2章 陽だまり
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日が傾き、すっかり辺りが薄暗くなりはじめた頃___.......。
窓から入ってくる夕日と行燈が土間にある厨を茜色に照らし、米の炊き上がるいい匂いとトントンと規則正しい包丁の音が響き渡っていた。
包丁の音を響かせ、白菜を軽やかに切っているのはお千代と呼ばれた一人の老女。藤色の着物の上から割烹着を着て、手際よく調理をしている。
竈の上に置かれている大きな鍋には山菜や茸がいれられており、彼女がその中に切り終えたばかりの白菜をいれた瞬間「あ、あの!」と理子は声をかける。
(確か名前は___........)
「......___お千代様」
理子の声に振り返ったお千代は
「あらあら、もう上がられたのですね」
と大根を切っていた包丁を止め、ゆっくり振り返った。理子を灰色の瞳で捉えながら
「理子様、顔を上げてくださいませ。わたくしは夏彦坊ちゃまに仕える一介の女中でございます。わたくしのことは、お千代とお呼びください」
と穏やかな口調でいう。
(でも、それは___........)
お千代の言葉に理子は戸惑い目を瞬かせた。するとお千代は理子の様子にふっと口元を緩めた。
「年寄りのお願いでございます。若い娘様から気軽に名を呼んでもらいたいのです」
お千代のその言葉に
「........____わかりました。お千代さん」
と理子がお千代の名を呼ぶとそれでいいのだといわんばかりに深く頷くお千代。そのお千代を改めて見返した理子は深々と頭を下げた。
「お先にお湯を頂きました。おかげでだいぶ身体が楽になりました。ありがとうございます」
理子の言葉にお千代は「左様ですか」と笑って理子に顔を上げるように促した。
夏彦から働く許可をもらい、早速働こうと身体を動かそうとした理子を止めたのは夏彦だった。
「身体を働かせる仕事はこれからいつでもできる。だから今は身体をしっかり休めるのが仕事だ」と言われてしまい、夏彦から湯あみをするように促されたのが数刻前のこと。
それで今しがた屋敷に設けられた湯に入ってきたところだった。檜で作られたらしいその風呂場はとてもよい香りがして、湯自体も何か入っていたのか、体の節々が痛かったにも関わらず湯に浸かっただけで痛みが引き、体に付けられていた切り傷が薄くなっていた。満足に湯あみができていなかった頭垢だらけだった髪からは花の香りがし、黒髪は艶が戻っていた。
(髪を手櫛で梳いても絡まないのはいつぶりだろうか。身体からもいい香りがする)
だからこそ理子は満足に湯あみができていなくて垢だらけの身体を昨日拭かせてしまったことが気がかりだった。
「お千代さん、昨晩は身体を拭わせてしまい申し訳ありませんでした」
そういって理子がお千代さんに向き直ると気にしなくていいというように首を横に振るお千代。そして話題を変えるように、ぱん、と手を叩いて
「今から夕餉ですが、お嫌いなものはございませんか?」
と理子に問いかけた。その問いかけに理子は「特にありません」と答えてから
「.......______もしよろしければ一緒に作ってもよろしいでしょうか?」
とお千代に申し出た。
(九尾様から身体を休めるよう命じられているから断れるかもしれない)
そう思ったがお千代は
「では、お願いしてもよろしいでしょうか」
と快諾する。「よろしいのですか!!」と目を輝かせる理子。その様子を満足げにみやって
「そちらにわたくしの割烹着がございます。お使いくださいませ」
と理子の傍らに畳まれている衣服を指し示した。理子が着物の上から割烹着を羽織ると
「理子様はいなり寿司を作られたことはございますか?」
と何げなしに問いかけた。
(いなり寿司?)
脈絡のない言葉に理子は思わず首を捻った。
「いなり寿司は幼い頃に母から教わっているので作れると思います」
(幼い頃お母様に教えてもらった___........)
寿司酢を米に混ぜ込み、甘辛く煮た油揚げで包んだいなり寿司は母から教わった数少ない料理の一つだ。厨に立つ母に何度も料理を教えてくれとせがみ、怪我をしないよう包丁を使わないことを条件に少しずつ料理を教えてもらっていた。
そんなことを思い出しているとお千代は片目を瞑っていたずらっぽく笑った。
「いなり寿司は坊ちゃまの大好物なんですよ」
「九尾様の?」
理子の問いにお千代は首を縦に振る。そして
「理子様にお願いしてもよろしいでしょうか?」
と言ってから「坊ちゃまもきっとお喜びになりますよ」、そう付け加える。
お千代のその言葉に理子は
「はい!ぜひ、私に作らせてください!」
両手をぐっと握りしめて、力強く答えた。




