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死闘公園

 館林さゆが真伏に空中からの膝落としを見舞う数十分前、彼女はもやもやした気分で公園にいた。

 常夜灯の近くで白い息をはきながら、今日の昼食の時の事を思い出す。

 友和は、昼頃に遅れて登校して来た時から少しおかしかった。

 どうおかしいのかと問われると上手く答えられないのだが、今日一日友和からのこちらを窺うような視線を常に感じていた。

 友和の性格はある程度分かっているから、他人がいては話せない事があったのだろう。八割方、ナイトフィッシュに関わる事だろうし、さゆとしても無視するつもりはなかった。

 夜まで待ってあの公園で話を聞こうかとも思ったが、友和の様子を見る限り急な話のようだった。

 だから、友和と一緒になれる機会をさゆなりに探っていたのだ。

 だが、五時限目六時限目は教室移動がなく、同じ席に座ったまま時間が過ぎた。清掃も名簿順のために別の班だったし、そのまま夕方のホームルームも終わってしまった。

 どうしようかと思案していた矢先、仲良しグループの女子生徒達から下校のお誘いが来た。

 咲倉高校内で設定している館林さゆのお淑やかなお嬢様キャラからすると、この誘いは到底断れなかったし、転校してから数日しか経っていないのに特定の人物を待っているからと言って、女子生徒達を待たせる事も先に行かせる事も出来なかった。

 そんな事をすれば、変な噂を立てられるに決まっている。

 この年頃の少女達は人の噂話が大好物であり、尾鰭背鰭など瞬く間に付いて行くのだ。

 もっとも、さゆ自身そういった事が極めて少女的だと思っていたし憧れていたから、咲倉高校に来たのだが……。

 ともかく、友和の物言いたげな視線に後ろ髪を引かれる思いのまま下校した後、気持ちを引き摺るようにして夜の公園にやって来たのだ。徒歩ではなく。

 来てから十分程経ったが、誰かが公園に来る様子はない。

 右手首にしている腕時計を見ると、十一時を過ぎたあたりだった。

「早かったかな?」

 一人呟いて、白い息をはく。

 しかし、どうしたのだろうか。

 最初に会った時から、友和はさゆの能力であるナイトフィッシュとしての力――さゆはもうこの呼び名で構わないと感じている――を、全く怖れていない。それどころか、淡々と受け止めている。

 まるでピアノが弾けるとか絵が上手いとか、英語が喋れるといった特技の一つのように。

 さゆは、そんな風に自分を見る事が出来る人間を、今まで一人とも出会った事がなかった。

 だから、さゆは友和の存在をとても希少なものだと感じている。

 そしてそう思う気持ちが、意外と胸の奥にあった事にさゆは自分で驚いた。

 普段は仮面を被ってやり過ごしたり壁を築いて堅牢なまでに他者を入れなかった心の内側に、宇木友和という存在が確固たる輪郭をもってそこにあるのだ。

 途端に心に波紋が立ち、それを落ち着かせるようにたんたんたんと片足で足踏みをしながら、

「……あいつ、遅いわね。今日はこないつもり?」

 再び白い息をはきながら呟いた。

 その時、さゆの背後で何者かの足が小石を踏む音が聞こえた。

 咄嗟に背後を振り返ろうとして、

「動くな! こちらを見るな!」

 鋭い制止の声が耳を貫いた。

 同時に、錐のように顔の横に食い込んでいる威圧感が、改造して威力を上げたカスタムボウガンによるものだと、さゆは経験から理解した

 そして、それを手にしている者が誰なのかを完全に把握する。

「そうだった。お前達狛は、火薬の臭いが駄目なんだったわね」

 さゆが、霜が降りているかのような声音で言う。口唇から零れ出る白い呼気も、吐息ではなく冷気そのものであるかのように。

「こんな所で一人呆(ほう)けているとは、館林さゆらしくもないな」

 ちゃり、と小石を踏む音が近付いて来る。

 相手さえ分かれば対処の使用がある。その場から直ぐに泳ぎ出さなかったのは、まるで関係ない第三者かもしれなかったからだ。友和の例もある。

 しんと静まり返っている公園に、小石を踏む音だけがやたらと大きく聞こえる。

 ちゃりちゃりと、随分近付いてくる。そして、距離にして凡そ五メートルというところで止まった。不用意に近づき過ぎないのは、さゆの反撃を考慮しての事だろう。

(小賢しい奴ね……)

 さゆは心の中で毒付く。

 何故狛達がこの場に現れたのかという疑問を、さゆは頭の中から消し去る。今は問題の発生を考えるのではなく、問題に対しての対応と相応の対処を行うべき場面だ。

 さゆが相手の次の行動を読むべく、耳に神経を集中させる。

「驚いたわ。まさか館林さゆが、高校に潜り込んでいるなんてね。どういうつもり?」

 声には驚き以上に嘲りと憤りの感情が篭っていた。

 まあ、分からなくもない。

 狛連中が血眼になって探していた者が、のほほんと女子高生をやっているのだから。狛達からすればふざけるなというのが正直な気持ちなのだろう。

 もっとも、さゆは狛達に遠慮する気など全くもってないのだが。

「別に構わないでしょ。私はお前達に何か迷惑でもかけた訳?」

「白々しい事を言うな飛天夜魔(ひてんやま)が! お前の存在は、害悪でしかないのよ!」

 声の主がいきなり激したように言った。

(ぎゃんぎゃん吠えるところ、変わってないわねこの箱入り女。悲迦留だったかしら。確か、最も濃く血を引き継いでいるって話だけど)

「そんな大声出して良いの? 誰か来るわよ」

 さゆの声は、何処までも冷淡だった。

「ふん。お前を捕らえるための準備に滞りはないわ。……それより館林さゆ、お前こそどうしたのよ? こんな夜の公園で、まるで誰かと待ち合わせでもしているような感じじゃない」

 さゆは心臓の鼓動が速くなるのを感じると同時に、その事が露見しないように気持ちを落ち着かせる。

「こんな寒い夜に、誰と待ち合わせをするのかしらね」

 そう言って肩を竦めて見せる。

「そう? 例えば、血気盛んなボーイフレンドとか、かしら?」

「血気盛ん?」

「そうよ。私、一人知ってるのよ。お前と同じ咲倉高校の男子生徒で、ちょっと頼りない感じの子をね」

「血気盛んで頼りないって矛盾してるわよ」

 言いながら、さゆは腹部が冷たくなるような嫌な予感がした。

「いいえ、途端に怒り出したのよ。お前の事を話にした直後にね」

「誰かしら? 私、そんな子知らないわ」

「良く言えたものね、館林さゆ。お前はあの少年の生涯を狂わせつつある事を自覚しているのかしら?」

「知らないわ。あの少年って誰の事よ?」

 やれやれとでも言いたげに、背後の女が首を振っているのが背中で分かった。

「この公園から少し行った所に住んでいるみたいなのよ、その子。母親と妹との三人暮らしで、去年の事故で父親を亡くしているわ。――知ってた? 宇木友和はその時の事故で(・・・・・・・・・・・・)右眼を失明しているのよ(・・・・・・・・・・・)?」

「!」

 その瞬間、さゆは全身の毛がそそけ立つのが分かった。

 突然の感情の発露。

 それは怒りと悔悟の年が渦を巻いて逆波を立てているような、圧倒的な感情の奔流だった。

(宇木君、眼が……。だから、あの時)

 ソフトボールが顔面に当たった事は、右眼が見えない事によるものだったのか。

 いや、それは偶然だ。

 宇木友和は、右眼から光を失った日から、左眼だけの世界を生きて来たのだ。そうとは人に知られぬように。

 実際、さゆは友和の右眼が見えていないとは一度も感じなかった。

 違う。

 感じなかった(・・・・・・)のではない。感じさせなかった(・・・・・・・・)のだ。友和がそのように相手が感じるように行動して。

 それは意識的なのか無意識によるものか分からない。

 だが、間違いなく言えるのは、それが友和の並々ならぬ努力によって培われたものだという事だ。

 瞬間、友和がさゆに言った言葉が甦った。

 初めて二人で夜を泳いだ日、

『宇木君は、頭悪くないと思うわ。前の学校でも結構良い成績だったんじゃないの?』

と、さゆが言った言葉に、

『……いや、どうだったかな。もう、忘れたから。じゃあな』

 そう応えた友和の顔。

 ちょっと寂しそうに微笑んだあの表情を、さゆは照れ隠しだと都合良く受け取り、最後の言葉を胸に抱えた。

(私は、なんて愚か者だったの!)

 自分自身に対する怒りの炎が、さゆの胸を紅蓮に焦がした。もし、あの瞬間に戻れるのならば、自分で自分の首を絞めてやりたい!

 宇木友和は、忘れるしかなかったのだ! 父親と右眼を一瞬にして失ったその過去を!

 だが、触れればじゅくじゅくと湿った血糊が指に付くだろう心の傷を、さゆは無意識に抉っていたのだ。あまつさえ、顔に笑みすら浮かべて!

 それに、儚いような笑顔で応える友和!

 また別の言葉が甦る。さゆを串刺しにする糾弾の矛となって。

 さゆが見舞いと称して友和の部屋に上がり込んだ夜、丸坊主の男子生徒達と仲が良いのだと思っていたのにそうじゃない事が分かって、

『宇木君、一人だったの?』

 と、訊ねたさゆ。

 それに対して友和は真っ直ぐにこちらを見ながら、

『一人だった。友達も、作ろうとは思わなかった。……辛いとか寂しいとか思う前に、俺は……』

 そう言った。

 その言葉の中に大切なものを二つも失った友和の、どれだけの思いが溢れていたのか。

怒り? 悲しみ? 悔しさ? 苛立ち? 恨み? 憎しみ?

 ありとあらゆる負の思いが宇木友和の内側にあっただろうに、さゆはとても近くにいながらそれを感じる事が出来なかった。

 ――宇木友和は空気が読めない奴で、クラスで浮いている。

 突然、くすくす笑いを伴いながら脳裏を横切った言葉に、さゆはぞっとした。

 その言葉は、さゆがクラスの生徒達から幾度も聞いていたものだった。中には(あげつら)うように言う者もいた。

「――っ!」

さゆは、きつく歯を食い縛り、ぎりぎりと両手を強く握った。

 彼は、宇木友和は、教室にいる誰よりも空気を読んでいたのだ。自分がどういう存在なのかを知られれば、クラスメイト達に気遣いと言う名の枷を押し付ける事になると分かっていたから。

 だから、人を寄せ付けなかった。そして、右眼が見えているように演技をしていた。真実を知られないために。

(宇木君……あなたって人は……)

 さゆの中で悔恨(かいこん)の暴風が吹き荒れる。

「あらあら、知らなかったって感じね。でも、良いじゃない。どうせまた、使い捨てるんでしょ?」

「……使い捨てる、ですって?」

「そうよ。今までそうやって生きて来たんでしょう? お前は妖術で人の心を狂わせ、己の傀儡にする飛天夜魔。夜の天女と謳われていたのは遠い過去の話。今は、人の世に仇なす天魔……。ここで、お前との宿縁を終わらせる!」

 悲迦留がボウガンのトリガーに指をかける動作を、さゆは全身で知覚していた。

(……違う……、彼が、言ってくれた名が……ある。……私は……)

 さゆが背後を振り返るのと、悲迦留がボウガンを撃ったのは同時だった。

 刹那、空気を貫くか細い音と共に銀色に光る矢がさゆの胸に向かって放たれる。

 しかし、さゆの身体はひらりと紙が翻るかのような動きでそれを躱すと、彼女の背後の木に矢が突き立った。

 小さな舌打ちと共に、悲迦留が距離を取ろうと後退する。だが、それよりも素早くさゆが、機械的な優美さをもって悲迦留に肉薄する。

「くそっ!」

 悪罵が悲迦留の口から発せられる。ボウガンを掴んでいない方の手が後ろに回され、次の瞬間には刃渡り二十センチ近いナイフが握られていた。

「っああ!」

 気合の声と共に悲迦留の握るナイフが銀の軌跡を描いて、地上一メートル上の宙を泳ぐさゆへと振り下ろされる。しかし、これもさゆが事前に予期していたかのように急制動と方向転換によって完全に回避。

 銀髪を振り乱しながら、悲迦留はさゆを追い掛けつつナイフを振るう。

 だがそれを、まるで児戯であるかのように平然とあしらうさゆ。

 まるで鮫が海中で獲物を弄ぶかのように、悲迦留の周りを泳いでみせた後、地上四メートル程の高さに浮かび上がる。

「それは何の真似かしら?」

血が凝ったような紅の瞳で、悲迦留を見下ろすさゆ。

「これか?」

 悲迦留がそう言って自分の目許を指差して見せる。

 悲迦留は、両の眼を閉じていたのだ。

「宇木友和に教えてもらったのよ。お前の妖術を破る手段をね!」

「眼を瞑っただけで妖術を破るですって? 何を言ってるのかしら」

 小馬鹿にしたようにさゆが言う。だが、悲迦留は変わらず眼を瞑ったまま不敵に笑ってみせる。

「どうした? 私を操って見せたらどうなんだ。その不吉な赤い眼でな!」

 言い様、ボウガンの矢を放つ悲迦留。

 それは眼を瞑っていても的確にさゆの居場所へと放たれる。

 舌打ちをしてさゆは身を翻して矢を避けるが、矢がそのまま宙を飛んで行って途中で爆ぜた時には流石にその方向に眼を向けた

 ボウガンから放たれた矢が、繊維が焼けた時の刺激臭を発しながら黒コゲとなって落ちていく。

 ナイフとボウガンを手にしている悲迦留が、公園中に響き渡る程の声を張り上げる。

「決して逃げられはしないわ! 既にこの公園には結界を張ってある! 妖術も効かない! もうお前は捕らわれた毒蛾よ!」

「……犬に成り果てたとは言え、流石は直系の大神(おおかみ)の血かしらね」

 さゆが髪を束ねていたヘアピンの一本を取ると、それを頭上へと放り投げた。

途端に、ヘアピンが超高圧の電流に触れたかのように突然紫電を灯らせて、ボウガン同様そのまま黒コゲになって下に落ちた。

 紫電が灯った虚空は尚もばりばりと音を立てながらオゾン臭を撒き散らしており、淡い光の波紋が広がっている。

 光の波紋はまるでドームのように展開して公園一つを丸々覆っている透明の壁を明らかにした。

 紫電が消えると、そこは再び透明なまでに夜空を見せている虚空があった。

 さゆの眼が、ヘアピンをぶつけた箇所から、地上に立つ悲迦留へと向けられる。

 悲迦留はボウガンを構え直すと、矢の装填を手早く行い、矢を放った。

 さゆはそれを苦もなく避ける。

 そして急降下。

 悲迦留の顔が目前に迫る。

 さゆは悲迦留がカウンター気味に突き出したナイフの切っ先を、これも紙一重の差で避けた瞬間、ぎゅんと駒のように旋回した。

 加速度と遠心力が付加されたさゆの右足の先が、悲迦留のこめかみを急襲する。

 これを寸でのところで避ける悲迦留。そして両手を地面に着けた四足の体勢で着地をすると、そのままの格好で唸りを上げてこちらを睨むその顔には、何時の間にか犬歯が覗いていた。

「やれやれ、私の事を散々言っておきながら、お前も本性が出ているじゃないの。そろそろ人の姿も維持できないんじゃないかしら?」

「――黙れ。お前を倒す事が、私の使命だ!」

 言い様、悲迦留は着地した際に落としたナイフを拾い、それのグリップを口で咥えると、四つ足で駆けた。

 先程よりも数段俊敏な動きで。

 翻弄するように左右に跳ねて見せた後、さゆの近くに生えている太い幹を三角跳びし、まるで曲芸のようにさゆの間近にまで跳躍した。

 悲迦留が口に咥えているナイフの白刃が、さゆの喉元に迫り――

 これもさゆが巧みに空中で身を翻し、悲迦留のナイフを避けている。

「飼い犬風情が……。今更、野生に回帰したところで夜を舞う私を捕らえられる訳がない」

 さゆが顎に手を当て、嘲るように言う。

 だが、悲迦留は一旦ナイフを口から外すと、中腰になって構えを取りながら、襟元のピンマイクに向かって頷き、それから犬歯を剥き出しにして笑った。

「それはどうかな。今、私の仲間が宇木友和に接触したぞ」

「!」

 流石に動揺を隠せないさゆ。

「――は! お前が人間の少年一人に動揺か!? 可愛いものだな、館林さゆっ!」

 悲迦留のボウガンから矢が放たれる。

 心がざわついて戦いに集中出来ないせいか、さゆの動きに切れがない。

 矢の幾本かがさゆの身体を掠め、衣服を切り裂いた。

 苦悶にさゆの顔が歪む。だが、さゆは宙で身を翻すと、悲迦留に急接近した。

 再びボウガンの矢がさゆの身体を切り刻むが、構わずに直進。

 悲迦留のナイフがさゆを狙う。

 それを間一髪で避けつつ、さゆは悲迦留を捕らえようとする。

 掴み上げ、一気に上空へと引っ張りあげて落とせば、それで終わる。

 その怖ろしさを身で知っているかのように、悲迦留のナイフがややヒステリックなものになる。その隙を突こうとさゆの二本の手が悲迦留の身体に伸びる。

 と、ワンテンポ置くようにさゆが一旦悲迦留から距離を取った。

 地上すれすれで、僅かに宙に浮くさゆ。

「舞台を整えたにしては、私も舐められたものだわ。お前一人で、私の相手をしようといつつもりかしら?」

 悲迦留の唇の端が捩れ上がった。先程よりも更に伸びた犬歯が露出する。

「そうさ。これは私の矜持だ。昼間のお前を捕らえた所で、私の心は満たされない。飛天夜魔のお前を夜に捕らえてこそ、この屈辱を雪げるんだ!」

「さもしい根性ね。まさに犬そのものだわ」

 さゆが、再び悲迦留に向かって行く。

 それに対してナイフを繰り出す悲迦留。

 瞬間、さゆは躱すと見せ掛けて悲迦留の懐に飛び込んだ。

 咄嗟に悲迦留はボウガンを捨てると、空いた手でさゆの喉元を掴み上げ、そのまま地面へと引き倒した。

 背中を地面に叩き付けられ、息を詰まらせたような音を上げるさゆ。すかさす悲迦留が馬乗りの体勢になり、ナイフを構えた。

 一方、組み伏せられた形のさゆは悲迦留との体格差もあってか、なかなか浮かび上がれない。

 ナイフがさゆの胸元に突き立てられようとして、一瞬妙な間が空いた瞬間、さゆの手がナイフの刃を直に握っていた。

「馬鹿な! 何の真似だ!?」

 悲迦留が驚きの声を上げた。

 眼を開けてはいないが、ナイフに伝わる感触とじわりと滲み出ている血の臭いから、さゆがどうやってナイフを止めたのか理解したのだろう。

 さゆはナイフを素手で握ったまま、口許の端を吊り上げる。

「……本当に犬ね。捕らえるですって? 私を殺さないのかしら? いえ、本当は殺せないんでしょう? 生かして捕らえるよう、そう飼い主に言われてしっぽを振る下品な犬が!」

 怒りが驚きに勝ったのか、悲迦留は鬼の形相になってさゆの頬を平手で叩いた。

 更に数発叩いた後、抵抗力の弱まったさゆを立ち上がらせた後に蹴り飛ばす。

さゆはそのままごろごろと地面を転がったが、やがてゆらりと立ち上がった。

 ナイフを握った手を掲げてみせる。

 結構深い傷なのか、さゆの手は傷口から溢れ出る血によってぬらぬらと黒い手袋を嵌めているかのようだった。

「何の真似だ?」

 悲迦留が訝るように言った。

 両頬を腫らしたさゆが、笑ったからだ。しかし、悲迦留は両眼を開けていない。

 匂いが、まるで何かの薬品を思わせる甘ったるい匂いが、さゆの方から漂ってくるのだ。

 耳を澄ませば、先程から湿った物を絞るような音が聞こえる。

 にち、にちゃ、と。

 何の音かと確認しようにも、悲迦留は眼を開ける事は出来ない。もし、開けてそれを確認したのなら、驚愕で目を見開く事だろう。

 さゆは、ナイフで追った傷口を自らの手で更に抉り、湧き出る血をこそぎ集めているからだ。

 くふふ、とさゆは笑う。

それは自傷行為による異常な精神高揚の現れのようにも思えたが、違う。

 狂的なまでの、怒りだった。

 粘性のあるさゆの血が、手の平一杯に溜まっている。

 さゆはふわりと浮かび上がると、片方の手の平に溜まっている自分の血をもう一方の手で少し掬い、まるで種を撒くかのようにぱあっと周囲に撒き散らしたのだ。


 悲迦留は大いに慌てた。

 過去には山神であった大神の末裔であり、その血を濃く引き継ぐが故に凄まじい嗅覚の持ち主が悲迦留だ。

 しかし、それが今は完全に裏目に出た。

 甘く、生臭い独特の臭気が、辺り一面に満ちて鼻が利かないのだ。

 ここで眼を開ける事も考えたが、悲迦留はそれをしなかった。さゆの妖術が眼によって行われると友和の件から確信している悲迦留は、それに(すが)ったのだ。

 つまり、それだけ館林さゆの妖術が怖ろしかったのだ。それに、結界がある。

(如何に館林さゆだろうと、これを無傷で越えるなんて事は――)

 瞬間、凄まじいスパークが起こって悲迦留の瞼に幾重もの光の輪が浮いた。

流石にこれには驚いて悲迦留が眼を開けると、そこには凄まじい放電を起こしながらも結界を直接突き破ろうとしている館林さゆの姿があった。

 まるで間近で花火が上がっているかのように、光の輪が途切れぬ波紋となって公園を包む見えないドームを伝っていく。

「ま、待ちなさい! お前、死ぬ気なの!?」

 驚愕が、悲迦留の口から館林さゆを僅かながら気遣う発言をさせていた。

 だが、当の館林さゆはそんな言葉が聞こえる訳もなく、眩いばかりの放電に顔を青白く照らしながら、結界を突き破ろうとする。

公園の各所に張り巡らしていた結界を構築している呪符が、あまりの力技に抵抗し切れず燃え上がった。

「や、止めなさい!」

 悲迦留がボウガンを構える。

 その時、結界に片腕の半分を通したさゆと眼があった。

 幽鬼のように青白い顔の中で輝いている二つのブラックルビーが、悲迦留の瞳に吸い込まれた。

 思わず息を呑んだ悲迦留は、妖術にかかるまいとナイフを握っている手の甲で自分の頬を叩く。

 しかし、そんな事をしている間にもさゆは頭を、次に肩を通してしまい、胸が通った後は魚が魚篭(びく)から水面へと逃れ出るように、するりと結界の外へと抜け出ていた。

 それに前後するように全ての呪符が燃え尽きて、結界は消失した。

 悲迦留は、ただ手を拱いてそれを見ていた訳ではない。

 悲迦留はボウガンを構え、眼で館林さゆに照準を合わせていた。だが、妖術にかかっているかもしれないという疑心暗鬼が、悲迦留の指を硬直させていた。

 さゆが振り返りもせずに瞬く間に泳ぎ去ってから暫くして、悲迦留は慌てて真伏の存在を思い出したかのように無線を飛ばした。

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