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ローン地獄の佳苗さん  作者: 川崎 春
4/6

会えども恋にならず

 マンションが売れた。それもかなりの高値で。

 最初に売ろうとしていた時は、高峰不動産の物件ばかりを取り扱っている不動産屋に行ったのがいけなかったらしい。

「何処に行っても同じですよ。人の買った部屋なんて、一度も使っていないからこそ問題があると思うものです。こんな価格ですよ」

 不動産屋はそう言った。かなり絶望する安値だったのは、今も記憶している。

 その言葉を真に受けて、売却を諦めて返済を続けていた訳だが……再び会いたいと連絡をくれた亨さんが、不動産屋を紹介してくれると言う。

「俺の仕事上で付き合いがある人なので、不正価格で買い取ろうとは絶対にしません。それは保障します。とにかく、現状を知る為にも、査定をお願いしてみてはどうでしょう?」

 確かに居たい部屋では無い。借金が残っても、売れるなら売りたい。

 そんな気持ちも働いて、ダメ元で査定してもらったら、残りのローン分と同じ価格で売れると言う話になった。……そんなに高額でいいの?耳を疑った。

「新品みたいに綺麗じゃないですか!掘りだし物です。買いたいって人は多いと思いますよ。ここ、小中学校も近いので、若い家族に人気なんです」

 確かに、一キロも行かない内に、小学校と中学校がある。

 その言葉通り、翌週に内覧に来た家族に即決で売れてしまい、私の残りローンは無くなった。

 私の借金は、本当に一瞬で無くなってしまったのだ。

 部屋が高値で売れたのは、イトちゃんのお陰だ。綺麗にしておいて、本当に良かった。

 購入した家族は、一日でも早く、この部屋に引っ越して来たいらしいので、急いで手続きをして部屋を明け渡さなければならなかった。

 新しい賃貸の部屋も、不動産屋さんが世話をしてくれたので、すぐに見つかった。ワンルームマンションで、家賃はローンの半分以下だった。

 そんな訳で、有休を三日間取って、市役所と不動産屋と銀行を梯子して、一気に処理をした。引っ越しも済ます。

 もう二度と見る事は無いと思っていた実印を引っ張り出して手続きをした後、銀行印でローンの終わりの書類に捺印する。

「これで手続きは完了です。お疲れ様でした」

 契約をした時とは違う、銀行の担当者が笑顔で応じてくれた。

 余韻に浸る暇も無く、荷造りの為に部屋に戻る。

 荷造りを夢見心地でしていると、電話がかかって来た。亨さんかと思ったら……俊希だった。

『佳苗、引っ越すんだって?』

 誰から聞いたのか?言うまでも無い、病院にそう言って有休をもらったのだから、職場で聞いたのだろう。

「場所は教えないからね」

『佳苗の今後はどうでもいいよ。その部屋空くなら、俺達に貸してよ。ペドロもニコも交互に泣くから、イトちゃんも母さんも疲れ切ってて、今、家の空気が凄く悪いんだ』

 ざまぁ見ろ。お前は今こそ、人生を甘く見たツケを払え!

「部屋は売れた。ここは、もう人様の物だ」

 それだけ言って、電話をブツっと切る。その後も、俊希からのしつこい着信があったので、電源を落とした。

 荷造りを終え、引っ越し業者の人と共に、新しい部屋に移動して荷物を解いていると、インターホンが鳴った。

『こんばんは』

 見ると、モニターには緊張した面持ちの亨さんの姿があった。

「ちょっと待ってくださいね」

 慌てて玄関を開けると、亨さんが私を見てほっとした様子になった。

「電話をしても連絡が付かないので、心配になって来てしまいました。……不躾にすいません」

 私が、俊希からの電話が煩いので電源を切っていただけなのに、かなり心配させてしまったみたいだった。

 その事を話すと納得した亨さんは、部屋も片付いていないだろうし、外で食事をしないかと誘ってくれた。

 そこでふと、髪の毛を無造作に束ね、動きやすいジャージを着ている自分に気付く。

「すいません、着替えるので、少し待っていてください!」

 と叫ぶと、亨さんはキラースマイルで応じてくれた。

「隣のパーキングで待っています」

 この人は数年前に、何度も見かけた記憶があるのだが、どう見ても今と別人だ。

 ほんわかした、人の良さそうな眼鏡のおじさんと言う感じだったが、体形変化と同時に、若返り、雰囲気が鋭くなった気がする。完全に仕事の出来るイケメンにすり替わっている。

 特に後姿と笑顔は、破壊的に恰好良い。

 十五キロ痩せたと聞いている。

 どうやって痩せたのか知らないが、ビフォーアフターの写真を添付して、ダイエット本を出したらバカ売れしそうだ。

 そんな事を考えながらも、荷物の中から服を引っ張り出して着替えると、適当に髪を整えて、外に出た。

 パーキングには、見覚えのあるセダンが停められていて、亨さんは中でスマホの画面を見ていた。たまに指でするすると画面に触れている。

 スマホ……買い換えたら、あれになるんだ。使いこなせるだろうか?

 携帯電話の買い替えは本当に悩みだった。仕事中電源を切っているのだが、内臓バッテリーが限界だったのだ。しかも、バッテリーの在庫が少ないとかで、交換費用がびっくりする様な値段だったのだ。

 窓をコンコンと叩くと、亨さんはすぐに顔を上げて、助手席の扉を少し開けてくれた。

 それをぐいっと開けて助手席に座ると、

「待っててください」

 と言いながら、亨さんが運転席から下りて、パーキングの清算に行く。わざわざ来てもらった上に、駐車場の清算までさせてしまった。……ちょっと情けなくて落ち込む。

 何から何までやってもらって申し訳なく思いながら、亨さんが戻って来るのを待った。

「お待たせしました」

 亨さんはそう言うと、すぐに車のエンジンをかけた。

「亨さんには、何から何までお世話になってしまいました。感謝してもしきれないです。本当にありがとうございます」

 車が走り出し、視線を合わせていない相手に言うのは気が引けたけれど、言わずには居られなかった。

 亨さんは、運転しながら答えた。

「とんでもないです。……俺はたまたま銀行員で、佳苗さんの為に出来る事があったからしただけの事です」

 出来るからと言って、簡単な事では無かった筈だ。

「凄い事だと思います。まだ信じられない気分です。都合の良い夢を見ているみたいです」

「都合の良い夢……ですか」

 亨さんの声は、少し強張っていた。

「お世話になっておいて、こんな事を言うのは失礼ですよね……すいません」

 色々手配してもらったのに、夢で終わらせるのは酷い話だ。慌てて謝罪すると、亨さんも慌てて言った。

「いえいえ、そう言う意味じゃないんです」

 亨さんが、言葉を探しているのか、少し黙る。

「佳苗さんは、諦めていたんだなって思ってしまったんです」

 諦める。意味が分からない。

「自己破産して逃げ出す事も、誰かを頼る事も、全部を諦めていたから、今まで我慢出来たんだなって」

 亨さんの言う方法は、私が思いつきもしなかった方法だ。選択して今を選んだ人なら、亨さんの推測は合っている。けれど、私の場合は違う。

「そうじゃないんですよ」

 亨さんが、ちらりとこちらを見た。

「馬鹿だから、そんな方法すら考えなかっただけです。言われるまで気付きませんでした。借金の問題は、高峰以外に解決する人が居なくて、私は待つしかないって思い込んでいたんです。……あんな綺麗で高級なマンションを買わせたのだから、いつか一緒に住むつもりなのだ。子供が生れても大丈夫な様に広いんだって、思い込んでいたんです」

 亨さんは返事をしない。出来ないよなぁ。こんな馬鹿な話。私は止めなくてはと思いつつ、言ってしまった。

「高峰に捨てられて、うつ病で死ぬかと思ったり、俊希の身勝手さに腹が立って我慢できないと思ったり……思う事はあります。でも実際には、死なないし、我慢も出来てしまうんです。私のそう言う部分と頭の悪さが、全部いけないんだと思います」

 高峰の奥さんは、儚い感じの優しそうな若い女の子だった。子供は居たけれど、ママと言うよりも、本当に女の子だった。私みたいに、頑丈で馬鹿で気が強くて、酷い言葉を吐ける女とは全然違った。

「付け入る様な男は、見破っているんでしょうね。私みたいなのを」

 ……しまった!

 食事に誘ってくれた男性に向かって、とんでもない暴言を吐いてしまった。両親のどっちかに、この暴言吐きの因子があるに違いない。俊希だけを責められないのは、自分もやらかしてしまうからだ。

 正に今、やらかしてしまった。

 散々お世話になっておきながら、亨さんが付け入ろうとしているみたいじゃないか!

「亨さんは違います!勿論違います!」

 慌てて言ったものの、空気が凍り付いている。これはマズい。

「私、本当に頭が悪いんです!ごめんなさい。本当にごめんなさい」

 すると、亨さんの小さな笑い声が聞こえた。

「佳苗さんは強過ぎて、俺がどうこうするのは、無理です」

 強過ぎ……。

「俺は、凄く気が弱いと言うか……平和主義者なんです。所謂、小物です」

 以前見かけた頃には、確かにそんな感じだった。今はそんな風には見えない。……痩せたとか言う体形もあるが、中身が別なのでは無いかと思う。ガラリとイメージが変わっているのに、本人は以前のままだと思い込んでいる。

 この人も……何か大変な事があったのだ。私は、直感的にそう思った。

「女の面白がる事なんて、分からなくて、つまらないと言う理由で、別れ話を何度もされました。そう言う男ですから、心配しないで下さい」

 つまらない男。高峰に会うまで、そう言う話はよく同僚とした記憶がある。自己中だったり、会話が弾まなかったり……漠然としたイメージはあった。そんな男を掴みたくない。そう思っていた。

 でも結局は、つまらないで済まない最悪の男を掴んでしまった。

 そして今、亨さんと一緒に居て思う。

「面白味なんて、人によりけりですよ。……亨さんはつまらなくないです」

 亨さんが、急に路肩に車を停めた。

 驚いていると、こちらを見て言った。

「何か面白い話なんて、しましたっけ?」

「いいえ」

 亨さんの顔が一瞬でがっかりした様子になった。私はおかしくなって、少し笑って続けた。……久々に笑った気がする。

「でも、花火の付いた凄いホットケーキを食べさせてくれて、私を救ってくれました」

 亨さんは口に片手を当てて、視線を逸らした。照れているのだ。

 俊希なら、こんな時に当然だとか偉そうに言うのだろうが、この人はそんな事を言わない。凄く謙虚な反応だから、私には好ましかった。

「救うなんて、大げさです」

 小声で言う亨さんの声は、くぐもっていたけれど、ちゃんと届いた。

「どれだけの事をしてくれたのか、私は分かっています。だから、大げさじゃありません」

 今のルックスと地位なら、間違いなく女が争って飛びつく優良物件だと思う。

 昔の女達は、多分体形が気に食わなかったが言えずに、そんな事を言ったのだと思う。

 粉をかけている女も居るだろうに、私なんかの紹介を穂高先生経由で頼むとか……そこら辺が、小物思考なのだろう。

 チンケな男なら、私がお似合いだ。でも、亨さんはそうじゃない。私じゃいけない。

 高峰に引っかかったダメ女で、俊希と言う凶悪生物の実姉だ。一緒に居ても幸せになれない。きっとまた迷惑をかけてしまう。

 そうだ。私には、ちゃんとしたお礼なんて出来ない。だったら、今の亨さんに自信を付けてもらう踏み台になろう。

「お食事、行きませんか?」

「そ、そうですね!」

 亨さんは、慌てて車を出した。

 変な場所に連れて行かれたり、会話に不備があったりしたら、ダメ出しをしよう。

 厳しいお局として、亨さんを鍛えるのだ。

 俊希と違って、亨さんは私の話を聞いてくれるから、女と言う生物の事を少しは理解してもらえる筈だ。

 そうしている内に、可愛い女の子が現れて、亨さんは目を覚まし、私と居るのを止める筈だ。

 そうだ。それがいい。

 だとしたら、私も女として錆びていた部分の錆を落として、それなりの自分磨きはするべきだ。

 幸い、お金にはもう困っていない。

 あまりに私がみすぼらしい姿では、比較対象のレベルが下がる。若さだけで勝負されたら、ブスにも負けるのが現状だ。

 体は締まっていると思うが、お肌のコンディションがやはり年齢の為か良くない。化粧品も洋服も全然足りない。

 亨さんの女を見る目を安いままにしてはいけない。もっと上を目指すのだ。

 お金の使い道も決まり、新たな目標が出来た。

 亨さんは強過ぎると言ってくれたけれど、私は耐久力があるだけの馬鹿だ。こうしろと言われると、それがおかしいと思う事でも、やってしまうのだ。酷い目に遭っても耐えられるけれど、それを避ける事が出来ない。

 これからも、この性質が原因で失敗するだろう。

 空気を読まずに、言葉を吐いてしまう癖もある。職場で上手く行かないのは、俊希の事だけが原因では無いのだ。間違っていなくても、言い方と言う物がある。正論を押し通せば嫌われる。当然だ。

 私は、そんなにいい女じゃないのだ。

 亨さんがそれに気付くまで、彼を磨いて過ごそう。私もきっと磨かれる。上手く出来た暁には、ステップアップして、美魔女になれそうな気もする。……何か、格好良い。

 ローンが無くなって嬉しい反面、空っぽな気分だった。けれど、何か出来るのだと思うと、元気が出た。

 その日は、ただ静かに話をして、ご飯を食べた。連れて行ってもらったのは、洋食屋さんだった。オムライスがとても美味しかった。

 亨さんは、女を見る目は無いけれど、食べ物を見る目はあると思う。……ただ、ちょっとカロリーが多いのが気になる。亨さんは、オムライスにミックスグリルを付けて食べていた。

 こんな物ばかり食べていたら、今のルックスを維持できなくなる。健康面からも、今後は注意すべきだろう。

 次に亨さんに会うまでにやる事が色々出来て、私は一気に忙しくなった。

 わくわくするって、こう言う感覚だったっけ。私は久々の感覚に、そんな事を思った。


 佳苗さんが、会う度に綺麗になって行く。

 今までも十分綺麗だと思っていたのに、服が変化した。華美では無い。年相応の大人の装いだ。

 俺と並んで歩いていると、たまに振り向く人が居るのは、佳苗さんが綺麗だからだろう。

「病院での仕事はどうですか?」

「お陰様で、今まで通りにやっています」

 佳苗さんに対する一番の心配は、仕事の事だ。後輩にも舐められて、大変なんじゃないかと思う。

 今まで通りと言う事は、酷い有様のままなのだろう。

「あ、そう言えば、俊希が育児休暇を申請する事になりました」

 明るい声で、佳苗さんはさらりと言った。

「え?」

 育児休暇。日本では、男の取得率は低い。

「イトちゃんって言うんですけれど……俊希のお嫁さんが、仕事に復帰して、俊希が実家で子供の面倒を見る事になったんです。保育園、申請したのがちょっと遅くて、二人入れるのは厳しいって事になったみたいです」

 今は年が明けて、一月の末になっている。

 去年の九月くらいに申請しないと、四月には入れなかった筈だ。無茶な事をしている。それは断られるだろう。

 俊希君は全く調べなかったらしい。この手の書類は日本人でも苦手な人は多い。ブラジルの人なら尚更だ。それは俊希君がやってあげるべき事だったと思う。

 十数年前、姉が年子の娘達を抱えて、離婚寸前まで行ったのを思い出す。

 育休中に下の子が出来て、伸びた育児休暇。上の子の保育園が、下の子も入る事で申請し直しになり、別々の園に決まって、それでは通えないと、申請のやり直し。方々を子供連れで駆け回り、その挙句に肩身の狭い思いをして、どうにもならず、姉は仕事を辞める事になった。

 大手企業の支店で、企画営業の総合職に就いていたから給料も良かった。俺よりも、うんと仕事人間だった。妊娠出産による二年のブランクの挙句の失職。そして、子育てと家事に追われる専業主婦への転換。姉にとって、人生最大の危機だった。

 義兄は同じ会社の同僚だったのだが、この状態の間、話も聞かなかったし、手も貸さなかった。放置したのだ。

 温厚な姉がブチ切れた。

 姉のあんな恐ろしい姿はもう見たくない。

 背中に上の子を背負い、下の子を抱っこしながら、髪を振り乱し、土下座をする義兄の背中を踏み付けていた。

 踏まれて義兄は言った。

「俺は何もしていない」

 この場合、何かすべきだっただろう。

「子供は一人で作れないのよ?作った後に何もしないのは、悪行だと思うけど」

「俺の金で生活しているじゃないか」

「お金だけの問題じゃないのよ!そんな事言うなら、あんたがこの子達の面倒を見て食事も作ってよ!私が働くから。元の職場に戻れるなら、同じ位稼げるのは知ってるでしょ!疲れて寝てる時に、避妊しないで勝手に種付けしやがって!この性犯罪者!」

 えげつない言葉だったが、心当たりがあったのか、義兄は黙った。

 可愛い二人目の孫娘が、性犯罪の末に出来たと思いたくない両親も、顔を逸らして聞かなかったフリをした。

 姉にガシガシと踏み付けられて、それ以後、義兄が姉の意見に逆らっている所を見た事が無い。勿論、俺も両親もこの時の事には触れない。

 恐ろしい光景だった。

 多分、三沢家でも似た様な事が起こっているに違いない。

「俊希は、私の持っていたマンションに移り住んで、私を実家に行かせるつもりだったみたいです。ローンも俊希が払うし、生活費も出すからって……学区を変わっても、今すぐに保育園には入れないと思うんですけどね」

 そんな横暴、佳苗さんは平気なのか?

 佳苗さんの三沢家での立場は低い。我が家では、姉はそこまで酷い目に遭っていない。

「失礼ですが、俊希君だけ甘えている気がするのは、気のせいですか?」

 佳苗さんは、隣を歩きながら苦笑した。

「私のせいなんです」

「佳苗さんのせい?」

「俊希は、ああ見えて体が弱かったんです。小児喘息だったんです」

 とてもそんな風には見えない。

「母は看護師を続けていて、家にあまり居なくて、父は不規則な休みの母に代わって、土日はとても良く面倒を見てくれました。けれど喘息気味の俊希の世話は、自然と私の役目になりました。薬を飲ませたり、咳き込んで苦しそうな時にどうするか、学校でおかしな様子はないか。そういうのは私が見て、母に報告し、出来る事は私がするものでした。今も、その時のままなんです」

 立体駐車場から、映画館のある階まで、辿り着いた。

「何の映画にしましょうか?」

 佳苗さんは話題を変えた。……それ以上は言いたくないと言う事だろう。

 俺は映画を見ながら考えていた。……さっきの佳苗さんの話だ。

 家族と言うのは、楽しい事だけで作れない。姉の夫婦を見ていてつくづく思う。

 我慢せずに、好き勝手して生きて行ける様な家庭と言うのは、無意識にお互いを許して補える様に、元々の人格が上手く噛み合っているだけなのだ。

 しかし、もし人格を形成する前に歪な関係が出来上がり、我慢を我慢とも思わず、そのまま受け入れてしまったら。

 苦しいと佳苗さんが助けてくれる。そう思い込んでいる俊希君。面倒を、嫌でも見てしまう佳苗さん。二人共、三十路を超えている。

 いくらなんでも、関係を改善すべきだ。

 マンションを手放す時期が後少し遅かったら、ローン地獄の脱出を俊希君に阻まれていた可能性がある。

 危なかった。部屋を手放す時期としては、限界ギリギリだったのだ。

 穂高先生が、看護師は佳苗さんの天職だと言っていたけれど、そうかも知れない。

 小さな頃から俊希君相手に予行演習をしていたのなら、自然に出来る筈だ。我が儘な患者や同僚にも、嫌な顔を見せずに対応できてしまう。……確かに天職だ。

 大学病院では、その能力を発揮して、ナースとして順調に成長していたのだろう。

 高峰……あの男さえ居なければ、俺も佳苗さんもこんな目に遭わなかった。

 辛い記憶が一気にフィードバックして、息苦しくなる。

 この事は、もう忘れなくては。

 気付いたら、映画は終わっていた。頭に話は殆ど残っていない。

「女性と出掛けて上の空なのは、つまらない男と言われる原因ですよ」

 佳苗さんは、呆れた様子でそう言った。

「すいません。誘ったのは俺なのに」

 こんなだから、女にフラれるのだ。でも、佳苗さんは、嫌な顔をしないで話題を変えてくれた。

「私は構いません。少しお昼には早いですね。どうしましょう?」

「じゃあ、買い物に行きましょう。何か欲しい物はありますか?」

 佳苗さんは、少し考えてから言った。

「携帯電話を……」

 まだガラケーのままだったのか!

「何処の会社にするかとか、決めていますか?」

「どれを見ても、月々の使用料金が高いんです」

 ……まぁ、スマホの本体価格が分割で上乗せされているのだから、当然だ。

「私、よく分からなくて、実際に触ってみたいんですが……亨さんにも付いて来て欲しいって思ったんです」

「分かりました」

 電気屋で見ている内に、店員が来たので、俺が丁重に追い払った。

 その間に、佳苗さんは色々と見て回り、ガラケーの様にテンキーが外付けになっている、二つ折り携帯を見つけ出した。

 ガラホとか言うらしい。価格も月極プランもスマホより安かった。

 最低価格のプランは格安だが危険だと思っていたら、データ転送量が多少あっても金額の変わらないプランを電話会社側も勧めてくれた。

 俺もそれが良いと思う。と告げると、佳苗さんはすぐに手続きを始めて、あっさりと新しい携帯電話に買い替えた。

 驚いたのは、番号もメールアドレスも変えてしまった事だ。

 理由を聞けないまま、食事に行って食べ終わると、佳苗さんはニコニコして新しい携帯電話を取り出した。

「実は、高嶺から電話があったんです」

 自分の顔色が悪くなったのが分かった。

「勿論出ませんでした。一回きりでしたが……怖いので買い替えを決意しました」

「何時ですか?」

「今週の火曜日です」

 結構最近だ。高峰がどうしているのかは、俺も知らない。ただ、高峰グループに対する、他行からの融資の打ち切りが始まっている。もう高峰は終わりだ。

 高嶺司を、佳苗さんに二度と会わせてはいけない。

 俺がどうすべきか考えている中、佳苗さんは新しい携帯電話で、早速電話をしている。

 すると、俺のスマホに着信が来て、すぐに切れた。

「真っ先に亨さんに教えようと思っていたんです。俊希には内緒にして下さいね」

 口に人差し指を当てて、にこっと佳苗さんは笑った。綺麗な笑顔に、毒気を抜かれた。

 ぽかんとしている俺に、佳苗さんは言った。

「この話は、お終いです」

「でも……」

「高峰も、もう新しい番号にはかけて来られません。部屋も売ってしまったし、亨さんのご紹介で来た不動産屋さんが、私の転居先を高峰に教えるとは思えません」

 その通りだ。

「だから亨さんは、大人の余裕でクールに対応する癖を付けて下さい」

 大人の余裕?クールな対応の癖?

「怖かったね。今度からはもっと早く相談してね。とか格好良く言って、笑えばいいんです」

 それは……多分、俺では無い。佳苗さんが危機的状況だと言うのに、笑うとか、あり得ない。

「確かに、早く相談して欲しいとは思いますが、その余分な演出は何処から来たものですか?」

「余分な演出じゃありません。大人の男に女の求める大事な事です」

「佳苗さんは、そう言う男がいいんですか?」

 一瞬、佳苗さんは言葉に詰まって、それから言った。

「一般論です」

 ……はぐらかした。そんな事を言われて、ときめく様な心は持ち合わせていないのだろう。

 佳苗さんは、そう言う事を軽々しく言う男に引っかかって、痛い目に遭ったのだから。

 本人が高峰からの着信を深刻に考えていないのだから、佳苗さんはこのままにしておく事にした。きっと高峰は、佳苗さんを気にしている暇はない。万一の場合にどうするかだけ、考えて置いて、その時に動こう。俺はそう決めて、頭の片隅にしまい込んだ。

 ……では、大人の余裕とやら、ちょっとやってみるか。

「俺は、佳苗さんがどう言う男が好きなのか、知りたいです」

 言ってみた。佳苗さんは、ちょっと困った顔をしてから、赤くなって言った。

「そう言うナンパな聞き方は、良いかも知れません。女の子がコロっと行きそうです。素敵です」

 効果はあった様だが、上手くかわされてしまった。と言うか、佳苗さんは何をしようとしているのだろう?

 それからも、一般論でダメ出しをされる事が続く事になった。俺は、その一般論とやらに首を捻りつつも、耳を傾けてただ頷く。

 胸を張って、私は知っているのよ!という感じで話す佳苗さんが、とても可愛いからだ。

 俺の心配事は、佳苗さんが、綺麗になった事だ。疲れて生活感が満載だったのに、すっかり無くなったのだ。

 病院での酷い扱いも終わった様だ。

 穂高先生と久々に会って話をした。また以前の料亭だ。佳苗さんの事で話があると、穂高先生に呼び出されたのだ。

 聞いてみると、俊希君が居ないからと、佳苗さんイジメをエスカレートさせているナースの一人を呼び出して、口頭注意したそうだ。……そんな事をされたナースは、辞めてしまうだろう。そう心配すると、

「辞めてもいい人を選びました」

 と、穂高先生は言って、背筋の寒くなる様な笑顔を作った。

 スケープゴートだ!この人の下で働くとか、超怖い。

 俺は身震いする。

 日勤の態度や、口の利き方、穂高先生は、経営者として厳しい目で職員を見ている。

 弟子である他の医師達も同じだ。病院はあくまでも仕事ありきの集まりだ。そしてサービス業でもある。無駄口ばかり叩いて、仕事をしない上に、職場の空気を悪くする人間は、いらないのだ。

「やる気の無い人には、出て行ってもらうと言いたかっただけです。不満を個人にぶつけて発散しないと仕事の出来ない人は必要ありません」

 この事は全スタッフを、リハビリステーションに集めて、穂高先生直々に話したと言う。

 穂高先生の意思表明によって、経理の事務員やナース達による、佳苗さんいじめは、一瞬で鎮火したのだ。

 まるい整形外科で働きたいと言う優秀な看護師や医療事務はいくらでも居る。仕事をしないなら、経営者として首をすげ替えると宣言したのだから、恐ろしい話だ。

 職員の中には、家族持ちや転職なんてした事が無い人が大勢居る。さぞやビビった事だろう。

 穂高先生がテレビ出演している有名人で、まるい整形外科が儲かっているから出来る事だ。そして何よりも、先生がサディストだから。今回は、とても楽しんだご様子だ。

「佳苗さんは、元々患者さんの評判がとても良いんです。最近凄いんですよ。息子の嫁に欲しいなんて言う人も、結構居るんですが、佳苗さんが自分から年齢をばらして、笑いながら無かった事にしてしまうんです。それでも良いって人も、上手に黙らせてしまうんですよ。セクハラ・モラハラマニュアルでも作ってもらおうかと思う様な、非常に素晴らしい対応です」

 佳苗さんならやりそうだ。高峰に引っかかった経験からなのか、はぐらかすのがとても巧いのだ。

「佳苗さんが、最近とても若返っている気がするんですが、あなたのお陰ですね」

「……いえ、そんな事はありません」

 距離としては、友人以上、恋人未満と言う状態だ。

「気弱ですね。このままだと、佳苗さんの素敵な名前計画が、水泡に帰してしまいます。早く結婚してください」

 えなかかなえ……。そう言えばそんな話もあったな。

「そんな計画は、最初からありません」

 ローンの相談を受けようと思って繋ぎを取って……修羅場の後、結局ローンの事を口に出せなくて、部屋を売らせて借金そのものを無くした。職場でのいじめも解決した。

 佳苗さんが死にそうだったから、見守っているつもりだったが……それももう、必要無い。

 でも、俺は佳苗さんに連絡をして会っている。顔が見たくて、会う約束をしてしまう。

 俺の気持ちは、多分佳苗さんの連絡先を聞いた時点で固まっていた。名前を呼ばせたいと思った時点で、俺は完全に落ちていたのだ

 けれど、佳苗さんはダメ出しばかりして、俺の気持ちをやんわりとかわし続けている。

「俺も、マニュアル対応されていて、全然近づけないんです」

 穂高先生が凄く悪い顔になった。

「奥津銀行の営業係長に貸しを作っておくのも悪くないですね。これは貸しですからね?」

「え?」

 穂高先生は衝撃的な事を言った。

「佳苗さんは、江中さんが自分では無くて、もっと別の女性と結婚するべきだと信じています。何せ、私なんかと結婚しても幸せになれませんよ、が、決まり文句ですから」

「私なんか……ですか」

 心当たりはある。高峰に引っかかった事で自分を責めているのだ。

「あなたには縁が幾らでもある。佳苗さんはそれを見抜いています」

「そんな、縁なんて……」

 いや、最近飲み会の面子に呼ばれる事が多い。大抵若い女が居る。俺の隣にお酌だ、何だとよく来る気もする。……以前は男ばかりだったのに。

「心当たり、あるでしょう?」

 俺は、飲み会で会った他の女を、そう言う目で見ていなかった。

 佳苗さんを放置すると言う考えが思い浮かばないから、他の女に目が向かなかったのだ。

 そもそも、俺は地味顔で、つまらないから捨てられる男だ。選択できる立場だとも思っていなかった。

「江中さん、昔と違って、痩せて精悍な感じになった上に、雰囲気に重厚感があります。だから、来てますよ」

「何がですか?」

「モテ期」

 五十代の有名医師の言葉とは思えない単語を聞いて、俺はぽかんとした。

「似た物同士ですね。有能なのに、自分を過小評価する所とか、モテ期に気付かないとか」

 穂高先生は、俺を混乱させるのに成功して、気分が良さそうだ。

 この人は、俺が激痩せする程苦しんだ仕事の事も、佳苗さんの抱えていた事情も知らないのに、人を見抜く。カリスマと言うのは、こう言う人を言うのだろう。

「先生!貸し二つでいいです。どうか知恵をお貸し下さい!」

 俺は先生に改まって土下座した。佳苗さんとどうにかなりたい。その気持ちは根深くなる一方なのに、解決策が無いのだ。

 佳苗さんの俺をかわすスキルは、日に日に巧妙さを増している。俺の営業で磨いた話術も、佳苗さんには通じないのだ。

 先生は気分良さそうに、俺に頭を上げる様に言った。頭を上げると、上機嫌で俺を見ている先生の顔が見えた。

「問題は、どうしてモテ期になったかですよ」

 モテ期になった理由?

「枯れていた二人が、お互いを意識して活性化したからです。あなたは痩せたり、昇進したりしただけでは、こんな風にモテなかった筈です。佳苗さんが綺麗になりだしたのは、あなたを紹介した後です」

 確かに、俺が女の多い飲み会に参加させられる様になったのは、佳苗さんの部屋を始末した後からだ。それよりも……

「佳苗さんも、俺を好きだって事ですか?」

「あなたじゃなければ、他の誰かに恋していますね。間違いなく」

 頭を鈍器で殴られた様な衝撃だった。

「他の誰かって、誰ですか!」

「知りません」

「先生~。勘弁して下さいよ」

 サディストとの会話は、精神がゴリゴリと削られる。先生は楽しいだろうが、俺は泣きそうだ。

「佳苗さんが好きなのは、あなたですよ」

 先生の断言来た!やった!

 泣きそうだった気持ちが一気に持ちあがる。

「でも、佳苗さんは俊希君みたいな弟が居る限り、絶対に結婚なんてしません。親戚になれば、迷惑をかけると思っているでしょうから」

 また気分が急降下した。ジェットコースター状態だ。先生は、俺の気分を上げて下げて、楽しくお酒を飲んでいる。

 高峰の事ばかり意識していたが、俊希君と言う凶悪な弟が居る事を、すっかり忘れていた。

「今、息を潜めて息子さん達の世話をしている俊希君が、苦労を知って改心すればいいのですが、きっとそうはなりません。そもそも、俊希君の言動が、何故あんなに佳苗さんに対して無慈悲なのか、分かりますか?」

「原因なんて、あるんですか?」

 単なる無神経。そう解釈していた。

「佳苗さんを独占する為です」

「えぇ?」

 まさかのシスコン?

「あらゆる人物から、孤立させたいんですよ。佳苗さんを」

 俊希君の不可解な言動に、ようやく納得が行く。

 どんなに周囲の人間が離れて行っても、俊希君だけはずっと一緒に居るつもりなのだろう。周囲から孤立させれば、佳苗さんはずっと俊希君の物だ。

 ローン地獄も大歓迎だったのだ。就職先を自分の勤務病院にしたのも、全部独占欲からだったのだ。

「俊希君の我が儘を許す優しい人は、佳苗さんしか居ないですからね。同じ物を要求しても、他人は応じませんよ。たまたま文化的に違う人が、日本文化に憧れていて、思い込みで尽くしちゃったから、結婚はしていますけどね」

 ラウラ……不憫過ぎる。

「今頃、俊希君は結婚を後悔しているでしょうね。お姉さんを監視出来なくなったし、自分も放置されて、嫌々育児をしている訳ですから」

「携帯電話の番号は、知らない筈です」

 佳苗さんが教えたくないと言っていたから、教えていない筈だ。

「経理が把握しているので、聞き出すのは簡単です。もう俊希君は知っていますよ。電話番号も新しい住所も」

「え?個人情報ですよ?いいんですか、本人の同意無しで教えるとか」

「実の姉弟ですし、隠すなんて、躾けられていない土佐犬に噛みつかれそうな事、誰もしません」

 躾けられていない土佐犬……俊希君を俺はヒグマだと思っていたけれど、先生はそう思っているらしい。

 どっちにしても、勝てそうに無い。

「佳苗さんは、最近毎日、密閉容器を何個も、大きなバッグに入れて持ち歩いているそうです。俊希君にご飯のおかずを差し入れして、戻ってくる空の容器と、新しいおかずの容器を持ち歩いているみたいですね。病院の帰りに毎日寄っているんでしょう。ちょっと辛そうです」

「聞いていません」

 俊希君が何処で暮らしているのかは知らないが、食事を作って、持って行っているのか?ラウラはどうした?それでは、独身で同居していた頃と同じじゃないか。

「言わないでしょう。俊希君の事は。できるだけ黙ったまま、江中さんと一緒に居て、いざとなったら、あなたと切れるつもりなんでしょうから」

 切れる?俺と?

 俺が思考停止しているのに、先生は追い打ちをかけて来る。

「意地らしいですよね。好きな男と一緒に居たいけれど、弟は筋肉シスコン。男を守るには、黙って身を引くしか無いと言う訳です」

 俺が頼りないから、弟に人生捧げると言うのか?……事実だ。俺は俊希君に勝てる気がしない。佳苗さんの事で争うとなれば、俊希君は自分の能力を遺憾なく発揮して、俺を脅すだろう。命の危険を感じる。俺は間違いなく負ける。

「佳苗さんを連れて、地の果てまで逃げる覚悟があれば、上手く行きますかね?」

「佳苗さんがついて来てくれるなら、上手く行くでしょうね」

 来ない……。かわされ続けているから、そんな約束する間柄にも、なれていない。

 ニヤニヤしている穂高先生を見て、俺はある事に気付いた。

「先生、紹介した時から、こうなるの、分かっていましたね?」

 カリスマサディスト……怖い。信じられない程、人を観察して、弱点を突いて来る。

「誤解しないでください。私としては、俊希君が絶望する所が見たいんです」

 俊希君が絶望……。

「以前の江中さんでは無く、今の江中さんなら出来ると思ったんですけどね」

「どうやってですか?」

「それは、江中さんが考える事です。私の言う通りにして佳苗さんを手に入れると言う事は、私でも佳苗さんを陥落させる事が出来るって事になりますが、いいんですか?」

 愛妻家の癖に、よく言う。見えなかった現状が見えたのは良かったけれど、先は相変わらず分からないままだ。

 俺はその日から、佳苗さんを担いで必死で逃げているのに、最後に怪物に掴まって食われると言う夢を何度も見る様になった。

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