夜空への招待
その日の深夜、咲倉市はビロードに包まれたような静寂に満ちていた。
宇木友和は、またも興味本位であそこの公園に向かっていた。
果たして、そこには館林さゆがいた。
「よう」
友和が手を上げると、館林は少し驚いた顔で振り返った。今日は、まだ空中に浮かんではいない。
「また、私がいると思って来た訳?」
窺うような表情で言う館林に、
「いや、昨日の夜と同じで、綺麗な夜空だと思ってさ。散歩の途中に寄っただけ……それだけで寒くないのか?」
逆に友和が訊ねる。
確かに、館林の恰好はハーフコートを上に羽織っているだけで、コートの裾から覗いている素足が寒そうだった。
「着込むと上手く泳げないのよ。私だって寒いわ」
「そういうものなのか。まあ、これやるよ。まだ熱いから気をつけてな」
友和はそう言うと、コートのポケットから缶コーヒーを取り出して館林に手渡す。
「何これ?」
慎重に両手で缶コーヒーを受け取った館林が、子どもっぽい顔になる。
「いや、寒いだろうから」
「あなたの分は?」
「ここにある」
友和は、もう片方のポケットから二本目の缶コーヒーを取り出す。
苦笑する館林。
「用意が良いっていうか……もし私がいなかったら、一本余るじゃない」
「いや、自動販売機で当たりが出たんだ。そもそも、もう一本は持って帰るつもりだったし」
「……そうなの?」
「うん」
館林が何か言いたそうな顔をしたが構わずに、友和は近くにあったベンチに腰掛けてプルトップを開ける。
飲み口からコーヒーの芳しい香りが湯気と共に立ちのぼる。
口を付けようとすると、館林も手にしている缶コーヒーを開けたのか、カコッという音を聞いた。
そちらに顔を向けると、館林が缶コーヒーを一口飲んでいる最中だった。
こくり、と白い喉を動かしてコーヒーを飲み込んだ後、「ほうっ」と白い息をついた。
「美味しい……」
まるで感銘を受けたような口調で館林が呟いたので、友和は照れ臭くなってしまった。
「おいおい、只の缶コーヒーだぜ。一個百二十円の」
「私が美味しいと言ったんだから美味しいのよ。……普段、缶コーヒーなんて買った事なかったから、ちょっとびっくりだわ」
館林は味わうように缶コーヒーを飲んでいる。
「それはどうも」
友和も缶コーヒーを口に含み、熱い液体を飲み込む。喉から食道、胃へと熱く黒いカフェインの塊が滑り落ちて行って、何とも言えない至福を体の芯に齎してくれる。
確かに、この缶コーヒーは友和もお気に入りだ。
それも、今夜のように凍て付いた夜中に、星空を見上げている時にはたまらないものがある。
煌く真珠を散りばめたような星空を見上げていると、横に館林が座った。
視界の端に、館林の吐息が白くけぶっている。
気にせずに缶コーヒーの残りを飲んでいると、
「宇木君は、私の事を聞かないのね」
そう言った。
友和は横を振り返らずに、
「聞いたら教えてくれるものなのか、そういうのって」
最後のコーヒーを飲み干した後、訊ねた。
「いいえ。普通はしない……いや、絶対にしないわ」
「だろ。だから、聞かない」
「……私の事、おかしいと思わないの? 宙に浮かぶのよ? 空を飛ぶのよ?」
「泳ぐ、だろ。そう言い正さなかったっけか?」
「……そう、ね。私は、夜の空を泳ぐ一族……」
館林の方を向いた友和の口に、自然と笑みが浮かんだ。
「なら、それで良いじゃないか。館林は夜の空を泳ぐ一族ってやつで、俺は大地を歩く人間の一族。異種族同士、仲良くやろうぜ」
何の気負いもなくそう言い放った友和を見上げる館林の顔に、衝撃の波紋が走ったかに見えた。が、それも一瞬で彼女はきゅっ、と手にしている缶コーヒーを握ると俯いた。
「館林?」
「そんな事言われたの、初めてよ……。そう、ね……宇木君には特別に、この缶コーヒーの分だけ、私の事を教えてあげても良いわ」
缶コーヒーをベンチに置くと、館林は立ち上がって友和の方を向いた。
「良いのかよ? 掟とかしきたりとか、タブーとかあるんじゃないのか?」
「缶コーヒー一本分、たった百二十円だったら構わないわ」
そして、悪戯っぽく微笑んで、
「――私の凄さ、教えてあげるから」
そう言うと、友和の右手を取って――二人は夜の空を泳ぐ存在となった。
いきなりの浮揚感に、友和は激しく戸惑い、館林の手を強く握る。
「ちょっと痛いじゃない! 優しく掴みなさいよ」
「わ、悪い……」
ばつが悪そうに言いながらも、友和はさゆの華奢な手を両手で掴んでいる。
そうしなければ、既に高校の屋上程の高さにいる友和は怖くて仕方がなかったのだ。
立ち泳ぎをするかのように館林が左右の足を前後させる度に、みるみる高度が増して行く。平均的な男子高校生の体格の友和を片手一本で軽々と引っ張っている館林を見ると、腕力とは異なる別の力が働いているのだろう。
そして、ある程度の高さまで来ると、館林は脚を止めた。
「大体、これで地上二百メートルってところかしら。どう?」
「ど、どうって?」
半ば上擦った声で友和は応える。
友和の眼下に映る光景はまさに夜の鳥瞰図で、立ち並ぶ家々に灯る室内灯が、夜の咲倉市に映えている。友和達がいた公園は、見下ろすと名刺程の大きさでしかない。そもそも足元が不確かな事この上なく、この高さから落下した場合は間違いなく即死だという現実だけが、友和の頭をがんがんと揺さぶっている。
「感想を聞こうと思ったんだけれど、それどころじゃなさそうね。顔、凄い汗よ。でも、そんなに心配しなくてもそう落ちたりはしないから。私が手を離さない限りは――」
館林が口許に笑みを作って怖い事を言う。
咄嗟に館林の手と言わず、彼女の腕や身体に手を伸ばしそうになったが、どうにか自制した。今、宇木友和という人間の全権が館林さゆの片手にかかっている事は、紛れもない事実なのだから。この状況で彼女の不興を買う事は、間違いなく自殺行為だ。
「向こう側に行くわよ。ビルとビルの間を泳ぐのは、結構面白いわよ」
館林が指差した方角には、屋上部分に飛行機との接触を防ぐための赤色灯を灯したビル群があった。
友和としては、館林に従う他ない。
力無くこくんと頷いたが、館林の顔がにんまりと笑ったのを見えて、背筋に冷たい汗が伝う。
「それじゃ――」
「ま、待ってくれ、何か嫌な予感、――ぃうぅああああああああああああ!」
館林がまるで飛び込みを行う水泳選手のように身体を逆くの字状にすると、そのままがくんと急降下した。当然、手を繋いでいる友和諸共に。
咄嗟に眼鏡を外して左手に握る事が出来たのは、まさに奇跡だったと友和は後になって思うのだった。
館林が凄い勢いで地上へと垂直に降りて行く様は、イルカ等の海洋哺乳類が海中に急速潜行するかのようだったが、友和はそれを悠長に見ている余裕などない。
遊園地のフリーフォールを体感しているような落下感に友和の胃がでんぐり返る。抜群の加速によって空気が質量をもったように自分の顔をまとわりつきながら後頭部へと流れて行く感覚。先程トランプのカードぐらいにしか見えなかった公園が、見る間にその面積を拡大させて視界を覆う。
「! 前前!」
風圧によって友和の声は「びゃえびゃえ!」としか発せられなかったが、言おうとしている事は十分理解しているように館林が友和の方を見て、くすりと笑う。
常夜灯によって薄青白く照らされている公園、そして二人がついさっきまで座っていたベンチが目の前に迫る。
「ぶ、ぶつかっ!」
友和は自分がベンチに直撃して、血塗れの何が何だか分からない肉の塊になった姿を幻視した。
瞬間、ベンチに墜落する寸前に、館林はU字状に急上昇をした。
まるで精巧な機械細工のように一切の無駄のないドルフィンキックを行う館林に引っ張られる友和の目に、夜空に瞬く冬の星座群が飛び込んでくる。
ハリウッドの最新CG技術が紙芝居に思える程の一大スペクタクルに、友和の心臓が跳ね上がる。その鼓動が握り合った互いの手を通して伝わったのか、館林がこちらを振り返り、愛らしくも残酷に笑う。
友和は、今の自分は彼女の玩具なのだと痛感した。
友和と館林が高層ビル群の中でも最も高いビルの屋上に降り立ったのは、更に急上昇と急降下とループのジェットコースターを三回程繰り返した後だった。館林が言っていた「ビルとビルの間を泳ぐ」というのもやった。
夜の街に灯る光の群れの中から暗い空に向かってそそり立つビルは、まるで仄明るい海底に林立する黒い珊瑚の塔のようで、時折ビルの側面の窓ガラスに移る自分達の姿が幻惑するように浮び上がる様は、まるで夢幻のような心地がした――だろう。
換気扇のお化けのような排気ファンが並ぶビルの屋上に足が着いた途端、友和は崩れ落ちるように大の字に転がった。
ぜいぜいと荒い息をはきながら、次々と気持ち悪い汗がにじみ出る額を手の甲で拭う。
「そんなところで横になっていると、風邪ひくわよ」
汗一つ浮かべず余裕の表情でもっともな事を言う館林だったが、友和はそれどころではない。胃の中の物を吐き出さないのが不思議なぐらいにふらふらなのだ。
「お、俺、殺されるかと思った……」
息も絶え絶えに友和は呟くと、
「殺される? ああ、そういう手もあったわね。確かに、口封じには調度良いわね」
本気なのか冗談なのか、館林はそう呟くと、友和の頭の方にやって来た。
逆光のせいか館林の顔に影が差し込んでいたが、その中で二つの瞳が紅くなっているのが分かった。
一瞬どきっとしたが、夜に空を泳ぐ種族なのだから眼ぐらい赤くなってもおかしくない、と妙な所で友和は納得した。
「どう? 私の凄さが分かったかしら?」
友和は忙しく跳ね続けている心臓をどうにか宥めつつ、まだ左手に握られている幸運の結晶のような眼鏡をかける。
馴染みのある感覚が蘇って、友和は落ち着きを取り戻した。
それから館林の方を向くと、
「わ、分かった分かった、思い知ったよ。だから、帰りは安全航行で御願いします」
顔の前で合掌するように両手を合わせた。
すると館林は、友和のリアクションが思っていた程ではなかった事に不満だったのか、「どうしようかな?」と顎の先に人差し指を当て、意地悪そうなポーズを取って見せる。
「――おい! 頼むぜ、本当に」
思わず立ち上がった友和に「あははは」と笑って館林がハーフコートの裾をひらめかせながら飛ぶように離れる。
それから、全く重力を感じさせない身軽さで、屋上の縁にふわりと立つ。一歩先は何の足場もない人工の絶壁。
「待てって! 危ないぞ!」
思わずそう叫んで、友和は自分の過ちに気付く。館林に墜落死も飛び降りもないのだ。
と、彼女が半身をこちらに向けて振り返った。
夜の咲倉市の全景を背にして、仄明るい闇の中に館林の姿が浮かび上がる。
その白く整った面立ちに、航空障害灯が定期的に放つ赤い光が当たる度に、まるで血に濡れているかのような怖ろしくも妖しい美しさを帯びる。
滝のように流れ出る汗も忘れ、友和は暫し館林の横顔に見入った。
ビル風で舞い上がる髪を押さえつつ、
「――ナイトフィッシュって、悪くない呼び名ね」
そう言って友和を横目で見遣る。
「じ、自分で言っておいてなんだけど、そんな風に言われると少し照れるな……」
見詰めていた事を誤魔化すように、汗でぐっしょりした髪を掻き回す友和。
「調子乗らないで。……ほんのちょっと、気に入っただけよ」
館林が冷たく言い放つ。が、口許は笑っていた。
その顔に、友和も心が落ち着くのを理解する。
同時に、今の自分が置かれている状況を考えた。
(そもそも、転校してきたばかりの女の子と深夜ビルの屋上にいるってのは、一体どういう事なんだ? いや、そんな事よりも館林が夜空を泳ぐ力ってそもそも何なんだ?)
疑問が怒涛のように溢れて来たが、不思議と友和は取り乱すような事はなかった。
むしろ、友和の中でずれていた物が妙な具合に転がった末に、ようやく腰が据わったような感じだった。
だから、友和はある程度余裕をもって自分が体感した事と、館林さゆという少女を再認識出来た。
夜間のみ行えるという空中遊泳。
人が水中を泳ぐのとはまるで異なる、海洋性哺乳類のようなしなやかさと力強さをもって夜の空を往くその能力は、確かに驚愕に値した。値したが……。
「何時もこんな風に空を泳いでいるのか? 誰かに見付かるとか、そういう心配はないのか?」
友和の口から出た言葉は賛嘆でも忌避でも追求でもなく、まるで親しい友人を気遣うような、素朴だが優しさのあるものだった。
館林が眼を丸くする。それからぷいっと横を向いて口唇を尖らせ気味にして、
「本当に反応薄いわね……何か、やりにくいわ……」
小さく呟いた。
「ん? 何か言ったか?」
聞き取れなかったのか、友和が訊ねる。
「な、何でもないわよ! 気にしないで!」
誤魔化すようにそう言うと、館林は腰に両手をやって友和の方を向いた。
「わ、私にとって、夜の空を泳ぐのは至極当然な事よ。そう、生きている証といっても構わないぐらいにね。でも、私も馬鹿じゃないから、人には見られないように注意しているつもりだったんだけれど、宇木君にばっちり見られちゃったのよね。……全く、ついてないわ」
そう言って自嘲気味に笑う館林だったが、友和は彼女が口にした「見られちゃった」という言葉を、パンツを見てしまった事と結び付けてしまい、顔色でばれない事を祈りつつ自重した。
帰りは友和の哀願を聞き入れたのか、さゆは比較的優しく彼を公園までエスコートした。
「今更釘を刺すつもりはないけど」
「ああ。誰にも言わないし、言ったところで俺の人格を疑われるだけだ。ちゃんと理解してるさ、悪い頭なりにな」
「宇木君は、頭悪くないと思うわ。前の学校でも結構良い成績だったんじゃないの?」
「……いや、どうだったかな。もう、忘れたから。じゃあな」
口許に小さな苦笑を刻んで、友和が軽快な足取りで公園を出て行く。
その後姿が消えるまで、さゆはその場に立っていた。
「――じゃあな、か」
思わず呟いたさゆは、そう言ってしまった自分に対してはにかむようにそっと地を蹴り、星が煌く夜の空に身を委ねた。




