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ディートフリート編

ちょっと長めですが、ディートフリート視点のお話です。

 それは、運命の出会いだった……と今にしてみれば、そう思う。


 俺は、ディートフリート=ヴァレンシン。ファーレン王国ヴァレンシン辺境伯領の長子で今年20歳になる。

 1年前に隣国マラディーヤ国との戦争で父を亡くし、当時王都で軍籍にあった俺は、父に代わり領主となった母を助け、ヴァレンシン領軍を指揮するために、この地に戻ってきていた。


 その日は軍での訓練と用事を終え、母から領地経営の教えを受けつつ、執務の手伝いをするために屋敷に戻ってきたところだった。


 屋敷の前に見知らぬ人影が見える。


 後ろ姿は、見慣れない格好をした、どうやら女のようだ。思わずその肩に手を伸ばし、誰何する。


「おい!こんなところで何してる!」


 その人物は、ハッとしたように肩を震わせ、振り返った。

 女だ。

 艷やかな亜麻色の真っ直ぐな長い髪、驚いたように見開かれた榛色の大きな瞳が、白く小さな顔にバランスよく配置され、通った鼻筋と、小さな口を縁取る薄桃色の柔らかそうな唇が開いて、真っ白な歯が覗いている。

 こちらを見た視線が、ゆっくりと周囲を確認するように動いた。


「おい!聞こえているのか?」


 彼女の美しさに気を取られ、そして、合わない視線に焦れて、つい口調が強くなった。


 〘あの、すみません。ここどこですか?〙


 恐る恐るというように問われた声に、違和感を覚える。

 彼女の唇の動きと、やや高めの澄んだ声で紡がれたその内容が、どうも合わない。


「は?お前、何言っている?」


 俺は思わず、そんな言葉を発していた。

 言っている内容は理解できるのに、音が違う。


 〘あの、私東京にいたはずなんですが、気がついたらここに立っていて。一体何が起こっているのか、さっぱりわからないんです〙


 続けられた言葉も同様だった。

 俺は、改めて彼女の姿を確認する。

 濃紺の細身の長袖シャツが、彼女の華奢な上半身を強調する。そしてウエストから下は、真っ白な膝丈のフレアスカート。膝下から伸びる白い脚。靴はシンプルな形のヒールがあるベージュのもの。

 腕には、焦げ茶色の皮が貼られた大きめな鞄を、抱きしめるように抱えている。

 仕立てや生地は良さそうだが、こんなデザインは見たことがない。だいたいスカートが短すぎる。

 そこまで確認したところで、ふと悪友の魔法師が以前騒いでいた、異世界から迷い込んだ人間について思い浮かんだ。


「まさか、迷い人か?」


 信じられない思いで思わず口に出してはみたが、やはり俄には信じられない。

 とりあえず、ゆっくり話を聞く必要があるな。


「とりあえず中で話を聞こう」


 と、彼女を屋敷に招き入れた。




 彼女を応接室に案内し、使用人に茶と菓子で饗しておくように指示すると、俺は母がいる執務室の扉を叩く。


「どうしたのです?」


 母は、俺が軍服姿のまま執務室に現れたことに首を傾げる。普段は、軽装に着替えてここに来るので、無理もない。

 だが、今はそれどころではなかった。俺は母に、先ほど庭で出会った彼女のことを伝えた。母は俺をじっと見ながら、最後まで話を聞くと、簡単に机の上の書類を片付けて立ち上がる。


「わかりました。とりあえず一緒に話を聞きに行きましょう」




 そして、応接室。

 彼女は、茶にも菓子にも手を付けること無く、背筋を真っ直ぐに伸ばし、脚をやや斜めに揃え、ソファに浅めに腰掛けて待っていた。

 俺達が部屋に入るとすっと立ち上がったが、手振りで腰掛けるように促すと、再び同じ姿勢で優雅に腰を下ろす。その一連の振る舞いで、彼女の育ちの良さが垣間見えた。

 持っていた鞄は、彼女の足元に置かれている。


「私は、芹那=テレジア=水城。父が日本人、母がドイツ人で、今は東京G大の3年生21歳です。さっきまで東京にいたはずなんですけど、気がついたらこちらのお庭に」


 彼女は軽く目礼すると、そう言って簡単に自己紹介をした。言葉の意味はわかるが、その内容は、全く意味がわからない。

 母と俺は視線を交わすと、頷いて、母が口を開いた。


「そうですか。私は、メイベル=ヴァレンシン。この家の主で、こちらのディートフリートの母ですわ。息子から貴女が迷い人ではないか?と聞きました」


 ここで一旦言葉を切る。彼女、セリナは戸惑いの表情で、母に尋ねた。


「迷い人ってどういうことでしょう?そして、ここは一体どちらでしょう?」


 母は、ゆっくりと彼女に伝える。


「ここは、ラメール大陸のファーレン王国。ヴァレンシン領の領主の邸宅ですわね」


 彼女の瞳が揺れ、その表情が歪む。泣き出しそうだ、と一瞬思ったが、その瞳から涙が溢れることはなかった。

 母は、慎重に彼女の表情を窺いながら、続ける。


「セリナ、迷い人とは、こことは異なる次元?いえ世界かしら?から、偶然こちらの世界にやって来てしまった人のことを言うの。ごく稀にそういう人がいると。私達もお伽噺だと思っていたくらい、珍しいことだけど」


 セリナは、母の言葉を噛み砕くように小さく反芻する。異世界、迷い人、と言葉が洩れる。

 俺達は、セリナが落ち着くまで、茶で喉を潤して待つ。

 やがて、彼女が母を見て、何か言おうと口を開こうとした。が、母がそれを制して、優しく言った。


「突然のことで、不安でしょう?しばらく、この家に滞在してゆっくりなさいな。ここには、私と息子しかいないから、何も気にすることはないわ。ご自分の家にいると思って、寛いでちょうだいね」


 彼女は、驚いたように母を見て、やがてコクリと頷いた。


「メイベルさん、ありがとうございます。お言葉に甘えて、しばらくの間、お願いします」


 ホッとしたように小さく微笑んだ彼女に、目が惹きつけられる。彼女の様子に、母は常に無く機嫌がいい。

 俺も思わず身を乗り出した。


「俺も、力になろう。歳も近いし、なんでも相談して欲しい。望むことがあるなら、俺に出来る範囲で叶えてやるから」


 彼女の瞳が、俺を驚いたように見る。


「ディートフリートさんもありがとうございます。お世話かけますが、とても心強いです」


 浮かんだセリナの笑顔に、俺の気分が浮き立った。女性相手にこんな気持ちになったことなんて、これまでに無く、自分でも似合わない台詞だったと思ったが、母の驚きの視線は煩わしい。

 執事と侍女長を呼んで、彼女の事情と滞在を伝え、早速客間にセリナを案内するように指示すると、2人に連れられてセリナは部屋を出ていった。


「ディートフリート、貴方一体どうしたっていうの?」


 セリナの気配が遠ざかると、早速母が呆れたように言った。訳がわからないと、こちらを窺っている。

 俺は、今後の為にも母に向き合った。


「別に、いいでしょう? いきなりこの世界に迷い込んだセリナは、すごく不安でしょうし、彼女の希望を聞くくらい、たいした手間でもありません」


「貴方がその十分の一でも、周囲の若い女性に親切だったなら、今頃婚約者の一人でも見付かっていたと思うけど?」


「婚約者など、別に居なくて困ったことなどありませんよ。むしろ今となっては、居なくて本当に良かったです」


 母の勘繰りに、はっきりと答えてやる。


「え?あら?そうなの?……まあまあ!!」


 俺の気持ちを察した母が、喜色を浮かべて歓声を上げた。その浮かれように釘を刺すことも忘れてはいけない。


「短いやり取りでしたが、セリナの人となりを知るには充分でしたよ。と言っても、第一印象が良かっただけで、これから彼女を知っていこうと思ったまでです。過度な期待とお節介は、やめておいて下さいね?母上」





 屋敷に住むようになったセリナと、出来るだけ共に過ごせる時間を作ろうと、俺は朝食と夕食を一緒に取ることにした。

 いつもというわけにはいかないが、屋敷にいるときは可能な限り時間を合わせるよう調整する。

 母も彼女を気に入り、俺が居ないときに時々一緒に過ごせるように考えてくれるらしい。

 俺の乳母だった侍女も、母に頼まれて彼女につくことになった。

 そして、この世界に来たばかりの彼女が不安にならないよう、彼女のいた世界の話を聞きながら、お互いの常識を少しずつ擦り合わせていく。


 驚いたことに彼女の世界に魔法は存在せず、代わりに高度な文明がそれを補っているという。セリナは、俺が感じる限り、かなり膨大な魔力を持っているのに、だ。

 そしてセリナは、どうやら意識せずに魔法を発動しているらしい。

 中でも、会話と文字の理解は、その無意識に発動する魔法で成り立っている。声に出した言葉を、そこに乗せられた意志や思念を読み取り発信することで、意識下で直接伝え合っていると考えられた。

 文字は、どうやら読むことは可能でも、書くことは出来ないらしい。


 俺は一度王都に行き、迷い人についての調査を依頼することにした。


 王都で会うのは、この国の国王陛下と魔法師である友人だ。

 3年ほど前、若くして王位についたアルベルト国王陛下の暗殺を阻止した事件をきっかけに、許されて友人として付き合うようになった俺と、その国王の側近で我が国でも3本の指に入る魔法師であるユーシスとは、俺が領地に帰るまでの約2年の間、数日おきに出会っていたくらい気心知れた仲だ。

 ユーシスは以前、迷い人に強い関心を持ち、結構文献を読み漁ったと言っていたから、理解も早いだろう。

 俺達は、アルベルトの自室で久しぶりに再会した。


「迷い人だって!? 本当に?」


 案の定、ユーシスが目の色を変えて食いついた。


「へえ〜。それは興味深いねえ。本当にいたんだ? で?どんな人なんだい?」


 アルベルトも、興味深げに先を促す。

 俺は、セリナと出会った時のことと、彼女から聞いた話を詳しく語って聞かせた。


「間違いないな。そのセリナという女性は迷い人だ。まさか俺が生きている間に、身近に現れるとは……」


 ユーシスが感慨深げに言った。


「私はそれよりも、ディートフリートの様子の方がよっぽど気になるけどね」


 アルベルトが俺を見ながら、ボソボソと言った。それは、敢えて無視をする。


「ねえ、ディートフリート。その彼女に、会わせてよ」


 予想通り、ユーシスは言った。俺は用意していた台詞でそれを断る。


「彼女はまだこっちの世界に慣れていない。言葉のやり取りも魔法を使ってやっているからな。お前が今出会ったら、それこそ根掘り葉掘り質問攻めにしかねないだろ? だから、もう少し待ってくれ。せめて彼女がこっちの言葉にもう少し慣れて、他人と出会うことに抵抗がなくなるまで。いつかちゃんとお前に会わせるから。だから今は、教えてほしい。彼女は、いつか元いた世界に戻ることは、あるんだろうか?」


 俺は、一番気になっていることをユーシスに尋ねた。おそらく、セリナも知りたいと思っているだろう。


「それは……俺が今まで読んだことのある記録の中には、もとの世界に戻った迷い人はいないとされている。ここ500年ほどで残された文献上では6名だ。皆、この世界でその一生を終えている」


 ユーシスの答えに、やはり、と俺は少しの安堵と、だが彼女にとっては酷な結果に、複雑な気持ちになる。

 せめて、彼女がこの世界で不自由がないよう心を尽くそう。


「そうか。わかった。礼を言う、ユーシス」


 俺はユーシスに感謝して、頭を下げた。だが、


「ねえ、ユーシス。迷い人は、この世界に何か害を及ぼすことはないの?」


 アルベルトが、硬い声でユーシスに尋ねた言葉に、俺は思わず顔を上げる。


「!?アルベルト!セリナはそんな子じゃない!」


 俺は、アルベルトに訴えた。だが、彼はこちらを見ること無く、真っ直ぐにユーシスを見つめている。横顔は、為政者のそれだ。俺達2人の顔を戸惑うように見ているユーシスに、アルベルトは冷たい声で促した。


「ユーシス?」


 ユーシスも表情を改めて、アルベルトに向き合った。


「記録に残る6名は、男性が4名、女性が2名。うち男性1名が、膨大な魔力をもって、ある国を乗っ取り支配したという。もうその国は滅びてしまったけれどね。でも、その他の5名は、皆それぞれの国で異世界の知識や技術をこの世界に伝えて、生活の質の向上や文化の発展に力を貸してくれたと」


 その答えに、アルベルトは少しだけ表情を緩めて俺を見た。


「そうか。ディートフリート、彼女が落ち着いたら、一度私にも会わせて欲しい。一応言ってはおくけれど、あまり入れ込まないようにね?」


 アルベルトの立場も、言いたいことも、理解は出来るけれど、彼女を疑われるのを悲しく思う。彼女に心を許す俺自身を疑われているようだから。

 結局俺は、その日のうちに領地へ戻ることにした。

 ユーシスとは、他に何かわかったことがあれば、お互いに知らせ合うことを約束して。




 領地に帰ってみると、何やら事件が起きていた。

 彼女が、こちらに来たときに抱えていた鞄。その中身はバイオリンと呼ばれる楽器で、それを弾いた彼女のまわりで、魔法が発動したらしい。

 それを聞いた俺は、王都でのアルベルトの言葉を思い出して、思わず頭を抱えて言った。


「セリナ、お前のそのバイオリンという楽器の演奏は、頼むからこの屋敷の中に留めておいてくれ。何が起こるかわからない」


 事件を聞いて、俺も実際に彼女の演奏を聞いてみたが、心惹かれる旋律に感動しつつも、眼の前がいきなり花だらけになって驚いた。

 セリナは、呑気に緩く笑って、答える。


「そうなんですよね〜なんていうか具体的な効果をイメージして弾いているわけじゃないんですけど、不思議なんですよ。「帰りたく◯ったよ」っていう曲をイメージして弾いても戻れる気配ないし、かといって、「人生の◯リー◯―ランド」をなんとなく弾いたら何故花が咲く?ていう感じで。読めませんね〜」


 遠い目をした彼女に、先ほど執事から聞いた話が蘇る。


「「帰りたく◯ったよ」か? あの曲を聞いたうちの執事夫婦が、夫婦喧嘩中だったがお互いに反省して仲直りしたと言っていたな。相手を思いやる気持ちが湧いてきたとか」


 因みに執事の奥方は、俺の乳母で彼女付きの侍女だ。


「そうだったんですか? すごい意外な効果!」


 その話に純粋に驚く彼女を見て、魔法の発動は、全く意図していない効果だったことがわかる。彼女の望んでいた効果は、曲のタイトル通り、もとの世界に帰りたいということだったのだろう。

 俺は、彼女の表情の変化を見逃さないように、慎重に切り出した。


「帰りたい、か。調べてはみたが、これまでこちらに来た迷い人の記録では、戻った者がいたという記録は無かった」


「そうですか」


 ぽつりと一言そう言った彼女の瞳が、暗く翳る。表情が抜け落ち、途方に暮れたように、ぼーっと投げられた視線は、どこを見ているのか?


 俺は思わず、セリナに向かって頭を下げていた。


「力になれなくてすまない」


 そんな俺に、彼女はハッとしたように顔を上げ、慌てて首を横に降る。


「そんな!ディートフリートさんが謝ることなんて、何も! ここに置いていただけるだけで助かっています」


 やっぱり、彼女は健気だ。自身が二度とはもとの世界に戻れないと聞かされたのに、頭を下げた俺を気遣ってくれる。

 俺が彼女に申し訳ないと思うのは、彼女がこの世界から消えることはない、という事実に安堵を覚えたことなのに。


「いや……多分、この状況を喜ばしいと思っていることが……」


 彼女にこんな俺を見られたくなくて、思わず右手で顔を覆う。

 セリナは俺の言ったことに気が付かない様子で、何やら考え込んでいた。


「でも、屋敷の外で演奏出来ないのは……」


 眉間に小さくシワを寄せて、腕を組んで悩む彼女に、その顔を覗き込んで声を掛ける。


「困るのか?」


 すると彼女は目を合わせて、はっきりと言った。


「私の仕事は、この楽器を演奏してお客様に喜んでもらうことです。他に生きていく術を知りません。だから、皆さんに演奏を聞いて貰えないというのは、とても困ります」


 仕事?彼女は学生だと言っていたが、音楽家だったのか?


「そうか。ならば検証してからだな。癒やされたり花が咲くぶんには構わんが、何が起こるか予測出来ないのは困る。同じ曲で同じ効果が出るかもだな」


 ならば、彼女のやりたいと思うことを応援することで、俺の罪悪感も少しは晴れるかもしれない。


「なんだかすみません。ご迷惑というかお手間かけてますよね。ここにも居候のように置いてもらってるし」


「それは構わない。セリナ、お前が気にすることは全くないんだ。お前1人くらいなんてことはないし、迷い人は保護されて然るべきだ。こちらにやってきたのには、何か理由があると思うしな。それに俺は結構この状況を楽しんでる」


 申し訳なさそうに謝る彼女に、気にする必要はないと伝える。

 彼女を助けて、頼られることは、嬉しい。


「そうですか?まあでも、何を起こすかわからない私を、放置も出来ませんよね。検証頑張ります」


「お前の演奏する曲は、どれもとても良いな。心に響く。お前の世界には、たくさんの名曲が溢れているんだな。それにそのバイオリンという楽器が奏でる音も、俺は好きだ」


 そう、彼女が弾くバイオリンの音色は、本当に好ましい。まるで、彼女の人柄が伝わってくるようで、優しい音に癒やされる。

 きっと、発動する魔法も、悪いものではないのだろうけど、一応検証は必要だろう。


「ありがとうございます。私のいた国のミュージシャン……音楽家が作った曲なんです。どれも大好きで、こうして聴いてもらえるのは、とても嬉しい」


「そうか。では検証を済ませて、演奏の機会を儲けられるよう、俺も手伝おう」


 それから、彼女の願いを叶えるべく、屋敷の人間にも協力してもらい、彼女の演奏と魔法の発動条件を検証し、どうやら彼女の感情の動きで魔法効果の大小が決まったり、曲に対するイメージとそれに伴って演奏に乗せられる願いが、事象を引き起こしているらしいことがわかった。


 様々な曲を、いろいろな状況で演奏してもらったが、彼女の魔法はいつも優しくて、周囲の幸せを願うものばかりで、俺はいつもそれを感じるたびに、際限なくセリナに惹かれていった。

 ただ、時々彼女が帰りたいと願って奏でる音には心が苦しくなり、でも彼女の願いが叶うことがないことに心から安堵して……

 悲しい雨を降らせるセリナの側で、いつかこの世界で幸せを感じてくれる日がきたら、この気持ちを伝えたいと、俺は思った。


 セリナの魔法のことは、手紙でアルベルトとユーシスに知らせてはいた。

 彼女の力のコントロールもある程度出来て、魔法が発動しても無難な曲を選ぶことで、領都の劇場で演奏会を開くことになり、そこに2人をセリナには内緒で招待した。

 ユーシスからは散々話をさせろとゴネられたが、だったら呼ばないと突っぱねて、渋々聴きにくるだけで納得してもらった。


「彼女すごいな!持っている魔力の大きさもだけど、あのバイオリンという楽器の演奏も、発動する魔法も、話す言葉も。この世界には全くない現象だ!」


 お忍びでヴァレンシン領に来ている2人を、領都一の宿の最高級の部屋に案内して、声が漏れないように結界を張りおわった瞬間に、今まで興奮を懸命に抑えていたユーシスが爆発した。

 その姿に苦笑したアルベルトも、


「まあ、確かに素晴らしい演奏だったよね」


 と同意した。

 俺は2人の様子に、ほっと息をつく。


「ありがとう。って俺が言うことじゃないけど、セリナには伝えとく」


 だが、アルベルトは表情を改めると、真剣な顔で俺に向き合った。


「ディートフリート。私はセリナに一方的に肩入れする君を案じていたけど、今日彼女を見て、考えを改めたよ。あの娘は、あり得ないくらい善良で優しくて、人や国を恨んだり憎んだりする心とは、程遠いところにいる。あの演奏は、彼女の心を隠せない。ある意味曝け出してしまうから」


 そして、一旦言葉を切った彼は少し考えるように目を伏せる。俺とユーシスは、黙って続きを待った。


「多分、彼女がいた世界では周囲の人に愛されていたんだね。純粋で、当たり前に人を慈しめる。だが、彼女の力は膨大で、人々の心を容易く動かす。今の彼女自身は皆の幸せを願い、まるで女神のようだ。これまでどんな女性にも見向きもしなかった君が、ズブズブにセリナに惹かれるのも無理はない。でも、君は、この世界で彼女を守れるかい?彼女が万が一悪意に染まったら、この国は、いやこの世界は……」


 そう言い淀んだアルベルトの言葉を、俺は否定した。


「アルベルト、大丈夫だ。セリナは絶対に悪意に染まったりしない。悲しみ嘆くことはあっても、人を恨んだり憎んだりは出来ないんだ。でも、もちろん、そんなことは欠片も心配しなくて良いように、俺が彼女を守る」


 そして、ユーシスも


「アルベルト、俺もセリナは問題ないと思うよ。あの娘の魔法は、なんていうか、人を傷つけられないと思うんだよね。根拠はないんだけど」


 そう言って、セリナを援護してくれた。





 セリナと出会ってから、約1年が過ぎた頃、隣国との国境付近がきな臭くなってきた。情報機関の人間だと思われる人物を見かけたり、隣国の国境付近の軍備の配置が変わったり、些細な変化が戦争の予兆になる。

 俺もアルベルトと頻回に連絡を取り合い、母とも相談し、領地の軍備や兵糧の備蓄を蓄え、開戦に備えた。

 そして、とうとうその日は来た。国境の関所が襲撃を受けたのだ。

 俺は予てからの打ち合わせ通り、何も知らないセリナをアルベルトへ親書を届けるようにという口実で、腕のたつ護衛をつけて、王都に密かに逃がした。

 戦争を知らない国にいたセリナを不安にさせたくなかったし、俺が側で守ることが出来ないから、安全なところにいて欲しかったのだ。


 ところが、いよいよ敵の大軍との大掛かりな戦闘が始まるという時になって、彼女はユーシスと一緒に戦場に現れ、それこそ奇跡としか言えない方法で、戦争を終わらせてしまったのだ。


 かつて執事夫婦の喧嘩を収めたというその曲は、これまでとは比べ物にならない程膨大な魔力を彼女から引き出し、その曲に乗せた強い願いと想いをユーシスの魔法が何倍にも膨れ上がらせた。戦場に心を打つバイオリンの音色が響き渡り、敵も味方も関係なく、兵達の戦意を奪っていく。

 まるで、波が静かに引くように武器を捨て、涙を流しながら立ち尽くす兵達はやがて、互いの国へと引いていった。


 まるで、夢を見ているようだった。

 そんな俺達の前に、セリナを屋敷に送り届けたユーシスが現れた。


「大丈夫?ディートフリート。見てたよね?セリナちゃんって凄いねえ!俺感動した!ねえねえ、ここ落ち着いたら、今度こそディートフリートの友人枠で紹介してよ!今回俺、初対面の宮廷魔法師として、出しゃばらず、超超……すっごい我慢して、アルベルトの側近として真面目に頑張った!」


 なんて言うから、遠慮なく終戦処理にこき使ってやった。あれだけ守れと頼んでおいたのに、あっさりとセリナを寄越したアルベルトにも腹が立つ。

 だが、まあ、誰の命も失うことなく、この衝突を回避出来た事は、僥倖だった。


 そして翌々日、ようやく処理も落ち着き、俺はやっと屋敷に戻って来れた。

 真っ先にセリナの部屋に向かうが姿がない。侍女に尋ねると、バイオリンを持って外に出たと言う。

 俺は彼女を探し、表に出た。とにかく一目会いたかった。するとタイミングを計ったように、庭園の方から彼女のバイオリンの音が響いてくる。


 それは、初めて聴く曲で。

 そして、感じる彼女の魔力に心が震える。

 伝えられたセリナの心は、溢れるばかりの愛情。ただひたむきに相手を想い、大切に守りたいと願い、優しく包み込みながら、揺るがぬ強さで側に在りたい、とそう言っていた。


 もう、彼女がもとの世界に帰りたいと願うことはないのだろうと、理解できた。


 セリナの華奢な後ろ姿が見えてくる。軽く左に傾けた彼女の小さな頭が、奏でる曲に合わせてゆっくりと揺れる。吹き抜けた風が、彼女の亜麻色の髪をふわりと宙に舞わせた。

 俺は手を伸ばし、初めてこの腕の中に彼女を囲い込む。

 そして、バイオリンごと力を込めて彼女を強く抱き締めた。


「この曲、俺の為に奏でてくれたんだよな?」


 彼女の耳元にそう囁やけば、白く細い指先が、ゆっくりと俺の腕を縋るように掴んだ。何も言わずに何度も頷いている。

 そして、その手の甲に零れ落ちた透明な雫。セリナの涙に、俺の胸が熱くなった。

 俺の彼女への苦しいくらいの愛情と恋心が、やっと報われた。


「ありがとう。俺も、愛してる」


 セリナの顔が見たくて、彼女の向かい側に回り込む。大きな榛色の瞳に涙を浮かべて、堪えきれずに溢れた雫を、そっと両手で拭ってやる。

 彼女を見つめていたくて、顔を逸らせないように、頬を包みこんだ。

 ああ、綺麗だ。

 本当に初めて出会った時から、ずっと惹きつけられて、その姿を追っていた。どんな表情も可愛くて、彼女と交わす言葉がずっと心を離れなかった。彼女の紡ぐバイオリンの音に、どうしようもなく焦がれた。

 そして、今回は、彼女の魔法にこの地は守られた。


「お前のおかげで、皆無事だった。ありがとう」


「すごく心配した」


 そう言って頬を膨らませたセリナが愛おしい。


「うん。ごめん」


 あまりの可愛さに口先だけで謝ったのは、見透かされたらしい。


「あんなふうに私を遠ざけたりしないで」


 真剣な顔でそう言われたけど、俺は彼女を確実に守りたい。


「それは、約束出来ないな」


「安全なところで待ってるだけなんて、イヤ」


「俺はお前を失えないんだ。だからこれは譲れない。でも、次はちゃんと話し合おう」


 怒らせたいわけでも不安にさせたいわけでもないから、嘘はつかない。


「ずるい。私だって、貴方を守りたい」


 と、突然セリナが俺に抱きついてきて、その顔を俺の胸に押しつけた。ドクンと心臓が大きく跳ねる。俺の背中に回された彼女の腕が、優しく俺を抱き締めた。

 息が詰まって、苦しいくらい幸せだ。


「うん。すごく嬉しい。今の曲も、お前の気持ちが痛いくらい伝わってきた」


「貴方を想って弾いたから」


 そんな風に甘えられたら、もう絶対にセリナを離せない。

 俺の両腕も、無意識に彼女を逃さないと抱き締める。


「知ってる。他の奴の為だったら許せなかったけど。俺、今、どうしようもないくらい幸せ。お前に想いを返してもらえるなんてな」


「私も。貴方が無事で、本当に良かった」


 彼女の気持ちを受け取って、俺の心は決まった。

 名残惜しいけど、彼女の背をそっと叩いて、抱擁を解く。

 そして彼女の前に跪き、その両手を取った。

 真っ直ぐにセリナを見上げて、視線を合わせる。


「セリナ、愛してる。もう離してやれないから、ここで、俺と一緒にずっと生きていかないか?」


 セリナは驚いたように大きな瞳を瞠って、だが、やがてその榛色が新しい涙で揺れる。


「……はい、ディートフリートさん。私も、貴方と生きていきたい」


 そして、心からの笑顔で綺麗に笑って、俺の唇にそっと彼女のそれを合わせてくれた。





 後日、俺達は2人でアルベルトを尋ねた。いつもの調子で、彼の部屋に通される。


「ふふっ……やっと来たね、二人共。待ってたよ」


「ご報告が遅くなり、申し訳ございません」


 俺は嫌味も込めて、アルベルトに慇懃無礼に挨拶してやった。


「やだなあ、ここは私の部屋だよ。ディートフリートいいってば。セリナちゃんも楽にして」


 アルベルトは全然堪えておらず、セリナにも馴れ馴れしい。


「セリナちゃんって……アルベルト…」


 思わず呆れて、アルベルトを軽く睨む。


「陛下って、アルベルト様っていう名前だったんだ。そして、ディートフリートさんと親友って本当だったんだ……」


 多分、無意識にセリナの口からこぼれたのだろう。アルベルトが耳聡くそれを拾って、拗ねたように横目で彼女を見た。


「セリナちゃん、君、声に出てるからね?」


 思わずハッと小さくなったセリナを安心させるように、俺は軽く彼女の頭に手をやった。アルベルトは、男の俺から見ても結構な美丈夫でいい男だ。そんな彼に全く興味が無さ気なセリナに、俺の顔は意識せずに笑みを浮かべた。


「あ!すみません!つい……」


 申し訳なさそうに謝ったセリナに、アルベルトは意地悪く口角を上げる。


「ま、いいけどね。迷い人の君は、ディートフリート以外の男に興味はなさそうだしね。まさか国王の名前を知らないとまでは思ってもなかったけど。良かったな、ディートフリート?」


 俺の気持ちなんてお見通しなんだろう。本当にこの人は人が悪い。でも、なんだかんだと俺のことを大切に思ってくれているのも知っているから。


「ああ。セリナに話は聞いた。貴方のお陰で、助かった。ありがとう。で、セリナと結婚しようと思ってる」


「うん。君の努力が、報われたようで、良かったよ。もちろん許可するよ。おめでとう、ディートフリート」


 だから、感謝の気持ちを、騎士らしくきちんと伝えたい。


「ありがとう、アルベルト。これからも変わらぬ忠誠と友情を貴方に」


 俺が姿勢を正して、アルベルトにそう告げると、


「私も君の忠誠と友情に応えよう、ディートフリート」


 嬉しそうに笑ったアルベルトは、そう答えた。




「ところで、セリナちゃん。君に1つ、私の願いを聞いてもらう約束だったね?」


 アルベルトがセリナにそんな事を言って、俺は一体彼が何を言い出すのか身構えたけれど。

 どうやら、ユーシスの欲求を満たして、彼女の魔法の解明に協力し、彼女のことを迷い人の記録に残すことっていう、まあ国王としては妥当な内容だったことに、ほっとした。






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