第1話 あらしのよるに
『あらしのよるに』という絵本をご存知だろうか、もしご存じないようであれば、一読をおすすめする。あれはオトナになっても読みごたえのある作品だ。私もいい年のおっさんだが、子供に読み聞かせをしながらホロリとしたことがある。
ある嵐の夜に、同じ山小屋に避難したヤギとオオカミが、暗闇の中で互いの正体を知らないまま意気投合し、友情を育んでいく物語だ。
いや、大丈夫。これからの物語と、その絵本はなんの関係もない。
ただ、ふと思い浮かんだだけだ。
ここは山小屋でもないし、ましてや私はオオカミでもヤギでもない。ごく一般の日本人を自負している。いわゆる中流階級のサラリーマンだ。大学を卒業し、新卒で入った会社から一度の転職を経験したのち、現在は特許事務所というところで働く、普通のサラリーマン。名前は、明石めぐるという。現在40歳、妻と子にも恵まれ、昨年は新居も購入した。
ああ、そう、絵本との関係だったな。
ひとつ、強いて言うなら、外が嵐だということだ。
窓の外では雨戸がシンバルのような音を打ち鳴らし、時折、大豆を外壁に打ち付けたような音と振動が部屋の中に響いている。遠くの方で、雷の音も聞こえるようだ。しかし、部屋の中で縮こまる動物は一匹もいない。
ここは私の家、山小屋ではない。震度7の地震に耐えうる我が家のリビングでは、テレビに映った台風情報を見ながら明日の通勤経路の心配をする動物が一匹、台風が明日の未明には日本海側に抜けるとのことで、学校が休みにならないことを残念がっている小動物が一匹、そして続く台風に野菜の高騰を心配する猛獣が一匹いるだけだ。
「宿題しなくちゃいけないじゃん」
「なんだ、まだやっていなかったのか。風呂に入る前に済ませておけよ。」
「んー」
娘は、中学二年生。昔はパパ、パパと可愛かったのだが。
テレビの正面にあるソファに寝転がりながら、けだるげな返事をして、目はテレビを向いたままだ。
娘の名前はかなで。明石かなで、だ。成績は可もなく不可もなく、背格好も平均的。
元々はくせ毛だったが、中学一年生になったときに妻と一緒に美容室に行って縮毛矯正を当て、サラサラのストレートヘアになって帰ってきた。それからは自慢の髪を伸ばして、今は腰のあたりまでになっている。
漫画やアニメが好きなようで、男友達とよく漫画の貸し借りをしているようだ。昔から、友だちと遊ぶといえば男の子とかけっこをして遊んだり、ゲームして遊んだりと、少年のようなところがあるが、妻にそれを言うと「今の時代に男の子も女の子も、遊び方にそう区別はない」と言われる。私の中にあるモヤモヤした気持ちは、あまり認めたくはないが、やはり、娘が男と遊ぶのを面白く思わないところがあるのだろう。
「あなたは明日どうするの?」
「いや、JRが午前中は動かないだろうから、午前は在宅だよ」
「なら、家の前を軽く掃除しておいてくれない?私は明日早いから。」
「わかった。道路も荒れてるだろうから、気をつけてな。」
妻の名前はのり子。明石のり子という。建機メーカーの研究開発部に勤める、バリバリの理系女子というやつだ。そもそも、のり子とはこの建機メーカーで出会って社内結婚したのだ。その後、私が特許事務所へ転職をして、今では別々の職場になったが、昔はそれでずいぶんと同僚からいじられたものだ。37歳、私より3つ年下だが、今では完全に私が尻に敷かれている。
こちらとしては、敷かれてやっているという気持ちなのだが、まあ、あれだ、そういう関係のほうが私も妻も楽なのだろう。
妻と私は、ダイニングテーブルで向かい合いながら、互いに手元のスマホに目を落とす。
私は電車の運行状況を確認してから、馴れた手付きでいつも読んでいるWEB漫画のページへと移る。妻はというと、パズルゲームに興じているようだ。
突如、轟音が響く。鼓膜を突き破るような、けたたましい破裂音だ。
「うわ!」
「おや、近かったようだな。」
「裏の駐車場の鉄塔かしら。あそこはよく雷が落ちるのよね。」
「そうだな、しばらくは危ないから風呂は雷が遠ざかってからに・・・」
すかさず暗転。照明、テレビ、エアコンが切れ、部屋を照らすのは2つのスマホだけになった。
私と妻の顔が、暗闇の中に青白く浮かび上がる。
私はとっさにスマホの画面を娘に向ける。娘は、ソファの上でウキウキしているように見えた。
「停電!停電!」
「電気が点くまでソファから動いちゃだめよ。そのへん、いろいろ散らかってたでしょう。」
「しまったなぁ、携帯の充電をしておけばよかった。」
私は電力会社のウエブサイトに接続して、停電情報を探しながらぼやいた。
「何パーセント?」
「20」
「微妙ね」
「君は?」
「15よ」
「ゲームのやり過ぎじゃないか?」
「今やめたわ」
「トシちゃん家も、真っ暗だよ!」
「こら、危ないから窓に近づくんじゃない。風はまだ強いんだから。」
娘は雨戸のない飾り窓に首を伸ばして、家の前の様子を見ている。向かいの家も、その他の家も、ここから見える範囲は停電しているようだ。
~♪ ~♪
着信音が鳴る。私のスマホからだ。
仕事場からだろうか、クライアント訪問の予定変更かもしれないな。
「はい、明石です。・・・? もしもし?もしもし?」
「どうしたの?」
「いや、無言電話だ。あ、切れた。」
「やだ、気持ち悪い。」
「この停電だ、基地局にも不具合があって、電波の調子が悪いだけかもしれん。」
~♪ ~♪
「またかかってきたわね」
「やはりクライアントからだろうか。かなで、停電でテンション上がるのは分かったから、少し静かにしていてくれ。もしもし?」
「・・・ザザ、来て・・・・ザザザ、に、・・・来てくれませんか、ザザザ」
「すみません、ノイズがひどくて、よく聞き取れません。明日の打ち合わせでしたら、午後から電車が動くようでしたら行きますので」
「ザザ、・・・ザザザ、お願い・・・ザザザ」
「分かりました、行きますので、大丈夫です。・・・あ、切れちゃった。」
「通じたの?」
向かいの妻が心配そうに尋ねる。私は、肩をすくめながら、明日の段取りを頭に思い浮かべる。
「いや、分からない。こちらもよく聞き取れなかったから、向こうもこっちの言っていることを聞き取れていないかもしれないな。まあ、明日の朝にもう一度、訪問先には連絡を入れるよ。」
「あれ?」
ソファと娘が、妻のスマホの明かりに青白く照らされる。娘は、外の様子に聞き耳を立てて、不思議そうなそぶりをしている。
「なんか外、静かになってない?」
「おや、そうだな。直撃コースとさっきテレビでやっていたから、目に入ったのかもしれない。」
「すごい!初めてじゃない?」
「仕方ない、・・・もうそろそろ9時か。電気も付きそうにないし、少し早いけど、今のうちに歯磨きだけ済ませて寝てしまうか。」
「お風呂は?」
「明日の朝早くにしよう」
「宿題は?」
「明日の朝だな」
「うげー」
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不気味な静けさの中、一家は眠りにつく。
もう嵐は過ぎ去ったことを知らずに。
過ぎ去ったのは、嵐ではなく自分たちであることを知らずに。