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叩き落とした手はすかさず、私の手首を引き寄せられ胸の中に納まる。
数えることを辞めたくなるほど、本日は接触が多い。こんなにも触れることが多すぎる私の心臓がドキドキしすぎて。
「人の婚約者を、目の前で口説くとはいい度胸をしていますね。ニコライさんに頼んで、仕事量を増やしていただきましょうか?」
挑発というよりも、本気で苛ついているときの声だ。
ユーゴや殿下の行動で私の思考は停止してしまう。
「ニコライに頼んだところで、仕事量は変わらない。むしろ、お前たちの割り振りが増えるだけだと思うが」
「……」
黙ってしまったユーゴを見上げると、苦汁を舐めたような渋い顔をしている。
そして、すぐに頭を押さえつけられてしまったのでそのあとの表所をみることは出来なかった。
「では、またの機会に私の執務室にでも遊びに来て欲しい」
「あなたという方は、まだそのようなことを…‼」
先程までは苛立ちを含んでいても、まだ冷静さは欠けていなかった。それが、いまはどうしただろう。感情を露わにし、声が大きくなる。
ユーゴにしては珍しいと思う。いつでも、冷静でいる彼が兄のように大きな声をだすなんて。
「一貴族が、王族の誘いを断れるはずがないだろう。それは、私の元で働いているお前自身がわかっているはずだ」
殿下の発する声は、まるで駄々を捏ねる子どもを諭すようなもので、揶揄っているとしか思えない。
「理解していながら、反抗するのもいいが、この部屋の中だけにしろ。執務室や他の場でこのような発言をすれば、お前の立場が悪くなる」
抑え込む力が強くなり、息をするのが大変になってきた。
ユーゴを叩きたいのに叩けるほど、いまの私には体力がない。というより、もう精神的に疲れてきた。
「…殿下、あなたは…」
「話がわかればいい。それよりも、お前が閉じ込めている花が息苦しそうにしているぞ。花にも呼吸は必要だからな」
殿下の声が耳に入るが、何を言っているのかは、わからないが急に息苦しさから解放された。離れた瞬間を見計らい殿下に頭を下げる。
「あの私がいるとお話が進まないようなので、本日はこれで失礼します」
扉まで走りだし、退出したのはいいがここは一体どこだろう。王宮の中はまるで迷路だ。
父の執務室まで辿り着けるだろうか。
廊下を走るのははしたないとわかっている。屋敷で走れば母や侍女頭や家令に叱られるが、ここには叱ってくれる者はいない。
ただ、王城で走る令嬢なんて社交界の噂になるだけ。
グレアム家の評判を落としてしまうことになるが、父や兄は気にすることはないだろう。
体力もない私が全力で走ったところで限界など知れている。
息がうまくできなくなりそうになりながら、呼吸が乱れて辛い。喉がこんなにも空気によって乾くなんて。
どれだけ走ったかはわからないが、少しだけ休憩をしようと立ち止まり廊下の角で座り込んでしまう。
淑女として有るまじき姿をここでどれだけ晒せばいいのだろう。胸が苦しくなってきた。
「アン‼逃げないで」
その声は先程まで、ずっと近くにあった声で、私が逃げ出してきた人のモノだ。
どうしよう、逃げなくては。ここにいては、ユーゴの仕事の邪魔になる。
這いつくように、壁に手を当てて立ち上がろうとするが、足が悲鳴をあげているのかプルプルと震えうまく立ち上がることが出来ない。
「今日はもう君に近づかない。だから、逃げないで」
何故、そんなにも切なそうな声で話し掛けるの?
ユーゴから顔を背けていると、「約束して欲しい。明日、一緒に観劇に行こう」と言われる。
突然、どうしたのだろうと戸惑う。それに、明日も普通に仕事がある日のはずだ。
「でも、ユーゴ。あなたには仕事があるはずでしょ?」
「大丈夫。特別に休暇を貰っているから」
彼の顔を見ると、優しそうな笑みを浮かべながら此方をみていたから、頷くしかなかった。
自身が明日出勤するということを忘れながら。




