彼女の名は
翌朝、律儀な目覚まし時計に叩き起こされた友和は、普段の数倍重たい目蓋を擦りながら朝食を取り、地元の高校へと向かった。
途中、睡眠不足が祟って、集団登校中の小学生達の列にふらつきながら近付いてしまい、引率中の高齢な白髪男性が目を剥いた。
大慌てで友和は身体を起こし、愛想笑いを浮かべようとしたが、ランドセルにリコーダーを挿した小学生男児にくすくす笑われ、いたたまれない気持ちになって足早にその場から去った。
夢が記憶に永く留まることはないのと同じように、どうにか高校に辿り着いた友和の脳裏には、昨夜の出来事は霞がかったように曖昧になっていた。
ただ鮮烈に覚えているのが黒ウサギのパンティーで、そのことを思い出すとどうも顔の締りが悪くていけない。
教室に到着するや自分の机の上に両腕を投げ出して枕にし、うつ伏せになった友和が煩悩と断続的に続く眠気に苛まされていると、俄かに教室内がざわめいた。
がらり、と教室の扉が開かれる音がする。
途端に、教室の空気が水を打ったように静まった。
友和のクラスの担任である相坂が、何とも平坦な口調で何やら話している。だが、友和は煩悩以上に強大な存在へと昇格した睡魔に襲われて、それどころではなかった。
「……えー、と、まあ、簡単に言うとお前達の新しい仲間として、……ゆ、さんが来た訳だ。こんな時期に、と思うが、皆仲良くするように……ん? んん、おい、宇木、お前ホームルームから何を居眠りしてるんだ!」
相坂の声を既に夢の出来事として捉えている友和は、自分が指摘されていることに気付かず、机にうつ伏せのまま心地良い夢現状態にいる。
気を利かせた近くの席のクラスメートが友和の肩を揺する。
途端に友和の世界が現実へと引き戻され、状況を認識しようと寝ぼけ眼をぱちくりさせる。
その様子がどうにも間が抜けていて、クラス中がどっと沸き返った。
唯一、相坂だけが苦虫を五匹程噛み潰した顔をこちらに向けているが、どうしてそういう顔をしているのか、友和には分からない。
その相坂の横に、見慣れぬ少女が立っていた。そもそも制服がこの高校のデザインとは異なっている。
友和の高校の制服が少し明るい色調の都会的なものに対し、少女の制服は全体的に黒を基調とした、簡単に言えば野暮ったかった。
しかし、彼女の容姿はそれを補って余りあるほどに奇麗で、整っていた。
色白の肌にくっきりした目鼻立ちで、鮮やかな紅色の唇がちょっと緊張しているのか強めに引き結ばれている。髪の毛は一度も染めたり色を抜いたりしていないのだろう、艶のある長い黒髪だ。
彼女の大きな眼が、じっと友和に注がれている。
友和も、何が起きているのか分からないまま、ただ少女を見つめていた。
と、事態を呑み込めていない友和に業を煮やしたのか、相坂が人差し指をこちらに突きつけ、
「おい宇木! こちらの転校生に自己紹介しろ。それも起立してだ。分かったか? 分かったなら返事しろ!」
そう言ってきた。
(転校生? ……ああ、だから初めて見る顔なんだな……。しかし、相坂の奴、朝からうるさいな……。でも、ホームルームの時間に寝てたのは確かだし、さっさと終わらせよう)
そんな調子で友和は「はい」と返事をしながらも面倒くさそうに席から立つと、
「えっと、宇木友和です。俺も、去年の十一月に咲倉市に引越してきたばかりです。この高校での経験は短いですが、よろしくお願いします」
自己紹介に付け加えて自分も引越し組だということを口にすると、友和は「よろしくお願いします」のところで一礼し、さっさと着席した。
教壇にいる相坂は、友和の自己紹介が短すぎて何か不満のようだったが、もうすぐで一時限目が始まることを意識してか、隣の転校生にあれこれ指示した後にすぐに教室を出て行った。
調度入れ替わるようにして、友和のクラスの一時限目担当で現代国語を教える女教師の津山が教室に入ってきた。
津山は、教壇にいる見慣れぬ女子高生に一瞬驚いた顔をしたが、女子の何人かが「転校生のたてばやしさんです」と教えると、どういう字を書くのか誰ともなく尋ねた。
そう言えば、友和はこの転校生の名前を知らない。相坂の奴が言っていたような気もしたが、夢現のことだったので全く覚えていない。
黒板には、真ん中より少し右寄りに黒板消しで消したような跡がうっすらと残っている。あそこに転校生が自分の名前を書いたのだろうか。
おそらく神経質な相坂のことだから、黒板が授業以外のことに使われるのが嫌で、クラスの生徒が皆彼女の名前を覚えただろう頃合に、自分で消してしまったのだろう。
お陰で友和だけが彼女の名前を知らないのだが。
転校生は白いチョークを手にすると、
――館林、さゆ――
と、小さいが丁寧な字で名前を書いた。
友和の席からでも、転校生の名前を見えた。
(館林さゆっていうのか……)
友和が転校生の名を心の中で口にすると、黒板から振り返った彼女と再度目が合った。
転校生は暫く――それでも数秒の間、友和を見つめたまま、不意に唇を動かした。
声にしてはいないのだろうが、友和にはそれが自分の名である「宇木友和」を暗唱しているように見えなくもなかった。
それから四時限目までの授業を終えると、友和は食堂へと向かった。
パンにするかうどんにするかはたまたカレーにするか、廊下を歩きながら考えていた友和が、食券の販売機の前に長蛇の列が既に出来ているのを見て、パンを買おうと購買部の方へと向かう。
そこで今度はどのパンを買おうかと再び考え始めた時、不意に背中を押されて背後を振り返った。
そこには友和のクラスメートが三人、何やら含むような笑みを浮かべて立っていた。
別段、話をしない間柄ではないが、それでも親しくしている訳でもない。話しかけられたら応えるぐらいの関係だ。
「何だよ?」
友和が尋ねると、野球部か柔道部なのだろうくりくりのいがぐり頭の男子生徒――確か江藤という名前――が、ある一点を指差した。
友和はどういう事か分からず「ん?」という顔をする。
すると江藤が、指差した方角を何度も突くような仕草をしたので、友和もそちらの方へと顔を向ける。
そこには、友和のクラスメートの女子生徒一団が、転校生の館林さゆを囲んで一緒に食事をとっていた。
お喋りに花が咲いているのか、賑やかそうな笑い声が聞こえる。
女子が仲良しグループで一緒にお昼ご飯という光景は、この時間なら食堂のそこかしこに見受けられる。
しかし、館林を含むそのグループは、滅多にいない転校生の美貌のお陰かそこだけ光が強めに当たっているような華やかさがあった。
無論、その光が最も強く降り注いでいるのは、他ならぬ館林さゆだ。
「お前、何ホームルームの時に自然とアピールしてるんだよ。ええ? ああいう美少女系がタイプだったのか、宇木」
暫しその存在を友和が忘れていた江藤が、からかうように言った。
言っていることが分からないので、友和は口を開いたそいつに顔の正面を向ける。
すると、そいつはおどけたように「おおっと!」とか言いながら両手の平を前にして、数歩後ずさってみせる。
(何だこいつ?)
不審な気持ちが、友和の口を幾分攻撃的に開かせた。
「一体何の用だよ? 俺に言いたい事でもあるのか」
「そう怒んなって。まあ、俺たちもこいつに乗せられたとこあるんだけど」
そう言って、比較的体格の良い男子生徒が江藤にヘッドロックをかける。江藤は「うひー!」とか変な悲鳴を上げている。
間違いなく柔道部に所属しているだろうその男子生徒――こいつは崎山だったはず――は、ヘッドロックを極めたまま、
「ほら、宇木って去年転校してきたばっかでさ、あんまり俺たちもお前がどういう奴なのか、まだ知らなくてさ」
と、言った。更に、
「第一、宇木だって悪いんだぜ。何かお前、ちっとも周囲に溶け込もうとしないじゃんか。軽く、空気読めない奴じゃないか? って言われてるんだぜ」
崎山の横に立つひょろりと背の高い男子生徒――千倉だったような気がする――にそう言われ、友和は面食らった。
「……いや、だから何だよ」
友和としても、いきなりそんな事を言われる義理はない。
その事が顔に出たのか、目の前の連中は取り繕うような感じで本題に入った。
「いやいや、そんなお前がさ、あんな美人に『自分も同じ転校生だ』なんて言ったものだから、どういう事ですかこれは? って具合な訳よ」
ようやく江藤を解放した崎山がそう言った。
やっと友和は理解した。
友和が朝のホームルームに言ったことが、転校生の館林について何かしら好意を持っている現われなのでは、と感じ取ったらしい。
クラスでもやや浮いた存在の友和が、美人の転校生に最も早い自己アピールをしたという事で、何らかの衝撃をクラスの男子連中に齎したようだ。
友和本人としては、「やれやれ」と思わざるを得ない。
「そんな事ない。ただ口が滑っただけだ」
友和は正直に話す。第一、あの時はとても眠くて自分が話した内容なんてろくに覚えていない。
「本当かよ?」
江藤が、首の辺りを擦りながら斜め下から見上げてくる。
バリカンが下手なのか、よくよく見ると頭がとらになっていた。
「お前ら、そんなに館林が気になるのなら、直接声かければ良いだろ?」
そう言うと、江藤が固まった。他の二人も「それは、アレだ」と言わんばかりに互いの顔を見回す。
何となく、こいつらの魂胆が見えた。
立場が近い友和が先鋒を切って、美人転校生と接触をはかる事で、他の男子生徒達も話し掛けやすい雰囲気を作って欲しいのだろう。
勿論、友和はそんな事は御免だ。
連中に背を向けて、今は何時だろうとズボンの後ろポケットから携帯電話を取り出し、文字盤を見る。空腹が、痛いぐらいに胃をせっついていた。
その時、不意に北風を吹きつけられたような寒気を首筋に覚えた。
ぶるりと背中一面の皮膚が総毛立ち、ワイシャツの下のインナーを内側から押し上げる。
急速に視野が狭まり、まるで自分が暗いトンネルに放り込まれたような錯覚がする。
暗い視界のずっと先で、テレビ画面に映る遠い国の風景のように、自分が手にしている携帯電話の文字盤が見えている。
デジタル表記の文字盤は、正確に秒を刻んでいた。
12時53分16秒……………………12時53分17秒……………………12時53分18秒……………………。
非常に、ゆっくりと。
自分の手の平にあるその重さをリアルに感じているのに、決して警察にも家の電話にも繋がる事はない、携帯電話。
(俺、殺される!?)
映画や漫画、ゲームの中の登場人物しか感じないであろう紛れもない殺意。
文字盤に刻まれる一秒一秒を冷たい泥の流れのように肌で感じながら、友和は殆ど本能的に、殺意を放ち続ける根源へと顔を向けた。
銅みたいにがちがちに固まった首を、ぎりぎりと筋肉を軋ませながら捻じ曲げ見た先には、――館林さゆが、いた。
トンネルのように見えている視界のせいで、友和はこの世界には自分と館林の二人しか存在しないと実感する。
しかも、世界に二人しかいない人間の片方は、もう片方を殺そうとしている……。
大きな眼が、冷たい夜に浮かぶ月のように、冴え冴えと輝いている。
「――おーい、どうした宇木? 何固まってんだ?」
江藤が、冗談半分に気安く肩でタックルしてきた。
衝撃が伝わり、友和の視界がぶれる。
瞬間、解き放たれるように、友和の身体は自由を得た。
両目を瞬かせて、友和は状況を認識する。
(ここは高校の食堂で、今は昼食時の12時……53分になったばかりか)
友和はきょろきょろと周囲を見回したり自分の携帯電話の文字盤を確認すると、ごくりと生唾を呑み込んでから、もう一度転校生を見た。
そこには、平然と先程と変わらず穏やかな表情で女子生徒達と喋っている、館林の姿があった。
彼女はこちらには顔を向けていない。では、さっき友和が見た館林の眼、人の温かさがまるでない眼は何だったのだろう。
「おいおい、やっぱりお前、あの美人に興味があるんじゃないかよ」
江藤がにやにやして言うが、友和の耳には全く入る事はなかった。
と、転校生を囲む女子生徒達も友和と江藤等を含むクラスメイト男子一団がこちらを見ている事に気付いたのか、数人が友和達の方を見て指を差したり笑ったりしている。
横にいる江藤が、「おーい」と陽気に手を振ってみせた。
途端に女子達がきゃあきゃあと沸き立った。そして、その中の一人が館林に耳打ちしている。
すると館林は「何ですか?」という風に友和の方を見た。
いや、友和を見ようとする。
咄嗟に友和は、切り揃えられた前髪を揺らしてこちらを見遣った館林から顔を背けると、その場から足早に歩き出した。
背中に、紛れもない転校生の視線を感じながら。
何も買っていない事に気付いたのは、自分の机に着席して五時限目の始業のチャイムを聞いてからだった。




