黒い昆虫に
ある日、ゴキブリが話しかけて来た。
「やあ。」私はその時目覚まし時計を黙らせた後、
ベッドから起き上がる所だったので、寝ぼけて幻聴を聞いているのだと思った。
だが、自分の脳みそを心配する間もなく、私のベッドの左横30cmくらいの所にゴキブリがいた事に気が付いた。
ゴキブリを退治しようと殺虫スプレーを取りに行こうと廊下に飛び出した。
だが、そのゴキブリは驚くべき速さでついて来て私にもう一度声をかけたのだ。
「おい、そこの君。そう早く行くんじゃない。私だって疲れるんだ。」
私はゴキブリが話しかけているのではと言う考えを閃き、気が狂ってるのでは無いかと思い始めた。
さて、そのゴキブリと言うのは8cmくらいの大物のゴキブリで、油で綺麗に煌めいた外骨格、
程よい大きさの翼、そして見事に生えそろった触角を持った素晴らしいゴキブリだった。
その彼が声をかけて来たのである。
「よしよし、ようやく止まってくれたね。いや全く疲れるよ。いや、実は話があって来たんだがね。」
彼に落ち着いた口調で話しかけられた私は、先ほどは失敗した自分の脳みその心配を再開させた。
だが、もし本当に話しかけてきていたらどうする?そんな疑問が脳内にちらつき始めた。
もし本当に話かけてきたら、と言うのは荒唐無稽な考えであった。
けれども不思議と私の心に素直に受け入れられる。だが、と理性は考える。
だが、もしその考えこそが狂気の現れであったらどうするのだろうか?
その場合このゴキブリを他人に見せて、私の幻聴かそうでないかを確かめるべきでは無いか?
そう思った時、私は少し笑みを浮かべていたと思う。
考えてみれば、ゴキブリを手提げ籠辺りに入れながら、自分が幻聴を聞いているのではないか?
と他人に聞いている私の姿と言うのは滑稽で悲劇的にしか思えなかったからだ。
取り敢えず、振りむいた私の目の前、と言うより私の体の後方1mほどに居るヤツに対する対抗策を考えなければいけない。
もしここで対処してしまえば、後はすっぱり忘れて一時の気の迷いだと思う事が出来るだろう。
そう思い、私は後ろに体を向けて、靴下が汚れるのも構わずいきなり彼を踏みつぶそうとした。
彼は、慌てふためいて逃げ出した。攻撃に失敗した私は追撃しようと足を上げたが、
その時にはもうボロボロの廊下のどこかに入ってしまったようで、
その時にはもう見失ってしまっていた。
もう見えなくなってしまったからにはどうしようも無い、と気にしないことにする。
現実逃避だと分かっていながらも私は朝食の準備を始めた。
もう一度彼から声をかけられたのは、その直後の事だった。
ようやく落ち着いた私が朝のニュースを見ながら、食後のコーヒーを飲もうとしている時である。
「やあ。」テーブルの向こう側に現れた彼に、私の思考は凍り付いた。
少し外骨格が汚れた気もするが、紛れもなく彼だった。
驚いて立ち上がり、箸を投げようとする私に、彼は怯えた口調で声をかけた。
「おい、落ち着き給えよ君、話し合おうじゃないか。それが文明的な生物と言う物だ。」
平和的に行こう、平和的に、と声をかける彼に、私は次第に落ち着きを取り戻してきた。
ゴキブリを目の前にして落ち着ける人、と言うのはとても珍しい。
私はその一人では無かったが、異常な状況では人間は変わるものなのだ。
箸を投げる気を無くし、椅子に座りなおした所で彼はもう一度声をかけてきた。
「落ち着いたかい?まあ取り敢えず話をしようじゃ無いか、話を。」
言葉を返す事も出来ない私に、彼は質問をした。
「君は我々の種族を嫌っているかね?」
私がいきなりの質問に対して驚きながら首を縦に振ると、
彼は大きな触角をピクピクと振るわせて言った。
「そうか、それは残念な事だ。だが共存は出来ると思わないか?」
会話のできる目の前の相手と共存できない、と認めるのは例え相手がゴキブリであっても悲しいことだ。
首を小さく横に振る私に、彼は残念そうに言った。
「まあそうだろうな。取り敢えず、交渉しようじゃないか。我々のような一派は対話と友好の為に来たのだ。」
ゴキブリと総理大臣がテーブルを挟んでにこやかに談笑する風景を思い浮かべ、嫌な顔をした私に、彼は自慢げに言った。
「私は自賛するようで言いたく無いのだが、我々の中でも特段優秀な一人でね、まずはこの地方の一般的な人間である君に声をかけようと思ったのだ。」
ようやく冷静になり始めた私は、単刀直入に質問をする事にした。
「だとすれば、君たちは何をしに来たんだ?食べ物ならやらないぞ。」
今度はゴキブリが、私から見ても不快げに言った。
「私はそんな要求の為に来たわけではない。君たちは我々を軽蔑しているようだが、我々は君たちと同等なのだ。」
ゴキブリなんかと同等だとされた事にムッとして、私は言葉を返す。
「だとすれば、君たちは何のために来たんだ?対話と友好と言うけれど、そんな曖昧な物で言われても分からない。」
目の前の黒い昆虫は自慢げに言う。
「そうだな、君たちの言葉で言うならば、私は大使なんだ。両種族の平和の為に来た。」
「だとすれば、外務省にでも行けば良いだろう?私は対話と友好の為に来たんだと言えばいいじゃないか。」
「我々の観察した限りだと、君たちにとって外務省と言うのは雲の上の存在のようだな。我々も同じようなものだ。連中と話をしようとするととても大きな問題があるんだ。外務省となるとセキュリティが厳しすぎてね。対等に話す事なんて遠い遠い夢なんだよ。」
「へえ、どんな風に?」
私はそれほど強調する点を不思議に思って、言葉を返した。
「うむ、まず霞が関全体で実戦状態にあるホイホイは1000を超える。他には100以上の毒物、いつでも使用可能な500以上のスプレー等々、合計合わせると1万を超える兵器が備蓄してあるのだ。」
なるほど、それは突破できない訳だ。感心している私に、彼は話をつづけた。
「それを突破しようとした我々の同志は、ほとんどがそれらによって撃破された。そしてそれを突破した僅かな同志が集まって大臣に陳情しようとした所、大臣は慌てて部屋を飛び出して行ったのだった。
そして、その直後に駆けつけて来たSPや警備員達によって、我々の最後の同志も殲滅されてしまった。撤退出来たのはたった1匹だった……君たちの代表として選ばれた大臣は訪れた非迫害者の話を聞く事も出来ないんだぞ!全く酷い話だ。」
私は苦笑いして言った。「だとすれば、君たちゴキブリは」と話しかける直前に、ゴキブリが怒りも露わに言ってきた。
「おい、君、ゴキブリとは何だゴキブリとは。君らは我々の事を軽々しくゴキブリだと言うが、立派な差別的発言だぞ!ゴキブリは最低の蔑称だ。君らは痴呆や精神分裂症を誤解を招く表現だと言ったり、悪意の籠った表現だから使用しないように、と言っているが、ゴキブリは誤解を招き悪意の籠った使い方をされる言葉だと言うのに、未だに使用し続ける。酷い話じゃ無いか。」
激しい語気に圧倒された私に、ゴキブリ改め彼はなおも話を続けた。
「我々の目標のは、まず第一に我々と人間との共存共栄を実現する事だ。第二にゴキブリと言う表現を使用しないようにして、我々に対する差別を恒久的に無くす事だ。」
私は言った。「分かった、だとすれば、私は何をすれば良いんだ?私は大して権力を持ってないし、知識もほとんど無いぞ。」
「いや、別に良いんだ。君たちの知識はほとんど理解して居るから。問題は、我々がどのように社会的地位を獲得するかなんだ。我々は古来からずっと差別され虐殺されて来たからね。
だけど、我々は共存共栄に向かって進めると思うんだ。取り敢えず、我々は共存出来ると言う事を試してみようじゃ無いか。」
私はその時はっとした。我々は彼らを何の心理的抵抗も無く大量虐殺しているのだ。だが、それでも彼らは人間を憎まずこうやって対話しようとしているのだ。
黙っている私に、彼は言った。「取り敢えず結論を出す前に、会社に行ったらどうかね?冷静になろう。そうすれば理解できるはずだ。……しかも遅刻しそうだぞ?」
ギリギリ間に合った会社では、仕事が手につかなかった。ずっと彼の提案を考え続けていた。
上司から声をかけられた。「おい、何をそうボーっとしてるんだ。顔でも洗って来い。」
私は席を立って、ギクシャクとトイレへと行った。トイレに行くと、1つの集団が出来ていた。
私が集団の近くに居た友人に何があったのか尋ねると、考えても無かった答えが返ってきた。
「ゴキブリが出たから退治してるんだよ。最近バルサン焚いてなかったからなあ。」
そうだった。彼と会話する状況に脳みそが慣れていたのか、彼らを対等な相手と認識しかけていた。
彼らは今も現代社会では迫害されて居るのだ。
そう思った私が近づくと、集団から一人の男が塵取りを持って出て来た。近づくと、今まさに彼らのうち1匹がが死に絶える所だった。
私は言った。「殺したのか?」その男が言った。「ああ。全く厄介な連中だよこいつらは。」私は反論しようとした。彼らだって対話出来る事。友好的である事。
だが、みなはそんな私を見てどう思うだろう。ゴキブリを擁護して、対話が出来ると主張する男を見て。
彼らは殺されるべきだと多数は思っているのだ。それが社会の常識だったのだ。駆除した方が良い存在なのだ。
会社が終わった後、私はベンチでコーヒーを飲んだ。
そしてある結論に至った。
私が家に帰ると、ゴキブリは玄関で待っていた。「やあ、話を続けよう。」そう言って触手を動かしたゴキブリに、私は帰り道で買ったスプレーを向けると、引き金を引いた。
霞が関にある虫ケア商品の量に関しては予測です