動揺
生まれて初めて夜空を泳ぐという経験をした友和は、帰宅してすぐに寝床に入ったがなかなか眠りに付けず、ようやく瞼が重くなったのは深夜の二時を過ぎていた。
そんな訳だから睡眠時間が足りていない友和の起床はぐずぐずしたもので、その結果、亜紀子に怖い笑顔で送り出されたのは始業時間から後一時間もなかった。
寝不足と無理やり朝食を詰め込んだ胃袋にひぃひぃ言いながら、どうにか滑り込むようにして高校に到着。そこから教室までの道のりは、友和が転校して以来今までで最も長く感じられた。
一人死に掛けの病人のようなテンションで教室に入ってきた友和に、クラスメイト達は皆唖然とした様子だったが、江藤、崎山、千倉の三人が「どうしたんだ?」と声を掛けながらこっちに集まって来た。
荒い息を整えながら自分の席についた友和は、教科書やらノートやらを机の中に突っ込みながら、
「あ、いや、少し寝坊しただけだよ」
そう答えたが、三人は友和の机から離れようとはしなかった。
「……どうして俺の所に集ってるんだ?」
何か不審なものを感じた友和が、三人の顔を見回す。
だが、三人は互いに目配せをしているばかりで口を開こうとしない。
友和の中で不審の根がみるみる太く大きくなっていく。
と、その最中に、ガラリ、と教室の扉が引かれる音がした。そして、見ようとした訳でもないのに、視界の端に映った長い黒髪だけでそれが誰なのかを友和は認めた。
館林さゆ、だった。
館林は、昨日と同じように幾分緊張をはらんだ表情で、指定された座席へと向かう。
背丈の関係で、館林の席が一番前から一つ後ろだったという事を、友和は改めて知った。
そして、彼女が椅子に着席した途端、昨日の昼食時に一緒にいた女子数名がきゃあきゃあと賑やかそうな声を上げて回りを囲む。シチュエーションとしては、友和と館林の状況は良く似ていた。もっとも、こちらはあまり嬉しい状態ではないが。
しかし、友和はそんな事よりも、一瞬にして昨夜――正確には今朝の午前零時頃――の館林さゆの姿と今の彼女と透かし合わせていた。
あの時の館林は怖いもの知らずと言うか、何に対しても負ける訳がないと思わせる程の強さがあったのだが、今の彼女は普通に転入二日目の普通の転校生に見えた。
「何だよ、普通じゃないかよ……」
思わず口から零れた友和の独り言に、江藤達が色めき立つ。
いきなりヘッドロックされた。
誰だ!? この首に回された太い腕は!?
「んー、どうした宇木ぃ?」
崎山が漲る豪腕で、友和を締め上げていた。
「な、なな、何するんだよ!」
強引にそれを引っぺがす友和。
すると、崎山他、江藤も千倉もにやにやと笑っている。
「その顔、何だよ三人とも」
「いやー」
「別にー」
「それ程でもー」
何故か頭を掻く三人。
「いや、褒めてないし……」
驚くよりも呆れる方が先に来た友和は、調度ホームルームのチャイムも鳴った事もあって江藤達を追い払う。
その時、誰かの視線を感じてちらりと顔を向けた先は、館林の机だった。
そして館林が、何か言いたそうな顔でこちらを見ているのだった。
友和の目線に気付くと、慌てたように顔を逸らす。その動作で、明らかに友和を見ていた事が分かった。
途端に、あの夜の空を泳いだ時の感覚が友和の身の内に甦ってくる。
不確かな足場の先にはただただ虚空があるばかり。そして、その底には何千もの人々が眠りについた街並みが、闇の中常夜灯によって仄暗く照らし出されている。頬を過ぎ去る風は切るように冷たかったが、心臓がシンバルのように鳴り響き、興奮と感動で全身の血管が沸き立っている。
そして、友和の右手の先には、館林の小さくて柔らかい手の感触があった。
と、その時ホームルーム担当の相坂が教室に現れたので、友和は記憶を想起する事をシャットダウンした。
相坂が教壇の後ろに立って、再び行われる模擬テストの事を口にしているのを聞き流しながら友和は、館林と話したい――そう思うのだった。
友和の思い通り、館林と話を出来る機会は昼食の時間に訪れた。
もっとも、あの夜のように二人きりという訳ではなく、どうしてか江藤、崎山、千倉の三人もいた。更に、館林の方も直ぐに仲良しになった女子達と一緒だった。
つまり、今の状況は、友和含む男子四人と館林含む女子四人がテーブルを挟んで正対しているという、随分昔にテレビで放送していた素人公募のカップル製造番組のようだった。
最初に「お互い転校生同士だし」と妙な前置きが置かれて友和と館林が咲倉高校の感想とか一年の抱負とか、そんな訳の分からない事を言わされた後、駄弁りタイムとなった。
何でこうなったんだと首を傾げている友和のお隣三席では、江藤達が館林他女子生徒グループにあれやこれや話しかけている。時々、友和にも会話の話題が振られ、それに応える他は黙々と注文したカレーライスを口に運ぶという作業に没頭していた。
元々、友和はあまり親しくはない人間と喋る事が得意ではない。
江藤達にでさえそんなに会話をした事がないのに、一言も口をきいていない女子達に対して話をしようという気にはならなかった。
だが、カレーライスを黙々と食しながら、友和は昨夜の事を振り返った。
夜空を泳ぐという館林さゆに対して、友和は何の気後れもせずに会話していた。それも、館林自身が驚くぐらいに全く平然として。
あの時の館林と、今、テーブルを挟んで目の前にいる館林が、友和の眼には同一には見えなかった。当の館林は、一応会話に参加しているのか時折頷きを返しながら、ちゅるちゅると蕎麦を食べている。
館林ぐらいの美少女が蕎麦の麺を箸で数本摘み、口の中に入れてゆく様子は、ちょっと見物だった。
友和が何となく館林の方を見ていると、彼女が上目遣いに友和を見た。
何か言いたそうな眼をしていたが、友和は「これってどういう訳?」と語っていた。ような気がしたではない。語っているのだ。友和は、そう理解した。
友和は、館林に出会って一日――厳密に言えばその前日の夜から――しか経っていなかったが、何となく彼女の考えている事が分かった。
しかし、友和から親しげに館林に語りかけるかというと、そうでもない。
館林が、教室内では控えめな女子生徒というキャラクターを作っているからだ。
昨夜の無双なまでの振り回しっぷりから、館林のそれはもう完璧な猫被りだと一目瞭然なのだが、彼女がそうしたいのだから敢えて乱す必要もない、と友和は認識している。
その筈なのだが……。
(俺だって知りたいよ)
コップに汲んできた水を一口飲んでから、友和はアイコンタクトで応えた。
レンゲできつねソバのスープを掬い、くいっと口内に流し込んでから「私、騒々しいの苦手なのよ」という言葉を込めて、ちらりとこちらを見る館林。
不思議と成立する視線だけの会話。
友和は驚嘆の念を禁じえなかったが、眼による会話キャッチボールを続ける。
(俺だって苦手だ)
友和は、一瞬だけ館林の方に顔を上げてから、皿の縁のルーをスプーンで一つにまとめていく。
館林が薄い油揚げの端を箸で摘むと、小さく噛み付いてからぎょろっと眼だけ動かして「どうして断らなかったのよ!」と訴えた。
剛速球が来た。
(……俺だって、無理やり引っ張り込まれたんだ)
頬杖をついて何気ない風を装って横目で応え、更に詰問した友和は意味もなく残った白いご飯の山をカレー色に染め上げる。
油揚げを食べ終えた館林は、そっとどんぶりの中身を箸で掻き回した後に「だったらしっかり断りなさいよ! 私が迷惑するでしょ!」と、バットを圧し折りかねない物凄いものを二球続けて放った。その上、横にいる女子生徒に向かって適度なタイミングで相槌を打つ事で、友和の眼光を防ぐ。更に、友和以外の男子三人にはあまり会話に加わってなくて申し訳ないとばかりに、はにかんだ笑顔を振舞ったりしている。
舞い上がっているのが分かりまくりの江藤、崎山、千倉のおばかトリオ。
友和自身、館林さゆの真の姿を知らずにさっきの笑顔を見せられたら、連中みたいに顔に出さなくとも、内心では彼女に対してぐっと来ていたかもしれない。
そうなった自分を想像した友和は、ぷるぷると首を振って即座に打ち消すと、自棄になったように残りのカレーライスを口の中に流し込んだ。それから不味い物でも食べているかのようにしかめ面になって咀嚼しながら、館林の猫被りスマイル一発でデレデレになった異色トリオを見遣る。
(全く、お前らもあいつの正体を知れば、そんな顔をしていられないぜ? 何しろ、人を何百メートルって高さまで引っ張った挙句、びゅんびゅん振り回すような凶悪女――)
瞬間、ごん! と身体の内側に響くような音と共に、友和の右脚の脛に激痛が走った。同時に目の前に無数の星が散り、口にしていた物を吹き出しそうになる。
咄嗟に口許を両手で押さえる友和。
食べていた物を吐き出しそうになる衝動を必死で抑え込み、脛の痛みに涙目になりながらもコップの水をがぶ飲みする。
何とか大惨事を起こす事もなく、やっとの思いで口の中の物を胃袋に収め、痛む脛を手で擦っていると、
「あ、ご、ごめんなさい。私の出した足、宇木君に当たっちゃったみたい……」
申し訳なさそうな声を出して、館林が殊勝に頭を下げた。
(こいつ、わざと蹴りやがったな!)
友和が眼で訴えると、自分の失態が恥ずかしくて顔を両手で隠している――ように見せている両手の隙間から、ふっと笑みを浮かべた館林の眼が覗いた。
そして彼女の眼は、雄弁に「私の悪口、言ったでしょう?」と語っていた。
(思っただけだろうが!!)
友和が眉間に力を入れて睨むと、館林は小さく「きゃっ」と叫んで、顔を逸らした。
白々しいまでの演技に頭の中がカッとなった友和は、思わず立ち上がろうとしてテーブルに手を掛ける。
と、急に左肩を掴まれた。
「おいおい宇木、館林さん謝ったじゃんかよ。何でそんな怖い顔してんだよ。彼女、怖がっているじゃないか」
崎山が、その腕力を示すかのようにがっちりと友和の肩を掴んでいる。五本の指全てに圧力が掛かっている。相当な握力だ。力で勝負をしたら、絶対に勝てない相手だと友和は悟る。
そして、友和は我に返った。
何もかもが、急に馬鹿らしくなったのだ。
「……止めろよ、離せ」
ぞっとするような声が、友和の口から発せられた。
途端にテーブル上に冷たい空気が吹き荒れて、崎山が驚いたように友和の肩から手を離す。
友和は立ち上がるとトレイを持って、さっさと食器の回収所に向かった。
「宇木! ちょっと待てよ!」
後ろで江藤が大声を上げていたが、友和は決して振り返ろうとはしなかった。
昼食後の五時限目は、体育の時間でソフトボールだった。
最初からやる気のない友和は、外野でのんびりと時間が過ぎるのを待つ算段だったが、どういう訳か同じようにサボりたい奴が多く、ジャンケンの結果セカンドを任された。
「おらー! かかってこいやー!」
バッターボックスに立った江藤が奇声を上げている。
「全く、無駄に暑い奴だ」
呟いた友和は、セカンドベースに片足を乗せたまま、取り敢えずグラブを構える。
とても不味かった昼食の後、何故かあの異色トリオが友和に謝りに来た。無理やり誘った上に、友和が一人席を立った事を気まずく感じたようだ。
友和は面倒だったので、適当に彼らの謝罪を受け入れた。
元々、連中の魂胆が館林と接触するネタとして友和を利用したというのが最初から見え透いていたし、別にどうでも良かったのだ。
だが、友和の肩を掴んだ当の崎山が出過ぎた事をしたと再三謝って来たのには、何とも言えない気持ちになった。
面倒くさいし暑苦しいから「気にしてない」と一言言うと、「そうか!」と嬉しそうな顔をした。根は単純で、まあ良い奴のようだ。江藤や千倉も、初対面の時から明るい連中だと分かっていたし、嫌な印象は持っていなかった。
しかし、実際に友和は、彼らに接触される事が煩わしかった。
心の何処かで、彼ら、いやクラス中の生徒からの干渉を友和は嫌っていた。昨年に転校した当初からそうであった。
必要最低限の接触以外、友和は自ら積極的に人の輪に加わろうとはしなかったし、その必要もないと考えていた。
しかし、館林さゆが現れた事によって、友和は自分の内面が変ってきているのを知った。
非現実を見せ付けられた事で、逆に友和の現実感が真実味を帯びたのだ。
館林の眼を見た瞬間に、自分の見ている世界と本当の世界とが合致した事は紛れもない事実なのだと、友和は実感した。
その時、キャッチャー役の崎山が、
「宇木―! しっかり構えろ!」
と、大声を上げた。
びっくりしてキャッチャーの方を見ると、崎山がばしんばしんとグラブに拳を叩き込んでいる。更に、バッターボックスの江藤や、ピッチャーマウンドに立つ千倉が笑っている。
嫌な感じのしない、心が温かくなるような笑顔だった。
「ふん、分かったよ」
セカンドベースに乗せていた足を下ろすと、一応中腰になって構える。
と、それを待っていたように千倉がホームベースの方を向き、ぐん、と腕を撓らせて結構様になっているソフトボール独特の投球フォームを行った。
一瞬、真剣な顔になった江藤が、野球部らしいシャープなスイングをする。
ぶうん、と空振り音が唸り、ボールがキャッチャーのグラブに吸い込まれた。
野球とソフトボールでは球速が違い過ぎたのだろう、完全にスイングのタイミングが違っている。
野球部員を相手にストライクを取った事で、友和のチームからどよめきが上がった。
江藤が少しバッターボックスから離れると、先程の投球を思い出しているのかぶつぶつ呟きながら数回素振りをした。
江藤がバッターボックスに戻るのを待って、再び千倉が投球フォームを取る。
第二投目が投げられ、それは真っ直ぐにキャッチャーのミットに吸い込まれた。
再びどよめき。
江藤が見送ったボールはストライクのカウントがされたのだ。
江藤を追い込んだ形だった。
思わず抗議をする江藤だが、審判役を務める体育教師は、早くバッターボックスに戻れと顎をしゃくっている。判定が覆る事はなさそうだった。
渋々江藤がホームベースの横に立った。真っ直ぐに前を見据える眼は本気だった。
千倉が三球目を投じる。
江藤が、バットを振った。
ぱかん、と何だか間の抜けた音がしたかと思うと、ピッチャーマウンドにいた千倉が突然仰け反った。
何だ? と友和が訝った瞬間、視界が暗転した。
右瞼の少し上の辺りに赤黒い衝撃が走ると同時に、自分の足元が暗闇に飲み込まれたかのように重心を失う。
骨が無くなったみたいに膝がぐにゃりと曲がる。
江藤のライナーを顔に食らったのだと理解した時には、誰かの叫ぶ声が遠くに聞こえていて、遂にはその声も聞こえなくなった。
友和は完全に意識を失った。




