激突
友和が咲倉市に戻って来た頃には、もう六時を過ぎていた。
冬至を過ぎたとは言え、まだまだ一月の夜は早く、咲倉市全体が藍色のドームに覆われているかのようだった。
「こっちは、曇りなのか……」
電車の車窓から空模様を眺めていた友和は、ぽつりと呟いた。
ふと、今朝の事を思い出し、さゆ達はサクラジョイワールドで楽しく遊んだのだろうか、と思いを馳せた。
いきなりショートヘアになったさゆを見て仰天している江藤達を想像し、友和は少し笑み綻んだ。
もしも、また遊びの誘いが来たのなら今度は断らないでみよう、と友和は思う。
電車が、友和の降りる停車駅に滑り込んで行く。
自動ドアが開かれ、降りる人波に揉まれるようにして、友和はホームへと降り立った。
人いきれと吹き渡る風による駅のホーム独特の臭気が友和の鼻腔を刺激する。
瞬間、昨日までは極々見慣れた筈だった駅の風景が、全く異なって友和の眼に映った。
それまで自分がどれだけ世界を閉じていたのか、父への謝罪という経験を経た友和はまざまざと感じさせられた。
世界は、友和を拒絶してはいなかった。それを、友和は強く感じる。
友和が今ここで感じているものは、愛郷の念を百倍に拡大したものとでも言おうか、ともかく眼に映るもの全てをいとおしく思える情動の迸りだった。
そして友和は、長い旅をしてきたような不思議な感慨に包まれていた。
喉の奥から、沢山の言葉にならぬ言葉が溢れ出しそうだった。それは、友和が事故に会った後に心の底に沈めていった、無数の輝かしい言葉の原石達だった。
それは友和の口から出た途端に宝石となって、友人達の間には笑いの風を送り、家族に優しさに満ちた温もりを齎す筈だった。
瞬間、その言葉を、まず一番に初めに贈りたい人物の姿が、友和の脳裏を過ぎ去った。
夜空を、まるで飛翔するかのように軽快に泳ぎ渡る少女を。
友和は思わず苦笑を浮かべると、改札口の方へと歩き始めた。
階段を上がり、ズボンのポケットをまさぐって切符を取り出し改札を通過しようとした時、改札口手前のちょっとした空間に見慣れた顔がある事に気付いた。
向こうも友和に気付いたらしく、
「あれ? 宇木じゃないか」
と、声を掛けてきた。
さゆや他の女子生徒と一緒にサクラジョイワールドに行った筈の江藤、崎山、千倉の三人組だった。
「よう、元気か?」
友和が手を上げて三人に近付いて行く。
すると、普段とは打って変わって親しげな友和の行動に意表を突かれたような顔になった。
「館林達とサクラジョイワールドで遊んでたんじゃないのか?」
訊ねる友和だったが、三人は何故かまじまじとこちらを見ていた。
「何だよ? 俺がどうかしたか?」
「……いや、何つーか、ちょっと今日の宇木おかしくないか?」
「おかしいって何だよ」
「いや、笑ってる訳じゃないんだ。何だか、なぁ?」
そう言って、江藤が残り二人に相槌を求める。崎山と千倉も、江藤の意見には賛成だという風に首を上下に振った。
そんな遣り取りをしている三人が妙に可笑しくて、友和の方が笑ってしまった。
途端に、三人組はぎょっとした顔になった。相当豪快な笑い方をしたらしい。
「なあ宇木、お前やっぱり変だぜ。何かあったのか?」
気遣わしげな表情をする江藤。崎山や千倉も似たような顔をしている。
「何にもないよ。それより、サクラジョイワールドに行ったんだろ。面白かったか?」
今にも肩を組みかねない勢いの友和に押されて、三人は今日行ったサクラジョイワールドの感想を口にする。
サクラジョイワールドは、遊戯施設としては日本を代表する遊園地に二、三歩及ばないが、堅実な経営方針と国内最大級の大観覧車のお陰で、この不況の世にあってちゃんと利益を出していた。だが、三人の話題は年頃の男子高生らしく一緒にいた女子生徒達が主だった。
「そうそう。凄いニュースがあるんだよ。館林さんの事なんだけどさ、今日いきなりショートヘアになってたんだ! あれは本当にビックリした!」
江藤がそう言うと、崎山と千倉も同意するように頷き合っている。
勿論、その事を知っている友和は「ああ、そうなのか」と軽く受け流す。
すると、三人は今にも溜め息をつきかねないぐらいに落胆した。
「いや、やっぱりお前は変わらねえな。凄っごく可愛らしくなってんだから。見たら絶対トキメクって!」
力説する江藤。こいつはまあ、放っておこう。
友和は崎山と千倉に眼を向ける。
「結構楽しんだみたいだな。で、三人がここにいるって事は、そのまま流れ解散って訳か?」
すると、崎山がちょっと困ったような表情になった。千倉も似たような顔をしている。
訝った友和が訊ねると、
「それがな、急に館林さんが先に帰ってくれって言い出したんだよ。女子達もきょとんとしてたな。元々閉園の八時近くまでいようって話だったのに」
と、崎山が言った。
「何か、サクラジョイワールドに忘れ物したとか言ってて。結構きょろきょろしてたな。手伝おうかって言ったんだけど、『これは私だけにしか分からないの』って断られたよ」
と、千倉が言う。
「って事は、今も館林だけがサクラジョイワールドにいるのか?」
「分からないよ。忘れ物が見つかれば帰るんじゃないのか?」
友和は暫しの間考えると、
「館林の奴、俺に何か言ってなかったか?」
そう訊ねた。
瞬間、三人の頭の上に、物の見事にはてなマークが浮かんだ。
「どうして館林さんが宇木に何か言う必要があるんだよ。ていうか、お前今日他の用事があるって言ってなかったか?」
当然のように、江藤が詰問調で言い寄って来た。と、それを崎山が慣れた漫才のように片腕で押さえ込みながら、
「そう言えば、何か言ってなかったか? 館林さん」
そう言って、千倉に降る。
あ、と千倉も思い当たる事があったらしく、友和を見た。
「確か『ここの近くには、神社でもあるのかしらね』とか言ってたんだよ。いきなりそんな事言われたから、俺らぽかんとしたけどさ」
(神社? ……鳥居、神主、巫女、おみくじ……狛犬? ……! 狛か!)
そう結論付けた友和は、さゆのメッセージに思わず苦笑する。だが、約束は守ってくれたのだ。
「サクラジョイワールドで解散したのって何時だ?」
友和は一番近くにいた千倉に聞いた。
「えっと、今が六時半だから……三十分前ぐらいかな?」
デジタル式なのだろうゴムバンドの腕時計を見ながら、千倉が応えた。
「分かった、ありがとう」
友和は礼を言うと、くるりと踵を返して駅前のロータリーに向かった
その場に残された三人は、友和の行動の意図が分からず、その場に立ち尽くす他なかった。
駅前ロータリーでタクシーを捕まえた友和は、サクラジョイワールドに向かってくれとドライバーに告げた。
五十過ぎのまだらに白髪頭のドライバーは、タクシー内にあるデジタル式の時刻表示に眼を遣り、一瞬怪訝そうな顔になった。
今の時刻は七時十五分であり、サクラジョイワールドの閉園は八時なのだ。
後部座席のシートに背を預ける友和をルームミラーで見た後、合点が行かない様子だったがタクシーを静かにスタートさせた。
休日の夜という事もあって道は多少混んでいたが、友和がサクラジョイワールドに着いたのはそれから二十分過ぎた頃だった。
ドライバーに料金を支払い、タクシーから出た友和を待っていたのは、更に冷たさを増した冬の夜の風だった。
手足がかじかんでしまいそうな寒さの中、友和は白い息をはきながら前方を見据える。
閉園時間ぎりぎりだったが、入出場口からはまばらだが人の出があった。
その中にさゆの姿はないか友和は目を凝らすが、彼女の姿はなかった。
狛が現れたという事だから、さゆは戦うつもりなのだろうが、一体ここでどうするつもりなのか。
この前は悲迦留が公園に結界を張ったと言っていた。だが、今回はテーマパークが丸々一つだ。さゆを同じ方法で捕らえようとするのは不可能だろう。もっとも、狛達もそれは分かっている筈だろうから、今回は別の手段を講じてくるだろう。
ともかく友和はサクラジョイワールドの入り口へと向かったが、チケット売り場の従業員に入場制限の時間を過ぎているのでもう園内には入れないと言われてしまった。
頭を掻きながら、友和は入り口を背にして考える。
流石に園内では客の追い出しが始まっているだろうから、おそらくさゆは中にはいないのだろうか。いや、それとも既に夜の空にいるのだろうか。
友和が顔を上げ、夜空を見る。
曇天の夜の空は、ネオンが賑やかに灯っている大観覧車を縁取るかのような暗闇色に染まっていた。
「館林、あそこにいるのか?」
呟いた友和はその時、自分の背後に近付く存在に気が付いた。
瞬間的に後ろを振り返って距離を置く。自然と両手が胸の前辺りに持ち上がっており、構えを取っていた。
「へぇ。何を齧ったんだかしらねぇが、それなりに様になってんじゃねえか」
聞き覚えのある声を発した銀髪の巨漢は、友和の構えを見てそう言った。
「真伏……」
友和は真伏から更に距離を取ろうとして、更に複数の人の気配を感じた。
腕の構えはそのままで視線だけ動かして確認すると、十名近い黒服の男達が友和を包囲していた。黒服達は真伏程の体格ではなかったが、何かしらの格闘技に精通しているのだろう独特の気配を放っていた。
「もうプライドがどうこう言ってる場合じゃなくなったんだよ。悪いが、一緒に来てくれねえか、兄ちゃん」
「嫌だと言ったら?」
「力尽くってのも嫌いじゃねえが、兄ちゃんは断れねえと思うぜ。何しろ、館林さゆは今、俺達が捕らえてるんだからな」
「な、何だと!」
驚愕する友和。もう既にさゆは狛の手に落ちているというのか。
激しい虚脱感に見舞われながらも、友和は正面にいる真伏を睨み据える。
「良い眼になったじゃねえかよ、兄ちゃん。……まあ、ついて来てくれや」
そう言うと、真伏は一人で歩き始めた。サクラジョイワールドの係員専用の入り口に向かうと、さっさとその向こうに消えてしまった。
友和は慌てて真伏の背中を追いながら、自身もサクラジョイワールドの中へと入っていった。
真伏の後を追って到着した先には、無数の照明ライトに照らされているさゆの姿があった。
そこは調度屋外の広いホールのようになっていて、扇状に観客席が段々に広がっていて本来ならば何らかの催し物が行われるのだろうが、今は罪人を裁く壇上のような様相を呈していた。
さゆは私服姿だったが、余程抵抗したのだろう、衣服が酷く乱れていた。後ろ手に縛られていて、両眼には厚手の布のような物で目隠しがされていた。
「館林っ!」
友和は館林の姿を見た刹那、ホールの中央へと走り出そうとした。前方には真伏の岩のように分厚い背中があったが、構わずその脇を擦り抜けようとする。
実際、友和は真伏の横を何の問題もなく通過した。真伏が何もしなかった事を怪訝に思う気持ちもあったが、今は館林の事で頭が一杯だった。
さゆも友和の声が聞こえたのだろう、ぴくんと身震いをした。
だが、友和の足がホールの中央の一端に踏み入れたところで、自分の意思で止まらざるを得なかった。
ボウガンを手にし、セットされた矢の先をさゆの頭に狙い定めた悲迦留が現れたからだ。
「こんばんは、宇木友和君」
悲迦留はそう言って笑って見せた。
友和はそこに、狂的なものを見たような気がした。念願叶った事が嬉しくて仕方がないというよりも、少し頭の箍が外れてしまったような感じだった。
「まさか、あなたが本当に来るとはね。てっきり、館林さゆのブラフだと思っていたから」
「何の事だ?」
「こいつがね、言うのよ。『宇木君が必ず助けに来るから』って。大した自信だったわ。本当だったら、すぐにでも動けなくして運び出す予定だったんだけど、散々抵抗した挙句にそんな事を言うものだから、ちょっと確認したくなったのよ。で、あなたが登場した訳。……ねえ、私に教えてくれないかしら? あなた達が何を企んでいるのかを」
友和は悲迦留の言葉を考えた。
(館林は、俺が助けに来ると言った。その理由は何だ? 第一、俺は何の準備もしていないし、そもそも俺がここに来る確証だってないだろうに……。……待てよ……。俺が来ても来なくても、館林が出来た事が一つだけあるじゃないか)
友和は、館林の作戦の一端を垣間見たような気がした。
「それよりも、俺の質問に答えてくれ。あんた達は、何で館林を付け狙う?」
「質問しているのはこちらの方だけど?」
悲迦留が矢尻でさゆの頭を小突いてみせる。痛かったのだろう、目隠し状態のさゆが顔を顰めた。
「止めろ! ……分かった。教えるから、館林に乱暴な事はするな」
すると、悲迦留はくすくす笑ってから一歩下がった。しかし、ボウガンは変わらずにさゆの頭部を狙ったままだ。
友和は一度唇を湿らせると、口を開いた。
「この場所を考えてくれ。ここは、咲倉市の郊外にあって、広い空間がある」
「だから? それが何なのかしら」
「分からないか? あんた達が館林を追い詰めたつもりで、実はその逆だって事に」
「それはつまり、私達が館林さゆの罠に嵌まったという事? じゃあ、それがどういう事か教えてもらえない?」
「良いさ。まずは、あんたがそうやって館林の眼を塞いでいる事だ。相当怖いんだな、館林の眼が」
「そうね。でも、もう理屈が分かっているのだからどうという事はないわ。それに、この事はあなたに感謝したいぐらいよ。見えないあなたの右の眼にね」
ふん、と友和は鼻を鳴らした。今となっては、それしきの挑発など何の意味も成さなかった。
「けれど、それは俺に対してだけだぜ。普通の人間は両方の眼が見えてるんだ。館林が、今までに一人も咲倉市の誰かに『眼』を使わなかったって言えるのか?」
友和は咲倉市の保険医の事を思い出しながら言った。
「つまり、今の時間にこんな広い場所に大勢の人間が現れても、それは何ら不自然な事じゃないんだ。況してや、ここはテーマパークだ。閉園過ぎたとは言え、数十人近い人間がいたとしてもおかしい事じゃない」
「応援が駆け付けるって訳かしら?」
「そういう事だ。数十人じゃ利かないかもしれない。幾らあんた達でも、自分達よりも十倍近い人数を相手に出来るとは思えないしな」
「入場制限のゲートがあるけど? 流石に無理やり入り込もうとしたら、セキュリティが反応するわ」
「それらを管理する人間全てに館林の『眼』が使われていたら? 何のために、わざわざ館林が一日中ここのテーマパークにいたと思っているんだ。園内の人間の大半と、顔を合わせる機会は幾らでもあったんだぞ。人目を考慮しなければ、館林は人海戦術であんた達を圧倒出来る。むしろ人目を考慮するのは、あんた達の裏側にいる奴じゃないのか?」
一瞬、悲迦留は顔に罅が入ったかのような表情をしたが、直ぐに消し去ると、
「有難う。これで、坊やと小娘二人だけに集中すれば良い事が分かったわ」
そう言って、ボウガンを友和へと向けた。
ぴたりとその照準が自分の眉間に据えられている事を、友和は痛いぐらいに感じていた。
「どうやら警戒し過ぎたみたいね。十倍近い人数? 確かにそれぐらいの数の差があれば押し切られるだろうけれど、受けて立つ方も同じぐらいの数がいたらどうかしら」
悲迦留がそう言って指を鳴らした。すると、ホールの陰や観客席側から黒服の男達がぞろぞろと現れた。その数はざっと百人はいるだろうか。全員が全員、黒光りする拳銃を手にしていた。
「この国は法治国家だと思ってたけどな……」
悪態をつくように言う友和。
本物の銃口を、しかも無数に突き付けられている状況に冷や汗が浮かぶ。膝が笑い出さないのが不思議なぐらいだ。
「それは表向きの世界よ。裏では、こんな事が起きてるの。知らなかったでしょ」
友和とは逆に快活に言ってみせる悲迦留。
「ついでに教えてあげるけど、この五倍の数をテーマパークの外に配置しているわ。それに道路封鎖も始まっている。あなたを乗せてきたタクシーの運転手も、さぞ驚いてる事でしょうね」
友和は思わず舌打ちをした。悲迦留達は友和がサクラジョイワールドに来た事を既に知っていたのだ。
「今やここは陸の孤島という訳。時間稼ぎをして外からの応援を待つっていうのは悪くはなかったけれど、残念だったわね。……せめて、楽に死なせてあげるから」
そして、悲迦留が黒服達に指示を飛ばした。
黒服達は頷くと、友和を包囲する圏内を狭めてきた。
さゆの言葉を意識しているのか、一気に友和を押さえ付けようとはしない。だが、確実にじりじりと友和との距離を縮めてくる。
友和は拳にした両の手を胸の辺りで構えたまま、周囲に目線を走らせる。
幸い、連中は友和が隻眼という事でさゆの『眼』の力が及んでいないと認識している。それならば、その力で虚を突いて動揺を起こさせるのも可能か。
確かさゆは、痛みの鈍化と筋力の強化を施したと言っていたが、それがどの程度のものなのか、友和自身良く分からない。だが、今は迷うよりも一瞬の隙を狙う事が先決だ。
瞬間、友和は気配の波を感じた。
微風が身体を撫で、友和はそれを受け入れるように体勢を移動させる。すると、友和が避けた軌道を掠めるように、背後に忍び寄っていた黒服の一人が振り下ろした警棒を間一髪で避けていた。
黒服は勢い余って前のめりになり、亜鉛質の警棒が床に当たって青白い火花が散らせる。
友和からは見えない位置からの打撃だったので黒服は慢心していたのだろうか、自分の失態に驚いた様子で、すぐさま振り返って友和の姿を探した。
「馬鹿、下がれ!」
真伏から激しい叱責の声が飛んだが、黒服はそれが自分に向けられたとは気付かなかったようだ。そして、その場で独楽のように旋回した友和の右足の踵に顎を蹴り抜かれ、ぎゅるんと宙で一回転した後、コンクリートの床に叩き付けられた。
この間、僅か一秒。
黒服は背中を強打し、コンクリートの上でぴくぴくと痙攣している。
奇妙な静寂が訪れ、その直ぐ後に黒服達から猛烈な怒気が上がった。
観客席にいる黒服達が確実に友和へと拳銃を向ける。
百近い銃口を一斉に向けられて尚、友和は自分の身に何が起きたのか理解出来なかった。だが、全身の細部にまで神経が行き届き、そこからあらゆる方面に対してレーダーを張り巡らしているようなそんな感覚があった。
そして、友和は――風を読んだ。
不意に顔を左に背けた。一瞬後、友和の顔があった所を銃弾が空気を裂きながら通り過ぎて行った。サイレンサーをしているのだろう、玩具みたいな「パン!」という音が後から聞こえた。
友和は、――更に風を読む。
その場から左にサイドステップ。コンマ数秒前にいた所を銃弾が過ぎ去り、コンクリートにめり込んだ。
友和は一番近くにいた黒服へと駆ける。
黒服は驚いた顔をしたが、直ぐに手にしている拳銃を友和に向けた。
友和はその黒い銃口の先を身体から巧みに逸らしながら、黒服に急接近。この時、友和は一瞬屈んだ。銃弾が友和の頭上を数発通過。膝を引き伸ばした力を利用し、下から斜め上への移動を行い黒服の意表を突く。
黒服が拳銃の引き金を引き絞るよりも早く、友和は左手の上腕部を縦にし、拳銃を外へと払う。黒服が引き金を絞る。大きく逸らされた拳銃の銃口は、観客席側へと向けられ、放たれた銃弾がそこにいた一人の黒服の腕に当たった。
喧騒と悲鳴が同時に起こった。
味方を撃った事に動転している黒服の腕を取ると、友和はまるで曲芸のような動きを行って捻り上げた。
黒服は堪らず声を上げ、両膝を床に付けた。
身長で十センチ以上、体重は軽く二十キロは違うだろうその黒服が、まるで子ども扱いだった。
友和は身体の深奥から湧き上がる高揚によって顔を火照らせながらも、冷徹な眼で黒服達を見回した。
その時、物凄い気配を感じてその方を見ると、真伏がゆらりとこちらに向かって来るのが分かった。虎か熊を思わせる圧倒的な威圧感をまるで靄のように立ち昇らせている。
表情は穏やかだったが、ブロック塀さえ噛み砕けそうな大きく白い歯が、獰猛なまでに覗いていた。
友和は組み伏せている黒服の首の後ろに手刀を落とした。
途端に掴んでいる黒服の腕から力の一切が消失し、友和が手を放すとその場に崩れ落ちた。
友和は再度周囲の気配を感知した後、黒服達の銃撃が一旦止んだ事を察し、真伏と対峙した。
真伏も無言のまま、グローブのような手を拳へと変える。
その時、
「う、動くな!」
ヒステリックな声が起こり、友和が振り返った先にはさゆの頭にボウガンを突き付け、いや半ば矢の先を突き刺している悲迦留の姿があった。
さゆの右のこめかみあたりから、赤い血が一筋滴り落ちて行く。
「とんだヒーローの登場だわ。まさか、あなたの存在自体がブラフだったなんてね。私の鼻を欺いていたとは、一体何時から館林さゆの人形になったの?」
悲迦留はさゆの妖術に対する自分の推測が外れた事にショックを受けたのか、悔しそうに顔を引き攣らせている。対する友和も、自分の身に紛れもない変化が起きた事を自覚している。
だが、心は不思議と平静を保っていた。
見えない筈の右の眼がまるで冷たく燃え盛る炎のようで、友和に熱い力と透徹とした理知を齎していた。
「人形だって? 冗談だろ。これは俺の意思だ。そういうお前こそ、まさに悪役その者だぜ」
「悪役ですって? 結構よ! 私の悲願を叶えるためには、どんな事だってするわ!」
「悲迦留、元々お前は山の神の血筋なんだろう。昔は人々に崇められていただろうに、よくもそこまで堕ちたものだな」
友和の言葉は相当悲迦留の痛い所を突いたのだろう。
悲迦留の顔が蒼白になり、眦が引き裂けそうなぐらいに吊り上った。双の眼が血で赤く染まる。
「黙れ小僧が! 山を追われて野に下って後、代々人間に仕えるしか生きられなかった苦しさを、今の平穏な世に生きるお前が理解出来るか!」
「……ああ、ちっとも理解したくはないな。俺は、強く生きると誓ったんだ。お前みたいに過去に囚われて、自分を見失ってる奴には言われたくない」
「小僧が!」
さゆに向けられていたボウガンが、瞬時に友和へと向けられた。
矢が自分の眉間に据えられているのを友和は理解し、再度風を読もうとする。
だが、この時友和は新たに複数の気配を上空に感じていた。
思わず見上げた夜空には、何も見えなかった。
曇天の夜空が、全く見えないのだ。
いや、よくよく眼を凝らすと複数の光点が見えた。
それは赤く、対になっていた。
そして、それら(・・・)が次々と舞い降りて来た。
友和は、さゆと初めて公園で出会った時、迫り来る彼女を見て海洋性哺乳類の覇者であるシャチと例えたのだが、シャチの真の怖ろしさは連携の取れた集団行動にあったのだ。
それら(・・・)が、力強いドルフィンキックでみるみる降下して来て、唖然としている黒服達の頭上に覆い被さる。瞬間、黒服達はそれら(・・・)に軽々と掴み上げられ、まるで打ち上げロケットを背中に括り付けているかのように、次々と空へと急上昇して行った。
あまりに非日常的で、まるで前衛映画のワンシーンを見ているかのようだったが、地上数十メートルの高さからそれら(・・・)に手を離され、落下して落下して――当然のようにホールのコンクリート面に打ち付けられた黒服が、口をぱくぱくさせながら壊れた人形の如く転がったところを見ると、紛れもない現実だった。
ぐしっぐしゃぐしゃっと、とまるで熟した柿が地に落ちるように、黒服達が空から降って来る。
地を這うような呻き声が溢れ返り、ありえない角度に曲がった手足で死に掛けの芋虫のような様相を呈している黒服達のあまりの凄惨さに、友和は自分の首から下を見ないようにした。
それら(・・・)の手から逃れようと黒服の一人が手当たり次第に拳銃を発砲するが、それら(・・・)を打ち落とすどころか味方の黒服に当たる始末で、ホール内は完全な恐慌状態に陥った。
唯一、真伏にだけは襲い掛かり難いのか、まるで隙を窺うかのように頭上でぐるぐると回遊行動を行うそれら(・・・)。
と、それまで自意識が散歩していたような顔で放心していた悲迦留が我に帰り、友和に向けていたボウガンの矢を放とうとする。当然起こったこの事態が、たった一本の矢で覆ると本気で思っているかのような必死な顔で。
だが、それよりも一瞬早く、三つの影が素早く空中から降下して来て、一つの影が悲迦留のボウガンを叩き落し、もう一つの影がさゆを拘束しているロープをナイフで切り、最後の影が悲迦留を助けようと迫る真伏を牽制した。
さゆを照らすスポットライトはそのままだったので、三つの影の姿が判明したのだが、それを見た友和は思わず声を上げてしまった。
スポットライトを燦燦と浴びて、地上より少し浮き上がっている三つの影は、凡そ一時間前に友和が駅で別れた筈の江藤、崎山、千倉だったのだ。
「よう。元気か?」
ボウガンを遠くに蹴飛ばして江藤が言う。
「まるで鳩が豆機関銃を食らったみたいな顔だな、宇木」
油断なくナイフを身構えている千倉がにやりと笑った。
「全く。お前ら二人とも、俺にばかり危険な役を任せやがって……」
崎山が、真伏と対峙しながら緊張感を漲らせて言う。
「そういう役目なんだよお前。俺らのポジション的に」
「良いじゃないか。同じ筋肉同士、馬が合うかもしれないだろ?」
江藤と千倉が軽口を叩きながら、素早く崎山の両脇に控えた。三対一で、真伏と対峙する。
「お前ら……、あ、館林は!」
突然の事に友和も反応が遅れたが、拘束が解かれたさゆを悲迦留が放っておく訳がない。慌ててさゆの方に視線を向けると、更に二つの影――保険医と、何とクラス担任の相坂が悲迦留とさゆとの間にいた。
「保険の先生に、相坂?」
「こらぁ! 相坂先生だろう、宇木!」
間違いない、この何とも言えない面倒臭さは相坂だ。
友和が思わずうんざりした顔になると、相坂の横にいる保険医が口許に手を遣って笑い、
「相坂センセイ、お説教は後にして下さいね。――さゆ様。この地に住まいし貴女様の眷属、ここに参上仕りました」
厳かにそう告げると、さゆの両眼を覆っている布を解いた。
瞼を閉じたさゆの素顔が露わになる。
さゆが、ゆっくりと双眸を開けた。
友和は、思わず息を呑んだ。
さゆの両の眼が、紅く紅く、光を帯びていたのだ。




