2章 陽だまり
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茜色の夕焼けの中、小さな黒い影が地面にひとつ。
「もう少しで私の家だからね」
10歳に満たない幼子が腕に抱えた何かに話しかけながら家路に急いでいる。
『.......___チリン、チリン』
少女が歩を進めるたびに鳴る鈴の音。
(.......___あぁ、これは夢だ)
(.......___私の幼い日の記憶)
夕暮れの少し寒い風が肌を撫で、肌寒かったのを覚えている。
あのときは、腕に抱えた温かさがだけが頼りで____.........。
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「.......___ここは」
小鳥のさえずりが聞こえ、重い瞼を開くとそこは見知らぬ天井があった。鼻についたのは、つーんとした薬草と畳のにおい。そして、柔らかな衣の感触。
「......っ!!」
体を起こそうと身じろぎをした瞬間、体の節々が痛み思わず顔をしかめた。自らの体を改めてみると白い綺麗な布が掛けられ、背中に当たる感触はひどく柔らかい。丁寧に首には枕まであてがわれていた。腕を自らの目の前に翳すと、包帯が丁寧に巻かれており、傷の手当てをしてくれているのだろう。そこから薬草の香りがした。
(一体、誰が手当してくれたのだろう?)
(まさか、昨日の妖が?)
昨晩出会った少年の顔を思い浮かべながら、体を傷めないようゆっくりと体を起こすと件の少年が腕を組んで胡坐をかいていた。眠っているのか、瞳は閉じられ、規則正しく肩を上下に動かし、船をこいでいる。栗色の髪はひどく柔らかそうで、彼が動くたび、一束に結ばれた髪がさらりと揺れる。少年の傍らには水が張った器と白い清潔な布、そして煎じた薬草が置いてあり、彼が付き添ってくれたのは明白だった。
(........____この妖は)
確か九尾の妖狐だといわれていた少年だ。九尾の妖狐といえば、人の世を惑わし、戦を呼ぶ九つの尾をもつ狐の妖。
けれど、目の前の九尾の妖狐がそのような恐ろしい妖にはみえない。おまけに昨晩にはあったはずの頭の2つの獣の耳は今はどこにも見当たらず、九つの尾もどこにもない。そのため彼を初めて見る人がいれば、端正な顔立ちをした少年、という印象しか抱かないだろう。
「んっ!」
その時、少年の肩が大きく揺れた。そしてゆっくりと瞼が開き、茜色の瞳が姿を現した。まじまじと彼を見入ってしまっていた娘は視線を外すタイミングを逸し、視線が交わった。起きている娘に気が付くと少年はその茜色の瞳を大きく見開いた。
「目が、覚めたのか!?」
そしてそのまま少年は嬉しそうに娘の顔を覗き込んだ。少し動けば触れそうな距離に娘は思わず声も出せずに固まってしまう。
(ち、近い)
吸い込まれそうなその紅い瞳から目が離せなくなる。
「す、すまない」
対する彼もハッとしたように身を引いた。よくみると彼の頬が紅色に染まっている。
しばしの沈黙。
何とも言えないそのこそばゆい空気に耐え切れず、娘が「助けてくださり、ありがとうございます」と頭を下げた。
(この妖がいなければ、私は薄暗いあの場所で妖たちに喰われて死んでいたのだから)
娘が深々と頭を下げると「顔をあげてくれ」とどこか居心地の悪そうに声をかけた少年。娘は言われた通りに顔をあげると、少年は困ったように笑っていた。
その姿は一見して普通の少年。人間にしか見えない。だからこそ、「あのっ!」と娘は顔を少年に問いかけた。
「........____九尾様は、人ではないのですね」
娘の問いに少年はゆっくりと首を縦に振る。それは、肯定の意。茜色の瞳がどこか寂しげに揺れ、『チリン』と鈴の音が響く。
「あぁ。人から九尾の妖狐と畏れられる妖だ。......___恐ろしいか?」
少年のその言葉に「いいえ」と娘はきっぱりと答え、首を横に振った。少年は面食らったように目を瞬かせ、娘はその茜色の瞳の瞳を見つめ返した。
「あなたは優しい瞳をしているから__.......」
それは娘に久しく向けられたことのないもの。夕焼けの優しい太陽の色は、今も眩しいくらいに優しいから。
「......___だから恐ろしいとは思いません」
娘の言葉に「そうか」と少し照れ臭そうに俯く。
「それに傷の手当をしてくださっただけでなく、この服も__.......。」
そういいかけて、はて?と思考停止。継ぎ接ぎだらけの襤褸ではなく、身に着けているのは柔らかく清潔な桃色の寝間着。いつの間にか身に着けている衣服が変わっている。おまけに満足に湯あみができなくて、いつも頭垢が浮いていて肌に張り付いていた髪は、さらりと首にかかった。自ら着替えた記憶も、湯に入った記憶もない。
「ち、違うぞっ!!身体を拭ったのも、着替えさせたのも、お千代という女の妖だ!俺は傷の手当てのために薬草を煎じただけで、あとは包帯の取り換えくらいだ」
断じて違う!といわんばかりに両手を左右に振る少年。その拍子に彼の栗色の髪から、ひょいと2つの獣の耳が生えた。おまけにその耳をぴーんと立てている。まるで身の潔白を示すように。
「あぁ。でも、それが嫌だったか!?だとしたら、すまない」
そして途端にトーンダウン。それに伴い2つの獣の耳もしおしおと縮こまり丸まる。それは少年の真っすぐな心を現しているようで。「動揺すると妖力が乱れるんだ」とその耳を恥ずかしそうに両手で隠す少年。
「ふふふ」
それがなんだかおかしくて、私は久方ぶりに声を出して笑った。心から笑ったのはいつぶりだろうか。
「ははは」
つられたように彼も笑う。
......___父と母を失って、一人になって。もう、笑えないかと思っていた。
けど、まだ私笑えたんだ。




