表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ローン地獄の佳苗さん  作者: 川崎 春
3/6

見合いの日

 穂高先生から紹介された、銀行員の江中と言う人と会う事になった。

 何年も着ていないスーツを引っ張り出したら、全部サイズが合わなくなっていた。九号を着ていたのに、ウェストが全然合わない。粗食ですっかり細くなってしまったのだ。

 ブランド物だったのだが、古着屋に売り払う事にした。

 そうして服を物色してみると、ロクな服が残らない。通勤用の服と部屋着と喪服しか残らなかった。

 仕方ないので、安物の七号のスーツをブラウス込みで買った。靴も一緒に買う。これは普段使いにもする予定だ。

 紺色にすると、リクルートスーツみたいになるので、色をクリームベージュにした。

 それに、ネックレスとブレスレットをして、厚めに化粧をする。

 髪の毛は、最近ひっ詰めているけれど、今日はサイドに流してみた。

 散髪代もケチっているから、髪は一年以上切っていない。前髪だけは、自分で切っているが、後は伸び放題だ。美容院は迷っていくのを止めた。

 どうせ一回会うだけの相手だ。スーツは痛い出費だが、穂高先生の頼みでは断れない。必要経費として受け入れる事にした。

 今日は、粗食じゃない食事を奢ってもらえる予定だから、それを堪能して良しとしよう。

 私が待ち合わせ場所であるホテルのロビーに向かうと、人が多くて困った。

 大安の日曜日と言う事で、結婚式が何組も入って居た様だ。

 誰が江中なのか分からない。

 眼鏡をかけた、三十六歳の銀行員だとは聞いているが、スーツを着た眼鏡の人が多過ぎる。

 何度か病院に来ていたそうだが……思い当たる人は結構太っていた気がする。ちょっと太った人にターゲットを絞って、周囲を見回す。

 そこで、ふと気付く。

 側の披露宴会場の入り口に、

『高峰家・星野家』

 と書かれた紙が張り出されている事に。 嫌だ……。高峰って。

 市街地に出て来てしまったので、この辺りは、高峰の不動産会社の営業範囲である事を思い出す。

 ロクでも無いので、さっさと江中を探して出ようとしていると、赤ちゃんの泣き声がした。……こんな場所に居るとは思えない、凄く小さな赤ちゃんの泣き声だった。

「ほらほら、まだ披露宴があるぞ。頑張れ」

 抱っこ紐をした男性が、物凄く小さな赤ちゃんをあやしている。横抱きの抱っこ紐に入った赤ちゃんは、まだ首が据わっていない。

 そんな小さな赤ちゃん、長時間連れ出すなよ!

 万一に備えて部屋でも取ってあるのだろうが、母親がよく許したものだと思う。周囲に居る親父集団には母親らしき女性が、全く混じって居なくて、老女と中年女性ばかりだった。その後に、一人だけ遅れて、若い女性がぽつんと付いて来ていた。

 誰かの式が終わって、披露宴の前の時間なのだろう。控室からこの会場に移動する途中らしい。

 その非常識な父親の顔を見て息が止まりそうだった。

 抱っこ紐をした父親は……高峰司だったのだ。

 高峰の親族が、結婚式をして、高峰は親戚として披露宴に呼ばれているのだろう。

 結婚したんだ。子供が居るんだ。私が毎日、粗食でローンを支払って一人で居るのに。職場でも冷たくされているのに。お前は幸せなのか?その赤ん坊は見せびらかす為か?イクメンアピールか?

 お前のせいで人生狂ったのに、お前が幸せっておかしいだろう!

 私は頭に血が上って、気づけばバッグを振り回して高峰に近づき、それで思い切り殴りかかっていた。

「いてぇ!」

 周囲が騒然とする中、高峰は私を見て驚いて絶句した。

 口が、かなえ……と動いた気がしたけれど、声が出ていなかった。

「よくも借金背負わせてくれたわね!マンション買わせたら、使い捨てか!奥さんは使い捨てないの?この詐欺師!」

 高峰が子供を庇って丸くなる。その背中に何度もバッグを叩きつけた。

 高峰に騙された積年の恨みが、赤ん坊の泣き声にかき消される事も無く、よく通る声になって、ロビーに響き渡った。

「やめてください!どちら様ですか?」

 さっき、離れて歩いていた女性が割って入って来た。……この若い女の子、奥さんなのか。瞬時に理解して、更に怒りが湧いた。

「私は、高峰司の昔の女よ。この男が、私名義でマンションを買わせた後、一方的に縁切りして来たのよ。お陰で私は、ローン地獄の上に、職場をうつ病で辞めて転職したわよ!文句があるなら、調べるなり、本人に聞くなりすればいいわ!」

 高峰の親族らしき人達は、ぎくっとして肩を震わせた。……どうやら、心当たりがあるらしい。

 奥さんらしき若い女の子は、青ざめている。

「ローンは三十五年で組まされたわ。私の人生は、返済が終わるまで、それだけで一杯一杯よ。……人の人生潰した上で、幸せになるなんて、その子が幸せになれると思いませんが。高峰不動産の跡取りですか?未来は社長ですか?いいご身分ですね!」

 誰も、何も言わない。赤ん坊の泣き声も小さくなった。ロビーが静かになって行く。

 言い返せる訳が無いのだ。私は嘘を言っていない。……ただ、呪いの言葉を、何も知らないであろう奥さんと、無垢な赤ん坊に向けた事が余計だったとは思う。腹が立って、とてもじゃないけれど、我慢できなかったのだ。

 二十六歳の時から八年。私がどんな目に遭って生きて来たのか、こいつらは知りもしないのだ。

「お願いします。ここはお引き取り願えませんか?後日、改めてお話を聞かせて頂きます」

 高峰が、敬語で言って頭を下げる。私は無視した。

「あんたが私にマンション売って実績を積まないとボンボン社長って舐められるから、やったって事は、何となく分かっていたわ。私と結婚する気が無い事も、騙されたって知って分かった。でもね……」

 私は、ずっと心の中にしまい込んでいた、自分の馬鹿を曝け出す事にした。

「悪かった。許してくれって言いに来るのを待っていたのよ!それを聞きたかっただけなの。馬鹿みたいに、明日は来るかも知れない。今日は来なかったって、ずっと、考えて……だから、誰にも言わずにお金を返してたのに」

 高峰がそんな事をする訳が無いのだ。それなのに、悔い改めた高峰が私に謝罪して、結婚してくれるかも知れない。そんな甘い事を想像して縋ってしまった。それだけを期待して耐えてしまった。八年も。

 高峰は馬鹿な男だから、きっと社長なんてうまく行かない。失敗して私に縋りにやって来る。私はそう思う様になっていた。

『許してくれ、佳苗。俺が悪かった』

 きっと会社を潰して、私の所に転がり込んでくる。そうなったら、私が上から目線で救ってやるのだ。

 そんな、自分に都合の良い妄想を、脳の中で何度も再生させた。それしか私には出来なかった。狂ってしまった人生は、そんな事でも起こらない限り、修正されないと思っていたから。……そんな事は起こらなかった。

 救い様の無い馬鹿は、私だったのだ。

「私の人生返して!」

 泣き崩れてしまいそうな腕を、誰かが支えてくれた。

 見ると、痩身の男性が私を支えてくれていた。細いシルバーフレームの眼鏡をかけている。

 誰ですか?

 きょとんとしていると、その人は高峰の方を見て言った。

「お久しぶりです。高峰社長」

「……奥津銀行の人か?」

 高峰が青い顔をして、眼鏡の人を見ている。

「はい。お忘れでしょうが、江中と申します。上司の津田とお伺いした際は、奥様との新婚旅行を切り上げて帰って来て頂いてご迷惑をおかけしました」

「待ってくれ!後で話を!いや、今からでもいい」

 高峰は、もう私を見ていない。他の親族も青い顔をして、眼鏡の人を見ている。

「地方銀行ではありますが、我々は、あなた達が思う程、馬鹿では無いんです」

 眼鏡の人は、にこっと笑った。眼鏡以外、特徴の無い人だと思ったけれど、笑顔になると、一瞬で印象が変わった。

 キラースマイルだ。私はそう思った。

「それに、佳苗さんは私が是非にとお願いして、知人を頼って紹介してもらった女性なんです。今から初デートなのに、あなたの話なんて聞きません」

 綺麗な笑顔で、佳苗さんなんて言われたものだから、涙が引っ込んでしまった。

「失礼します。……佳苗さん、歩けますか?行きましょう。ここは空気が悪い」

 これから、おめでたい結婚披露宴の予定だが、場は寒冷地獄に変化していた。

 今日の新郎と高峰の関係は不明だが、酷い披露宴になるのは、言うまでも無い。

 とりあえず、振り返らずに歩く。江中さん……で、あろう人が支えてくれるので、何処をどう歩いたのか分からないが、気付けばエレベーターに乗っていて、地下の駐車場だった。

 セダンの国産車の助手席の扉を開けて、江中さんは私を座らせた。私はそもそも、この人と食事をする為に出て来たのだったと、ぼんやりと思う。

 気付くと、車は外を走っていた。

 確か、ホテルのレストランでただ飯を食べさせてもらえる予定だったけれど、どうなるんだろう?

 放心状態で聞く気も無く、ただ、流れて行く風景を見ていた。

 車が停まって、何処かの駐車場だと理解した。

「お腹、空いていませんか?」

 多分空いている。けれど、食べたくない。喋るのも億劫で、視線だけ向けると、江中さんは、こちらを見ないで話していた。

 運転席の背もたれに体を預け、前を向いている。視線を合わせないのは、私が泣きそうになっていたせいだろうか?……みっともない顔をしている自覚はある。

「すいません。自己紹介も何もしていないのに、勝手に佳苗さんなんて呼んでしまった上に、連れ出してしまいました」

「いいえ……」

 それだけは言った。それ以上は、言う気になれなかった。

 重たい沈黙が、車内に充満している。

 私は、どうでも良くなってしまったので、話したくない。話さなくても、全部事情は知っただろうし、これで終わりだ。高峰の事も、江中さんの事も、全てが終わった。

 江中さんがどうするのかは知らないが、動くのも億劫だった。

 私は、密かに高峰を待っていた。それが全ての支えだった。

 高峰の罪を背負っている限り、高峰は私を忘れない。何時か贖罪にやって来る。

 そんな幻想は打ち砕かれて、もうこれからどうやって生きて行けば良いのか分からない。

 若さも職場の環境もどんどん失って、残ったのは、あの一人で住むには広すぎるマンションだけだ。

 今後、江中さんから銀行に報告が行って、高峰の会社が潰れようが、何かの方法で私の借金が無くなろうが、失った歳月は帰って来ない。

 遊ばれて捨てられたのに、それを認められなかった。自分のプライドを守っているつもりで、二十代後半から三十代の前半と言う、長い期間を、私は失ってしまったのだ。

 その事実に打ちのめされていると、声がした。

「このお店、凄く人気のあるお店なんです。雑誌にも何度も載ったんですよ。俺が融資のお世話をさせて頂いたんですけど、ホットケーキがこれでもかって言う位あるんです。さっき聞いたら、一日二十食限定のメニューが残っているんで、お願いしておきました」

 そこで初めて、江中さんはこちらを見た。顔立ちは普通だ。ただ、銀色のフレームの眼鏡が良く似合い過ぎていて、顔の印象が薄くなっている気がする。……眼鏡に顔が付いている感じなのだ。

「一人だと恥ずかしいので、一緒に、食べてくれませんか?」

 そう言って、あのキラースマイルが飛び出した。この人は、表情がとてもいいと思う。顔に気持ちや感情を乗せるのが上手なのだ。

「奢りなら」

 私がそう答えると、

「勿論です」

 と答えが返って来た。

 そして……厚さが十センチと言う、超分厚いホットケーキに果物と生クリームが大量に盛ってある大皿を、一緒に攻略する事になった。

 三十代半ばの男女が初めての食事で食べる物として、どうかと思ったけれど、二人でつついていると、皿はやがて空になった。

 久々の甘い物に、食べている最中から涙がボロボロ出た。

 泣きながら、ホットケーキを食べている私は、さぞおかしかっただろうに、江中さんは、黙って一緒に食べてくれた。


 俺は、またやらかしてしまった。

 穂高先生の日時セッティングに佳苗さんが応じてくれたので、場所は、市街地にある有名ホテルの中華バイキングに行く事に決めた。

 時間制限は二時間で、立ったり座ったりしながら話ができるので、口数が少なくなってしまっても困らない。俺としては、最善のチョイスだった……つもりだ。

 しかし、結果は最悪の修羅場だった。

 高峰グループと呼ばれる、地元の中小企業団体がある。元は江戸時代から続く豪農で、明治に高利貸しで財を成し、不動産経営に手を出したのは大正の末だったと言う。財閥と言う程巨大では無かったから、戦後の財閥解体の際にも対象になっていない。

 今では、ゴルフ場の会員権や、ビルメンテナンス、清掃スタッフ派遣、老人向けグループホームの経営等、一族経営で様々な業種を経営している。

 その事もあって、奥津銀行との関係も古く、百年近くの付き合いだ。相当額の融資が高峰グループにされていた。

 しかし取締役会から、高嶺グループへの融資を、できるだけ早く回収しろ、と言う通達が来た。監査室が動いたのだ。

 相手に悟られない様に、と言う非常に厄介な指示が付いていて、営業本部は、デリケートな作業に神経をすり減らした。

 とにかく表向き、高嶺の一族会社は悪くない。ただ、こちらの経営方針の都合で、融資を返済して頂きたい、という『お願い』の姿勢を取らなくてはならなかったのだ。

 俺が係長になってからだから、一年程前からだ。ある意味、俺はこの仕事の為に昇格させられた様なものだ。ここ一年、殆どかかりっきりだったのだ。

 うちの融資分は、ほぼ回収出来た。関係は切れたも同然だ。

 最初に監査室の報告書を見せられて、俺も上司の津田も、眉根を寄せたのは良く憶えている。……明らかにまずい会社なのに、凄い金額を貸している。

 今のまま巻き込まれたら、銀行の損害は甚大だ。最悪潰れる。そんな危機感を持って、毎日仕事をしていた。

 高峰グループの問題点が露呈する日が来る前に、少しでも多くの金を。そんな風に酷く緊張する日々を過ごしていた。

 高嶺司に融資をしていた奴は、完全に癒着していたので、とにかく、そいつを高峰から切り離さなくてはならなかったし、そいつに情報が漏れない様に操作する事も必要だった。それは本部長が、監査室の室長と一緒になって、かかりきりでやっていた。

 仕事が出来ないタイプだったので、ちょっと目立つ囮の仕事を与えられると、そちらにかかりきりになって高峰から目を離した。

 俺と津田さんが、その間に、係長と課長に昇進して、回収チームのけん引役にされた。

 そいつの首を切る、移動させる、それはそのまま相手に悟られる事を意味する。資金が回収できない。それは困る。

 そいつは同じ営業だが、派閥としては、酒井副頭取の傘下に居る奴で、全面的に庇護を受けていたのだ。副頭取傘下の営業は皆、優先的に高峰への仕事を回されていた。融資限度を超えた額を、高嶺グループに垂れ流し、酒井副頭取は、ゴルフの会員権の譲渡や接待を受けていたのだ。

 そんな訳で、うちは金も人事も、高嶺グループとその癒着している奴らのせいで滅茶苦茶なので、とりあえず回収できる金は出来る限り回収し、その後で人事を整理しよう。という事になったのだ。

 明らかに順序が逆だ。筋を通していないのは百も承知だった。

 けれど、処分を先にして、警察や弁護士を立てての訴訟となれば、金が巧く回収できない。大事になって信用も失ってしまう。

 副頭取の一派に、金の回収を悟らせてはいけない。そもそも、銀行に悪事を働いている者が居る事を、表沙汰にしてはいけない。闇から闇へ葬る。上はそう決めて、無関係だった俺達は地獄に落とされたのだ。

 監査室と本部長から、副頭取の一派と高峰グループに隠しきれる期限はせいぜい三か月と言われた。しかし、どう考えても三か月では回収しきれない。それでも、回収するしかない。俺達は死ぬより苦しい日々を開始した。

 高峰グループの仕事を持っていなくて口が堅いとされたのは、俺達を含めて六名程度だけだった。

 本部長の傘下で育った津田さんや俺、小竹なんかは、毛嫌いされて、高嶺グループの仕事を与えられなかったのだ。幸い、嫌われているお陰で、こちらの動きは悟られるまで時間が稼げた。

 メンバー全員で回収に専念しつつ、回収した金の新しい融資先を開拓すると言う業務もこなしていたので、津田さんは胃薬をいつも飲んでいた。

 俺は一年で十五キロ痩せた。特に最初の数か月で十キロの激痩せには、周囲も驚いたし、心配もかけた。

 それくらい、酷い仕事だったのだ。

 回収とは言うものの、実際は貸した期限前に全額返済を迫る、『貸しはがし』だ。高峰グループで仕事をしている何も知らない人達が大勢解雇されたのは言うまでもない。

 高峰グループは一族経営なのだが、高嶺司が急死した父親の跡を継いで不動産会社の社長になって以来、業績不振が続いているのに、隠し続けている。……多分、粉飾決済が行われている。売り上げが伸びている様にみせかけているだけだ。

 酒井一派の勢力が、じわじわと削がれていくのを見て、奥津銀行そのものを切り捨てる方向に、方針転換してくれたのはありがたかった。だから他行への鞍替えを、あちらから始めてくれたのだ。うちみたいに、他の銀行が、湯水の様に融資をしてくれる訳が無いのに。大馬鹿も良い所だ。

 かなり見下した態度で応対されて、嫌な思いをしたのは、一度や二度では無い。

 メガバンクの支店長と同席させられて、これ見よがしに嫌がらせをされた事もある。支店長クラスに、うちの貸していた金額を知られる事の方が怖かった。

 勿論、神妙な顔をしてやり過ごした。うっかり笑ったりすれば、オセロの様に、白が黒にひっくり返る。そうなれば、東京育ちで、この地域の事情に詳しくないメガバンクの支店長に、色々と察知されてしまう。

 コケにされても、罵られても、ただただ、低姿勢で回収に回収を重ねた。

 相手に融資をして、その融資であらゆる場所が活性化し、銀行が地域と共に共存していく姿が見たいだけなのに……。俺の平穏な日々は取り上げられたままだ。

 不動産会社は、融資の中核を担っていたから、高嶺司に会いに行くのは本当に緊張した。一週間前から、津田さんは本当にトイレが近くなって、胃の部分を手が抑えたままになっていた。

 俺も本当に死にそうな気分だった。トイレの鏡で見たら、顔色が土気色になっていた。

 訴えていないだけで、高嶺司は、俺達から見れば歴とした犯罪者だ。そんな犯罪者を出し抜いて金を回収するなんて、考えるのも怖い話だ。

 しかし、絶対に回収しなくてはならない場所だったので、津田さんと俺の二人で交渉に行ったのだ。

 高嶺司は、足を組んだまま応対して、立ち上がって挨拶もしなかった。

 本来、金を貸しているのはこちらで、高嶺は借りている立場なのに。

「困るんですよね。いきなり融資を引き揚げるとか、マナー違反ですよ。奥津銀行さんとは長いお付き合いだったのに……貸しはがしは勘弁してください」

 とは言うものの、高嶺不動産のやり方は酷いし、本来貸して良い筈の査定限度額を大幅に超えて融資されている。貸し渋りで、融資額を減らしていくのは時間がかかり過ぎるし、回収できるかも、分からない。

 とにかく、この犯罪者と金の貸し借りを終わりにする必要がある。早急に。こいつの悪行について、銀行は知り尽くしている。

「申し訳ありません」

 津田さんが静かに言って、俺も一緒に頭を下げた。

「新婚旅行中に慌てて帰って来たら、こんな話でしょ?もう、折角の思い出が台無しになりましたよ」

 わざとだ。浮かれている時を狙ったのだ。

 ここが最大の山場だ。思っている事は言わない。嫌味は聞き流す。我慢強く、ただ金を回収する為に、書類に署名と捺印を頼む。

「折角、内田観光さんとのご縁も出来て、うちは大きくなる予定だったのに、ビジネスチャンスって言うのは、そうそう無いものですよ?奥津銀行さんは運が無い」

 高峰の奥さんは、内田観光の会長の孫娘だと、聞いてもいないのに話し始めた。それも調査済みだ。観光会社としては、東日本で最大級の大手旅行代理店だ。

 一部上場しているので、勿論一族経営では無い。……あえて株を上場しないで一族経営に拘る高嶺グループとは、全く違う企業だ。

 偉いのは高峰では無いし、奥さんだって、創始者一族の出身と言うだけで、何かの権限を持っている訳では無い。親は別会社で重役をしているが、彼女は短大出の事務職だった。まだ二十三歳だと聞いている。

 そんな一回りも年齢の違う若い女の家をアテにして、結婚しただけで世界を勝ち取ったみたいな気分で居る様子は、馬鹿丸出しだった。

 お陰で、回収が楽になった。高峰は、うちの銀行に払う金のツテを奥さんに求めている。可能だと思い込んでいる。

 高峰不動産の商売の内情を知らない人は、奥さんの家柄とかを自慢されれば、勘違いするかも知れない。そんな訳で、別の銀行が融資する可能性もある。……うちが貸していた額の大きさを知り、大急ぎで不動産を始め、グループ会社から融資を回収したと言う話を聞いたら、絶対に貸さないだろうが。

 この男は、自分が経営者として最大の分岐点に居るのに、全然気付いていない。

 背後に立っている初老の秘書は、何も言わない。……言えば、高嶺に意見した事が理由でクビが飛ぶ。そんな経営をしているから、誰も危機に助けてくれないのだ。

 俺は、そんな事を考えながら、高嶺のネチネチした言葉を聞き流していた。

 新婚だった事もあり、高嶺は非常に機嫌が良かった。文句を言っていた割には、すんなりと即返済の返事をもらえた。融資先は、奥さんの親族のツテを頼るからお前達はいらない。そんな事も言っていた。

 ビルを出た津田さんは、ぼそっと言った。

「別れるよ」

 予感と言うよりも、ほぼ確定と言う言い方だった。奥さんの尻に敷かれて十年、津田さんの言葉は重かった。

 そして、それが現実になる瞬間を、俺は見てしまったのだ。

 ローン地獄の佳苗さん。そのローンの原因は、高嶺司だったのだ。

 佳苗さんを騙してローンを背負わせ、それを忘れて、内田観光の会長の孫娘と結婚していたのだ。明らかな詐欺だ。

 佳苗さんが大学病院を辞めた理由も聞いてしまった。……うつ病だったのだ。

 うつ病になる程ショックを受けて、転職しても高峰を待っていた佳苗さん。

 あの無神経な弟と、ずっと一緒に育ったせいだろう。酷い奴に対する感度が鈍過ぎるのだ。

 今日、ここで高峰を目にしていなかったら、過酷な状況を受け入れて、まだ頑張るつもりだったのだ。

 それは無い。もう、やめてくれ。

 俺は辛くなって、修羅場から佳苗さんを連れ出した。

 しかし、連れ出してみたものの、佳苗さんは放心状態だった。

 そもそも、自己紹介すらしていない。佳苗さんは、俺を知りもしないのだ。それなのに、言われるがまま、俺の車の助手席に座っている。

 高峰以外なら、誰でも良かったのだと思う。

 俺の事は、穂高先生の紹介で会いに来た、眼鏡をかけた銀行員。それだけの情報しか持っていない筈だ。だから、顔も今日初めて見たと思っているだろう。インパクトに欠ける顔と言うのは、覚えて欲しい人に覚えてもらえない。営業でも、損な顔だと思っていたが、今日もそれを思い知る。

 高峰も、俺を殆ど憶えていなかった。津田さんの横でペコペコしていた男と辛うじてつながった程度の反応だった。

 それはどうでも良い。とにかく、佳苗さんだ。……こんな状態の女の扱いなんて、俺は知らない。

 どうするんだよ。放置したら死にそうだ。だからって、何をすれば良いのかも分からない。

 屍状態の佳苗さんの横で、とりあえずある店の電話番号を検索する。

 俺は面白い事なんてできない。でも、今必要なのは、その面白さかも知れない。

 俺の考える面白さなんて、たかが知れているし、外しているかも知れない。

 それでも、俺はやらなくてはならない。

 中華バイキングの予約はキャンセルだ。

 そして、『キャディー・パーラー』の電話番号に電話をする。

 店の電話番号だ。オーナーのスマホでは出てもらえないので、今日は店の電話にかける。日曜日の開店直後で忙しい筈なのに、五コールで、出てくれた。

『いつもありがとうございます。キャディー・パーラーです』

 女の子の声がしたので、奥津銀行の江中だと名乗って、オーナーを呼んでもらう。

『お~、江中さん、ご無沙汰じゃないですか!ご予約ですか?』

 オーナーは、辻井と言う男だ。三年前に、出店で融資を俺が担当した。

 年は、二十九歳だ。高校卒業と同時に海外に渡って、二十五歳までカフェを転々として修行を続けて来た強者だ。

 そもそも、俺は高校で調理師免許が取得できる事も知らなかった。だから、まずそれに驚いた。

 更に、俺のイメージでは料理の留学と言うとフランスなのだが、高校で調理師の免許を取得している頃から、辻井はパンケーキが国によって違う事に興味を持って、フランスだけでなく、各国を渡り歩く計画をしていたのだそうだ。

 英語もフランス語も、会話可能で、読み書きまで出来てしまう。

 辻井は、情熱と努力と実行力の人なのだ。

 そんな人柄を買って、俺は融資を全面的にバックアップした。

 今では、雑誌に載る程の人気店だ。珍しいパンケーキなのかクレープなのか分からない物から、今人気のハワイアンパンケーキまで、種類が多彩なのが人気の理由だ。

 後、辻井の奥さんが服飾関係の仕事をしていた人だそうで、ウェイトレスの制服目当てに来ている人も居る。

 俺は甘い物が凄く好きなので、この店は大好きだ。酷い仕事に耐えられたのも、この店のお陰だ。高峰グループと酒井『元』副頭取のせいで激痩せした身としては、ここのパンケーキが無かったら、ダイエットを通り越して、拒食扱いされていたと思う。

 電話一本すれば、優先的に座らせてもらえるし、特別メニューや限定品も、予約すれば出してもらえるから、本当はもっと行きたい。メニューを全制覇したい。

 しかし……思った程、行けていない。

 ピンクと白のストライプがメインになった店の内装が、俺の入店意欲を著しく削ぐのだ。

 そんなファンシーな店で、三十代の男が一人でパンケーキを食べていると言うのは、ある種の怪異だ。俺は、若い女子の視線だけで焼き殺されそうだから、午後は絶対に行かない。

 普段は事前予約をしておいて、土曜の朝、開店直後にさっと行って、帰って来る。

 居辛くない様に、いつも辻井が出て来て話しかけてくれるが……やっぱり浮いている。

 試しに、姉の娘である中学生を二人、連れて行ったときは、違和感が無かった代わりに、姪達が可愛いだの、おいしいだの、キャーキャー喜んで騒ぐので、別の意味で疲れた。

 そんな訳で、姪を誘う作戦も失敗した。

 高校に入学した今、二人は友人と、ここに来ているみたいだ。ここのウェイトレスになってアルバイトをしたいそうだ。勉強しろ、とか言うと煙たがられるので、黙っている。

 俺には馴染みのある、大事な店なのだが……瀕死の佳苗さんに、何かを食べさせるには、チョイスがおかしかった気もする。

 しかし、甘いものが絶対に効果的だと思ってしまったら、ここしか思い浮かばなかったのだ。

「あの……フルーツスペシャルって、まだありますか?」

 正式名称は、『フルーツスシャルデコレーションボリュームホットケーキ』と言う。豆腐が入っていて、日本人好みの味を出している為、名前はホットケーキにされている。辻井のこだわりからすると、パンケーキじゃないそうだ。

 辻井の話によれば、パンケーキに分類するには厚過ぎるそうだ。……十センチ。名前はどっちでも良いが、脅威の厚さである。直系も十センチなので、積み木みたいになっている。それがピラミッド状に積みあがっていて、フルーツと生クリームが同量盛られている。一人では食べきれない。

 ……そんなメニュー、売れる訳が無い。

 俺はそう思って心配したが、辻井は売れるから見ていて下さい。なんて言って笑った。

 限定十食が、二十食に増やされる事態になった。辻井マジックを見たと思った。

 カップルや女子同士が来ると、まず頼みたくなると言う人気の限定品。

 インスタ映えするとの事で、大人気だから、日曜日の昼前である今、売り切れている可能性が高い。

 そんなメニューをダメ元で頼んでみた。

『まだいけますよ。取っておきますか?』

「すぐ行くので、お願いします!」

『一人で食べると、江中さんでも、胸やけ起こすと思いますよ?』

 辻井の心配に、俺は明らかに弾んだ声で答えていた。

「今日は、連れが居ますから」

『そうですか。分かりました』

 通話を切って、よし!っとガッツポーズをしたが、横を見て我に返り、気分が一気に氷点下になった。

 多分、電話していた事すら気付いていない。

 佳苗さんは、ぐったりと座っていた。さっきと全く変わらない姿勢で。目が虚ろだ。

 色々選択を間違えたかも知れないが、もう予約してしまった。

 俺は、そのまま車を出して、キャディー・パーラーへと向かった。

 車内は静かだった。信号待ちが息苦しい。……俺だけだと思うが。

 到着したら到着したで、今度は声がかけ辛い。俺はどうすればいいのか?

 とりあえず、店やメニューの説明をしてお願いをする。とにかく一緒に食べて欲しいと。

 佳苗さんは、俺をじっと見ていた。

 そして、奢ってくれるならと言うので、そんな当たり前の事でいいのかと、ほっとしつつ、店に入った。

 内装のファンシーさに、佳苗さんは一瞬、引いた様に見えた。けれど、さっきまでの屍よりはマシだと思った。

 ピンクの生地に白いマーガレットの花がプリントされたワンピース、フリルの付いた白いエプロンをしたウェイトレスが席に案内して、水を出してくれる。

「予約した江中です。お願いします」

 そう言うとウェイトレスに飲物はどうするか聞かれた。

 佳苗さんに何が良いか聞くと、任せると言われたので、コーヒーを頼んだ。

「自己紹介が遅れました。穂高先生にお願いしてご紹介して頂きました、江中亨と申します。奥津銀行本店で、営業部に在籍しており、まるい整形外科の担当だった事もあります。今回はわざわざお時間を割いて頂き、ありがとうございます」

 ウェイトレスが去ってからそう言って会釈すると、佳苗さんも反応した。……精彩さを欠いていたが。

「ご丁寧にありがとうございます。三沢佳苗と申します。……先ほどは、大変失礼いたしました」

 反応してくれるだけでも、まだ良い。

「とんでもないです。俺があのホテルを指定したのが間違いでした。申し訳ありません」

 佳苗さんは、首をゆるゆると振る。

「かえって良かったのかも知れません」

 視線が落ちて、ピンク色のテーブルクロスに移動する。

「高峰には、二十五歳で出会って、マンションを買わされたのが一年近く付き合った頃だったので、二十六歳でした。……そこからずっと、長く苦しい夢を見ていた気がします」

 高嶺と知り合ってから九年……長い。

「誰かに相談されたんですか?」

「母に相談しました。その当時、父が心臓を悪くしていて、こんな話は父に聞かせられないって事になりました。どうしたら良いのかも分かりません。お金の事で頭が一杯でした。だから、実家に戻って、生活費も入れないで、繰り上げ返済を必死にしていました。母は、未だに父に黙っています。だから、父は私が借金をしている事も知りません。普通の賃貸マンションに居ると思っています」

 酷い話だ。佳苗さんが救われる要素が一切見当たらなかった。

 かたき討ちにもなっていないが……俺達の仕事で、既に高峰は破滅の導火線に火が付いている。

 奥津銀行が、高峰不動産から融資を回収した後、酒井を始め、営業の傘下の者は、全員辞職させられた。本当は、告訴しても良いのだが、それを辞職だけで終わらせたのは、同じ行員の面汚しを、闇から闇へ葬る作業で、人事部の仕事だった。

 人事部の仕事は、俺達みたいに時間はかからなかった。俺達の回収待ちの間に、色々と準備をしていたからだ。

 部が違うので詳しい事は分からないが、全員自主退職に応じ、退職金は、銀行へ損害を与えたとして、大幅にカットされて、殆ど出なかったと聞いている。

 これで、銀行でのカタは付いた。

 そもそも最初に監査室が注目したのは、長年、奥津銀行を利用して来た高齢者の、突然の銀行離れだった。子供の頃からお年玉を貯めていた様な世代が、定期預金まで中途解約して居なくなるのだ。

 一件や二軒では無い。

 調べてみると、築年数の経過でリフォームが必要な一軒家を土地ごと売らせ、高齢者向けマンションを、固定金利ローンで売りつけると言う手法に引っかかった人達だった。

 高峰不動産は、マンション一個の敷地に高齢者を押し込めて、幾つもの土地を買い叩き、土地や新築戸建てを建てて売っていたのだ。

 高齢者達は、今まで広い戸建てで暮らしていたのに、壁の薄い2LDKのマンションに押し込められ、苦情を言っても取り合ってもらえない。ローンや管理費で、蓄えは消えてしまう。

 高齢者向けなんて言うけれど、高嶺のグループ会社が提供するサービスは全部マンションのローンや共益費とは別料金で、何をするにも金が要る仕組みになっている。

 何でも金がかかるのでは、ただの賃貸マンションだ。

 そこで彼らは気付くのだ。騙されたと。

 メインバンクにしている奥津銀行が、無茶なローンを勧めたりはしないと、信じていた人達は、銀行も強く恨んだ。

 不動産屋は勿論の事、信用していた銀行に最悪の感情を抱くのは当たり前だ。

 銀行としては、不動産の契約は、うちとは関係無い。事前の書類をちゃんと読まなかったあなた達が悪いので、お金はお返しできません。と、言う事になる。

 優先的にローン斡旋の手引きをされていた奥津銀行の面汚し営業マンの事なんか、俺達は知らぬ、存ぜぬ、で通さなくてはならない。

 謝罪してしまったら、俺達が悪い事になる。そうしたら、銀行の損害は莫大だ。絶対に認められない。

 低金利のローンにかけ替える為の手続きの相談には乗っているが、うちのイメージは、違法な金融業者、所謂ヤミ金以下になり下がっているので、預金も全部持って、他行に流れてしまう。

 そこから発覚した一連の出来事で、俺は結果的に十五キロの減量をしてしまう事になったのだ。

 俺達は辛い思いをしたけれど、高嶺達を罰しなかった。ただ滅びる様に仕向け、自浄作業に勤しんだに過ぎない。表沙汰にして、これ以上銀行の信用を失いたくなかったからだ。

 マスコミなんかに漏れたら、隠蔽体質と言われるだろう。

 そのせいで、詐欺同然の物件に住んでいる高齢者達も、佳苗さんも、未だに放置されている。

 どんな説明を受けて、そのローンにしたのか、当時の事を明確に説明できる高齢者が居ないのも確かだ。訴える為の弁護士を雇う金も知識も無い。高峰と酒井の一派は、そう言う人を、わざと狙ったのだ。

 当然親族も気付き、怒っているから、奥津銀行を悪徳業者だと思っている人は、預金解約者だけでなく、潜在的にはもっと大勢居る事になる。俺達にとって、その人達が、今一番怖いのだ。顧客を呼び戻す為の道のりは果てしなく長い。

 高嶺司の旨い話と言う口車に乗った馬鹿な奴らが、五十年以上も続いていた多くの信頼関係を、数年で破壊し尽くした。そのツケは余りにも大きい。

 俺は、その酷い奴らと同じ銀行員だ。高峰達のやった事を隠蔽しているから、違うと言っても分からない。分かってもらえない。……佳苗さんにローンの話をするなんて、とんでもない。絶対に出来ない。

 俺は馬鹿だ。自分も被害者だと思い込んでいた。世間一般的には違うのだ。……何を話したら良いのか分からなくて、俺は黙り込んでしまった。

 佳苗さんは、そんな俺をじっと見て、恐る恐る言った。

「失礼ですが……江中さんって、以前はもっと太ってらっしゃいましたよね?」

「え?あ……そうですね。十五キロ程減りました」

 俺の事、覚えているのか?

「十五キロですか?それは凄いですね」

 佳苗さんは、驚いて目を丸くしている。

「印象が変わり過ぎていて、分かりませんでした。全然見た事無い方なのに、何処かで見た事があるみたいな気がして……」

「色々あって、上手くダイエット出来ました」

 物は言い様だ。どうして痩せたか言う訳にはいかない。

「今の方が、若く見えます」

「そうですか?」

 それは良く言われる。十代の頃より、痩せている。姉は心配してくれたが、姪達が、これなら一緒に出掛けてもいい。とか言っていた。……前ここに連れて来た時は、デブだから嫌だったらしい。

「維持された方がいいですよ」

「そう思うのですが、甘い物が好きなので、また太るんじゃないかと、心配です」

 銀行での酷い仕事は山場を越えた。これからは、元通り、呑気に過ごして太りたい。

 そこにタイミング良く、例のブツが出現した。周囲の客も、俺と佳苗さんの前に置かれた大皿に視線を向けている。

 花火がバチバチ言っているんですが!

 このメニューはそんな物付いていない。戸惑っていると、厨房の方から辻井が腕を伸ばし、親指をぐっと出している。

 そう言う気遣い、いりませんよ!

 佳苗さんもびっくりして、皿を凝視している。

 どうしたら良いのか分からなくて、視線を彷徨わせていると、

「確かに……これを一人で食べるのでは、明らかにカロリーオーバーですね」

 佳苗さんは、ウェイトレスに取り皿を頼んでくれた。

 花火はすぐに燃え尽きて、ウェイトレスが、取り皿を持ってくると同時に回収してくれた。

 佳苗さんは、自分の分をさっさと取って食べ始めた。

「甘いです。おいしい」

 やがて、鼻をすする音が聞こえて来て、佳苗さんがボロボロと涙をこぼしながら、食べているのに気付いた。

「本当に……おいしい」

 泣きながら食べている様子は、胸が痛くなった。

 奥まった座席で、入り口側に背を向けているが、気付く人は気付く。……注文した物が派手だったから当たり前だ。

 でも、何かの記念日のサプライズに、嬉し泣きでもしていると思っているのだろう。食べ始めて形が崩れ始めると、視線は無くなった。

 呆けている訳にもいかない。俺も食べ始める事にした。

「嫌いな果物とか、ありますか?」

「生クリームは平気ですか?」

 今更な質問をすると、首を横に振ったり、頷いたり、佳苗さんは口を利かなかった。涙はハンカチで拭っているが、止まる気配が無い。泣きながら食べ続けている。

 佳苗さんの、長過ぎた恋が終わったのだ。

 俺は、それを見守る事しか出来なかった。

 食べ終わると、俺は佳苗さんをマンションまで送って、また絶句する事になった。

「ありがとうございました」

 そう言って頭を下げた佳苗さんの背後には、大きなマンションがあった。

「いいえ、こちらこそ」

 それ以上の言葉が出なかった。

 うららかな秋の午後、綺麗に整備された公園の様な敷地で、住民と思しき何組もの親子が楽しそうに過ごしている。

 こんな場所にたった一人で……。

 佳苗さんは慣れているのか、そのまま中へと進んでいく。

 ここを買ったのが八年前だから、高嶺司が、急死した父親、高嶺誠司から社長業を引き継いで一年程度の頃だ。佳苗さんと出会った頃は、本当に社長になりたてだった筈だ。

 このマンションは、父親の時代に工事計画をした物件の一つだろう。

 安く売る為に作ったものでは無い。高級感が建物の見た目からも伝わって来る。3LDKあるいは4DKのファミリー用マンションだ。多分、五千万円は下らない。

 幸せそうな家族が大勢暮らしているマンションに、たった一人で戻って行く佳苗さん。

 ……高嶺司は、経営者に全く向いていなかった。

 高峰が実績も無い若い社長であったとしても、覚える姿勢があれば良かったのだ。努力すれば良かったのだ。

 しかし、高嶺は失敗も、自分が何も出来ない事も認めなかった。だから成長しなかった。

 気に食わない、自分よりも有能な社員を、高嶺はクビにしたり、全く別業種の系列会社に出向させたりしたのだ。そして、腐り切った口ばかり巧い社員だけが残り、酷い商売を始めたのだ。

 佳苗さんもボンボン社長だと言っていたが、その通りだ。

 全てを分かった上で、黙って人生を手放した佳苗さん。そこまでさせておきながら、踏みにじった上に、忘れた高峰。

 ……何が出来る訳でも無いけれど、定期的には会うべきかも知れない。

 このまま放って置いたら、佳苗さんは消えてしまいそうだったから。

「佳苗さん!」

 俺は車を降りて、佳苗さんに駆け寄っていた。

「また、会ってくれませんか?」

 胸ポケットの名刺入れから名刺を出して、裏面にプライベート用の電話番号とメアドの書いてある一枚を渡す。

「俺の連絡先です。……佳苗さんの連絡先も、教えてくれませんか?」

 本当は、ここに連絡してくれと告げるだけで、来なければ終わりで良かった。

 しかし、今の状況では聞き出すしかない。

「いいですよ」

 佳苗さんはそう言うと、手提げのバッグから携帯電話を取り出した。……超古いガラケーだった。買い替えていないのだ。これでは、SNSは出来そうにない。

 目の前でポチポチと電話番号を登録した佳苗さんは、俺のスマホに電話をかけて来てくれた。そして、俺が出る前に切った。

「メールは後でします」

「よろしくお願いします」

 佳苗さんは俺に再び頭を下げると、去って行った。

 そして、暫くして、

『三沢佳苗です。今日はお世話になりました。ありがとうございました』

 と言うメールが来た。

『こちらこそ、ありがとうございました』

 そこまで打ってから、もう一度考えて、文章を付け加える。

『俺の事は、江中ではなく、亨と呼んでください。俺は、弟さんを知っているので、苗字だと混同してしまいます。だからこれからも、佳苗さんと呼ばせて頂きたいので、俺の事も名前で呼んで下さい』

 すると、暫くして返事が返って来た。

『分かりました。亨さん』

 声じゃない。単なる文字なのだが、気分が一気に高揚した。

 次に会うのが、楽しみになった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ