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ローン地獄の佳苗さん  作者: 川崎 春
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筋肉シスコン包囲網

 俊希から電話が来た。実家を追い出されたらしい。

 育児休暇を取ったのに、子供達の面倒を見ないで、走りに行ってしまったらしい。

 近所から赤ん坊の泣き叫ぶ声が聞こえると言う事で通報が行って、大事になったのだ。

 馬鹿だ。筋金入りの馬鹿だ。誰が見ても分かる程の馬鹿だ。

「イトちゃんはうちの娘だが、お前は違う。出て行け!」

 母がそう怒るのも、無理は無い。

 そして私のワンルームに転がり込んで、今はお笑い番組を見て笑っている。

 ここまで来ると、呆れて言葉も出ない。

 イトちゃんは、ペドロとニコをとても大事にしていて、仕事をしながら一生懸命育てている。文句ひとつ言わずに、笑顔で良く働く。それなのに、父親が酷い。

 とりあえず、母に電話をして俊希の回収を要求する。

『あんたも、家にあげるんじゃないわよ!』

 母の怒声に耳がキーンとなった。

『あんたが甘やかすから、何時まで経っても子供なのよ!』

 お母さんだって、甘やかした癖に。

 そうは思うが、言うと大変な事になるので言わない。私は少し進化した。暴言が減ったと思う。少しだけだけど。

「ごめんなさい」

『とにかく、今晩泊めても、明日は追い出すのよ!』

 母はそれだけ言うと電話を切った。

 最近、実家近くまで毎日通っていた。

 俊希は自力で食事を作れない。家事もしない。けれど、イトちゃんは、昼の分だけの食費を渡し、息子と一緒に実家に放り出したのだ。備品であるオムツはチェックして切らさない。双子の離乳食やミルクは置いて行くので、要は昼だけのプチスパルタ訓練法だった。

 両親も、それに賛成したそうだ。その程度なら、カップ麺ででも十分にしのげる。

 ところが俊希は、一か月の食費を月半ばで使い果たし、私に電話で助けを求めて来たのだ。

 当然、それ見た事か!と、笑ってやった。

「昼ご飯程度、抜いても死なないわよ」

『筋肉が減る』

「減らしてしまえ!」

 私の即答に、俊希は言った。

『今、佳苗の使っている炊飯器は誰が買ったの?電子レンジは誰が買ったの?』

「折半したよね?」

『全額返してよ』

 こいつは許せない。腹立つ!

「電子レンジも炊飯器も返してあげる。私は新しいのを買う」

『物はいらない。お金』

「いいわ。じゃあ残り分を払うから、もう電話してくるな」

 私がそう言って、早番であがった後、半額分の金を持って実家の方にいくと、実家近くの公園に、俊希がペドロとニコを連れて来ていた。実家には、今母が居るので、行ってはいけないと言われたのだ。

 可愛い。春で一歳になる冬の赤ん坊。モコモコの服に包まれて、とても可愛い。

「飯が減ったんだよ。俺は筋力を維持できないし、腹が減ってイライラするんだ。プロテインを買うと、食費が足りない」

 俊希が言った。

「減らされるのは、ペドロとニコにお金がかかるからでしょ?あんたの筋肉なんて、どうでもいいわよ」

 家事もしない、姉に金をせびる。最悪の状態なのに、筋肉の事しか頭に無い。

「佳苗、何か作って持って来て。お願い」

 嫌だよ。即答しようとしたら、俊希が泣き出した。

「俺は筋肉が無いと生きて行けない。筋肉が無くなったら、どんな扱いを受けるか分からない。職場でも家でも、筋肉の無い俺なんて、いらないんだ」

「そんな事……あるかな」

 一瞬考えて、うっかり言ってしまった。

 病院が欲しいのは、文句ばかり言うリハビリ患者を黙らせられる筋肉マッチョなヒーローの様な俊希だ。

 そもそも、母が隠れ筋肉フェチで、脆弱だった俊希に柔道を勧め、せっせと筋肉を育てたのだ。イトちゃんはその筋肉に惚れ込んだ。

 俊希の人生は筋肉頼みかも知れない。

「ほらみろ!俺は筋肉込みで俺なんだよ」

 そうかも知れないが、その筋肉を守る義務は私には無い。

「筋肉は俺の財産だ。だから、勝手に減らすなんて許せない。だから、佳苗、何か作って持って来て」

「お母さんとイトちゃんにばれると、多分破滅するけど」

「ここで食べる。早番の時だけでいいから!たんぱく質を俺に寄越してくれ」

 児童公園で夕方に、おっさんが双子の外国人風の赤ちゃん連れで、飯をモリモリ食べている。……そんな目立つ事を繰り返していれば、当然噂になるに決まっている。実家の迷惑を考えていない。

「作り置き出来る物を、タッパーで作って持ってくるから、それを隠しておいて食べればいい。……冬しか通じないからね」

 年中で、今が一番寒い。この時期なら、冷蔵庫でなくても腐らない筈だ。

「暖かくなるまでに、解決策をあんたが見つけるのよ」

「ありがとう、佳苗!」

 そして、暖かくなって、差し入れをやめようか考えていた頃、俊希は私の食事で息を吹き返し、双子放置で自分磨きを始めた。

 そして、今に至る。

 こいつが、自分で解決策なんて考える訳が無いのだ。筋肉が、頭蓋骨にも詰まっているんじゃないかと思う。

 テレビをブチっと切って、私は言った。

「あんた、どうするつもり?」

「ここに置いて」

「明日は追い出せって、お母さんの命令です」

 俊希は言った。

「佳苗はそんな事、しないよね?」

 母は……父愛用の七番アイアンを振り回し、俊希を追い出したそうだ。イトちゃんは、それに加勢して、同じくパターを振り回していたらしい。

 父は、ペドロとニコを抱いて、小鳥の様に震えていたのだろう。

 きっと私は、父に性格は似ているのだ。俊希は母に似ている。

 だから力関係が、性別や肉体の強さ以前に出来てしまっているのだ。俊希はそれを生まれた時から熟知している。……最悪だ。

「ちゃんと謝らないとダメだよ」

「何でだよ。俺の筋肉が好きな癖に、飯もプロテインもロクに与えない奴らに、何で俺が謝る必要があるんだよ」

「ペドロ、泣き過ぎで引き付け起こしてたんだって?」

 私がそう聞くと、視線を逸らした。さすがにまずいと思ったんだろう。

 まだ歩けないが、這う。だから、私の使っていた部屋に絨毯を敷き詰めて、おもちゃだけしか置いていない子供部屋を作った。

 俊希は、その部屋に息子達を置き去りにして、十キロのロードワークに出たのだ。

「今はまだ泣くだけで済んだけど、歩くようになったら、扉を開ける様になったら、どうなるか考えなよ!」

 俊希は父親だ。親としての自覚を持つ必要がある。

「その内、何とかなるよ」

「その内って、何年かかると思っているのよ」

「保育園に行くまでだよ。俺も働き出せば、筋肉に金をかけられる。イトちゃんも母さんもブツブツ言わないよ」

 筋肉、筋肉、筋肉……煩いわ。

「自分の息子や嫁は可愛くないの?筋肉ばっかり養って、どうするのよ?」

「可愛いに決まってる。けれど、俺の筋肉の話とは別問題だ」

 筋肉一番、家族は二番……三時のおやつは佳苗のご飯。

「だから、ペドロとニコが保育園入るまで、ここに置いて」

 滅茶苦茶だ。出来るだけ早く申請が通るように役所には行っているみたいだが、最悪来年の四月まで……。

 ローン地獄は、亨さんが終わらせてくれたけれど、俊希の筋肉地獄は、生きている限り続く。

 私には、こいつを追い出すだけの力が無い。

 言葉を尽くしても、決定打を与えられない。威圧も出来ない。

 亨さんは、いつも紳士的で、私にお金やご飯をせびったりしない。強引に言う事を聞かせようともしない。

 色々なお店で、美味しい物を食べさせてくれて、私は支払いした事が無い。買い物でも、私に好きな物を選ばせてくれた。時間がかかっても、ニコニコ笑って許してくれて……。

 時にはプレゼントだなんて言って、買ってくれたりもした。携帯のストラップに始まって、最近は、ちょっと目に付いただけのブレスレットまで。亨さんは、すぐに笑顔で支払ってしまう。……かなり踏ん張っているつもりだが、プレゼントの金額を、じわじわと上げられている気がする。

 恐縮していると、可愛いですね。なんて言って、キラースマイルを放ってくる。もう、何処に出しても恥ずかしくないモテ男だと思う。私は、もうかわすのが限界に近い。

 私の男性経験なんて、本当はたかが知れているのだ。

 中学・高校時代は、俊希の姉と言うだけで、誰も近づいて来なかった。

 大学で出来た初カレは、世話を焼き過ぎて、おかんと一緒に居るみたいでうざいわ!と言って去って行った。関西人だったのだが、その発言のダメージはかなり大きかった。だから、その後、長い間彼氏を作れなかった。

 そして高嶺。……思い出したくもない。

 亨さんが、自分以外の人に、あんな事を言って笑うのかと思うと、本当は嫉妬で焼き焦げになりそうだ。

 けれど俊希もここに居座るつもりだし、会う約束なんて、もう出来ない。

 亨さんとは、とても清いお付き合いをしている。人混みで、手を繫いだ事がある程度だ。

 肉体的に縛られるのは、高嶺で懲りているから、距離を置き続けている。いい大人なのに。

 キスくらいは、しておくんだったなぁ。

 次に連絡を取ったら、お別れだ。

「佳苗、泣いてるのか?」

 俊希が驚いて私を凝視している。

「あんたのせいじゃない!」

 単に、亨さんと会えなくなるのが悲しいだけだ。

「とっとと風呂に入って寝てしまえ!」

 私は、座っている俊希の頭を殴って、台所の奥にしゃがみ込んだ。

「悪かったよ。こんな狭い部屋に俺と一緒に住むのは嫌だよな。……俺でかいし」

 大きさの問題じゃない!

 うずくまって、心の中で怒鳴った。どうせ、そんな事を言っても、俊希には伝わらない。

「とにかく、出来るだけ早く出て行くからさ」

 俊希はそれだけ言って、風呂に入ってしまった。

 明日出て行け!

 私はただ泣く事しか出来なかった。

 翌日、やっぱり俊希は実家に帰るつもりが無いらしく、昼飯を作って行って欲しいと催促された。

 プロテインを箱買いして置きたいが、何処に置けば良いか……なんて、お伺いを立てるのは、気を遣うとは言わない筈だ。

 げっそりして、出勤した。

 私に対する周囲の風当たりは、すっかり良くなっている。

 穂高先生が、小生意気で困っていた若いナースに説教をして、仕事をしない奴は出て行け宣言をしたからだ。

 専門スタッフが居るのに、入院患者の入浴の介助を私に押し付けていたナースも、トイレに行きたい患者が居ると、いちいち私を呼び出して押し付けていたナースも、真面目に仕事をする様になった。

 私は自分の仕事に専念できるし、他のナースがちゃんと返答してくれるのがただ嬉しい。

 経理も、急に低姿勢になった。

 転居の話や電話番号の変更なんかをしに行く時もそうだったけれど、凄く態度が悪かったのだ。

 手続きの書類が欲しいと言っても、無視。

 やっともらって書いても、無視。

 気づけば、俊希に全部バレているし。

 しかし、穂高先生の宣言があった後、妙に愛想がいい。

 食堂で会っても、向こうから、ちゃんと挨拶をしてくれる。穂高先生の一喝で、病院の空気が清浄になった気がする。

 でも、今日は全然そんな気分になれなかった。

 あの嫌な部屋で暮らした日々を思い出しそうだ。弁当を見て、食欲も失せる。

 俊希にも同じ物を作って置いて来たのだ。

 炭水化物が多いと文句を言っていた。

 弁当を見て、俊希と暮らしていた頃の料理の材料を思い出す。

 卵、ササミ、大豆……牛乳は低脂肪。ヨーグルトも低脂肪。野菜はキャベツ一個を千切りにすると、俊希一人で一日あれば食べきってしまう。もう、うんざりだ。

 健康には良いかも知れないが、ササミはパサパサして、大量に食べると飽きる。サラダに混ぜて、ちょっとがいい。低脂肪牛乳はおいしくない。普通の牛乳が飲みたい。ヨーグルトも、できればジャムや果物を入れて食べたい。

 野菜は餌みたいな丼サラダじゃなくて、煮物やポトフがいい。グリル野菜をこの前作った。薄く切った野菜を焼くのがおいしいのだ。私は生野菜が嫌いだ。特に冬は、体が冷えてしまうのだ。

 亨さんとの食事は、美味しかった。

 亨さんは、甘い物が好きで、デートの際にすぐ甘い物を食べたがる。

「佳苗さんのお陰で、人目を気にせず堪能できます」

 口の周りにクリームなんて付けない。綺麗な動きと食べ方で、パフェを食べて、キラースマイルを連発する亨さん。

 カロリーオーバーにダメ出ししつつも、見惚れてしまう。亨さんは太らない。どうなっているのか分からないが、素敵なままだ。

 小さなタルトを食べているだけでも、十分甘い気分になれて、幸せだった。

 話も面白く無いと本人は言っていたけれど、十分に楽しい。お店の雰囲気とか、メニューを見て、どんな人が作っているのか想像するのが楽しいとか、そんな話をする。

 最近は、携帯電話のアプリの使い方の話をよくしている。

 俊希はケーキなんて食べない。砂糖と脂肪の塊だなんて言って、毛嫌いしている。

 俊希は、私にもその価値観を押し付けて来る。確かに体に良い。けれど、こっちにだって嗜好がある。そこまで徹底したくない。

 やり過ぎ筋肉健康法の巻き添えで、また好きでもない物を料理して食べる事になるのだろうか。

 前と違って、狭い部屋でむさくるしい筋肉とイビキに悩まされるのも辛い。

 ため息を吐いていると、経理の人がやって来た。

「佳苗さん、俊希君のお嫁さんが、会いたいって来ています」

「え?イトちゃん?」

 わざわざ呼びに来てくれたらしい。

 お礼を言って、待っていると言う病院のロビーに行った。

 午後の診察までまだ時間があるから、ロビーは閑散としていた。

 南米美人が、椅子に座っていた。

 濃い栗色の髪の毛は、波打っていて、一つに束ねられている。そのせいで、高い鼻が強調されていて、彫りの深さが際立つ。

 着ているのは、白寿園の文字が印字されたジャージなのだが、それすら様になっている気がする。美人は得だ。

「カナエちゃん!」

 イトちゃんは、私を見て笑顔になった。

 イトちゃんは、私をちゃん付けで呼ぶ。私がイトちゃんを、そう呼ぶからだろう。年は今年で二十九歳だから、凄く年下だ。

 けれど、お姉さんと呼ばれるよりも、気さくでいい感じだなぁとは思っている。

 白寿園の入所者のリハビリに付き添ってここまで来たのだろう。そのついでに会いに来てくれたのだ。

「元気……じゃないよね」

 俊希を思い出して、元気?なんて声をかけようとしてそう言った。

 並んで、ロビーの椅子に座った。

「いいんです。お母さんもお父さんも、ペドロもニコも居るから」

 何か、実の子供そっちのけで、実家には家族が再構築されつつある。

「うちに居るよ。ペドロとニコが保育園に行くまで居座るつもりみたい」

「トシは、カナエちゃんに頼り過ぎです」

 俊希は、トシと呼ばれている。ちゃんを付けて呼んでやればいいのに。

 しかし、そんな事よりもイトちゃんには謝らなくてはならない事がある。

「私が悪かったんだよ。色々とごめんね」

 多分、タッパーでご飯を渡した余分な行為も、お見通しの筈だ。そのせいで、ペドロとニコは放置され、可哀そうな目に遭ったのだ。

「カナエちゃんは悪くないです」

 イトちゃんにハグされてしまった。

「あんな大きな赤ちゃんのお世話、もうしなくていいです。後は私に任せて下さい!」

 何て素敵な妹なんだ!最初にドン引きしてごめんなさい。本当に出来た嫁だ。

「ありがとう。でも、どうするの?」

「トシは、病院クビです」

 ハグを解かれて、私は驚いてイトちゃんを見た。

「トシは白寿園で、私と一緒に仕事させます」

「ええ!」

「白寿園は、体力があって、リハビリの指導を出来る人を探しています」

 白寿園は、かなり有名な高級老人ホームだ。東京の資産家なんかが、わざわざ選んで入所する。入所枠は少し空きがある状態を維持している。でも一定数は居る。……とてもお高いと聞いている。

 ハイレベルなサービスが求められているので、イトちゃんみたいなデキる人でないと、仕事をさせてもらえない。

 研修も厳しく、仕事もホテル勤め並のサービスと介護を両立しなくてはならないから、大変だと聞いた事がある。

 そこに俊希が行くと言うのは、無理がある気もするが……。

「トシの望む食事は、白寿園の食事と硬さが違うだけで、一緒です。勤務中は、白寿園で作ってもらって食べさせます。毎日、体操を教えて、リハビリをしてもらいます。他にも、体が動かない人や痛い人の為のマッサージもしてもらいます」

 イトちゃん……俊希にそんなサービス精神無いよ。

「俊希、納得しないんじゃないかな……」

「するとかしないの問題じゃないです。やるんです!」

 意味が分からない。イトちゃんは続けて言った。

「筋肉が大事なら、筋肉の作れる環境が大事です。まるいのリハステ、トシには仕事が簡単過ぎです。だったら、働いて、筋肉を維持すればいいんです」

 白寿園には理学療法士が居ない。だからわざわざここまでリハビリをしに来ている。

 そこにたった一人、理学療法士の資格を持つ俊希を放り込むと言うのだ。馬車馬の様に使われる事だろう。イトちゃんの案は、鬼軍曹の発想だ。

 問題はその本人だ。絶対に嫌だと言う筈だ。理学療法士の資格は持っているが、本当にやりたかったかどうかは、甚だ疑問だ。

 肉体に対する興味が高じて、この道に辿り着いた様にしか思えないからだ。

 高齢者に対する慈愛みたいな感情は皆無だから、とても尽くせるとは思えない。

「どっちにしても、まるいのリハステには居られません。クビです」

 さっきも言っていた。

 よくよく聞いてみると、ロードワークで双子を放置した騒動は、既に穂高先生の耳に届いているそうだ。育休を取っておきながら、何をやっているのか、お前はクビだ。と言う事になるみたいだ。それは当然だろう。

 だから嫁のイトちゃんが、穂高先生と経理からの直々の手紙を預りに来たのだとか。

 姉の私には、イトちゃんから伝えて欲しいとの穂高先生から、頼みがあったそうだ。

 今、ここで聞いているのは、病院の意思でもあるのだ。

 イトちゃんは、白寿園の生え抜きで、生粋のヘルパーだ。背が高くて力もあるので、大柄な男性高齢者の介助も出来るし、お風呂からご飯の介助、掃除まで、何でもこなす。

 イトちゃんが育休を短縮して、俊希に育休を取らせた背景には、白寿園からの熱烈な復帰コールがあったからに他ならない。

 俊希より給料はうんと多い。そのお金の力で、イトちゃんは俊希を黙らせたのだ。

 無認可保育園に双子を入れて、俊希が職場復帰するのは、母が、無認可保育園の子供が虐待されていたと言う、怖い事件をニュースで見たせいで、大反対している。

 子供放置でロードワークに出る父親に成長した息子に対して、母の信頼も底を尽きただろうが、無認可保育園は、まだ抵抗しているらしい。

 イトちゃんとしては、双子で、月々二倍の料金である事が問題らしい。多少値引きはあるみたいだが、それでも、稼ぎの多くが保育料に消えてしまう。

 プロテイン馬鹿は、自分の稼ぎで家族を養うと言う概念も薄そうだし、今後も同時に二倍の料金が続く。確かに不安だろう。

 だから、自分の職場に転職させると言う方法を考え出したらしい。

 最初は、週一か週二で、研修を兼ねて、白寿園にアルバイトとして俊希を勤務させる。その間は、イトちゃんが仕事を休む。一週間、必ずどちらかが家に居る状態を作るのだ。双子は、必ず親と居る状態になる。

 双子が無事に保育園に入ったら、俊希にもフルで勤務してもらうと言う事らしい。

「ヘルパーの資格も取ってもらいます。介助できる人は多い程、いいです」

 イトちゃんみたいな奉仕精神は、俊希には無い。自分に対しての過剰な筋肉愛しか無いのに、そんな事、出来るのか不安だ。

 またうちに逃げ出してくる予感がする。

「エナカさん、アドバイスしてくれました」

「江中さんって、奥津銀行の?」

 亨さん?

 私が驚いていると、イトちゃんは頷いた。

「白寿園、もうすぐ壁の塗装工事します。その関係で、奥津銀行の担当者さん、エナカさんを上司だって言って、連れてきました」

 色々な所に顔の利く人だと感心してしまう。

「何の話をしたかは知りません。けれど、その話の後で、わざわざ私を探しに来て、声をかけてくれました」

 イトちゃんの話はした事がある。白寿園に務めている、ブラジル人の美人だと言ってあるから、すぐ分かった筈だ。

「カナエちゃんの恋人だって、言ってました」

「へ……」

 耳まで赤くなった気がする。

 イトちゃんは、ニコニコして言った。

「素敵な人です。私、応援します。トシの事も、相談に乗ってくれて、とてもとても助かりました。あの人がお兄さんなら、お母さんもお父さんも喜びます」

 何時の間にそんな関係になったの?聞いてないし。というか、お兄さんって!

「ちょっと待って!どうしてそうなるの?」

 イトちゃんはきょとんとして言った。

「結婚、しないんですか?」

 する、しない以前に、亨さんと、そう言う話はしていない。そもそも、恋人になった覚えも無い。

 私が困って黙り込むと、

「エナカさん、カナエちゃん大好きで、早くお嫁さんにしたいのに。嫌?」

 嫌じゃない。ただ、そんな大それた事は、考えていなかっただけだ。

 どうして、イトちゃんの口からこんな話を……。

 そんな時に、自動ドアが開いて、白寿園の別のヘルパーが入って来た。

「イト、帰るぞ!」

 男性ヘルパーの声に反応して、イトちゃんは立ち上がった。

「じゃあ、私、戻ります」

 イトちゃんはひらひらと手を振って、去って行った。

 私はただ、茫然としていた。

 そしてはっとする。仕事が終わったら、まず、穂高先生かリハステの所長である河野さんに話を聞いて、それから亨さんに連絡をしなくては。全てはそこからだ。

 私は立ち上がり、午後の仕事に取り掛かる為に意識を切り替えた。

 仕事をしている間は、何も考えないで心を抑え込む事が出来る。その後は……。

 考えるのを停止する。俊希も霞む大事が起こった事は、意識の隅に追いやった。


 俊希君を、佳苗さんの側から追い払う方法。

 俺はこの難題に、毎日取り組んでいた。

「江中、顔が怖いよ。去年の仕事中みたいな顔してる。やめてよ。思い出すから」

 津田さんが、苦笑した。

「すいません」

 休憩スペースで、コーヒーを飲んでいただけなのだが、注意されてしまった。

「姫の事?」

 津田さんには、洗いざらい話した。

 高峰との修羅場の事もあったから、言わない訳にはいかなかったのだ。

 俊希君が病院から暴力団を追い返した当時の担当だから、俊希君を知っているだけに、佳苗さんに惚れている俺を勇者扱いして面白がっている。佳苗さんを姫と呼び、俊希君を魔王と言っている。

 小竹や他の部下に、佳苗さんの事がバレない為の対策でもあるが、俺は凄く不本意だ。

 ぴったり過ぎるのだ。ネーミングが。魔王とか、魔王とか、魔王とか。

 この人は、重度のネットゲーマーだ。本当は飲み会が大嫌いで、平日にゲーム内でイベントがあると、朝からソワソワしている。

 土日は、奥さんに時間を制限されてゲームをしているとか。子供かと思う。

 息子が一人居る。その子も来年小学生になるので、ゲームが解禁になるらしい。一緒にやりたいと津田さんはワクワクしている。……ゲームの英才教育っていらないだろうに。

 こんな平和的なオタクお父さんが、去年はコントローラーを殆ど握らなかったそうだ。……胃薬でしのいでいたが、入院寸前だった胃潰瘍は、まだ治りきっていない。

 高峰不動産の被害者達が、集団で訴訟を起こす事が決まったそうだが、銀行は無関係だと言い張っている。

 もし巻き込まれたら俺達がやった事も罪に問われる可能性がある。……その先の話は、考えたくもない。

 嫌な状況が、ずるずると続いているので、津田さんの胃潰瘍は完治しない。俺の体重も増えない。

 津田さんは、今も目の前で、奥さんに持たされた、常温のスポーツドリンクを飲んでいる。コーヒーは胃に刺激が強いので、飲まないのだ。

 俺の未来も不安定で、佳苗さんとの関係もはっきりしない。本当なら止めて置くべきなのだろうが、それでも諦めきれない。だから、考えるしかない。俺は佳苗さんがいいのだ。

 俺が返事をしないでいると、津田さんは笑った。

「お前は、変わったよな。昔より強そう」

「強かったら、魔王に勝てますよ」

 弱いから、姫を救えないのだ。

「勇者は普通、パーティーを組む。魔王とサシの勝負なんてしない」

 津田さんは意味ありげに言った。

「パーティー?」

「魔王を倒す仲間だよ。弱いんじゃ意味がない。やっぱりそれなりの強さが必要だな」

 俊希君を退ける為の仲間……。

「穂高先生は、かなり強力な仲間だと思うけど。大賢者って所かな?」

 津田さんは、自分の発想が気に入ったのかニヤニヤしている。大賢者ホダカ。確かにぴったりな感じだ。

 ただ戦闘向きじゃない。前衛には、別の仲間が必要だろう。

 実戦向きの仲間。居るじゃないか!

「アマゾネス」

 俺の呟きに、津田さんは首を傾げる。

 俺はまだ会った事の無い、俊希君の嫁を、仲間に加える事を考え始めた。

 アマゾネス・ラウラ。(通称イトちゃん)いいじゃないか。

 俺の顔を見て、津田さんがわざとらしく嘆いた。

「江中が悪い顔をする様になった。可愛い小太りスイーツ男子だったのに」

「俺は今もスイーツ男子です」

「こんな悪代官みたいなスイーツ男子、俺は嫌だ」

 この際、悪代官でもいい。魔王に勝てればそれでいいのだ。

 とにかく、アマゾネスと繋ぎを取らなくてはならない。

 白寿園は高級な老人介護施設なので、紹介が無いと入れない。佳苗さんの実家に突撃すれば、魔王にも会う事になる。それは避けたい。

「津田さん、白寿園の中に入りたいんですが、知り合いって居ますか?」

「あの温泉の付いた、めっちゃ高い老人ホームか?」

「そうです。あの中に、魔王の嫁が居るんです」

「俺もパーティ参戦か?」

 ヒーラー・ツダ。前衛向きではないが、支援効果は抜群だ。

「お願いします。一生ご恩は忘れませんから」

「じゃあ、お前はポールネス・オンラインのキャラのレベル上げをしろ。そして、息子がオンラインデビューしたら、サポートに回れ」

「はい……分かりました」

 レベルを上げる作業は凄く面倒臭い。途中でレベルが上がらなくなって放置していたけれど、やらねばなるまい。

 津田さんと休憩を終えて、顧客ファイルを調べてみると、小竹が今回、たまたま白寿園の塗装工事をする会社と縁を持っている事が分かった。

 塗装会社は関西に本店のある、外装リフォーム会社の支店だ。最近進出してきたばかりだ。

 話を聞いてみると、小竹がそれに目を付けて、リフォームローンを組む際に、奥津でも可能って事にしておくと、地元の人に好評ですよ……なんてアピールして縁を持った会社だとか。

 塗装工事は当初、高峰傘下のリフォーム会社に頼む事を予定していたらしいが……高齢者向けマンションの訴訟の話を聞いたのだろう。敏感に避けた様だ。そして、この土地に縁の無い会社を指名したのだ。

 奥津銀行の事も、かなり嫌っていた様子だったとか。集団訴訟の高齢者は、全員奥津銀行の固定金利住宅ローンを組んでいたのだから、それは嫌うだろう。

 そのせいで、塗装会社経由で、小竹が園長に呼び出しを食らったそうだ。

「老人を食い物にするのか。銀行も落ちぶれたものだな。君はどう考えるんだ?」

 白寿園の園長は、小竹に嫌味を言う為に呼び出したのだ。同じ老人として、高齢者の介護施設を運営している者として、一言物申したかったらしい。

「組織は人の集まりです。全員が同じじゃありません。私はそんな汚い事はしません。何なら他行の方と比較されても構いませんよ」

 小竹はそう言って、酒井や高峰達と同類呼ばわりされた鬱憤を、逆にぶちまけた。

「金利が安ければ良いって考えなら、変動金利で一番安い銀行の商品を選べばいいんです。多くの人のしている事です。けれど、将来なんて、誰にも分かりません。だから固定金利もある訳です。現金一括が一番安い事は、皆さんご存知の筈です。出来ないから、銀行がお手伝いさせて頂いている訳です。利子や手数料を取る分の仕事はします。ご不明な点は、とことん聞いてください」

 この率直な物言いと、それ以後も、呼び出されては小言を言われる。の、繰り返しに耐え抜いた結果、小竹は白寿園の園長に、気に入られる事になった。

 白寿園の園長は、非常に偏屈な初老の男性だそうだ。他の銀行員は、付き合いきれずに逃げ出したとか。だから、塗装のリフォームローンは、うちで組まれる事になった。

「高峰達みたいな犯罪者まがいじゃなくて、白寿園の園長は、金はあるけど、子供世代に頼れない老人の余生を充実させたいだけの人ですから、去年の仕事と比べるまでも無いですよ」

 ソルジャー・コタケ。神経が図太く、かなり我慢強い。

 俺は、後輩に頭を下げて拝んだ。

「俺に園長を紹介してくれ!とにかく一度でいいから、白寿園に入りたいんだ!」

「老後の視察ですか?江中さん、そんなに貯金あるんですか?」

 老後の身の置き場を見学したいんじゃないよ。

「会いたい人が居るんだ」

「ああ、金持ち多いですからね。投資やってる入居者も結構居ますから、俺も一緒に回りますよ。嬉しいなぁ。江中さんと普通に営業ができるなんて」

 小竹は、俺が新人時代から教育をして育てた弟子一号だ。小竹は男前な上に温厚だから、銀行内部で凄くモテている。しかし、恐ろしく鈍いので、女達が粉を掛けても全く反応しない事でも有名だ。

 そんな奴だから、俺を疑いもしない。営業マンとしてそれでいいのか?と思うが、今回は助かった。あっさりと、園長の元に連れて行ってくれた。

 園長は、俺を胡散臭そうに見ていたが、小竹が今の自分に育ててくれた上司だと言った途端、警戒が解かれた。

 そこで、小竹に見合いさせたい女が居ると言う話になった。入所者のお孫さんだとか。

 金持ちだし、玉の輿ではあるが、小竹には彼女が居る。だから、

「江中さんが、まだ結婚していないんで、若輩の私はまだまだです」

 なんて言う。

 園長が、そこで俺に鞍替えして見合いをさせようと言う事態は発生しなかったが、俺は一瞬ヒヤッとした。

「おまえ、ちゃんと彼女が居ると言えよ」

 園長と別れた後、そう言って睨む。

「この前喧嘩して、別れ話が出てるんですよ」

「え?」

「俺は別れたくないんですけど、去年、仕事が忙しくて放置した事を怒っているんです。困っています」

 小竹の彼女は、奥津銀行の小さな出張所に勤務している窓口業務の女の子だ。

 高卒採用だから、小竹と年齢的には四歳差があるのだが、同期に当たる。

 同じ銀行内部でも、全部の情報を共有している訳では無いから、当然こう言う事も起こる。

 小竹から付き合っているからと、報告された時に、一度だけ飲みに行った事がある。

 銀行員の仕事に誇りを持っていた。若い上に、責任感の強そうな子だったから、酒井達のやった事、俺や小竹達のやらされた後始末の話を知ったら、窓口業務が出来なくなるかも知れない。

 当然、小竹は彼女に何も言っていない。

「俺に出来る事はやるから、相談してくれ」

 小竹は苦笑した。

「喧嘩の発端は、江中さんなんです」

 俺は、目を丸くして小竹を見た。

「東大通りのイタ飯屋で、凄い美人と一緒にパフェ食べてたって聞きました。美空も友達と一緒に居たんです。同じ店に」

 美空とは、小竹の彼女の名前だ。内田美空と言う。

 それ、先週の事では?

「最初、江中さんだって、分からなかったそうですよ」

 俺が内田に会ったのは、予想もしていなかった減量の前だ。

「美人と向かい合わせで、眼鏡の渋くてダンディな人が、パフェを食べているから、何事かと思ってよく見たら、江中さんだったと言っていました」

 イタ飯を食べに行ったんじゃない。あのパフェが食べたくて、佳苗さんを誘って行ったのだ。

 小竹は、珍しく恨みがましい目で俺を見た。

「江中さんの見た目が、ごろりと変ってしまったのを見たせいで、美空に俺の去年の仕事の事を追求される事になったんですからね」

 そんな事を言われたら、俺は何処にも行けなくなってしまう。そもそも、同じ銀行に勤めているのに、姿を見せるな、とか無茶だ。

「江中さんが凄く痩せたのを見て、俺が去年深酒していた事情を、美空が勘ぐり始めて喧嘩になったんです」

「そうは言うが……」

「しかも、江中さんと一緒に居た美人のせいで、キャバクラとか、スナックとかで、変な接待を受けていたんじゃないかとか、妄想されているんです」

 それは予想の斜め上を行く妄想だ。佳苗さんは、確かに三十代で、大人の雰囲気漂う美人だが、ケバくはない。

「……三沢佳苗さんだよ。まるい整形外科の」

 俺は、素直に小竹に言った。

「へ?」

「俺がパフェ食べてるとき、一緒に居た人」

 変な顔をしていた小竹が、声を上げる。

「え~!」

「小竹、声が大きい」

 慌てて周囲を見るが、廊下には誰も居なかった。

「今は詳しく言えないが、俺が穂高先生に頼んで紹介してもらった。正看護師。キャバ嬢でも、スナックのママでもないから」

 佳苗さんとの関係はとてもデリケートな問題だから、こう言うしか無かった。

「あの人、そんなに美人でしたっけ?」

 小竹はここ最近、まるい整形外科に行っていない。小竹の教育している新人は、覚えが悪く、失敗が多い。小竹は、フォローに走り回っているのだ。

 大変そうなので、俺がまるい整形外科の方は見て置くと、言っておいたせいもある。

「元々、佳苗さんは綺麗だよ」

 カツカツの生活感を、俺が取り除いただけ。

「いやぁ、知りませんでした。良かった。江中さんにも春が来て」

 そこで、ニコニコした小竹は、佳苗さんの家族構成を思い出したのか、青い顔になって言った。

「いいんですか?人外魔境みたいな弟家族が居ますが」

 小竹、それちょっと酷い……。

 魔王とか呼んでいる津田さんもそうだが、人ん家に対して失礼だと思わないのか?

 佳苗さんの話では、子供はただの赤ん坊だし、外国人の嫁は、凄く出来た人だと聞いている。偏見は良くない。

 そこを指摘するとややこしくなりそうだし、俺には大事なミッションが残っているので、話を切り上げる事にした。

「内田には、佳苗さんの職業を伝えて仲直りしろ。俺はここにまだ用がある。ここからは、お前と別行動だ」

 人外魔境だろうが、俺は足を踏み入れねばならない。俺は小竹と別れて、施設の内部をうろついた。

 そして見つけた時、彼女は庭の木の下で箒を持って俯き、ぼんやりしていた。

 確かに美人だ。背も高い。ただ、声をかけても日本語とは違う言葉が出てきそうで、言葉をかけ辛い感じは否めない。

「ミサワイトさん?」

 はっとした様子で顔を上げたイトちゃんは、俺を見て、怪しい人を見るような目つきになった。

「奥津銀行の江中と言います。いつも来ている担当の小竹の上司に当たります」

 とりあえず、怪しまれないように身分を明かして名刺を渡す。

「どうして、私の名前を知っているんですか?うち、お金ないです」

 警戒しまくっている。銀行と言うだけで、金を取られるイメージがあるのだろう。

「佳苗さんから、聞きました」

「カナエちゃん?」

 思わぬ方向だったのだろう。イトちゃんは驚いてこちらを凝視している。それにしても、ちゃんって……四つ以上年が離れているのに。

 もう一押し必要だ。後が怖いが、言うしかあるまい。

「俺は、佳苗さんの恋人なんです」

 外国の人には、お付き合いしていると言う表現は通用しないと聞いた事がある。だから、こう言う事にしたのだ。

「そうでしたか!カナエちゃん、あんまり実家に来てくれないから知りませんでした」

 イトちゃんが笑顔になって、こちらに歩み寄って来る。

 胸も尻も豊満だが、締まる所は締まっているスレンダーな体形は、双子の母親とはとても思えない。腕をちらりと見て、この嫁も強そうだと思う。

 そこから話を色々して、お金の話もしないし、付き合っている話が間違いじゃないと納得してくれたイトちゃんは、満面の笑みになった。

「良かった。これでトシの逃げ道が塞がります」

 トシ……つまり、俊希君の逃げ道は、佳苗さんなのだ。

「困ったらカナエちゃんの所に逃げれば良いと思っているので、トシは大きな赤ちゃんのままです。カナエちゃん、甘やかし過ぎ。私、困っています」

 嫁としては、押しかけて行くのは旦那でも、それを受け入れる姉が許せないと言う気持ちになるのだろう。

「俺としても、佳苗さんが大好きで、早く結婚したいんですが、俊希君が障害になっているんです」

 俺は、そう告げた。そう言うべき場面だったと思う。ただするりと、結婚と言う言葉が自分の口から出たのに驚いた。

 佳苗さんにとって、高嶺は過去だ。しかし俊希君は過去から未来永劫続く壁だ。俺はこの壁が忌々しいのだ。

 イトちゃんは、感激して大喜びした。同士だと認めてくれたのだ。

 そんな訳でアドレス交換はあっさり出来てしまった。

 イトちゃんは文字を読み書きするのは出来るものの、メールが苦手だ。でも、電話口で早口で話されるのも嫌いな事も分かったので、メールで日時の指定だけして、会って話すと言う事を何度かする事になった。

 俊希君に、佳苗さんがこっそりとご飯を差し入れている事を怒っていた。寒い窓の外に、タッパーに入ったおかずが置いてあったとか。……佳苗さんも好きでやっている事では無い筈だ。

 そこで、イトちゃんをなだめて、佳苗さんに会った時、それとなく俊希君がどうしているのかを聞いてみた。

 すると、さっと顔色が変わった。

「すいません。自分の筋肉にしか興味の無い頭の悪い弟の話は、こんな時にしたくありません」

 それっきり、佳苗さんは絶対に俊希君の話をしなかった。気まずい雰囲気が続き、必死に話題を変えて、佳苗さんに笑ってもらうのは、凄く大変だった。

 そんなに嫌なのに、何故ご飯を差し入れるのか……。

 で、再びイトちゃんと話をして、最近貯金を始めたので、俊希君の食費を削った事が判明した。

 佳苗さんにそのしわ寄せが行ったのだ。

「トシは、食べて運動しないと筋肉維持できないって言います。でも食べさせていると、子供を育てるお金、減ります」

 何時までアスリート気分なんだよ!

 現役は大学で引退している筈だ。

「トシは、本当はアスリート向けのジムトレーナーになりたかったけど、なれなかった。老人相手のリハビリ指導なんて、本当は嫌。だから、仕事、私の事、子供達の事、投げやり」

 佳苗さんに甘えたままの自己中では、アスリートの指導なんて親身に出来ない。その辺を見抜かれて、就職に応募したが、面接で落とされたクチだろう。

 理学療法士の資格なんて、オマケだ。ジムトレーナーになるなら、かなり自分にも厳しくなくてはならない。他の資質が大事だ。

 アスリートの顧客との間に信頼関係が築けないとやっていけない商売だ。人の気持ちを考えないと言うのは大問題だ。

 病院併設のリハビリステーションみたいに、病院の患者がそのまま来る訳じゃない。

 俺は、この情報を元に、穂高先生に会って、俊希君の話をする事にした。

 今日は、病院の院長室だ。

 穂高先生はこの話を知っていた。

「うちの病院は、故障したアスリートも来ます。それを狙って就職したのも知っています。しかし、プロの野球選手だったのですが……引退か現役続行かで揺れている患者さんに対して、とても非常識な言動がありまして……彼は担当をしたがりますが、アスリートのリハビリは絶対にさせない事にしています。これは私とリハステの河野君二人の命令なので、彼も逆らえません」

 逆らえばクビと言う訳だ。

 何となく分かる。故障なんてした事無いのだ。だから挫折らしき挫折を知らないまま、現役を退いた俊希君は、体を鍛える事は楽しいと思い込んでいる。

 怪我と隣り合わせで、極限まで追い込まれて体を鍛えている人の気持ちを知らないのだ。

 知ろうともしていない。

「潮時ですね。辞めてもらいますか……」

「でも先生、それじゃ余計に佳苗さんもイトちゃんも困ってしまいます」

「そこは、あなたが何とかすべきでしょう」

「私ですか?」

 素っ頓狂な声が出た。

「そう。江中さん、あなたですよ。女性二人の人生を救う救世主になるんです」

 勇者にも救世主にも、本当はなりたくない。でも、ここは一発逆転の発想をすべきなのかも知れない。

「少し……考えてみます」

「やめさせる理由くらいは、幾らでもありますから、その辺は心配しないでください」

 穂高先生は、凄く嬉しそうだ。俊希君を絶望させて、その顔を拝みたいのだから、当然と言えば、当然だ。

 俺が一礼して立ち去ろうとすると、穂高先生は言った。

「江中さん、俊希君も救ってあげると、理想的な状態に持っていけますよ」

 大賢者の謎めいた言葉を胸に秘めて、俺は車で別の仕事先に移動した。

 向こうに辿り着くまでに、頭を切り替えたいのに、さっきの穂高先生の言葉が頭を離れない。頭の中では、さっきから、吠えて牙を剥いている土佐犬を、俺が躾けている。

 そうか。俺が俊希君の性根を叩き直して、希望を見せてやればいいのだ。

 そのままうまく行けば、俊希君は一生俺に頭が上がらない。恩が売れる。

 大賢者の呪文で時間を稼ぎ、アマゾネスによって直接攻撃を加える。効果は絶大だ。その間に、囚われの姫を救い出す。

 俺は、次の仕事先を回って直帰した後、イトちゃんと会う約束をして、秘策を授けた。

「リハステ辞めさせて、トシを白寿園でアルバイトにする?」

「そう。俊希君はちょっと我慢する事を覚えるべきだよ。そのまま働くなら、イトちゃんとずっと一緒に居られる」

「それは素敵です!」

 この計画にイトちゃんは乗り気だ。しかし不安そうでもある。

「トシ、お年寄りに優しくない。心配です。一緒に仕事出来るの、嬉しいけれど、トシがお爺ちゃんやお婆ちゃんに酷い事したら嫌です」

 白寿園ルートは、ストーリーで言うなら、バッドエンドだ。グッドエンドでは無い。俺はちゃんとグッドエンドも用意する予定だ。

「今は詳しく言えないけれど、俺が何とかする。……俺は、佳苗さんから俊希君を引き離したいんだ。それだけは必ずするよ」

「本当ですか?」

「約束する」

 イトちゃんは、凄く尊敬の眼差しで俺を見た。この信頼に応えなくてはならない。

 白寿園の園長には、イトちゃんの旦那が、実は婚約者の弟で、非常に手を焼いていると言う話をした。婚約者と言うのはハッタリだが、恋人では弱いので、こうする。

「イトは、日本に来てから娘みたいに育てた子です。職員も入所者も、あの子が好きです。旦那がロクデナシなら、容赦なく鍛えます。例え、相手がヒグマみたいであってもね。不思議そうにしていますが、ここの職員は、腕の立つ者も居るんですよ」

「穏やかな話じゃないですね……」

「うちの高齢者はお金を持っていますからね。それも守るのも、うちの職員の仕事です。ここの職員は、元自衛官や警察官も何人か居ます。ちなみに私は警備会社で警備の指導教育員をやっていました。……自分よりも強い相手をどうにかする方法はいくらでもあります」

 高級サービスは表の売りであって、本質として高齢者達が望んでいたのは、この強固なセキュリティだったのだ。金を持ち過ぎていて身内を信頼できない高齢者は、だからここにやって来るのだ。

 園長始め職員は、高齢者に雇われた傭兵であり、ヒグマを躾けてくれる猛獣使いらしい。……これは想像以上にアタリな場所だ。

「最終的にお世話になるかも知れないとだけ、思っておいて下さい」

「分かりました。イトの家族を守る最後の砦になればいいんですね?その時は覚悟します」

 向こうとしても、白寿園でイトちゃん一家の関係が複雑化するのは避けたいのだろう。

 とりあえず、協力が得られたので、俊希君の育休明けに、計画を決行しようと日程を組んでいた。

 そこで、俊希君が双子の息子を放置して家を空けていた事が原因で、警察や救急車を呼ぶ騒ぎになった話が、イトちゃんから来た。

「お母さん怒っていたし、私も許せなかったので、思わず追い出してしまいました」

 これでは、佳苗さんの所に行ってしまう。本人も分かっているのだろう。しゅんとしている。

 イトちゃんは、本当に佳苗さんが嫌いなわけじゃないのだ。ただ、俊希君が最後に頼るのは、必ず佳苗さんだから嫉妬しているだけだ。嫁としては、最終的に夫が頼るのは、自分であるべきだと思うのは当然の感情だ。

 今こじらせると、イトちゃんが本当に佳苗さんを嫌いになってしまう。アマゾネスが姫の敵に回るのは良くない。

「イトちゃん。早めに計画を実行しよう。俺が病院の穂高先生に話をしておく。俊希君はすぐにリハステは辞める事になる。とにかく、どんなに俊希君のお母さんが怒っていても、家に帰って来た俊希君を許してあげて」

 はっきりと、ゆっくり発音して伝える。

「分かりました」

 イトちゃんは理解してくれたみたいでほっとする。

「後、この事を佳苗さんに話して」

「私、カナエちゃんに何を話せばいいの?」

「俊希君を辞めさせて、白寿園のアルバイトにする話をそのまま。その計画に俺が一枚かんでいたって事」

「イチマイカム?」

 分からないか。

「俊希君の事で、俺がイトちゃんと相談をしていた事を言っておいて欲しいんだ」

 こうしておけば、佳苗さんは間違いなく俺に連絡をくれる筈だ。イトちゃんは、素直に了承してくれた。頭の良い子だから上手くやってくれるだろう。

 俺は遅い時間だと思ったけれど、すぐに穂高先生に電話をして、今回の事件の事を話した。

「それは責めがいのある口実ですね。俊希君には立派に辞めてもらいましょう。明日にでも、河野君と話をします」

「ありがとうございます。それと、佳苗さんには病院から直接伝えないでもらえますか?俊希君のお嫁さんと、俺の方から伝えますので」

 電話口の穂高先生は嬉しそうに笑った。

「結末を楽しみにしています。頑張ってください」

 こうしておけば、明日……仕事の後で佳苗さんから連絡が来る。間違いなく。

 そこからは、俺の正念場だ。佳苗さんを連れ出し、部屋で待っているであろう俊希君の元に帰さない様にしなくてはならない。

 食事が断たれ、ひとりぼっちにされ、仕事も失えば、俊希君は実家に帰るか、精神的に折れる筈だ。

 夜十一時。

 津田さんは、丁度ゲーム中だから、電話をすると絶対に嫌がる。

 仕方ないので、ゲームにログインして、津田さんのキャラと合流し、レベル上げをしながら、チャットで話す事になった。

『姫を自分の家に匿うのか?』

 津田さんのニヤニヤ顔を思い浮かべて、俺は返事を打ち返す。

『そうです。それしか、ありません』

『凄くピンクな想像しか出来ない』

 ゲーム内チャットで、入力禁止になっていそうな単語を避けて、津田さんはそう言って来た。

『そんな甲斐性、俺には無いです』

 佳苗さんとはどうにかなりたい。けれど、無理強いは、俺には無理だ。

『それじゃあ、ダメだと思う』

 津田さん……。そこは大丈夫だって言って下さい。ヒーラーなんだから。俺を癒して下さい。

『何でダメなんですか?』

『マーキングは必要だと思う。そこは、はっきりさせないと』

『マークング?』

『姫は、自分が必要とされている実感を持っていない』

 俺は黙って文字列が更に打たれるのを待った。

『だから、変な奴でも我慢してしまう』

 高峰は、佳苗さんを必要としなかった。俊希君は、困ったときだけ佳苗さんを頼る。

 ローンが無くなっても、佳苗さんはこんな酷い過去を打ち消す材料を持っていない。

 俺が……誰よりも大事にすると言えていないばかりに。例え言えても、それを信用させる事も出来ない。

『どうしたらいいんですか?』

『体に教え込むしかあるまい』

 チャットのログは残るから、滅多な事を書くなって言ったの津田さんなのに!何書いているんですか!

『それ、無理です。警察に逃げ込まれそう』

『大丈夫。姫はそんな事しない。お前、いい感じに仕上がってるから、自信持て』

 悪代官風味なのに、お姫様略奪した挙句のマーキングとか……あ~れ~って佳苗さんが悲鳴をあげている。

 いきなり想像の中の佳苗さんが、時代劇の姫に変化した。佳苗さんは、襦袢姿で、布団に横座りしている。……あ、ちょっといいかも。

『考えて置きます』

 ヒーラー・ツダの支援効果で、俺の精神は一時的に防御を得た様だが、この勢いで俺は何処まで頑張れるのやら。

 とにかく、俺は十二時前にゲームをログアウトして、明日に備えて風呂に入って寝た。

 明日の帰りには、佳苗さんの電話が来る。絶対に。来ないなんて、考えない。

 最強のパーティメンバーを揃えたのだ。俺は仲間を信じる事にした。

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