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女王、欺く

作者: 赤枝しゅん

「————全く。とんだ災難だったわね」

 水沢が呟くように言う。文庫本から顔を上げると、彼女は椅子に座ったまま窓の外に顔を向けていたので、また手元に視線を落とした。

 旧校舎にある文芸部の部室はいつだって静かで、落ち着き払った水沢のか細い声でもよく聞こえた。

「バカは結局、何やってもバカって事よね」

 水沢は僕の返事が無い事も気にせずそう続けると、深く息を吐いた。今度は横目で盗み見るが、彼女はやっぱり窓の外に顔を向けていた。目の前に立ちはだかる新校舎を見ているのか、僅かな隙間から覗く曇天を見ているのか、はたまた何か別の気になる物を見つけたのか。僕には知る由もないが、それを聞こうとは思わなかった。

 これが僕らの日常だ。ほぼ毎日こうして放課後になると、旧校舎三階の端にある部室に来て、本を読むか、ぼうっとしているか。特にここ最近の水沢は気になる本を見つけられていないのか、窓際に椅子を置いてじっと外を見つめている事が多かった。

 文芸部の部員は僕とこの水沢大和みずさわやまとの二人のみ。よって今日も文芸部は通常運転で平穏無事極まりないのだ。

「ところで初瀬はせ君。テストの出来はどうだったの?」

「それを聞く?」

 文庫本を閉じて、短く溜め息をつく。三度目にしてようやく水沢と目が合うと、氷のような微笑みが僕を襲ってきた。全く、いつ見ても危い美しさだなと思う。儚げで端正な顔立ちはひどく冷涼で、そして笑顔が似合わない。いつもの無表情が似合い過ぎているせいもあるのだろうが、笑うと途端にバランスが崩れて、目が離せなくなる。どんなに美しくても愛嬌がなければ人は寄り付いて来ない、と言う事を体現している彼女は少しだけ可哀相だった。そしてこの顔を知らない僕以外の人間はもっと可哀相だ、とも思った。本人はまるで気にしていないようだけど、僕はずっとそう思っている。

「私が聞いているのは日本史の事よ」

「あぁ、そう言う事。でもそれこそ聞かなくてもわかるだろ」

「えぇそうね。初瀬君はもともと日本史得意だものね」

「別にそれに限ってじゃないけどね。水沢の方こそどうなんだよ」

 水沢は窓枠に頬杖をついて、じわりと口角を上げた。

「それこそ、聞かなくてもわかるでしょ?」

 不適なその笑みに僕は肩をすくめて、また文庫本を開いた。

 僕らはテストの結果を見なくとも分かっていた。日本史以外ならどこをどう間違えて何点とったかまでそれぞれ分かっていた。まだ期末考査が終わって、土日を挟んで三日間しか経っていないのに。もちろん返却どころか恐らく採点すらもまだだと言うのに、僕らはそれを知っている。

 何故?

 答えは簡単。僕らは事前に全ての問題とその回答を知っていたからだ。

 何故?

 それも簡単。期末考査の二週間前に全ての答案用紙をデジタルカメラで撮影したからだ。

 もちろんデータは既に消去済み。証拠は一つも残していないし、回答もわざといくつか間違えてあるので、ごく自然な高得点に留めてある。なので、僕ら以外にこの事を知っている者はいない。この先もバレる心配は全くない。僕らの作戦にはいつだって不備が無かった。

 一年生の中間考査の時から常にやっているにも関わらず、二年生になった今でもバレていないのがその証拠だろう。

 ただ、今回は予期せぬアクシデントに見舞われてしまった。それは僕らの作戦を脅かすものでもなければ、優等生の地位を揺るがすものでもない、ただちょっとめんどくさいってくらいの取るに足らないものだったけれど、それでも僕らにとっては「災難」に違いなかった。

 僕らが答案を難なく撮影した一週間後、つまり期末考査の一週間前に何者かが日本史の答案用紙を盗んだのだ。しかもご丁寧にそれが見回りに見つかってしまい、何とかギリギリ逃げ仰せたものの、結果として日本史のテスト内容がギリギリになって全面変更と言う、犯人にとっても本末転倒な結末で幕を閉じた。盗んだものがその答案用紙のみで、内容を変更するだけで対応出来たことから学校側も大事にはせず、犯人探しまで行わなかったのが不幸中の幸いだろう。と言っても犯人は覆面をしていたらしいので、背格好から犯人は恐らく男性だろうと言う程度の事しか分からないんじゃ、きっと探し出そうにも、もともと無理があったと思うけれど。

 何はともあれ、おかげでこちらは良い迷惑だ。顧問の先生から犯人探しの協力要請が無かった事は、こちらとしても不幸中の幸いだったけれど、おかげで日本史だけは自力で解かなくてはならない事態になってしまった。なんて面倒くさい事だ。無駄な労力は避けたいのに、こんな興味の湧かないものに頭を使わなければならないなんて。

 水沢の言う通り、バカは何やってもバカだ。そこは大いに同意する。

 僕らは正直言って頭が良い。だから答案用紙を事前に見なくとも、それなりに解けるのだ。

 だが、解けるからこそ僕らにとってそれは無駄以外の何ものでもなく、また興味が湧かなかった。そして、そんな興味の湧かない事に頭を使う事を僕らはひどく嫌った。だからこうして事前に効率よく回答をインプットして、のらりくらりとテストをやり過ごしながら自分の好きな事にだけ頭を使っていると言うのに、これだ。全く嫌になる。早いとこ忘れてしまおうとしていたのに、水沢のおかげで思い出してしまった。

 水沢は性格があまり良くない。そして割と根に持つタイプだ。だからきっと夏休みに入るまでの間はこの話を度々掘り返してくる事だろう。僕はその度に些細な苛つきを思い出して、嫌な気分になる。もしかしたら水沢はそれが目的で掘り返しているのかも、と脳裏に過るけれど、決して口にはしない。してはならない。

 水沢は性格があまり良くない上に、色々と捻曲がっている面倒な奴なのだ。

「初瀬君。それはどんな話なの?」

 水沢の声に顔を上げる。いつもだったら読書中はそんなに話しかけてこないのに、珍しい。そんなに暇を持て余しているのなら、本でも探しに行けば良いのに。なんて胸の内で毒づきながら、開いたままの文庫本を顔の高さまで掲げた。

「いつもの怪奇探偵ものだよ。ある村の呪いで人がどんどん死ぬんだけど、実は呪いじゃなくてってやつ」

「そう。じゃあちょっと貸してくれるかしら」

「ダメだよ。まだ途中なんだ」

「あら? ならどうしてそこまで知っているの」

「こういうのはそういうものなんだよ。お決まりってやつさ」

 そう。僕の好きな怪奇探偵ものの話はいつだって心霊の類いじゃなくて、ちゃんとトリックがある。これはある種、ルールみたいなもので、数々の名作はそれにのっとりながら意表をついてくる。その驚きが醍醐味なのだ。だから僕は推理ものの中でもとりわけこの怪奇ものを好んだ。

「水沢は最近、惹かれるものがないのかい?」

 僕は仕方なく文庫本を机に置いて会話に応じる事にした。水沢はあんまり放っておくと、平穏なこの学校生活を無茶苦茶にし兼ねない。なので水沢の相手、と言うか『監視』と『制御』が人知れず自らに課した僕の重大な使命なのだ。

「そうね。最近の新刊はどれもピンと来ないわ。全く困ってるのよ。世に出ている過去の名作はあらかた読んでしまったし。何か面白いものに出会えないかしら」

 溜め息混じりに結構とんでもない台詞を平然と言ってのけるが、あながち嘘ではないのが水沢の凄い所だ。彼女は僕なんか比較にならない読書家だ。それこそ本の世界でしか生きられないんじゃないかと思うくらいに、水の中に生きる魚のように活字の海を泳ぐのが水沢大和なのだ。

 好みは推理もの及びミステリー全般。だけど、特にそれだけに限定せず和洋問わず彼女の頭の中にはとんでもない量の物語が詰め込まれている。だから水沢が薦めてくれる本はどれも面白かった。僕の趣味を知っているから、しっかり外さないものをいつだって教えてくれた。

 ただ、僕も嗜好範囲は狭いくせにそれなりの本好きなので、彼女が薦める面白い本は既に全部読んでしまっていた。だからもう自分で探すしかないんだけれど、今僕が読んでいるこれはきっと水沢のお眼鏡には敵わないだろう。彼女もまた選定基準が厳しかった。

「水沢。君にはどうしたって探すしか方法はないんだから図書室でも行ってみたらどうだい? もうテストも終わったし人もそんなに居ないだろう。掘り出し物がまだまだ眠っているかも知れないよ」

「そうね。でも、何だか今日は気分が乗らないわ。きっと明日も明後日も乗らない気がする。ねぇ初瀬君。何か面白いものないかしら?」

 水沢の目は笑わずに真っ直ぐ僕を見ていた。どうやら今回のアクシデントで僕以上にストレスを溜め込んでいるらしい。ここまでの付き合いになると目で分かる。この目はあの「闇」を欲している目だ。人間の闇を、心の闇を。

 この状態の水沢はハッキリ言って、まずい。何を使って憂さ晴らしするか分かったものじゃない。

 僕はこの一年間で幾度となくこんな水沢を見てきた。そしていつだって何とか制御して来た。自分の望む「平和で楽しい青春生活」の為に。

 だから知っている。水沢がこういう時はいつだって事件が向こうから飛び込んでくる。まるで近づいてくるその臭いに反応して水沢がこうなるんじゃないかと疑ってしまう程、タイミング良く何かが起こるのだ。その度、僕は裏で多大な苦労を強いられるのだ。これじゃ本末転倒じゃないかと言われてもおかしくないのだけれど、実際、水沢を放っておいたら本当にとんでもない事態を招きかねないので仕方がないのだ。

「————失礼します」

 しばし、見つめ合っていた僕らの視線が部室の戸に移る。

 やっぱりだ。

 僕の思った通り、半分だけ開かれた引き戸の隙間から浮かない表情をした女子が顔を少し覗かせていた。どうやらまた『依頼』が来てしまったらしい。

「どうぞ」

 水沢は手を差し出し、引き戸の前に立つ女子を空いている椅子に促した。一見、全く動じていないように見えるが、内心ではヨダレを垂らしているに違いない。

「失礼します」

 軽く頭を下げて、その女子は部室に全身を晒した。

 パーマのかかった茶髪を揺らして歩く姿は、さながら雑誌のモデルのようで、埃っぽいこの部室が少しだけ華やいでしまう。

 彼女の堂々とした歩き方は何とも様になっていた。ほんの数歩なのにそれだけで彼女が「格上」の人間だと思わせる。そんな風格と甘ったるい匂いを漂わせながら長机を挟んで僕の目の前に座ると、彼女はようやく僕の存在に気付いたらしく、目を瞬かせながら口を開いた。

拓海たくみ君?」

「どうも」

 僕は会釈を返す。

「初瀬君。知り合いなの?」

「あぁ。同じ中学だったんだ」

 僕が水沢にそう言うと、目の前の女子も水沢に顔を向けて頷いた。すると水沢は表情も変えず椅子に座り直し、体ごと女子に向き直る。

「初めまして。市ノ瀬桜子いちのせさくらこさん」

 抑揚の無い水沢の言葉に、市ノ瀬は対照的な微笑みを浮かべて腕を組む。

「こちらこそ初めまして水沢大和さん」

 見つめ合う二人の間に沈黙が落ちる。何とも言えない圧迫感が部室に襲いかかって来る。

 両方と面識のある僕とは違い、彼女達は正真正銘の初対面だ。では何故、互いの名前を知っているのか。

 答えは明白。

 この、目には映らない心の目で睨み合っているような二人は、うちの学校じゃちょっとした、いや、かなりの有名人だった。しかも当の本人達にはまるで接点が無いと言うのに、同じくらい目立っていると言うだけで周りは勝手に二人を並び称していた。

 その名も「氷の女王」と「炎の女王」もちろん、氷が水沢だ。

 まるでセンスの無いネーミングだが、その実、中々に的を射ていたりもする。

 対照的な美しさを持つ二人は、もちろん雰囲気も対照的で、性格も真逆だった。

 水沢の美が「儚さ」なら市ノ瀬の美は「派手さ」で、人を寄せ付けないオーラを放つのが水沢なら、人を寄せ付けるオーラを放つのが市ノ瀬。

 極めつけは「誰とも友達にならない」水沢と「誰とでも友達になってしまう」市ノ瀬だ。

 このように全てが相反しているような二人に、唯一共通するのは見た目通りの性格って所くらいだろう。市ノ瀬も見た目通り、これぞってくらいの女王様気質で中学の時からずっと女子のリーダーだった。少し傲慢な所もあるが責任感も強く、正に人の上に立つような人物。

 水沢は人の上に立つと言うか、周りを全て見下している他を寄せ付けないまるで独裁者のような女王だった。もちろん、水沢のそんな内面を知っているのは僕だけだろうけれど。

 外見だけで人を判断してはいけないと言うが、この二人に関しては判断して正解である。

 並び称される氷と炎。二人の美しさは比べようが無い。だからこそ人は比べたがるのだ。

 市ノ瀬は見た目通りの奴なので、きっと昔から水沢を意識していたに違いない。背中から炎が出ているかのように「あんたには負けないわよ」オーラを出しているし、水沢もまた本能的に市ノ瀬が自分の一番嫌いなタイプだと察しているのだろう。視線を外さぬまま、少しだけ口角を上げると、背筋も凍るような歪んだ笑みを見せた。

 僕は今、正に冷静と情熱の間に挟まれている。なんて、上手い冗談を言っている場合ではなかった。

「……あの、市ノ瀬はどうしてここに?」

 タイミングを見計らって、隙間を縫うように絶妙なトーンで横やりを入れる。するとさっきまで充満していた圧迫感は一気に消え去って、市ノ瀬と何故か水沢も僕の方に振り向いた。

「あぁ、ごめん。そうそう。私、あんた達にお願いをしに来たんだった」

「依頼かい?」

 僕の言葉に市ノ瀬は軽く頷いた。やっぱり僕の予想は当たった。でも、依頼人が市ノ瀬だと水沢がどう出るかわからない。もしかしたら断る可能性だって十分にあった。

 いつからかこの文芸部は、まるで便利屋みたいにこうして依頼が来るようになっていた。恐らくこの学校で起こる事件のほとんどに関与しながら、それら全てを解決しているのがこの文芸部だと言う情報が漏れてしまったからだろう。おかげで今では「文芸部」と言う名詞だけが一人歩きしている状態だ。

 この学校の生徒はみんな口々にこう言った。

【困った時には文芸部。最後の手段に文芸部】

 ただ単に水沢が事件を掻き混ぜてさらなる闇を生ませようとしているのを、僕が必死に阻止しているだけだと言うのに。そんな真相は誰一人として知らない。情報を漏らしている顧問の先生も知らない。

 しかし噂と言うのは恐ろしい。まるでそれ自体が意志を持っているかのように尾びれ背びれを携えて身勝手に増殖していく。

 昔の人は上手いことを言ったもんだ「人の口に戸は立てられない」ほんと、その通りだと思う。

 そうしてまことしやかに囁かれたおかげで、こう言った学校内のアンダーグラウンド稼業はいつの間にか文芸部の活動の一端となってしまっていた。とは言え、こんな状態を甘んじて受け入れているのだから、結局は僕も事件を欲していると言う事になるのだろう。あんまり認めたくはないけれど。

「拓海君のクラスは文化祭で何やるの?」

 市ノ瀬は小首を傾げた。そういう仕草がいちいち可愛らしいのは計算づくだからだろうか。その吸い込まれそうになる瞳から目を逸らして水沢に向くと、彼女はまるで興味の無さそうな目を僕に向けていたので、止む無く僕は視線を元に戻した。

「僕のクラスはお化け屋敷だよ」

「そうなんだ。それも微妙だね」

 気持ちがいいくらい、はっきりと失礼な事を言ってくれる。

 どうやら市ノ瀬はもう遠慮を止めたらしい。何となくしおらしかったのは入って来る時までだ。水沢と自己紹介をした後はもう誰もが知っている市ノ瀬桜子に戻っていた。

「市ノ瀬さん。『それも』と言う事はあなたのクラスも微妙なのかしら」

 水沢の声には相変わらず抑揚が無い。僕と水沢は同じクラスなのだからもう少し不機嫌になってくれても良い所なのだけれど、彼女は僕と違って学校行事の類いには一切興味を持たなかった。

「そうね。微妙って言うか最悪? かな」

 自嘲する市ノ瀬の声音には明らかな怒気を感じた。最悪な出し物とは何なのだろうか。学校行事の中でも一、二位を争う代表的なイベントで、しかもクラスをあげて参加するのだから、例えそれが下らない事でも見方を変えれば最高にだって成り得るものだ。思い出作りとして見れば、参加さえすれば何をしたって一級品になると思うのだが。

 僕が数秒間黙ってそんな事を思案している内に、水沢の方が口を開いてしまった。

「最悪な出し物……ね。当てましょうか? メイド喫茶でしょ」

 水沢がうっすら笑うと、その視線の先で市ノ瀬は大きな瞳を更に大きく見開いた。

「何で分かったの?」

「期末考査の少し前にあなた達が大きな声で嘆いていたのを廊下で聞いたからよ」

「盗み聞き? 趣味わる」

「そんな下らないもの盗んでも仕方がないじゃない。あなた達が押し付けて来たのよ」

 市ノ瀬は口を噤んだ。確かにこう言われては言い返しようが無い。僕の脳裏には市ノ瀬が友達と大げさに嘆いているのを冷ややかに流し見ながら通り過ぎる水沢の姿が、ハッキリと浮かんだ。何とも想像しやすい絵面だ。

 しかし、メイド喫茶とはまた手堅くいったものだな。

 うちの文化祭は来場者のアンケートで出し物の順位が付けられ、後夜祭で結果を発表される。一位のクラスには何かしらの特典が与えられるので、全クラスそれなりに気合いを入れて文化祭に臨んでいた。だからテスト前には出し物が決められていて、夏休みを準備に当てながら九月の本番を迎えるのだ。

 ちなみに去年は三年の「上司カフェ」と言うのが一位だった。男には女の、女には男の上司役がついてお茶をすると言うものだ。流石に僕は中に入れなかったけれど、いつでも行列ができていたのは覚えている。どうやら例年こういうアイデアものが強いらしく、一昨年はそれこそメイド喫茶が一位だったらしい。恐らく市ノ瀬のクラスは本気で一位を狙っているのだ。市ノ瀬が『メイド』になるというだけで、とてつもない集客が望めるだろう。もちろん僕と水沢のクラスだって一位を狙っている。はず。

「市ノ瀬はメイド喫茶じゃ不満なの?」

 単純な疑問をぶつけてみた。こんな十分過ぎる企画のどこに不満があると言うのだろうか。

 しかし、僕の質問に市ノ瀬の顔は増々険しくなってしまう。

「不満? 拓海君さ。女子の気持ち分かる? 何で私達がメイドの格好しなくちゃならないわけ?」

「い、いや。メイド喫茶だからメイドの格好はするんじゃない?」

「だから! 誰が好き好んであんな格好するのって聞いてるの!」

 市ノ瀬は机を思いっきり叩いて声を荒げた。

「誰がって……でも、みんなで決めたんでしょ?」

「そうよ。だから問題なのよ」

「問題?」

「そう。こんなはずじゃなかったのよ……」

 市ノ瀬は深くため息をついて背もたれに寄りかかった。そしてポツポツと呟くように、その問題部分を語り始めた。

 どうやら市ノ瀬のクラスは男子と女子で意見が真っ二つに割れたらしく、仲裁に入った先生の提案によって投票で決める事になったらしい。そして、その時点で女子は勝利を確信した。

 理由は簡単。三十九人いるクラスメイトの内訳が男子十九人、女子二十人だったからだ。男女共互いに結束は強く、意見は一致していた。つまり投票になれば女子達が提案したディクショナリーカフェ(市ノ瀬が言うには本を読みながらお茶が出来るお洒落なやつ。らしい)になるのが確定したも同然だったのだ。

 しかし、期末考査の三日前に行われた投票の結果を見て女子達は目を疑った。

【メイド喫茶二十票 ディクショナリーカフェ十九票】

 女子達が、例え一票差でも勝った方にすると念を押したのが災いした。それが結果的に自分達の首を絞めてしまい、市ノ瀬のクラスはあえなくメイド喫茶をやる事になってしまった。

「女子はもうみんな疑心暗鬼になっちゃって、陰で裏切り者探しよ」

 市ノ瀬は溜め息混じりに言った。僕は結束の強い女子グループの恐ろしさを垣間見た気がした。

 だけど、こうして更なる揉め事に発展しそうな案件ならば是非とも協力してあげたい。嫌なものを見てしまう事になりそうだけど、文化祭が台無しになるよりマシだ。ただ、この手の依頼は今までの水沢を見る限り、高確率で断られてしまうだろう。人の汚らしい部分を隠れて見ているのが好きという捻くれた趣味を持つ彼女からしたら、こういう場合、放っておいた方が楽しめるからだ。だから、僕としてはまず、水沢をやる気にさせる事が第一の関門だった。

「市ノ瀬さん。質問良いかしら」

 水沢の問いに市ノ瀬は無言で頷く。

「依頼はその裏切り者を見つける。でいいのよね?」

「そうよ」

「見つけた後はどうするの?」

「それはあんた達には関係ない事。あんた達は見つけてくれさえすれば良いわ。後はこっちでやるから」

 ぶっきらぼうに市ノ瀬が言い放つと、水沢はニヤリと笑った。

「わかったわ。その依頼、引き受けましょう」





 ————依頼を受けて二日が経った。今日も放課後になると僕と水沢は、市ノ瀬があらかじめ絞ってくれていた女子達とは全く別グループの女子達を観察していた。

 市ノ瀬が絞ってくれた女子達は私服が割とファンシーらしく、恐らくメイド服にそこまで抵抗が無い。それどころか何なら着てみたいと思っていた可能性があるとの事だった。

「————まぁ本人達は着たくないって言ってたけどね」

 そう言った市ノ瀬の顔は怒りと言うより悲しみに満ちていた。きっと女子をまとめきれなかった責任を感じているのだろう。中学の時からそうだった。彼女は何か揉め事が起これば全て自分のせいにしてしまう人間だった。だから後は自分でやると言ったのだろう。そして水沢は恐らくそこを利用して掻き混ぜるつもりなのだ。珍しくこの手の依頼、しかも一番嫌いな人種である市ノ瀬の依頼を易々と引き受けた理由はきっとそこにある。

 恐らく彼女らの人間関係をグチャグチャでドロドロにする算段でもついたのだろう。

 依頼を受けた翌日の水沢との会話で、それはしっかりと感じ取れた。

「————ねぇ初瀬君。暗闇に浮かぶ笑顔が恐ろしい理由って何だかわかる?」

 誰も居なくなった教室。誰かが締め忘れた窓から風が通り抜ける、カーテンのパタパタと鳴る音だけが教室に響いた。

 僕と水沢は事件の概要を深める為にとりあえず市ノ瀬のクラスであるこの七組の教室で現場検証を行っていた。

「暗闇だと狂気を孕んで見えるから。とかかな」

 僕がそう言うと、水沢は風でなびいた細い髪を押さえながら微笑んだ。

「違うわ」

 水沢は一向に吹き止まない風が鬱陶しくなったのか、片手でそっと窓を閉めた。途端にフワリと浮いていた黒髪が重力に従って肩口にストンと落ちた。

「暗闇に顔は浮かばないからよ」

「なるほどね。で、水沢は結局何が言いたいんだい?」

 僕は窓側の列を確かめながら問う。この列だけ席は四つ。他は五つ。当たり前と言えば当たり前なんだけれど、こういうちょっとした違いが僕は気になった。

「初瀬君。女王をバカにしたければどうすれば良いと思う?」

 僕は席を一番後ろまで確かめて顔を上げた。どうやら前から男女の順で並んでいるみたいだ。

「水沢。もしかして」

 後ろのロッカーに寄りかかった水沢は、微笑みを浮かべたまま小さく頷いた。

「そう。メイドをやらせれば良いのよ」

「まいったな。そう言う事か」

「暗闇に浮かぶ笑顔は恐ろしい。本来、有り得ない事なのだから。じゃあ女王様がメイドになったら?」

「胸がスカッとする。いや、この場合は面白いって言った方が正解か」

 僕が答えると、水沢の小さな拍手が教室に響いた。

「普通だったら有り得ないものね?」

 水沢は拍手を終えて腕をだらんと下げる。夕暮れの教室に映える彼女の微笑みは、何よりも恐ろしく見えた————。


 リノリウムの廊下を通って吹奏楽部のロングトーンが届いてくる。僕らは七組の教室の向かいにある階段の陰に隠れ、死角ギリギリから中に居る女子達を伺っていた。

 僕らのマークしているグループはヒエラルキーで言ったらクラスで二位にあたる人達だった。市ノ瀬の居る一位グループと接点が一番多く見えて、実は一番遠くに居るグループ。水沢が言うには一位グループがさっさと帰った時はいつもこうして教室に居残るのだそう。全く彼女の人間観察、いや『人間関係の闇』観察には恐れ入る。部室では口にしなかったが、なにやら市ノ瀬の話を聞いた時にはもうこのグループの事が浮かんでいたらしい。無表情で市ノ瀬の見解を聞いている振りをしながら内心で嘲笑っていたのかと思うと、少しだけ市ノ瀬が不憫に思えた。

「さて、後は一人に絞ればいいのだけど。初瀬君、何か案はあるかしら?」

「そうだね。グループ内で一番地位の低い人を見つければ良いんじゃないかな?」

「あら、それはどうして?」

「だって裏切ったのは一人だ。もし、グループで画策したのなら実行犯なんてリスクは押し付け合いになるだろう?」

 そう、一票差なのだから画策したのは複数人でも実行に移したのは一人だけなのだ。当然だ。グループ全員で反乱を起こす必要は無い。むしろ裏切った人数で自分達が疑われかねないのだから。リスクは最小限に且つダメージの少ない方向へ。つまりいつでも切り捨てられる奴にって事になる。

「初瀬君は相変わらずそういうのを考えるのが得意ね。ほんと性格が悪いわ」

 嫌味とは裏腹に水沢は笑っていた。彼女は僕のこういう所がお気に入りらしい。僕自身も自分のこういう所はそんなに嫌いじゃなかった。むしろ誇っていた。こういう頭の回転の速さがあったからこそ、今まで学校生活を好き勝手に謳歌して来られたのだ。

 だからこの高校生活も目一杯、好きに楽しむ。その為ならどんな事でもしてやろうという気概も持ち合わせているのだから、僕に敵は無い。強いて言うなら水沢くらいだ。僕の青春においての敵は水沢大和。しかし、厄介な事に僕の青春に欠かせないのもこの水沢大和だったりするから困ったものだ。

「初瀬君。見て」

 水沢は囁くように言うと、笑い声を上げたグループを指差した。

 そこには三人の女子に軽く叩かれながらからかわれている女子の姿があった。一見、仲良さそうにも見える光景だが、その子の笑顔は僕らからすれば苦笑いにしか見えないものだった。いや、誰がどう見ても心から笑っているようには見えないだろう。果たして今も尚、からかい続けている女子はそれに気付いてやっているのか、それとも気付かずにやっているのか。まぁ、今はそんな事どうでもいい。とにかくこれで決まりだ。

「多分、あの子だ」

 水沢から返答は無かった。気になって、隣を盗み見ると水沢は薄ら笑いを浮かべながら女子達を凝視していた。





 ーーーー六日目。

 絵の具で塗りつぶしたような青空の下、僕と水沢は校舎の屋上からサッカー部の練習試合を眺めていた。

 所狭しと飛んでいくサッカーボールに色んな声が飛び交っている。

 何とも青春だった。

 日曜日の学校は部活で来ている人しか居ない。スカスカの校舎に活気のある校庭。やっぱりどこかから届いてくる吹奏楽部の音。休日の学校は昼間から、さながら放課後のようだった。

「さて、どうしものだろう」

 僕は自分の体温で温まった手すりから肘を外して、空を見上げる。青天は遮る雲一つなく、涼やかな色とは裏腹な温度でジリジリと僕らを焼き始めていた。

「そうね。その会議も含めて一旦部室へ戻りましょう」

 ハンカチで汗を拭った水沢は僕の返事も待たずに校舎内へと逃げていく。仕方なくそれを追いかけると、校庭から一際大きな声が上がった。きっと、どちらかが点を入れたのだろう。

 うちの学校だったら良いなと思った。正直、僕としてはもう少し見ていたかったのだけれど、振り返る事無く屋上を後にする。扉を開けたら、もう水沢の姿は何処にもなかった。


 部室にあるボロボロの扇風機が微かな異音を鳴らしながら僕と水沢に愛想を振りまく。風は生暖かい。日差しを遮っている分、屋上よりはマシだったけれどそれでも部室は十分暑かった。

「もうそろそろ強行突破かしらね」

 開け放たれた窓際に、椅子を置いて風を待つ水沢は気怠そうな視線を僕に向けた。それに肩をすくめると、水沢はフッと息を吐いて窓の外に目を投げた。風はまだやって来そうもない。

 僕たちは完全に的を絞って一人の女子を追っていたが、全く尻尾を掴めずに居た。それどころか、その子のいるグループからも裏切りを示唆するような発言が全く聞こえて来なかった。彼女らは時折メイド喫茶の話題を出しはするのだが、その話になると市ノ瀬同様に文句ばかりを言っているだけだった。

「水沢の言う強行突破って一体どういう作戦?」

「初瀬君が聞き出すっていう作戦よ」

「やっぱりそうか」

「もちろんそうよ」

 意地悪く笑う水沢に、わざと見せつけるような溜め息をついて僕は思案する。別にこういう作戦は初めてじゃない。過去に何回かやって来た事だ。

 僕は猫を被るのが上手い。故に顔も広く、水沢と市ノ瀬程じゃないけれど、話した事の無い人でも、僕の名前を知っているって人は多い、と思う。だから僕がいきなり話しかけても「誰?」とはならず、十分程度会話をすれば大概、警戒を解いてくれた。だからそんな作戦も人当たりの良い初瀬拓海にかかれば朝飯前なのだ。なのだけれど……

「やっぱりまだ早急じゃないか?」

「あら、どうして?」

「水沢には申し訳ないけど、僕は彼女達を見ている内にだんだん彼女達が裏切り者に見えなくなってきてるんだ」

「あら、どうして?」

 水沢は同じ言葉を全く同じ表情、同じトーンで放った。どうやら少し気分を害したらしい。

「水沢。僕は君の意見を否定するつもりは無いよ。君の言う通り、彼女達は市ノ瀬達にそこまでの好印象を持っているとは思えないし、きっと市ノ瀬達が困っていたら内心ほくそ笑む事だって出来るだろう。でも、今回の出し物に限っては彼女達もメイド喫茶をかなり嫌がっているように見える。市ノ瀬に一泡吹かせるよりも自分達があの服を着る事の方がもしかしたらって思うんだ」

「そう。初瀬君にはそう見えるのね。天秤にかけたら市ノ瀬さんを裏切る選択肢はとらない。と……」

「うん。じゃあ誰が裏切ったんだって言われてもわからないんだけど」

「でも、初瀬君がそう言うならそうなのかも知れないわね。あなたのそういう目は私以上なのだから。なら、強行突破は中止ね。今日はもう帰りましょう。こう暑くちゃ考えもまとまらないわ」

 水沢は鞄を取って扇風機のスイッチを切った。僕は窓を閉める。とうとう風は一度もやって来なかった。

 部室を後にして、水沢と昇降口で別れる。彼女は去り際に「もう、やり方を変えるべきかもね」と言い残して校舎を出て行った。僕は彼女の後ろ姿が見えなくなるまでしっかり見届けてから、また上履きに履き替えて階段を駆け上がった————。

 今回はちょっと時間がかかり過ぎていた。それでいてまた振り出しに戻ってしまったのだから、状況は切迫していると言っていいだろう。恐らくもうしばらくこの状態が続けば水沢はそれこそ強硬手段を取ってくる筈だ。人間関係をグチャグチャにするような最悪の展開を作り出して無理矢理「解決」とは呼べない「結末」を迎えさせるのだ。今までは僕がギリギリで何とかして来たけれど、今回ばかりはちょっとまずい。解決の糸口どころか事件の中身すら未だ全く見えて来ていないのだから。このままでは、いざと言う時にどうする事も出来なくなってしまう。

 だから僕は、もう一度この事件の概要を洗い直す事にした。

 七組の教室に辿り着く。三階建て校舎の三階、目の前には階段。その階段を上がって一直線に進めば前側の引き戸に当たる。鍵はいつだってかかっていない。

 中には誰も居ない。少し空気がこもっていたので、窓を開けると校庭ではまだサッカー試合が終わっていない事を確認出来た。

 窓は開けたまま、教卓に両手を置いて教室を見回す。一列の席数は五つ。それが八つ並んで窓際の列だけ席数は四つ。横幅一杯に広がって整然と並んでいる机はどれも同じように見える。ちらほらと横に手提げ袋が下がっていたりするのだが、違いと言えばそれくらいしか無かった。

 机の中を確認すれば、置きっぱなしの教科書やノートで名前は確認出来るけれど、それは必要ないだろう。

 投票は無記名で行われたのだ。そして投票用紙は先生が事前に用意していたものを使った。何の変哲も無いコピー用紙で作られたものだったが、先生がイベント記入欄と但し書きを直筆で書いて、それをコピーしたらしいので生徒達は配られて初めてそれを目にしたらしい。つまりこの時点では実質、複製が不可能な状態だったと言えるだろう。

 これが市ノ瀬から聞いた投票の全貌だ。

 となると、やはり女子が一人裏切ったと考えるのが妥当だが。

 もしかしたら先生が無記名投票にしたのは、そういうしがらみを無視した本音を聞きたかったからかも知れない。しかし『一人』というのが気になる。ディクショナリーカフェに投票した十九人は確実に女子だと言える。男子はどちらに転ぼうとも、格好もやる事も大して変わらない。ならばきっと少しでも人気を取りながら自分達も楽しめるメイド喫茶に入れるのが妥当だ。正直、僕もどちらか選べと言われたら迷わずメイド喫茶に投票すると思う。

 でも、たった一人で誰にも相談出来ないまま、密かにメイド服へと思いを馳せていた女子なんて居たのだろうか。市ノ瀬が言うには女子の結束は固かった。つまりひとりぼっちの女子は居なかったと言う事だ。この時ばかりはグループの垣根を越えて結束していたに違いない。大きな一つのグループとなったそれを裏切ってまでメイド服を着たいと思うだろうか。もし、バレたら今後の学校生活が最悪になりかねないのに。そんなリスクを負うくらいなら学校ではなく、別の場所で着ればいいだけの話だ。

「まいったなぁ……」

 それら全てを上手く説明出来るような状況が全く浮かばない。好きや嫌いで裏切られるような簡単なものじゃないはずだ。女子のグループと言うのはきっと僕が思っているよりもっと複雑で不可侵、そして不可抗なものの筈だ。一人で抗おうとする奴なんて居ない。中途半端に大人な僕たち、高校二年生にそんな無鉄砲さはもう無い。

 まいった。人間の感情を読むのは得意分野の筈なのに、今回はちっとも理解出来ない。利害や損得を抜きにしても、常識やモラルを取っ払っても、そんな行動には繋がらないのだ。友情や愛情、その他の欲求、そのどれもが全く結びつかない謎の裏切り行為。だが、現実にそれは起こっている。確実に『二十人』がメイド喫茶に票を入れているのだ。 

 これはいよいよ、困ってきた。





「————あら、寝不足?」

 昼休み、部室で弁当を食べながら目を擦ると、水沢はさも興味無さそうに聞いてきた。

「うん。昨日はなかなか寝付けなくて」

「確かに昨日の夜は真夏のように蒸し暑かったわよね」

 水沢は小さな弁当箱を閉じて微笑んだ。何だか機嫌が良いみたいだけれど、今の僕には、その理由に思いを巡らせている暇はない。

 結局あの後も家で一晩考えてみたけれど何も思い浮かばず、僕は少し自信を失っていた。能力が少しずつ落ちているのだろうか。だとしたら由々しき事態だ。

 だから、今もこうして弁当の味も無視して頭を働かせているのだけれど、やっぱり何も思いつかなかった。

「初瀬君」

 かけられた声で、いつの間にか空になっていた弁当箱に気付く。集中も度が過ぎると注意力散漫となるようだ。僕は弁当箱をしまいながら顔を上げた。

「初瀬君。そんなに考え込まなくても大丈夫よ。今日の放課後に面白いものが見られるから。それでスッキリしましょう」

 水沢は朗らかに笑っていた。でも、その笑顔は空の弁当箱を突ついていた僕にではなく、別の何かに向けられていた。

 嫌な予感がした。そう言えば水沢は今日に限って部室に来るのが遅かった気がする。いつもだったら早々に弁当を食べ終えて、悠々と暇を貪っているはずなのに。

 まさかとは思うが、こういう僕の勘は残念ながら良く当たる。

 もしかしたらもう、ゲームオーバーかも知れない————。

 放課後になると僕と水沢は部室に寄らず、そのまま七組の教室へと向かった。水沢の足取りがいつもより軽やかに見える。僕の前を歩く事自体が珍しいと言うのに、今にも飛んでいってしまいそうに軽やかな歩き方で進む水沢は、やはり昼休みに何かを仕掛けたのだろう。彼女の後ろ姿はまるで遊園地に向かう少女のようだった。

「あら、丁度良いタイミングだわ」

 まだそれなりに往来がある廊下を挟んで、僕と水沢は階段の踊り場から教室の中を伺った。

 そこには教卓に立つ市ノ瀬の姿があった。何やら、帰ろうとしたり、部活に向かおうとしていたクラスメイトを引き止めているようだ。

「水沢。一体何をしたの?」

 隣でウズウズしている水沢に顔を向けるが、彼女は教室から目を離さない。

「水沢————」

「しっ! ほら始まるわ」

 水沢は言下に放った。僕は視線を教室へと戻す。どうやらみんな席についたらしく、市ノ瀬は少し身を屈めて教卓に両手をついた。

「私達は前回の投票結果に異議を唱えるわ!」

 市ノ瀬の力強い声はここまでハッキリと聞こえてきた。僕の心と同じく一気に教室がざわついた。

「これは女子全員の意思です。よって私達は再投票を願い出ます。先生の許可は取りました。後は男子が了承してくれさえすれば再投票となります。どうですか?」

 市ノ瀬の言葉で水沢が何を吹き込んだのかが、大体分かった。そしてそれによってクラスがどうなるのかも何となく予想がついた。

「どうですかも何も一度決まったら変更は利かないだろ。一票差でも決まりって言ったのは女子だし。なんかおかしくねぇか?」

 一人の男子が吐き捨てるように言う。その声は完全に怒気を孕んでいた。

「ってか勝手過ぎるだろ。先生に許可取ったとか言われてもさぁ」

「そうだよ。もう決まったんだから少しでも楽しめるように頑張るとかの方向にいかねー? ふつー」

「だよなー。ってかめんどくせーよまた投票なんて」

 男子達は次々に思いをぶつけ始める。当然だ。いきなりなんの打診も無くこんな事を言い出されたら誰だって鼻持ちならない。市ノ瀬のやり方は明らかに間違っている。もし、そういう方向に持って行きたいのなら、もう少し頭の良いやり方があった筈だ。でも、こんな横暴とも言える強引なやり方に踏み切ってしまったのは、ひとえに僕の隣で嬉々とした表情を浮かべながら、それを眺めているこの水沢大和のせいだろう。市ノ瀬はきっと悪意のある助言に乗せられたのだ。そしてそれは瞬く間に女子全体へと広がり、こうしてクラス全体まで飛び火した。

 見る見るうちに教室が剣呑とした雰囲気になっていく。男子達は堰を切ったように文句を言い始め、女子達も売り言葉に買い言葉で語気を荒くしながら言わなくてもいい事を口にしていた。

 感情がどんどんヒートアップしていくのが分かる、クラスが真っ二つに別れて言い争っている光景はほとんど喧嘩に近かった。最早、全く関係のない事でお互いを批判し合っている七組の男女を水沢はとても満足気に眺めていた。

 このままいけば収拾がつかなくなる。互いにどんどん引けなくなって、下手すれば七組は女子がボイコット、そして出店辞退なんて事にもなり兼ねない。そうなったら水沢は更に裏で動き出すだろう。その事件をどんどん飛び火させて、やがては学校全体を巻き込み、文化祭の開催まで危ぶませるのは疎か、学校中の人間関係を掻き乱しかねない。

 まずい事になった。そうなったら僕の素敵な青春生活が全て台無しだ。好き勝手に生きる事を許される唯一の「学生」生活がこんな半ばで終わってしまうなんて僕には耐えられない。それでなくとも、もう数年間しか残されていないのに。

 かと言って今の僕には目の前で起きている問題を解決させる術は無い。先送りにする事は可能でも、それじゃジリ貧だ。

 まいったぞ、どうする。

「ちょっとみんな聞いて!」

 僕が頭をフル回転させて解決策を探している中、市ノ瀬が教卓を思いっきり叩いた。

 急に静けさを取り戻す七組の教室。僕の思考も一時停止して、市ノ瀬に目を奪われた。

「これじゃ埒があかないわ。もうやりましょう再投票。いえ、やります。投票用紙はここに用意しました」

 市ノ瀬はポケットから紙の束を取り出した。僕は隣の水沢に振り向く。恐らく、あれも水沢が用意したに違いない。いくら何でも準備が良過ぎる。

「男子は投票したくなければそれで結構。でも結果は結果。票数が少なくても勝った方を出し物にするから。よろしく」

 途端に男子から盛大なブーイングが巻き起こる。それに女子が応戦しだすから、もう教室内は罵声の嵐になっていた。そんな中、市ノ瀬が勝手に投票用紙を配ろうとすると、一人の男子がそれを強引に奪い取った。

「ちょっと何すんのよ!」

 罵声の嵐の中でも、市ノ瀬の高い声は通って聞こえる。

「これじゃ納得いかねー! 強制でやるんなら投票用紙は今作ろうぜ! お前らが変な事してるかもしんねーからな!」

 その男子は一際大きな声でそう言うと、手にした紙の束を破りだした。それに呼応するように男子から「そーだそーだ」と声が上がる。揃った野太い声が響き渡る中、投票用紙を破り終えた男子が手を挙げて制する。途端に静まる教室。男子は机からノートを取り出して掲げた。

「このノートを切って投票しようぜ。無記名でイベント名だけ書く。やり方は前と同じだ。いいだろ?」

 男子が手にしているノートはここの購買で売っているものだった。この学校の生徒なら誰しもが一冊は持っている何の変哲も無いノート。男子はそれを高々と掲げた。

「女子がそこまで言うならこれが条件だ。不正がないように公平にやろうぜ。みんなもそれならやっても良いよな?」

 ノートを掲げたまま振り返った男子に他の男子一同が頷く。どうやらこいつが男子のリーダーらしい。しっかりと統制がとれているからか、男子達はさっきまでの怒声が嘘みたいに落ち着き払って女子の承諾を待っている。

 隣に視線を移す。水沢は少し不機嫌そうな顔を見せていた。確かにこれでは七組だけで騒動は収まり、結末を向かえてしまう。投票結果がどうであれ、今度こそそれに従ってクラスは動き出すだろう。

 ただ、僕にはまた同じ投票結果になる事が予想出来ていた。そして渋々ながら女子達がメイドの服を着てウェイトレスになっている姿も目に浮かんだ。僕としては別にそれでも良いんだけれど、でもこのままじゃあまりにも市ノ瀬が不憫に思えて仕方なくて、つい体が動いてしまった。

「わかった。それで良いわ……って、え? な、なに。拓海君?」

 僕は七組の教室に足を踏み入れて、市ノ瀬と男子の間に割り入った。背中に大勢の視線を感じながら僕は目の前の市ノ瀬に頷く。

「ごめん。色々と聞こえて来ちゃったからつい、でも市ノ瀬。これはあまりにも横暴だよ。再投票するなんてルール違反だ。結果は出たんだから大人しく受け入れるべきだよ」

 僕はそう言って、後ろに振り返る。やはり皆の視線は僕に集中していた。

「男子の言い分はもっともだ。女子ももっと歩み寄るべきだよ。決まった事に対してネガティブになっても仕方がないじゃないか。そんなマイナスな感情に時間を費やすくらいならみんなでメイド喫茶を楽しめる方法を探した方がいい。そうだろ?」

 僕はノートを掲げて固まっている男子に同意を求める。きっと彼は僕の事を知っているだろう。人当たりが良くて少しおせっかいな『ミスター良い人』である初瀬拓海を。

「お、おう。まぁそうだよな」

 男子はそう言うと、ノートを持つ手を下ろした。僕はまた市ノ瀬に向き直り、肩に手を置いて耳元に囁いた。

「市ノ瀬。水沢と何を話したのかわからないけど、ここは僕の言う通り引いてくれ。恐らくあと二日もかからずに全てを明らかに出来るから」

 僕は市ノ瀬の肩から手を離して微笑む。市ノ瀬は僕を真っ直ぐ見つめて頷くと、僕の背後に向かって口を開いた。

「男子。ごめんなさい。拓海君の言う通りだわ。ちょっとやり過ぎた。ごめんなさい。これからはメイド喫茶をもっと楽しく出来るように会議していきましょう。私達も沢山、案を出すから」

 ね、と市ノ瀬が視線を流すと、後ろから「うん、ごめん」と女子の声が聞こえてきた。それにつられるように方々から「ごめんなさい」が飛び交いだす。

 僕は目で市ノ瀬に「それで良い」と合図して教室を出る。七組の教室はさっきまでの喧騒が嘘だったかのように男子の声も女子の声も穏やかさを取り戻していた。

「なんか……シラケちゃったわね」

 踊り場に戻ると、水沢はいつもの無表情に戻っていた。

「うん、そうだね」

 白々しく僕が言うと、彼女は何も言わず踵を返して階段を下りていった。





「————あれで良かったんでしょ? 拓海君」

 誰も居なくなった七組の教室で、市ノ瀬は机の上に座って足をぶらつかせた。横に下がっている手提げを見る限り、そこは男子の席のようだ。

「うん。あれで良い。でも流石だね。市ノ瀬じゃなければあんなにスムーズに空気は切り替わらなかったと思うよ」

 僕は後ろのロッカーに身を預けながら窓の外に目を投げる。こうすると、まるで水沢になったような気分だった。

 あの騒動で市ノ瀬に指示を出した以上、事情説明をしなければならないだろうと思って踊り場で待っていたのだけれど、まさかいつも一緒に居るグループの子達すら追い払って二人きりを所望するとは思いもしなかった。もしかしたら市ノ瀬はもう女子全員を信じられなくなっているのかも知れない。

 複雑な気持ちで校庭を眺めていたら、市ノ瀬が不意に笑い出した。

「ふふふっ。あーあ、拓海君にそんな事言われるとは思わなかったな。あれはどう見たって拓海君のおかげでしょ。 ほんと中学の時から変わらないんだね」

「そうかな? そんな事無いよ」

 思いっきり謙遜した。市ノ瀬の言う通り、さっきのは僕の立ち位置も全て計算してのものだった。中学の時に探し出したこの立ち位置はやはり便利だ。動きやすいし、楽しい。学生を謳歌するにはこれくらいが丁度良いのだ。市ノ瀬や水沢くらいの、ただそこに居るだけで人の目を引いてしまうような立ち位置はあまりにも不自由過ぎる。

「ねぇ拓海君。覚えてる? 中二の時の事件」

 市ノ瀬は悲しげに笑った。僕は、市ノ瀬にはこういう笑顔がまるで似合わないな、と全く関係のない事を考えながら頷いた。

「あの時さ。拓海君が助けてくれたんだよね」

「助けたってよりかは終わらせたってだけだけどね」

「ううん。私はそれで助かったんだから、それはやっぱり助けた事になるよきっと」

 僕は肩をすくめて視線をまた校庭の方へずらす。市ノ瀬もつられて窓に顔を向けたのが横目に見えた。





 中学二年生の時、彼女はある事件に襲われた。

 襲われたと言っても、直接的な被害は無い。ただ、身の回りの物が良く無くなったのだ。そして、それが盗難だとハッキリしたのは彼女の水着が無くなった時。今までは小物ばかりだったのに、いきなりそんな大きなものまで無くなるのだから、もう本人の不注意では済まされなかった。

 どこから盗難かは定かではない。だが、明らかに誰かが盗みを働いていた。

 しかもその被害者が人気者の市ノ瀬なのだから、女子も男子も大騒ぎ。変な正義漢を振りかざして全員の持ち物検査をしようなんて言い出す奴まで居た。そんな下らない奴の為にみんながプライバシーを侵害されるなんて、あっていい訳が無い。でも、残念ながらみんなそれを辞さないといった雰囲気だった。

 そこで僕は行動に出る。と言っても既に今のような地位を築いていた僕にとっては簡単な事だった。

「僕はもう犯人を知っている。もし犯人はバラされたくなかったら盗んだものを返すんだ。そして今後一切このような真似はしない事。期限は明日の放課後まで。それを過ぎたら申し訳ないけど全てをバラす事になるよ」

 教卓に立ってこう言っただけ。周りの騒いでいる人達には「きっと突発的にやった事なんだよ。きっと本人も悪いと思ってる筈だ。だからここで吊るし上げるような事はしたくない」と言って公表を避けた。我ながら人の良い初瀬拓海らしい模範的な回答だったと思う。おかげで騒動は一旦収束し、その日はみんな何事も無く下校してくれた。

 翌日、いつもより遅めに登校すると、市ノ瀬やその他の女子が飛んで来るなり、僕を口々に賞賛してきた。なんと、今朝にはもう市ノ瀬の無くなった物が全て返ってきていたのだ。なんて、そうなる事は別に予想出来ていたのだけれど。

 しかし、市ノ瀬が返ってきた物を全て捨ててしまったのにはビックリした。まぁ気持ち悪くて使う気にならないというのも、今になって思えば分からなくもない。

 かくして事件は解決し、平穏な中学校生活は易々と舞い戻ってきた。





「……あの時の犯人ってさ。結局、誰だったの?」

 不意に市ノ瀬が口を開く。僕は視線を彼女に向けるが、彼女はこっちを向いていなかった。

「知りたい?」

 市ノ瀬は少し考える素振りをした後に、かぶりを振った。

「ううん。やっぱりいいや。あれからはホントに無くなったし、掘り返すものじゃないよね」

 市ノ瀬は鞄を手に取り、机から下りた。

「んじゃ、期待してるよ。拓海君」

 いつもの笑顔で手を振る市ノ瀬に、小さく手を振り返して見送った。教室を去る背中が少しだけ落ち込んで見えたのは気のせいではないだろう。きっと相当弱ってる。でなければ、あんな顔を人には見せないし、ましてや水沢なんかの口車に乗ったりなんて絶対にしない。あんなの市ノ瀬じゃない。あんなの女王じゃない。

 きっと女王を打ちのめしたかったのならこれくらいでもう十分だったろうけれど、犯人の目的は恐らくそこではない。まだ推測の段階だけれど、きっとその逆なんじゃないかと思う。

 僕にはまだ何の確証もない。でも、キッカケは掴めている。

 あの時と同じだ。中二の事件の時と。

 あの時も、実は何も分かっていないままであんな事を言っていたのだ。ちょっとした綻びは見つけていたけれど、あの時点では何もかもが推測にすぎなかった。

 だからきっともうすぐ全てが明らかになる。

 あの時だって結局、皆が帰った後に悠々と犯人を割り出していたのだから――――。



 部室に戻ると、やっぱり水沢はまだ残っていた。

「おかえりなさい。遅かったわね」

「うん。ちょっとね」

「市ノ瀬さんと何を話していたの?」

 僕は水沢と目を合わさないようにして、いつもの席に腰を下ろす。恐らく彼女はあれからずっとここに居たはずなのに、どうしてわかったのか。声音からして勘で言っているようには思えない。どこかで見ていた訳でもないのに、何故か確信めいたものを感じさせる言い方は、僕の心に幾許かの動揺を与えたが、何とか悟られないように微笑みを作って答えた。

「うん。期限はあと二日でって言ってきたんだ。どちらにせよ二日で手を引こうと思うってね。水沢ももう面倒くさいだろ?」

「初瀬君はいつも勝手ね。面倒くさくなんか無いわよ? それよりもまた面白い事を考えたの」

 僕は微笑み返してきた水沢を両の手の平で制した。

「まぁ待ってよ水沢。その面白いのはさ、明後日以降にやろうよ。僕らが手を引いた後じゃないと足がつき兼ねない。やるなら安全に。だろ?」

「あら? 足なんてつかないわよ? どうしたのよ初瀬君。もしかして何か企んでいるの?」

 僕はかぶりを振る。手の平を向けたまま真っ直ぐに水沢を見た。

「僕が企む訳無いだろ。いつだって水沢の味方なんだから。そして君も僕の味方だ。そうだろう? だからこうして一緒にいる。これは水沢の事を案じて言っているだけだよ。万が一の可能性も潰しておきたいんだ」

 水沢は起こしかけた体を背もたれに預けて、つまらなそうに溜め息をついた。

「心配性ね。じゃあこの二日間は何をするの?」

「まぁ大人しくしていようよ。正直僕はもう興味を無くしてるんだ。めんどくさくなっちゃったんだよ。だから何事も無く二日経ったら、そのまま水沢の作戦を実行しよう」

 我ながらとんでもない大嘘をついたもんだと思う。全部が全部、真っ赤な嘘だった。水沢に嘘をついたのはこれが初めてじゃないけれど、ここまで全てが嘘って言うのは初めてだった。全く僕らしくないけれど、押し切るしか無い。今、水沢に動かれたらそれこそ終わりだ。

「珍しいわね。初瀬君がそんな事言うなんて。でも初瀬君がそこまで言うのなら言う通りにするわ。その珍しさに免じて。ね」

 水沢は薄く笑う。かろうじて頷く事は出来たが、内心、背筋が凍る思いだった。

 何とか凌ぐ事が出来たのだろうか。いや、凌げたと判断して良いものかはまだ分からない。

 彼女は一体どこをどこまで見透かしていて、何から何までが計算づくなのだろうか。あの投票用紙にしてもそうだ。あれは昨日、思いついて作れるような物じゃない。きっと前々から準備していたんだ。だとするとやっぱりわからない。一体どこまで水沢の思い通りなんだろうか。そう考えると、こんな風に嘘をついている自分までも水沢に操られているような気さえしてくる。彼女は本当に底が見えない。

 僕はまだ、水沢を計り切れないでいる。これだけ一緒に居るのに彼女がまだ善人なのか悪人なのかもわからなかった。彼女は気まぐれに人を陥れ、気まぐれに人を救う。故に僕は彼女の側を離れられない。分からない事だらけの少女、水沢大和。彼女を計り知る事が僕の青春の命題でもある。だから今も尚、この最大の謎に取りかかっている最中なのだ。

 ただ、それでも理解している事はある。それは知り合ってから今も変わっていない。

 この目の前で不適に笑う少女、水沢大和はいつだって僕の手が届かない所に居るのだ。





 次の日、僕は授業をいつも通り何となく過ごして昼休みを迎えた。水沢には休み時間にメールを打っておいたので、心置きなく僕は職員室へと向う事が出来た。

【ごめん。ちょっと先生に呼び出しをくらってしまったから、お昼は一人で食べて】

【わかりました。それにしても珍しい事って続くのね】

 僕はそのメールに返信をしなかった。彼女は何か勘づいているのか、はたまた全てが思い通りなのか。気にはなるけれど、生憎と今の僕にはそんなに時間が残されていない。今日の放課後にはアタリをつけて、明日の放課後には全てを終わらせないといけないのだ。

「————失礼します」

 引き戸を開けると先生達は僕の姿を一瞥し、一様にまた視線を戻した。めいめいに食事をしていたり仕事をしていたりする間を縫うようにして、約束を取り付けていた先生の元へと向かう。

「先生。すいません遅くなりました」

「全然。むしろ早かったわね。私ちょっとお弁当食べながらでも良い?」

 もちろんです、と頷くと先生は横に用意してくれていた丸椅子へと僕を促した。

「お弁当はもう食べたの?」

「はい。もう食べ終わりました」

「と言う事は早弁したわね。こら!」

 椅子に腰を下ろした僕に先生は腕を振り上げて笑った。こういう冗談を言い合えるのも、この二年の日本史担当である滝本先生が文芸部の顧問であるからに他ならない。それなりに教師からの評価も高い僕だけれど、なかなかここまで砕けた関係にはなれない。むしろ、なろうとも思わない。それでもこうしてふざける事が出来るのは、きっと先生の人柄にも寄るのだろう。

 まだ三十代前半でそれなりに容姿も良いこの滝本先生は男子からの人気も高かったが、それ以上に女子からの人望が厚かった。明るく年齢もそんな遠くない先生は女子から様々な相談を受けるみたいだ。それでこの性格だから、ご丁寧にその全てを真摯に聞いて受け答えてしまう。だから陰で『日本史』ではなく『恋愛』の先生なんて言われていたりもした。

 実は本人もそれを知っていて「私、結婚してないんだけどなー」と自嘲気味に笑える先生は僕から見ても愛らしかった。人気があるのも頷ける話だ。

「で、先生。投票用紙なんですけど」

「あぁはいはい。そうよね。はいこれ」

 僕が突拍子も無く本題に移ると直ぐに先生は表情を戻して、引き出しから折り目のついた紙の束を渡してくれた。この切り替えの早さも僕としては魅力の一つだ。

「先生。これは誰にも見せてないんですよね?」

 僕が尋ねると先生はお弁当をつつきながら頷いた。

「もちろんよ。私だって七組の担任なんだからクラスが今、どんな事になっているかくらい把握しています。だから誰にも見せずにこうして肌身離さず持ってるんです。筆跡で誰がどこに投票したか分かっちゃうかもしれないからね」

 肌身離さず、と得意気に言う先生が正に今、机の引き出しから取り出した事には言及せずに僕は手に持った紙の束を二、三枚捲った。そう、これは市ノ瀬が僕らに依頼をする原因となった七組の投票用紙だ。

 僕の予想通りなら恐らくこれにヒントが隠されているはずだった。

「先生はこれを見たんですよね?」

「当たり前じゃない。私が一つ一つ読み上げたんだから」

「じゃあ女子の中で誰がメイド喫茶に投票したか知ってます?」

 僕が投票用紙の束を掲げて首を傾げると先生は首を横に振った。

「それがわからないのよね。多分、左手で書くとかして筆跡を変えたんじゃないかな?」

「なるほど。まぁいくら生徒を良く見ている教師と言えど筆跡鑑定士程の目は持っていませんからね」

「そうよー。あれは立派な『お仕事』なの。仕事になるような技術を素人に求めちゃダメよ」

「……別に誰も求めてませんよ」

「あ、そっか!」

 僕のからかいも意に介さず、照れ笑いを浮かべる先生は放っておいて、机の隅を借りて投票用紙を分けていく。僕が確かめたいのは【メイド喫茶】に投票された二十枚だけだった。

 十九枚を除外し終えて、残る二十枚を一枚一枚捲っていく。

 男子の字は分かりやすい。武骨だったり、やけにバランスが悪かったり、明らかに書き順を無視していたり。それでも、字が綺麗で女性が書いたと言われたら信じてしまいそうな物もあった。その数は三枚。これだけでも大分絞れたと思う。

「先生。質問いいですか?」

 僕が三枚の投票用紙から顔を上げると、先生はちょうど大きな口を開けて唐揚げを食べるところだったようで、その状態で固まったまま頷いた。

「これってどうやって作りました?」

 先生は唐揚げを口の中に放り込んで、口をモグモグと動かしながら僕の手元にある投票用紙に視線をずらすと、横に置いた鞄からクリアファイルを取り出して僕に差し出した。

「これが原本よ。これをコピーしてハサミで切って作ったわ」

 原本の方は肌身離さず持っているのだな、と思いながらそれを受け取る。

 ファイルに挟まれた一枚の紙は真ん中に線が引かれて横線が三つ。つまり縦二列、横四列に区切られた合計八枚の投票用紙が繋がっている物になっていた。

 となるとこれを五枚コピーしたのだろう。でも、それなら一枚余る事になる。

「切り方ってどんなふうにしました?」

「どんなふうって……まず縦にバーッと切って。それを重ねてバッバッバと三回切って終わりじゃない」

「じゃあ一枚ずつじゃなくて最初から五枚重ねた状態で切ったんですね?」

「当たり前じゃない。そんな効率悪い事やっている暇はありません」

 ようやく唐揚げを飲み込んだ先生は間髪入れずにもう一個唐揚げを口に放り込んだ。確かに教師って言うのはそこまで暇じゃ無さそうだ。

「ちなみにこれを五枚コピーしたら四十枚なので一枚余るんですけど。それってあります?」

「うん? あるわよ。これ」

 今度はポケットから出てきた。あちこちから出てくるのに、探す素振りを全く見せ無いのが不思議で仕方がない。この人は本当に管理が苦手なのか得意なのかわからない人だった。

 受け取った投票用紙はクシャクシャに皺が入っているが、僕が今持っているものと何ら変わりがない。つまり、これで四十枚全部揃った。

 僕は受け取った四十枚目を、除外した投票用紙の上に置いて、しばし手に持った三枚の男子か女子かわからない投票用紙を眺めた。

 うん。少し面倒くさいけれど、やはりこうするしか確かめる方法は無さそうだ。

「先生。ちなみにこの余りっていつからポケットにありました?」

「え? そりゃ作った時よ。当たり前じゃない。必要ないんだから。でも、ちゃんと予備としてとっておくあたり先生らしいわよね」

 予備をクシャクシャにしてどうするんだ、と思ったが、変な所がずさんなのは今に始まった事ではない。機械的で面倒臭がり屋。ずさんで安定がこの滝本先生なのだ。まぁ予想通りでありがたい。

「先生。ちょっとここ片付けますね」

 僕は乱雑に積まれている書類をどけて、除外した投票用紙を八つのパターンに並べ始めた。

 紙を重ねて四回切って作ったのなら切り口が同じ物が八つ出来上がるはずだ。文字位置のズレはあっても紙の形は同じになる。僕はそれを一枚一枚重ね合わせて机の上で立てたりしながら確かめていった。

「……やっぱりな」

「んー? どうしたの? 何か見つかった?」

 僕は二枚の投票用紙を掲げて頷く。どこにも属さない九つ目のパターン。やっぱり予想通りだ。が、これじゃまだ細工の取っ掛かりに過ぎない。ここから、どこでどう実行されたのかを知る必要がある。

「先生。これの配り方を聞きたいんですけど。覚えてます?」

「うーん。どうかなぁ? いつも通りに配ったと思うんだけど」

 先生は首を傾げたが、僕としてはそうでなければ困るので逆に好都合だった。きっと犯人もそこを変えられたら困ったはずだ。

「じゃあ先生。僕が質問しますからいつも通りを想定して答えて下さい」

「いいわよ。何でも聞いて」

「これを配ったのは廊下側からですか? 窓側からですか?」

「廊下側ね」

「じゃあ廊下側からどう配りましたか?」

「どうって……こう五枚数えて前の席の子の机に置いて、後ろに回してもらう形だけど。変かしら?」

 僕はかぶりを振って、質問を続ける。

「じゃあそうやって配っていって最後。窓側の席の時は数えなかった。違いますか?」

「えぇそうよ。だって数える必要ないじゃない」

「そうですね。じゃあ先生。箸を置いてこれを持ってみて下さい」

 僕は机に置いた投票用紙の束からさっと数えて揃えると、先生に手渡した。

「そのまま僕に返して下さい」

 先生は訝しげな表情でそのまま僕にそれを返してきた。僕はそれを両手で包み込み質問する。

「今、渡した投票用紙って何枚でした?」

「え? わかるわけないじゃない。数枚よ数枚」

「じゃあ勘で良いです。何枚だと思います?」

「んー。じゃあ四枚」

 僕はフッと笑って、手に包んだ投票用紙を少しずらしながら掲げた。

「不正解。三枚です」

「あー。惜しかったわね。大体合ってるからまぁ私もそれなりよね」

 全然悔しがらない先生に僕は更に吹き出してしまった。

「前から思ってたんですけど先生ってほんといい加減ですよね。でも、空気を読む才能は素晴らしいです。まさかここまで言って欲しい事を言ってくれるとは思いませんでした」

「貶した後に褒められると反応に困るわねー」

「まぁ全部先生の魅力ですよ。多分、生徒全員が同じ事思っています。人気者はツライですね」

 僕は別におべんちゃらを言ったつもりはないのに、何故か照れている先生を無視して、さっき分けた二枚を取り出した。

「先生。最後の確認です。配り方はわかりました。じゃあ投票の仕方は、恐らく後ろから前に回させるって方法をとった。違いますか?」

「えぇそうよ。四つ折り以上に折らせてね。それを私がまた廊下側から回収して紙袋に入れて教壇に置いて、えーっと。それで黒板に書記を立たせて一枚ずつ開いて、それで……」

「いや、先生。そこまでで十分です」

 僕はエンジンがかかり始めた先生を制する。この人の、要らない情報程細かく教えてくれる癖だけはあまり好きになれなかった。

 僕は手に持つ二枚の投票用紙を先生に渡した。

「ごめんなさい。もう一つ。これを書いたのは誰だか分かりますか?」

 先生は二枚の紙に目を配らせて、一枚だけこちらに向けた。

「こっちだけならなんとなく分かるわ」

 僕はその紙を指差す。

「その生徒の席は窓側の一番目。違いますか?」

 先生の目が一瞬、真ん丸に見開く。

「すごいわね。相変わらずの名探偵っぷり。その通りよ」

「いやいや……」

 僕は謙遜しつつ、先生の手から投票用紙を取り返す。この一年と少しの間で先生からの依頼を何回か受けた事がある僕は、度々こんなふうに呼ばれた。正直言ってかなり恥ずかしいのだけれど、そう伝えた所でこの人はそれをやめたりしないので、もう受け流す事にしている。

 しかし、これでやり方は分かった。後は……まぁ一応聞いておくか。

「先生すいません。あと二つだけ聞かせて下さい。これっていつ作りました?」

「えーっとそうねぇ……多分、投票する事が決まって直ぐに作ったと思うんだけど」

「じゃあ結構前ですね。それ決まったのって確か」

「そう。そうそうそうだ。ちょうどテストの二週間前よ」

 やっぱり。チャンスは結構あったと言う事だな。

「これって作ったらずっと引き出しに入れてました?」

「うん。そうね」

「じゃあ投票日までこれを確認する事も無かったんですね?」

 先生は溜め息をついて力なく首を振った。

「そんな暇無いわよ。こっちはテストの答案用紙を盗まれて問題全取っ替えしなきゃだったんだから。管理責任まで追求されたりで大変だったのよ? あー思い出したくない。あれは正に地獄だったわ。そうそう、それでさ……」

「ごめんなさい先生。その話はまた今度聞かせて下さい。あ、この二枚借りますね」

 長くなりそうなので僕は早々に退散した。背中に「ちょっと」と声を掛けられたが、振り返ったら絶対に捕まるので無視して職員室を後にした。

 本当に先生は言って欲しい事を全部言ってくれる。まさかここまでのヒントをくれるとは思いもしなかった。これで後は放課後に確定させるだけだ。ここまでくればもう楽勝。解決したも同然だ。



 午後の授業も滞り無く終えて、放課後を迎える。七組の教室には僕ともう一人しか居なかった。こうしてほぼ初対面でも話を聞いてもらえるのは、やはり僕の特権だと言えよう。市ノ瀬に彼の協力が必要だと嘘をついて、伝言と人払いをお願いしたので、難なく望み通りの空間を作る事が出来たし、肝心の水沢には【今日は部室には寄らずに帰るよ】とメールをしておいた。これで準備は万端だ。

「————んで。話って何? 初瀬君」

 しばし、窓を開けて校庭で青春している運動部に目を奪われていた僕に痺れを切らしたのか、彼の方から話しかけてきた。僕は後ろのロッカーに寄りかかって腕を組んでいる男子に向き直り、とびきりの笑顔を向ける。

「ごめんごめん。えーっと……」

「北野。北野祐介きたのゆうすけ

 僕の考えている事を察してくれたのか、腕を組んだまま彼はぶっきらぼうに答えた。そう言えば名前を知らないままだった。

 この前、ノートを掲げて投票しようと言い出した男子のリーダー格である彼は、こうしてしっかり見るとあの時とは打って変わって平々凡々な人間に見えた。やはり、こういう構図は水沢みたいな奴じゃないと似合わないみたいだ。夕暮れの誰もいない教室で絵になる人間なんて、そうそう居ないのだ、という事実を意外な所で再確認させられてしまった。

「なぁ初瀬君。だから話って何。なんか協力して欲しい事があるって市ノ瀬に聞いたけど?」

 あまりにも彼の姿が滑稽で、ついつい別の事を考えてしまっていた。でも、本当に滑稽だ。まぁ、この余裕はもうすぐ消えるんだろうけれど。

「北野君に協力して欲しいって言うのはさ。ちょっと僕の答え合わせに付き合って欲しいんだ。本当はもう分かってるんだけど、やっぱりこのままだとフェアじゃないからね」

 僕は少しだけカマをかけてみた。案の定、北野君の口が少しだけ歪む。それを確認出来て安心した。後はもう誘導するだけだ。

「実はね。この前の投票に不正があったんじゃないかって噂があってさ。あ、僕は文芸部なんだけど」

 そう言うと北野君は目を少し見開いて、僕を舐めるようにつま先から顔へと視線を滑らした。その終点で嫌味なくらいの笑顔を向けて上げた。あくまで友好的に、且つ余裕を見せなくてはならない。

「それでさ。何となく気になってね。調べたんだよ。テストが終わった後で暇だったから、おせっかいでも焼こうかってね。そしたら全部分かっちゃった。でも、僕は実行犯じゃなく君を呼んだ。この意味が分かるかい?」

 北野君は僕をじっと見つめたまま小さく首を振った。

「北野君が男子のリーダーだと思ったからだよ。北野君なら穏便に済ませられると思ってさ」

 僕は数歩後ろに下がって、横向きに窓際一番前の席に座る。そして大げさに溜め息をついた。

「こんな大胆な作戦がまかり通るのはきっと滝本先生のラフな性格のおかげだよね」

 教室の後方に視線を移すと、北野君は固まっていた。もうこの反応で十分なんだけれど、目的はその『先』なのだから仕方がない。もっと追いつめないと。

「この投票用紙。これだけね、先生が切って作ったやつと少し形が違うんだよ。北野君なら言っている意味分かると思うけど」

 二枚の投票用紙を取り出して、ヒラヒラと揺らす。北野君の顔面は更に歪んだ。

「良く考えたよね。でも、詰めが甘い。人の手で作られた物と同じ形を作るなんて芸当は難しいんだ。それでも頑張った方だと思うけどさ。でも、生憎と僕はこういう細かい事が気になる質でね。重ねて切った時に盗み出した方も切っちゃうなんて、ドジにも程があるよ。でも、そのやり方だと重ねて切るしか方法は無いか。それじゃ原本を傷つけなくてもどちらにせよ完璧に同じ物は作る事が出来ない」

 僕は投票用紙をしまう。もう見せながら説明する必要も無いだろう。北野君はきっと僕が全てを掴んでいて、証拠まで手にしていると信じ込んでいる。全く、勝手に一人歩きしている『文芸部』の名声は凄いもんだ。

「きっとこのコピーした幻の四十一枚目は字が綺麗な男子の誰かか、もしくは親族、または校外の友人の女性に書いてもらったんだろう。そしてそれはそこの席の子が持っていた」

 僕は窓際、前から三番目の席を指差した。けれど、北野君の視線は僕に向けられたまま動かなかった。

「原本のほうはあらかじめこの一番目の席に座っている男子が持っていた。そして先生が席に置いた『三枚』の投票用紙を何食わぬ顔でそのまま後ろに回し、自分は用意しておいた原本を机に出す。手の平に隠していたのかな? 結局は折るんだからそれは容易いよね。そしてここからが本番。記入するまでは通常通り。だが、後ろから投票用紙を回す時に細工をした。そこの三番目に座る男子は後ろから回ってきた女子の投票用紙を回収して、かわりにあらかじめ記入していた幻の四十一枚目を回したんだ。そう。これで、ディクショナリーカフェは一票減ってメイド喫茶が一票増える。後は投票結果を待てば良い。お見事」

 僕は拍手を送ったけれど、北野君は固まったまま動かないので直ぐに止めた。本当は証拠も無いのに、恐らく彼は勝手にもう逃げ場が無いと思い込んでいる事だろう。

 やっぱりネームバリューと言うのは便利な道具だ。僕の立ち位置も文芸部の名声も。

 これが真相だ。

 初めから女子に裏切り者なんて居なかった。誰も裏切ってなんかいなかったんだ。市ノ瀬の言い方や水沢の発言など色々な思惑が重なってしまって先入観を植え付けられてしまい、僕とした事が煙に撒かれてしまったが、やはりバカは詰めが甘い。あの再投票騒動で尻尾を出してしまった。何故あそこまで声を荒げて嫌がっていたのに、今からノートを切って投票用紙を作ると言う条件を提示した瞬間にコロッと受け入れてしまったのか。あれじゃ、投票用紙に仕掛けが有りますと言っているようなものだ。おかげで僕は助かったけれど。

 きっと男子達はあの誰もが持っているノートで投票用紙を作る事で、また同じように細工をしようとしたのだ。あんなノートでやるのなら投票前にトイレにでも行ってパパッと作れてしまう。字が綺麗な男子だって数人は居るのだからその内の一人と連れ立って行けば簡単だ。

 さて、ここからは更にカマをかける事になる。推測も甚だしいけれど、バカはやっぱり詰めが甘く、ドジを踏む。でも、本当にこれが正しかったら、恥ずかしい事に僕も水沢もまんまとそのバカの思惑通り、気を逸らされてしまった事になる。それがほんの少しだけ悔しかった。

「北野君。後はいつどうやってこの投票用紙を盗んだのか。なんだけど。あ、そうだ。盗むと言えば滝本先生の日本史のテストを盗んだ奴が居たねー」

 白々しく言いながら横目で北野君を伺う。顔は俯き、両手は拳を握っていて力が入り過ぎているのか、体が小刻みに震えていた。

 やっぱりか。

 確証は無く、全てが確率の高い憶測に過ぎなかったけれど、どうやらこれで決定みたいだ。しかし、今回は反省が多い。バカもなかなか侮れない。あまり調子に乗っていると足下をすくわれ兼ねないな。慢心は避けているつもりだったけれど、まだまだだ。

 きっとあの日、見回りに見つかった覆面はこの北野君だろう。テストを盗んだのはフェイク。本当の目的は投票用紙だ。ただ、用紙の枚数チェックなどで予想以上に時間がかかり、見回りに見つかってしまい、攪乱する為にテストを盗んだ。

 それが思いの外、効果を発揮したのだ。時期も良かった。テストは作り直せたし、おかげで極力問題を避けたい学校側も大事にしないで済んだ。結果、犯人探しは行われず一件落着。本当の目的である投票用紙の事なんて滝本先生は勿論、他の誰も考えもしないで犯人は雲隠れ出来た。

 まぁ、そのどれもが思いつきと偶然で、計算なんてどこにも無いのがバカたる所以なのだけれど、でも、こういう奇跡的な偶然は時に想像もつかないような事態をもたらして、頭の良い奴じゃ考えもつかないような所へ飛んで行ってしまうのだ。

 今回は本当に勉強になった。少し、思い直さないといけない。

「さて、北野君。ここからが本題なんだよ。何故僕が人を払って君に話したか。わかる?」

 僕は席から立ち上がり、北野君に一歩一歩近づいて行く。目の前で立ち止まると、ようやく彼は顔を上げて僕と目を合わせてくれた。

 ここでもやっぱり笑顔を忘れない。

「僕はこの問題を公にせず、平穏無事に全てを終わらせたいんだ。だってこんなの誰も幸せになれないだろ? バラしたらそれこそ七組はグチャグチャになる。だからさ」

 僕は優しく北野君の肩に手を置いた。

「ごく自然に男子から再投票を促して、正々堂々と負けてくれないかな? 個人的にはメイド喫茶の方が見たいけど、こんな事になるくらいならみんなで楽しく文化祭を迎える努力をするべきだろう? それに、これが君たち七組男子に出来るせめてもの誠意の表し方だと思うよ」

 北野君はびっしょりと汗をかきながら、二度頷いた。僕は微笑みを絶やさず「ありがとう」と呟いて携帯電話を取り出す。北野君にも携帯を出すように促して、再投票を言い出すタイミングは僕から伝えるからとメールアドレスを交換すると、立ち尽くす北野君にもう一度微笑んで教室を出た……所で目を疑った————。

「初瀬君」

「み、水沢?」

 教室の前の廊下に水沢が立っていた。

 彼女は教室から出てきた僕を見て笑うと、ゆっくりと近づいてくる。

 一歩、一歩、と歩いて、やがて僕の目の前に立った。微笑みは絶やさず、尚、冷涼さを備えたまま、薄いピンク色した唇がゆっくりと動く。

「————うそつき」





 昨日の水沢は本当に怖かった。大げさじゃなく背筋が凍り付いた。僕はやっぱり彼女には敵わない。それを思い知らされた。僕もつい数分前、北野君に同じような事をしたのに、水沢はまるで別次元の「それ」だった。僕はきっと、この先どんなに頑張ってもあんな幽霊さながらには出来ないだろう。いや、夕暮れに染められた廊下の温度をその存在のみであそこまで下げる事が出来るのは、きっと後にも先にも水沢くらいしか居ないと思う。

「ねぇ拓海君。わかったんでしょ? ねぇどうなの?」

「い、いや。その……」

 水沢に呼び出されて文芸部の部室に来た市ノ瀬はさっきからずっとこんな調子で僕を急かしていた。確かにタイムリミットの放課後なんだけれど、僕は彼女に何も答える事が出来なかった。

『初瀬君はもう手出し禁止。後は全部私に任せる事』

 それが昨日、水沢が僕を許す為に出した条件だった。もちろん僕はそれを承諾した。そうする他に選択肢が無かったからだ。僕は例えそれが何であれ、天秤にかけられたら必ず水沢を選ぶ。彼女もそれを知っていてこんな条件を出している。だから、意地が悪い。

 故に申し訳ないが、市ノ瀬には何も言う事が出来ないのだ。ここで嬉しそうに僕を眺めている水沢が何か指示してくれない限りはもうこの件に触れられないのだ。

「ねぇ拓海君。約束じゃない。ちゃんと教えてよ! ねぇったら!」

 しかし、いよいよ限界が近い。市ノ瀬はもう我慢ならないといった表情で迫ってくる。声に怒気も混ざり始めた。僕は目で水沢に助けを請う。本当に悪かった、と。だから何かしらの行動を、とも。

 水沢はすごく満足気に微笑むと、ようやく市ノ瀬に顔を向けた。

「市ノ瀬さん。それは私から話すわ」

 水沢の言葉に水を打った静けさが部室に落ちてくる。市ノ瀬は机の上に乗り出していた体を椅子に戻し、フンと鼻を鳴らしながら腕を組んだ。やはりこの前の、水沢が入れ知恵した一件の事を少なからず怒っているようだ。冷静に考えれば、あれは誰がどう見ても事態を悪化させるだけの行動だったとわかる。どうやら市ノ瀬は二日の冷却期間を経て、元の女王らしさを取り戻したようだ。水沢を睨みつけるような視線には確かな力が込められている。

 だが、水沢はその交わらせた視線を軽く受け流すように笑った。

「私達、と言うより私は七組の裏切り者を見つけたわ」

 僕を除外したのが果たして僕の為なのかはわからない。ただ、水沢のこの微笑みは何かを企んでいる時の顔だ。それは間違いない。面白くなりそうだという時はいつだってこのおぞましい微笑みを浮かべていた。

 どうやら僕はまるで先の見えない未来の対処法を今から考えておかなければならないらしい。ここまで来たら被害をどれだけ小さく留めるか。それが今後の僕がとるべき行動だ。未然に防ぐ事は残念ながらもう、不可能だろう。

「水沢さん。ならそれを聞かせてもらえるかしら」

「あら? どうして?」

 小首を傾げる水沢に向けた視線が一際大きく見開く。

「どうしてってあんた! 約束でしょう! 依頼を受けたじゃない! それに、二日で明らかにするって!」

 市ノ瀬は水沢を睨みつけたまま、僕を指差す。水沢はその指の先を一瞥して、また向き直った。

「二日と言ったのは初瀬君でしょう? 私は言ってないわ。それに市ノ瀬さんは彼を買いかぶりすぎよ。結局、二日経っても何も分からなかったんだもの。さっき言ったでしょ? 私達じゃなくて『私は』って」

「……だったら二日って言うのはもうどうでも良いわよ。でも依頼を受けたのは文芸部。そこには水沢さんも含まれるはずよ。違う?」

 静かに、でも力強く市ノ瀬は言う。でも、水沢の表情は変わらない。まるで昨日の僕が北野君にした時のようにずっと余裕の微笑みを浮かべていた。

 ただ、僕のは「まやかし」で彼女のは「本物」だった。

「依頼を受けたのは文芸部。もちろんよ。そしてそれは滞り無く終えたわ」

「流石は最終手段として名高い文芸部ね。じゃあ話しなさいよ」

 市ノ瀬も負けじと鼻で笑いながら嫌味ったらしく言ってのける。しかし、水沢はやはり微笑みを絶やさす事無く続けた。

「だから言ったでしょ。終えた。って。言葉の通りじゃない。終わったのよ『依頼』は」

「は? 何言ってるの? 意味分かんないんだけど」

「あなたはもう少し理解力があると思っていたんだけれど。どうやら買いかぶりだったみたいね。残念だわ。何度も言っているでしょ? 言葉の通りだって。あなた自分のした依頼をもう一度思い出して見なさい」

「は? だから裏切り者を見つけてって————」

 市ノ瀬はそこで言葉を止める。どうやら水沢の言っている意味が理解出来たようだ。

「市ノ瀬さん。どうやら理解したようね。嬉しいわそこまでのバカじゃなくて。そうよ。私たちが受けた依頼は見つける事。つまり探し当てる事よ。そしてしっかりと探し当てた。でも、ごめんなさい。それを開示する依頼は受けていないの」

「そ、そんなの屁理屈じゃない!」

「ごめんなさいね。私達も別に報酬をもらって仕事でやっている訳ではないから、言葉通りの事しかやらない主義なの。それにあなたは言ったわ。見つけた後はこっちでやる。と。あんた達には関係ない。ともね。まぁ、もし市ノ瀬さんが『見つけて』ではなくて『教えて』と言っていたら言う義務があったのでしょうけれど。でも、それだったら依頼自体受けていなかったわねきっと」

 ねぇ? と顔を向けてきた水沢から僕は視線を外した。訳がわからなかった。水沢の意図がさっぱり掴めない。とんだ屁理屈だけれど道理は通ってしまっている理屈で情報開示を拒否する事で、彼女は一体何をしようとしているのだろうか。

「何よそれ! もう、何なのよ! 最悪!」

 市ノ瀬は勢いよく立ち上がって水沢と僕を睨みつけると踵を返して引き戸に手をかけた。

「待って市ノ瀬さん。大事なのはここからよ」

 水沢の言葉に市ノ瀬は引き戸に手をかけたまま振り返る。見ているだけで汗が噴き出しそうな怒気に満ちた目が氷の微笑に向けられた。向けられたのが僕だったらと思うと、少し震えた。

「市ノ瀬さん。座って。ここからは勝手なボランティアなのだけれど。私は伝えなくてはならない事があるの。その裏切り者についてね」

「……何よ」

 視線は外さずに体を向き直して、乱暴に椅子へと腰掛ける。僕は緊張のせいか少し体に力が入ったが、やっぱり水沢は全く意に介していないようだった。

「市ノ瀬さん。裏切り者はとても悩んでいるわ。裏切ってしまった事を悔やんでもいた。何でだかわかる?」

「わかんないわよ。裏切り者の気持ちなんか」

 水沢は浅く息を吐いて、伏し目がちに首を振る。

「でしょうね。あなたには分からないわね。憧れの人に対しての気持ちなんて。いつだって憧れる側に居たであろうあなたには分かる訳が無いわ」

「あんた……何が言いたいのよ」

「裏切り者が裏切った理由はね。あなたにメイド服を着て欲しかったからよ。大好きなあなたに着て欲しかったの。可愛らしいあの衣装をね。恋をしてるのよ彼女は。あなたに。ね」

 張りつめた空気が一瞬で解かれる。市ノ瀬の怒気は水沢の突拍子も無い言葉で一気に何処かへ行ってしまったみたいだった。

「な……何を言ってるの?」

「言葉の通りよ。大好きなあなたの、憧れているあなたの可愛らしい姿を見たかった。それだけよ。でも、結果としてあなたを裏切る形になってしまった。愛するあなたを。でも、少しだけ理解してあげられないかしら? 愛する者を、女子全員を裏切ってでもどうしても見てみたかった『愛』を。そして決断した『勇気』を」

「いや、でも。そんなの……」

「ここまでの大事になるとは思っていなかったのよ。だから彼女は悩んでる。あの決断力があれば自決も有り得るでしょうね。さぁあなたはどうする? 誰よりもあなたに憧れを抱いている、愛している彼女にどう答える?」

 僕は目を疑った。こんな水沢は初めてだ。僕とは違った形だけれど、でもちゃんと収めようとしている。この騒動を彼女なりの方法で穏便に済まそうとしている。まさかの光景だった。

「水沢さん……あなたなら、どうする?」

「きっと今あなたが考えている事くらいしか出来ないでしょうね」

 市ノ瀬は水沢から外した視線を僕に向けてきた。

「拓海君……に、似合うかな私。その、メイド服……」

 僕は少しだけ口角を上げて頷いた。

「うん。似合うと思うよ。そういう可愛らしい格好もね。と言うより七組女子がそれを着たら敵無しなんじゃないかな」

「そ……っか。うん」

 市ノ瀬は何かを決断するように頷くと、立ち上がった。

「ありがとう拓海君。それと……水沢さん。後はこっちでやるから」

「これでようやく『依頼完了』かしらね」

 首を傾けた水沢に市ノ瀬は力強い視線を向けて頷いた。でも、そこにもう怒気はなかった。

 市ノ瀬が部室を後にして、またいつもの静寂が訪れる。どっと疲れが吹き出してきて、僕は脱力しながら水沢に話しかけた。

「びっくりしたよ。まさか水沢がこんな結末を選択するなんて」

「そうかしら? でも、だとしたら————」


 ————珍しい事って続くのね。


 微笑む水沢はやはり底が知れなかった。彼女は果たして善なのか悪なのか。青春の命題はいまだ途方にあるが、それでも少しは近づけた気がする。本当に今回は勉強になる事ばかりだった。少し水沢の事を見直してしまった。考えを改め直す必要があるな本当に。





 ————夏休みはまた色んな事が起きて、全く持って「休」まらなかった。

 それでも、無事にこうして楽しい文化祭を迎えられているのだから良しとしよう。やはり青春とはこうあるべきだ。好き勝手に好きな事に時間を費やし貪る。人はそれを「無駄」と呼ぶかも知れないが、この「無駄」こそが何よりも「青春」なのだ。

「お帰りなさいませご主人様!」

 七組の教室は何処よりも大盛況で、これは本当に今年の一位を取ってしまいそうな勢いだった。女子全員のレベルが高く、めいめい自分に似合うようにメイド服を着こなしている。

 何より市ノ瀬桜子のメイド姿は絶品そのものだった。正に「青春」そのもの。しかもそれが店先で愛想を振りまいているのだから人が寄りつかない訳が無い。中には店に入らず、教室の前を往復しているだけの男子まで居た。僕もその一人だったりするんだけれど。

 しかし、それは仕方がない。あのほんの少し傲慢な炎の女王様が頭を下げながら笑顔でへりくだるなんて、この先きっと二度と無い事だ。それに、僕に気付いた時だけいつも以上に笑顔を向けてくれるんだから、こんな優越感は無い。折角だから、あともう一往復だけして去ろうと思う。

「お帰りなさいませー! もう拓海君! そろそろお店入ってよ!」

「いやいや。ごめん、ちょっと所用でさ」

「なになに? また依頼?」

「んー、まぁそんなとこ」

「そっか! 頑張ってね! あ、お帰りなさいませーご主人様!」

 後ろから本物の客が来たので、僕は早々に立ち去った。背中にまた市ノ瀬の元気な声が届く。

 彼女は答えたのだ。彼女なりに。女王であるからこそ、リーダーであるからこそ、自身に憧れを抱いている者を無下にはせず、最良の方法を選択した。人より少しだけ高い自身のプライドよりも周りの気持ちを選んだ彼女は正に「王」だと言えよう。

 これでいいのだ。例えそれが「幻」だったとしても、僕の考えた結末よりもずっと良い終わり方だ。平穏に、出来るだけ楽しく。全く持って素晴らし————。

「……は?」

 凄く優しく温かな気持ちで心を満たされながら七組の教室を去った僕は、その廊下の先に見えたものに目を疑った。

「あら? 初瀬君。いつの間に。っくくく……」

 装飾された廊下の陰に身を隠して、水沢は七組の教室の方を見て嘲笑していた。

「水沢……もしかして」

「初瀬君。傑作ね。あの誰も手の届かなかった女王様があんなにへりくだって似合わない愛想を振りまいているだなんて。あぁもうこんなに笑える文化祭は初めてだわ。出し物はこれだけで十分ね」

 じっと市ノ瀬を見て、彼女が笑顔で頭を下げる度に水沢は笑いを押し殺せず、漏らしていた。

 そう言う事か。彼女もまた彼女なりに楽しめる選択をしたに過ぎなかったのだ。人間関係をグチャグチャにするよりも市ノ瀬を嘲る方を選ぶなんて、余程彼女が気に食わなかったのだろう。確かに水沢にとっては人間関係をグチャグチャにするなんていつでも出来る容易な事に違いないけれど。

「水沢……一体どこからだい?」

「あら? 何の事?」

 水沢は僕にニヤリと笑うと、また市ノ瀬に視線を投げて嘲笑する声を漏らした。

 もしかしたら、最初から全て水沢の手の平の上で動かされていたに過ぎないのかも知れない。市ノ瀬が依頼をしにきた瞬間からここまで全てが彼女の思い通りだったような気がするのは、きっと気のせいじゃないと思う。

 水沢はいつもこうだ。いつだって僕の手が届かない所に居る。

 そして性格が悪い。捻れている。ひん曲がっている。

「初瀬君。困ったわね。傑作すぎてしばらくはこれに勝る面白いものに出会えそうにないわ」

 水沢は悪意に満ち満ちた純粋な笑顔を僕に向ける。

 僕は肩をすくめて、市ノ瀬に視線を投げた。何も知らずにメイド姿で一生懸命に愛想を振りまく彼女が本当に不憫でならない。

 なんで僕は水沢の事を見直してしまったのだろう。考えを改め直す必要があるな本当に……。


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