇木君の肩を掴んだ身体の大きい人、顔が真っ青だったし……」
友和は頭を掻いた。正直、もうあの時の事は思い出したくない。
「もう済んだ事だ。それに、あの後直ぐに仲直りしたんだよ……」
「そう……」
心配そうな顔をしている館林を見て、友和は言葉を続けた。
「あいつらは気の良い連中だよ。咲倉高校に転校してからずっと、一人だった俺にわざわざ話しかけて来たぐらいだからな」
「宇木君、一人だったの?」
館林のうっすらと紅色を帯びている瞳が、友和に向けられる。友和は、彼女の眼を真っ直ぐに見詰めながら、
「一人だった。友達も、作ろうとは思わなかった」
「どうして? 辛かったり寂しかったりしないの?」
「辛いとか寂しいとか思う前に、俺は……」
館林を前にして口を開きながら、友和の思念が己の内面世界のある場所で立ち止まった。
ここだ。
乾いた風が常に吹いている大地の上に、高く高くそそり立つ壁があった。
近付いて手を触れると、冷たい岩肌の感触がリアルに手の平に返って来る。
圧倒的な存在感を持った壁が、友和の行く手を阻んでいる。
思念上の友和は暫くの間、天辺が霞んで見えないほどの高さにある壁を眺めた後、踵を返し――
「館林は、どうなんだ? 人とは違う力を持っていて、友達は作れたのか?」
六畳一間にいる友和は、逆に問い返していた。
館林が、胸に手を当てた。
その行為は、友和の発した質問の穂先から自分の心臓を守ろうとしているかのように見えた。
館林が、小さく笑う。
「ちょっと痛い所、突かれたわ。私だって、宇木君の事言えないし。友達は作れたけど、私の本当の事を教えられる訳もない。そういう意味じゃ、本当の友達は一人もいないわ」
「そうか」
「うん」
友和と館林は、二人とも目線を逸らせた。
室内に、重苦しい沈黙が降りた。
その時間は、どれ程あったのか。
しかし、暗闇に浮かぶ星達が、何万光年という距離があろうとも互いの光を頼りに惹かれ合うように、
「――でも」
「――でも」
顔を上げ、友和と館林の口から出た言葉は、ぴたりと重なった。
びっくりする程声が重なった事に、思わずお互いの顔を見合う友和と館林。
それから、二人は照れたような可笑しいような、笑顔になった。
「お先にどうぞ」
友和が言う。
「宇木君からどうぞ」
館林が譲る。
「いやいや、館林からどうぞ」
「私は良いわ。宇木君の方が早かったし」
「そんな事はない。俺よりも館林の方がコンマの世界で早かった」
「どうやって計ったのよ? もう、女の子を急かさないでよね」
そう言って館林は更に笑った。
つられて友和も笑う。
結局、二人はその先の言葉を口にせず、そのままだらだらと世間話に興じた。
ふと気が付くと、時計の針は既に一時を回っていた。
「明日、病院に行かなければならないんだったな。もう寝ないと」
「病院? 宇木君、大した事ないって」
館林の表情が急に暗くなった。
友和は手の平を館林の方に向けて左右に振って見せた。
「違う違う。ちょっと医者に診てもらうだけだから。そうしないと、二人ともうるさいんだよ」
「そう……。うん、ちゃんと診てもらった方が良いわね。でも、学校は?」
「遅刻だな。休むって程じゃないし」
「分かったわ。それじゃ、明日学校でね。それから、紅茶ご馳走様」
そう言って、館林は立ち上がると窓の方に行って、がらりと開けた。
途端に、冬の夜気が室内に入り込んで来る。
思わず身震いした友和に、館林は笑顔を向けた。
「これぐらいの冷たさで震え上がっていると、雪の夜なんて泳げないわよ?」
「そんな日でも泳ぐのかよ! 風邪引くぞ」
「牡丹雪の時は服が直ぐに凍っちゃって流石に控えるけど、粉雪の時は泳ぐわ。暗い夜の空に銀色の雪が舞い降りて行くの。とても寒いけど、とてもとても奇麗なのよ」
「はいはい。俺は部屋の中から見てるだけで十分だけどな」
「勿体無いわ。きっと宇木君も気に入るわよ」
「おい! 俺を連れ出す気かよ!」
しかし、館林は笑ったまま応えずに、ふらりと音もなく浮き上がると、窓からその向こうの夜の世界へと舞い上がった。
友和は開いたままの窓に近寄り、上を見上げると、夜空の中に館林の姿があった。こちらに小さく手を振っている。
「早く帰れよな。誰かに見つかるぞ」
そう呟いて、友和も小さく手を振る。
それが見えたのか、館林はまるでイルカのようなしなやかさで身を翻らせると、夜の空を泳いで行った。
「また、明日な。館林」
館林が消えて行った先を暫く見詰めていた友和が、そう呟いて窓を閉めた。
「さて、寝るか」
今度こそ室内の照明を消そうとした時、友和は不意に誰かに呼ばれたような気がして振り返った。
目線の先には、今自分が閉めたはずの窓があった。
違う。
呼ばれたのは現実の友和ではなく、心の中にいる友和だ。
荒涼とした大地に立つ思念上の友和は、背後を振り返った。
そこには、遥か上空にまで聳える堅牢な壁が圧倒的な存在感であった。
友和は耳を澄ませる。
確かに声が聞こえたのだ。
また聞こえた。自分を呼ぶ声が。
友和が、耳と唯一の眼を頼りに声の出所を探す。
見付けた。
声は、巨大な壁の更に上から、ここからではマッチ棒の先端ぐらいにしか見えない小さな影から発せられていた。
しかし、友和はその影が誰なのかを知っている。
何故なら、その影は制服姿で、ひらひらと靡くスカートを穿いていたのだから。
文章の不明瞭な部分を修正しました。




