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工事現場で二人きり

 今にも喚き散らさんばかりの空腹のお陰で、友和は館林さゆの事をあまり考えずに残りの授業を過ごす事が出来た。

 帰りのホームルームをじりじりした思いで待ち望んでいた友和は、相坂のやる気のない礼が済んだ後、清掃当番ではない事を幸いに飛ぶようにして教室を後にする。

 自分でも何故こんなに気持ちが急いているのか分からなかったが、とにかく今は少しでも早く学校から、いや、あの転校生から離れたかった。

 途中コンビニに入ると、サンドイッチと500mlの炭酸系のジュースを買う。

 レジで支払いを済ませ、コンビニを出るとすぐさまサンドイッチを包装しているビニールを破り、薄いパン生地とそれに挟まれているハムとタマゴのサンドイッチを貪るように食う。

 ものの十秒でそれを胃の中に収めると、次はペットボトルのキャップを捻って開け、中身を一気に喉に流し込む。

 胃の中で炭酸が弾けているかのようで、ようやく友和は一息ついた。

 空腹の虫はまだ不満がっていたが、家に着くまではどうにか我慢してくれるだろう。

 サンドイッチの包装ビニールとレジで受け取った半透明のビニール袋をコンビニのゴミ箱に入れると、炭酸ジュースのペットボトル片手に歩き出す。

 時々、ぴりぴりと舌に心地良い炭酸を飲みながら、今日の事を――転校生の館林さゆの事を思い出す。

 満腹からは程遠いがそれでも食欲が満たされるというのは大したもので、今の友和は昼食時から帰りのホームルームまでの常に切迫していた自分を、冷静に振り返る事が出来た。

(あの転校生、だよな)

 心の中で呟く友和。

 無論、館林さゆの事だ。

 朝のホームルームの終わり際に彼女が自分の名を呟いたように見えた事、そして昼食時の食堂で感じた殺意と、あの眼。

 だが、それが何なんだという気持ちもある。

 別段、彼女が友和に何かしてきた訳でもないし、そもそも今日初めて会ったばかりなのだ。

 江藤達に言わせれば、友和があの転校生に気があるという事なのだろうか。

「いや、それは……ないだろ」

 思わず呟く友和。

 確かに、館林は滅多にいない美人だ。もしかしたら、咲倉高校の女子生徒全員の中でも指折りの美少女に入るだろう。

 しかし、そんな事は友和には全く関係ない。

(関係、ないんだ。俺には)

 まるで自嘲するように、友和は苦笑を浮かべながら顔の片側を右手で覆う。

建設途中のビルの工事現場が左に見えてきた。

 今日は工事が休みなのか、平日は正面で立っている筈の誘導の警備員の姿もない。

「大変ご迷惑をおかけしております」とヘルメット姿の作業員が頭を下げているポスターを横目にしながら、友和はそこを通り過ぎようとする。

 瞬間、歩道と工事現場を仕切る灰色のシートの切れ目から、にゅっと腕が突き出て友和の腕を掴むと、凄い力で引っ張り込んだ。

 悲鳴も何も上げる事が出来ず、友和の視界が一変する。

 それまで夕暮れの淡い橙色に満たされていたのが、急に工事現場内の暗がりに引っ張り込まれたので眼が眩んで仕方がない。

 まるでしつこい眠気を振り払うように、幾度も瞬きを繰り返した友和の目線の先には、今日出会ったばかりの転校生、館林さゆが立っていた。

 鉄筋やら何やら色んな物が剥き出しの工事現場を背後にして、館林の制服はやたらと浮いて見えた。

 状況からすると、ここに引っ張り込んだのは、目の前にいる転校生のようだ。だが、どうして?

「どういう事?」

 口を開くや、館林は冷淡な調子でそう言った。

(どういう事? 何がどういう事なんだ?)

 友和は訳が分からない。

「は? それは俺が聞きたいぞ。お前、館林だよな。どうしてこんな事するんだよ?」

 頭の片隅で、この転校生に自分が抱いていた恐怖感やそれに類する感情が掠めたが、真正面に立った事で彼女との身長差を実感し、その事が友和にある程度の心の余裕をもたらした。

 館林さゆは、かなり小柄だったのだ。

 と、思っていた矢先、上目遣いに見上げる彼女の双眸が、きん、と冷たい輝きを帯びたように見えた。同時に、黒かった瞳がすうっと(あか)く染まって行くのが分かった。

 瞬間、友和の生物としての本能が、館林に対して両手で白旗を振っていた。 

「――今、質問しているのは私。あなたは、私に聞かれた事だけに応えて」

「……は、はい」

 素直に応えてしまった友和。蛇に睨まれた蛙とはこういう事かと、生まれて初めて理解する。

 転校生は腕組みをして友和の前をゆっくりと行ったり来たりする。それから不意に立ち止まると、右手の人差し指を友和に突き付けた。

「あなた、携帯電話を二つ持っているのかしら?」

「……いや、これ一個だけ」

 促された訳ではないが、友和は携帯電話を尻のポケットから取り出していた。

 館林は友和の携帯を一瞥した後、言葉を続けた。

「……そう。じゃあ、どうしてそれがあなたの手元にあるの? あなたの携帯電話は、昨日、壊れたはずよ。それとも、深夜に携帯電話のショップで買い直した訳?」

 思わず首を傾げる友和。本当に、館林の言っている事が分からない。

 そんな友和に苛立ちを隠そうともせずに、館林は再び忙しく行ったり来たりを繰り返す。

 そして、唐突に友和の前で足を止めると、決然とした表情で向き直り、

「――それでは、昨日の夜にあの公園で、私が蹴り飛ばしたものは、何?」

 と、言った。

(昨日の夜にあの公園って……、俺は何をした? いいや、俺は何を見たんだっけ……)

 昨夜の事を、友和が思い出そうとする。

 さほど時間が経っている訳ではないせいか、頬を切るような夜の冷気の感覚と共に、公園の情景が友和の脳裏に甦った。同時に、あるモノが鮮烈なまでに記憶の底から想起されて、友和はぽつりと零すように呟いた。

「……ウサギのイラストが入った、パンツ」

 二人の間に沈黙が降りた。

 館林は友和が口にした事の意味が分からず、瑣末な事として聞き逃していたが、その途中で急に頬に赤みが差した。

「――何よそれ……どういう事?」

 声の調子を落として館林が訊ねる。

 友和には、目の前の転校生が相当の自制心を払っているように見えた。

 半ば友和は気圧されるように、

「……いや、俺の缶コーヒー蹴っ飛ばされた時、見えたんだよ。白いパンツの生地に黒いウサギが人参咥えてるのが。我ながら凄い動体視力って……あれ? お前、今蹴っ飛ばしたって言ったよな。それって」

 そう言ってから、気付いた。

 目の前に立つ館林がわなわなと震えている。

「……缶コーヒーですって? カメラ機能付きの、携帯電話じゃなかったの……。じゃあどうして、缶コーヒーを顔の前に持って行くような紛らわしい真似したのよ」

「あれか? あれはただ夜の公園に浮かんでいる何かを良く見ようと、缶コーヒーを持っている方の手をこうやって、て、うぉ!」

 昨晩の事を実演して見せる友和を黒い前髪の間から見上げていた転校生の眼が、灼熱の怒りを放っていた。

 一歩、館林さゆが友和へと踏み出す。

 一歩、館林さゆから友和は後退った。

 更に数歩館林が前進し、同距離を友和は後退した。

 暫くの間、傍から見ると奇妙な二人の行動が続いたが、友和の背中に固い物が当たって振り返ると、工事現場作業員の休憩所であるプレハブ小屋の壁にまで追い詰められていた。

 更に一歩、館林が詰め寄る。

 友和には、もう逃げ場がない。ひしっとプレハブ小屋の薄い鉄板の壁に背中を押し付けるだけだ。

「宇木友和……」

 館林の声が、死刑執行人のように冷たく恐ろしく聞こえる。

「は、はい……」

 他に応えようもなく、至極丁寧に応じる友和。

 館林の両腕が伸びて、友和の胸倉を掴み上げると、ぐんと自分の顔に引き寄せる。その勢いで顔からずれた眼鏡のレンズ間近に、館林の端整な顔があった。

 館林はすぅっと一息吸い込むと、

「忘れなさい忘れなさい忘れなさい忘れなさい! 絶対絶対、この事誰かに言ったら酷い目に会わせるわよ! 本当に酷い目に会わせるんだから! 覚悟しなさいよ!」

 そう矢継ぎ早に言い放った。

「……な、何をかな?」

 斜めになっている眼鏡を直しながら友和はそう言った。

 実際、友和は転校生が言っている『この事』が全く分からなかったのだが、彼女にはどうやらもったいぶっているように映ったらしい。

「あなた、いい加減に!」

 苛立ちと羞恥(しゅうち)で顔を赤く染めた館林の右手が閃きかけ、友和の頬を叩く寸前で止めると、大きく一度息を吐いてから、

「……私のパンティーと、私が夜に空を泳ぐ者だという事」

 そっぽを向いて呟いた。

 そして友和も、館林さゆと昨夜の公園で見た空に浮かぶ少女が同一人物であると、漸く認識した。

「……そうか、あの時のウサギパンツの空飛んでた女、お前だったのか」

「……こんな馬鹿でエッチな奴に私の……もう、死にたい……」

 館林は両手で顔を覆うと、弱弱しく呟いた。

 先程までの威勢が消失したように、館林さゆの小さい身体が更に小さく見える。

 それを見た友和は、自然と口を開いていた。

「あ、あのさ……」

「何よ!」

 両手を顔から離し、挑むような表情で睨む館林に友和はたじろぐ。だが、口は何かを伝えようと、もごもご動いている。

「何! 何なの、はっきり言いなさいよ! 男らしくない奴ね!」

「い、いや、俺、別に誰かに話そうなんて思ってはいないからさ」

「そんな事を言って、私を脅そうとかそういう事だったら……」

 館林が次の言葉を言うよりも先に、友和が言葉を放った。

「だから、お前の秘密、空に浮かぶとかそういう事は黙っておくから」

「……」

 館林の両眼が剣呑なまでに輝いて、突き刺すように友和に注がれる。

 その時、友和は自分の中で常にぶれていた何かが、かちり、と音を立てて合わさるのを確かに耳にした。

「――嘘じゃない」

 館林の瞳を真っ直ぐに見詰めながら発した友和の声は、自分の口から発せられた物とは思えないぐらいに重く質量を伴っていた。

 館林も友和の口からそういう声が出た事が意外だったようで、眼から険が取れていた。

「第一、そんな事を他の人間に言ったって寝言を言ってるとしか思われないし、俺、間違いなく変人扱いされるぜ?」

 友和の言葉が正鵠(せいこく)()ている事を察したのか、館林は漸く落ち付きを取り戻した様子で「それもそうね」と言った。

「助平で頭悪いとか思ったけど、常識はあるようね。だけど、その常識の世界に生きていたいのなら、決して誰にも喋らない事。もし、喋ったのなら」

「喋らないさ、約束しても良い」

 友和のきっぱりとした口調に、館林はきょとんとした顔になる。

 友和は館林さゆの顔を見詰めながら、言葉を続ける。

「誰にも喋らない。誓うよ。……それに、今の世の中もっと変で血生臭い事件が多すぎる。……それに比べれば、ずっとましさ」

 少しの間館林は、友和の言葉にどれだけの誠実さがあるのか判断しかねているようだったが、やがて口許に小さな苦笑を浮かべた。

「ましかどうかは分からないけど、人とは思えないような酷い事件が多すぎるっていうのは同意するわ。取り敢えず、あなたを信じてみる……。じゃあね、宇木君」

 そう言って館林が背を向けてその場から去ろうとした時、

「館林、お前どうやって空に浮かぶんだ?」

 友和が訊ねた。

 すると、館林は小馬鹿にするように鼻をふん、と小さく鳴らすと、

「違うわ。――私は泳ぐの。夜をね。そういうものなのよ」

 立てた人差し指をふりながら、まるで嗜めるように言った。

「夜を、泳ぐ……か。ナイト、フィッシュ……。格好良いな」

「格好良いって、やっぱりあなた、少し変わってるんじゃないかしら?」

 そう揶揄するように言いながらも、友和を笑い者にしているような陰湿さはない。

「そうか? ナイトフィッシュって、格好良いと思うんだが」

 館林は思わず、声を出して笑った。

「な、何だよ? 俺、そんなにおかしい事言ったか?」

 訳の分からない友和が訊ねると、館林は更なる笑いの発作に見舞われたように、お腹に手を当ててくの字になった。

 館林の澄んだ笑い声が、工事現場内に響き渡る。

「ちぇ、本当に俺、馬鹿みたいじゃんかよ……」

 一人笑いの虜と化した館林を前にして、友和が何とも言えずに呟く。

 と、ようやく発作から立ち直ったのか、うっすらと涙さえ滲ませている館林が口を開いた。

「だ、だって、あなた、全然私の事を驚かないんだもの。その上自分で勝手に名前なんか付けちゃって。何? 夜の(ナイトフィッシュ)? やだやだ、思春期真っ盛りって感じで聞いてる方が照れちゃうわ」

「……何か、ひでえ事言われたような気がするのは俺だけか?」

 仏頂面になって友和が言う。

「ご、ごめんなさい。私、自分の事をそういう風に言われたの初めてだから……、笑ったりして本当にごめんなさいね」

 流石に悪いと思ったのだろう、館林はどうにか笑いを引っ込めて謝る。それでも、時折唇の端をひくひくさせているのは、まだ笑いの余波が残っているからなのだろう。

(館林って、こんなに笑うんだな)

 友和は意外な気持ちに打たれる。

転校初日で色々な顔を見せる館林――もっとも友和は昨夜に会っているのだが――に、お互いの距離が近付いたように感じた。

 だから、

「いや、確かに人が空に浮かぶなんてとんでもない事なんだろうけれど、それよりもパンツのインパクトがすご過ぎてさ――」

 ぽろり、と友和は口にしてしまった。

 途端に、館林の顔が暗黒に染まる。

(やべっ)

 自戒するも時既に遅く、友好的だった雰囲気が一気にツンドラ大地の極寒並みに凍り付いた。

 館林が、雪原のダイヤモンドダストを思わせる絶対零度の眼差しで、

「……私の力はもとより、私の下着の事……誰かに言ったら、……殺す、から」

やたらと「殺す」を強調すると、そのままそっぽを向いて去って行った。

 館林の豹変振りについていく事が出来ず、一人取り残された恰好の友和だったが、何とも言えずにぽりぽりと頭を数回掻いた後、腹がぐーっと鳴ったので自分も帰路に向かった。

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