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ローン地獄の佳苗さん  作者: 川崎 春
2/6

立ち聞きの代償

 汗がしたたり落ちる中、俺はその病院に到着した。

 俺は、江中亨。今年の秋で三十四歳になる、奥津銀行と言う、地方銀行の本店で営業主任を任されている。

 俺の仕事の一つが、銀行の融資を受けている自営業者を回り、状況をしっかりと把握する事だ。

 まるい整形外科は、丸の中に、ひらがなの『い』が書かれた看板が目印の、有名な病院だ。

 丸井清造と言う人が初代の院長で、昭和の初期から戦争を乗り越えて存在している病院だ。規模も大きくなっており、医療法人になっている。丸井家は断絶してしまったので、今は病院に名前だけが残っているだけだ。

 整形外科専門の病院で、五人の医師が居る。全国から、この病院の医師の技術を頼って、患者がやって来る。

 看護師、理学療法士、作業療法士の数も揃っていて、かなり規模が大きい。

 リハビリステーションに力を入れていて、最近になって、患者数に対応する為に増築をした。俺はその融資を担当したのだ。

 経営は順調そうだが、念の為、一定期間ごとに病院内部の様子を見に来るのも、仕事の内だ。

 これはあくまでも建前。……本音を言えば、穂高先生の部下である、医者や看護師の皆さんに、営業をしに来ているのだ。

 ここの人達の給料の半分はうちの銀行経由で支払われている。だから、車から家まで、うちは他行よりも低金利でお貸ししますよ。是非ご相談下さい。と言う事を、耳に入れるのだ。

 穂高先生は、テレビにも出ている有名な整形外科医だ。派手な民放の健康番組で面白トークをしているとかでは無い。昼間に放映されている、受信料で見られるテレビ局によく出ている。老人の支持率が圧倒的に高い。

 膝が痛いとか、腰痛なんかの解説を、静かに図を見て淡々と語っている。

 これが十年も続けば、名前は案外浸透するもので、先生本人が思っているよりも、その名前は有名だ。メガバンクの営業も、ここにはダメ元で頻繁に訪ねて来ている。

 俺の上司の更に上司……奥津銀行の営業本部長をしているのだが、穂高先生が、古い病棟を改築する時に真っ先に融資した。

 当時はまだ先生は無名で、整形外科の専門医の必要性など考えられていなかった。昭和初期からある、ボロボロの病棟の立て直しになど、誰も融資をしなかったのだ。

 しかし部長のお母さんは、穂高先生の手術で立てる様になったと言う経緯があった。

 先生は腕が良いから、絶対に病院は大きくなる。これから先は、高齢化社会だから、整形外科の専門医は、絶対に必要だ。当時主任だった部長は、そう周囲を説得して融資をしたのだ。今の俺とは比べ物にならない傑物だった。

 本部長の読みは当たり、病院は大繁盛している。改築からも更に年月が過ぎて、再度病棟はリフォームをした。俺の上司で、今の営業本部の係長が担当した。

 長い付き合いで、他の銀行は立ち入れない信頼関係を築いて、この融資もうちの銀行が行った。

 新しく増築したリハビリステーションは、もうすぐ完成する。

 綺麗な施設だと言われている。……融資が目に見える形で評判を得ると嬉しいものだ。

 俺がそんな事を思いながら、ほぼ完成した場所を、木陰で眺めていると、大声が聞こえた。

「馬鹿じゃないの?あり得ない!」

 声は人気の無い、リハビリステーションと病棟を繋ぐ、渡り廊下から聞こえた。

 猛暑の最中、こんなくそ暑い場所は、誰も立ち止まらない。さっさとどちらかの施設に入ってしまうからだ。

 俺は思わず、声から死角になる場所に身を潜め、そっと様子を伺った。

「だって母さんが、孫が出来たらって言っていたから……」

「結婚が先でしょう!順番間違えたら、相手の親にも、うちの親にも申し訳が立たないでしょ?」

 周囲を気にしているのか、幾分トーンダウンした女の声には、まだ怒りが感じられる。

 そっと覗くと、見覚えのあるマッチョが、細身な女に身を竦めて怒られていた。

 リハビリステーションの副館長をしている、三沢だ。いつも笑顔でマッチョだから、俺の中では、アメリカンヒーローの様なイメージのある男だ。リハビリステーションの増築工事の話で、何度か会った事がある。

 女は背中しか見えないが、ナース用の夏服を着ている。

「相手は?」

「勿論、産むって言ってる」

「そうじゃなくて。誰なのよ」

「地球の人。人類だよ」

「しらばっくれてると、目に消毒液吹くわよ」

「あれは痛いから、やめろ」

 食らった事があるのだろうか?かなり過激な関係だと思う。

「この病院の看護師が、あんたみたいな筋肉馬鹿になびくと思えない。一体誰なの?」

「介護ヘルパーのヤマダさん」

「ヤマダさんって、白寿園の介護ヘルパーさんの?」

「そう。めっちゃ美人でしょ?」

 三沢が嬉しそうに笑うと、ぐっと拳を握りしめた背中しか見えない女が、三沢の脛を思い切り蹴った。……手加減はしていない様に見えた。鈍い音がした。

 三沢も痛かったのか、足をさする。

「何するんだよ」

「うるさい」

 厳しく言った女の口から、続けて衝撃的な事実が発せられた。

「日系ブラジル人で、背が高くて、鼻筋も高くて、どう見ても日本人じゃない人だよね?ヤマダさんって」

「日本語もポルトガル語も出来るバイリンガルだ。ちゃんと日本語の読み書きも出来る。俺よりも賢い」

「そう言う問題じゃない。美人で賢くても、お父さんとお母さんにどう報告するつもりなのよ?そもそも、あっちの親への報告とかはどうするのよ?」

「イトちゃんから連絡してくれるって。生まれたら一度里帰りしたいってさ」

「誰よ?イトちゃんって」

「ヤマダさんの名前。イトって移住した曽お婆ちゃんの名前をもらったんだって。ヤマダ・ラウラ・イトって言うのが正しい名前」

「ラウラ……」

 女ががっくりと肩を落としている。

 多分、三沢の相手の女性は、ヤマダイトでは無く、ラウラと言う名前がぴったりな容姿をしているのだろう。

 そして、この背中を向けている女は、三沢の姉か妹だ。口調からして姉だろう。

 三沢の言う事は、正しい。それは分かる。海外から日本にやって来て、介護ヘルパーとして働いているのだから、日本語も堪能であろう。

 しかし、三沢姉(?)の気持ちの方が、俺には痛い程良く分かった。

 いきなり外国人が、家族の一員になるとなれば、戸惑うのは当たり前だ。日本人同士の結婚でも、他人を迎えるのは、大変だと言うのに。

 三沢が悪い。いきなり結婚以外選択肢の無い状況で、家族への報告をして来たのだから。

「で、本題なんだけどさ、俺、イトちゃん連れて実家に戻るわ」

「へ?」

「実家にイトちゃんと住まわせてもらおうと思ってるんだ。佳苗の部屋が空いてるから、子供部屋にもできる。孫が生れれば、きっと父さんも母さんも喜ぶ」

 三沢姉の拳が、三沢の脇腹に命中する。

 しかし、三沢は動じない。

「あんたには、プライバシーとか、パーソナルスペースの概念は無いのか!ヤマダさんだって、うちの親だって、いきなり同居とか……あり得ないし」

 三沢の姉は、真っ当な考えの持ち主であるらしい。

「イトちゃんは大丈夫だって言ってた。おしん、ブラジルでお婆ちゃんと何度も見たから、覚悟は出来てるって」

「絶対それ、勘違いしてるから!」

 昭和ドラマの名前が出て来る。名前だけは知っている。俺は見ていないから、内容は知らない。でも、ヘルパーのヤマダさんは、多分日本を勘違いしていると思う。

「後は俺から父さんと母さんにも言うよ。心配しなくていい。ところで、家電の金、半額でいいから、返してくれない?」

「は?」

「まだ二年半しか使ってない家電を、俺が全部売り払うのと、半額払うのとどっちがいい?」

「何で売るのよ!使うから頂戴よ」

「ダメ。イトちゃんのお腹の子供、双子なんだ。イトちゃんも暫く仕事出来ないし、金無いのは困る」

 三沢姉が、絶句するのも頷ける。

 三沢は、真面目な顔で続ける。

「佳苗は、ローン地獄で家電を揃える余裕が無い。俺は金が欲しい。間を取れば、当然こうなる。どうする?」

 三沢姉は、黙り込んでいる。やがて、ぽつりと言った。

「いいわ。ご祝儀代わりに払う」

 三沢がにこっと笑った。

「やった!さすが、佳苗」

 しかし、地を這う様な声が聞こえた。……さっきまでと同じとは思えない低さの声だった。

「ただし、上手く行かなくても、マンションに戻って来るな。絶対に来るな。上手く行っていても、私の部屋には近づくな」

 三沢佳苗(さっき名前が判明)は続けた。

「私はあんたと職場が同じだって事を、今までも後悔していたけど、今日、本気で後悔した。あんた、病院の方への落とし前はどう付ける気なのよ」

「まんま話す。別に恥ずかしい事じゃない。どうせ別れるとか、デキ婚とか、外国人の嫁とか、言いたい奴には言わせておけばいい」

「あんたに直接言う人なんて居ないわよ!私が言われるのよ!」

 上背があって、逆三角形の体形をしている三沢に、面と向かってそんな事を言う奴は、マゾか自殺志願者だ。

「佳苗は大丈夫。男に騙されてマンション買わされて、ローン背負っていても元気だ。俺の事なんて、どうって事ないよ」

 ……さらっと凄い話を聞いてしまった。常識人の様な三沢佳苗も、普通では無かったらしい。

 この姉と弟は、只者では無い。

 そこでようやく、立ち聞きと言う不味い状況に気が付いた。

 聞いてはいけない情報を、大量に得てしまっている。二人共、俺に気付いたら大変だ。

 特に三沢……強そうだ。そう思うと、ヒグマに見えて来る。

「あんた、人生舐め過ぎ!嫁に捨てられて、ギリシャ彫刻みたいな顔の双子の赤ん坊を、血反吐、吐いて育てるがいい!私は、絶対に手伝わないんだから!バーカ!とっとと出て行け!」

 そう言って振り返った顔は、頬が真っ赤で、目も眉も吊り上がっていた。凄く怒っている。

 でも、一瞬見入ってしまった。とても綺麗な顔立ちだったからだ。

 三十代だろう。形の良いアーモンド形の目をした、勝気そうな女だった。

 乱暴な足取りで、病院側の自動ドアの中に消えていく。それを見送って、三沢もリハビリステーションへと戻って行った。

 俺はその後、穂高先生と軽く話をして病院のエントランスに戻って来た。

 すると、あの三沢佳苗が、つかつかと歩いて来たではないか!

 ……あれだけの話を聞いた後だ。じっと見てしまったのは仕方ないと思う。

 目が合うと、三沢佳苗はにこっと笑って、会釈しながら歩き去った。

 俺に事情を知られているなんて思っていないのだから、当たり前の対応だ。

 何故だろう。……凄く楽しい。

 俺はその日以来、まるい整形外科に行くのが楽しくなってしまった。

 ローン地獄の佳苗さん。

 俺は、彼女をそう心の中で呼ぶ様になっていた。


 まるい整形外科に務めて、かれこれ四年以上が経過した。

 私は先日、三十四歳になって、ただ日々を黙々と過ごしている。暇だ。部屋はがらんとしている。

 俊希は一年半前に結婚して、マンションを出た。今は、実家で暮らしている。

 奥さんは、ヤマダ・ラウラ・イトと言う。

ブラジルの人で、身長百七十三センチの巨乳美女だ。顔立ちは日本人の名残を残していない。

 今は、三沢・ラウラ・イトだ。

 通称『イトちゃん』と俊希の結婚は大変だった。

 母が激怒して、父が卒倒すると言う騒ぎに発展した上に、俊希はそのままイトちゃんと一緒に実家に転がり込んだのだ。

 滅茶苦茶だと思っていたけれど、そこを何とかしたのは、イトちゃんだった。

 イトちゃんは、私みたいな無神経では無くて、気遣いの人だった。

 イトちゃんは、双子の妊娠と言う事で、白寿園での仕事を休職する事になった。万一の場合、白寿園としても責任を取れないからだ。

 働けない事を申し訳無く思っているイトちゃんは、家事を一手に引き受けた。レシピも豊富で、日本食にブラジル料理も取り入れて、上手に節約しながら、飽きない料理を提供した。

 そして、掃除がすごく丁寧なのだ。

 老人ホームで仕込まれたと言う掃除の技術は素晴らしく、ぼんやりした印象の実家は、ハウスクリーニングをした様にピカピカになった。

「お掃除すると、綺麗な子が産まれるって、ホームの人が教えてくれました」

 流暢な日本語で、そう言って、風呂、トイレ、台所、くまなく磨き上げる。

 看護師で忙しい母も、家が住みやすく清潔になっていく上に、優しいイトちゃんが気に入って、妊娠中に打ち解けてしまった。

 父が手術を渋っているのも、

「お義父さん、お腹の子達も頑張るので、是非手術をしてください。長生きして、この子達と遊んであげて下さい」

 なんて言いながら、胎児のエコー写真なんか見せるものだがら、父はその勢いで手術の決意をし、本当に手術をした。術後は良好だ。

 そしてイトちゃんは、滅茶苦茶可愛い男の子の双子を産んだ。俊希の息子なのに、こんなに可愛い顔とか、あり得ないと思う様な、可愛さだった。一卵性でそっくりだ。

 ペドロと言う名前が、ブラジルのイトちゃんパパから推薦されていたが、これからも日本で暮らすなら、その名前はどうだろうと言う話になったのは、記憶にも新しい。

 結局、片方だけ日本人名にするくらいなら、二人共あちらの両親に名付けてもらおうと言う事で話は決まった。……可愛い双子を独占状態なので、親も俊希も遠慮したのだ。

 名づけのついでに教会で洗礼をするのを見ようと来日したご両親は、日本語をある程度話せる人で、孫を見て喜んだ後、東京観光をして帰って行った。

 イトちゃんもカトリックの信者で、日曜日はたまに教会に行ったりする。……凄く信じている訳ではないらしい。単に、ブラジル人の知り合いが来ている教会なので、息抜きに、ポルトガル語のおしゃべりをしに行っている様だ。

 仏教徒であろうが、念仏も知らない私は、当然、カトリックの事なんて知らない。

 カトリックでは、中絶も離婚もいけない事になっているのだとか。だから、イトちゃんは離婚をする気は無いそうだ。

 そんな訳で、イトちゃんは、凄く貞淑な嫁である事も判明した。

 甥は、三沢ペドロと三沢ニコラスと言う名前に決定した。ペドロはそのままだけれど、ニコラスはニコと省略して呼ばれている。

 周囲の事は知らないが、我が家では、この結婚は大成功と見なされた。

「人生、何が起こるか分からない。こんな良い嫁を、俊希が連れて来るなんて」

 母は凄く機嫌がいい。父は当面ぽっくり死にそうにも無いし、孫もかわいい。嫁も気立てがいいのだ。

 私みたいなダメな娘の存在は、すっかり忘れ去られた。

 俊希は人生を舐めているが、凄まじく運が良いのだと思う。

 安くておいしい料理を、沢山出せて、家事を楽々こなせて、老人に優しい人が俊希の嫁になったのだ。

 しかも、子供まで可愛い。……きっと将来は背が高くなって、モデルとか、有名人になってしまいそうだ。

 俊希が出て行った当初、私は、堕落した暮らしをしてやる。と考えていた。

 しかし、堕落した暮らしは金がかかる。高いコンビニの弁当なんて買う気になれない。家で作るのが、手間がかかっても安いのだ。

 諦めて、俊希の居た頃と変らず、粗食を食べて、弁当を持参する。

 最近は、作り置きおかずと言うのに目覚めて、冷蔵庫に色々な物を作って置いて、食べている。少しだけ手抜きをするだけで、ほっとする。

 私の頭をいつも悩ませているのは、このマンションのローンだ。返しても、返しても、終わらない。

 そこで私は、掃除を以前よりも熱心にする様になった。

 イトちゃんが綺麗な赤ちゃんを産むんだと張り切って掃除をしていたら、本当に綺麗な赤ちゃんが産まれた。

 しかも、実家の雰囲気が一気に良くなった。

 これは掃除の影響だと私は判断した。断捨離?風水?

 よく分からないが、とりあえず汚いのはいけないのだと、部屋を綺麗に片付ける事にした。

 今まで、大雑把な片付けや掃除しかしてこなかったけれど、隅まで、使い古しの歯ブラシなんぞで汚れを掻き出して綺麗にした。

 トイレも、給水管までピカピカに磨いた。

 運が良くなって、早くローンを返せます様に。それだけを念じて、休日は家磨きを続けた。

 フローリングの小さな傷まで、補修材で補修して、ワックスで磨いた。

 窓ガラスも、水で拭いて、からぶきをし、網戸もブラシでこすって綺麗にした。

 そうしたら……突然、見合い話が来た。

「お見合いなんて、堅苦しく考えないで、ちょっと会ってくれないかな」

 穂高先生に呼ばれて行ったら、そんな話になった。

「何で私なんですか?」

 聞いたけれど、穂高先生は、

「あなた綺麗だから大丈夫ですよ。とにかく会ってみて」

 としか言ってくれなかった。

 私はもう三十四歳で、借金まみれの女である。借金については誰にも言っていないが、ファミリー向けマンションに、一人で住んでいると言う話は、病院の職員は皆知っている。

 馬鹿な俊希が、イトちゃんと結婚の報告の際に、リハビリステーションの職員達の前で言ったそうだ。

「俺は、姉の持っているマンションから実家に戻るので、だだっ広いマンションで、一人暮らしをしている姉を、よろしくお願いします」

 何故、あんなに失礼なのに、のほほんと生きているのだろう。許せない気分になる。

 俊希とイトちゃんの結婚や、双子誕生の話よりも、何故私が、分不相応なマンションに住んでいるのかと言う事に、焦点は移った。

 聞かれても、言える事なんて無い。

「ねえ、結婚の予定でもあったの?」

「どのくらいの広さなの?」

 聞かないで。言いたくない。

 本当の事は言えないので、婚約してたんだけど、上手く行かなかった。と、少し悲しそうに言う事にした。

「そうだったのね」

 ……真実よりはマシだけれど、非常に不名誉な決着である。

 その話がまわりまわって、俊希の耳に入り、

「佳苗、婚約なんかしてたっけ?」

 なんて事を、ポロっと言ったせいで、病院の噂話が大変な勢いで燃え上がったのは、双子誕生の寸前だった。

 鎮火は諦めた。

 元々、私は俊希のコネでごり押し就職した年増で、何故か大きなマンションに住んでいるのだ。しかも大学病院に勤めていた事まで、今頃になって漏れてヒソヒソされている。

 好きに言えばいい。けれど、もう仕事は辞めない。辞めても、あのマンションがある限り、私に逃げ場はない。お金が無いと、どうにもならない。

 ここを一身上の都合で辞めたら、二度目になる。小児科は閉院だったから仕方ないにしても……そんな職歴を抱えて三十半ばで再就職とか、死にそうだ。

 俊希の言いなりで入った職場だが、俊希リスクは大き過ぎた。……辛い。

 運気の上昇を祈るばかりではなく、俊希がこの地上から消滅すればいいのに、と思いつつ、鬱憤を部屋の掃除にぶつける様になった。

 部屋に、俊希の痕跡を残すまいと、暇さえあれば掃除をした。もう奴は二度とここには入れない。実家が燃えても入れない。

 俊希にイケメンの双子が生まれたと言う話題で、私の話題は消えて行ったけれど、私とそれ以外の人との間に明確な隙間が産まれた。

 ゴリ押し中途採用の上、よく分からない事情を抱えた三十半ばの女だ。職場で親しくしてくれる人は、居なくなってしまった。


 やってしまった。

 傍観者を決め込んで、観察する予定だった、ローン地獄の佳苗さんの事だ。

 毎月、病院を訪れて、それとなく佳苗さんを探すのが、俺の密かな楽しみだった。

 ところが、佳苗さん観察を途中で断念しなくてはならなくなった。

 係長に昇進したのだ。

 まるい整形外科の仕事は、主任に昇進した部下が引き継ぐ事になった。

 穂高先生は温厚で、本部長とは、お互いに恩義を感じている間柄だ。だから、他の銀行の横やりが入り辛い環境なので、若い営業の修行場になっている。

 俺は卒業した修行場に未練タラタラのまま、別の仕事に挑む事になった。

 三月の末、部下に四月から引き継がせる為に連れて行ったリハビリステーションで、所長や三沢、他数人の理学療法士と雑談をしていた際に、最後だからと聞いてしまったのだ。

「三沢さん、病院にお姉さん居ますよね?」

「はい、居ますよ」

 三沢……俊希君は、にこにこして答えた。

 そう、佳苗さんの話題を振ってしまったのだ。今思えば、俺が軽率だった。

「俊希さんと似てますよね。何処がって言われると、はっきりしないんですが、並ぶと姉弟だって、すぐ分かる感じ」

 一人がそう言うと、他の人も頷く。

「へぇ~。それにしても、お姉さんと同じ場所に就職って珍しいですね」

 四月から病院に来る予定の、小竹が興味深々と言う様子で言う。

「逆です。俺がここを紹介したんです」

 小竹に、俊希君はそう言って笑った。

「元は大学病院に居たんですよ」

 名前を聞いて俺も驚く。全国的に有名な大学の付属病院だったからだ。辞めるなんて勿体無い。他の職員からも驚きの声が漏れる。

 そこではっとした。

 男に騙されたのだった。だから、転職。だから、ローン地獄……。

 この流れはまずい。俊希君のデリカシーの無さは、病院でも有名だった。

 俺も知っている。このままでは、洗いざらい暴露しかねない。

「聞いたよ。婚約破棄されちゃったんでしょ?辛かったよね」

 職員の一人の言葉に、俊希君はきょとんとして言った。

「佳苗、婚約なんかしてたっけ?」

 洗いざらい暴露するよりも、酷い爆弾だったのだと、小竹から聞いたその後の話から知った。

 もし丸々バラされていたら、佳苗さんは、可哀そうな人として扱われただろう。

 しかし、この中途半端な情報は、佳苗さんが何故大学病院を辞めたのか不明なだけでなく、佳苗さんが見栄っ張りだと言う話になってしまったのだ。まだ、大学病院のエリートナースの気分で居るのだと、誤解されてしまったのだ。

 その後、佳苗さんが一切弁明をしない事も腹が立つ要因になったらしい。

 最悪なのは、春から来た新人ナースにも舐められていると言う事だ。

「一回りも下の子に、露骨に悪口言われても辞めないなんて、三沢さんは弟も凄いけど、姉も凄いですよ。根性据わっていると言うか」

 小竹が、のんびりと言った。

 俺が話を振ったばかりに……。

 俊希君の無神経さについては就職以来、定評がある。しかし、見た目が凄いから、誰も文句を言えない。……ニコニコしていても強そうで、怒らせたらいけない雰囲気を持っているのだ。

 今回、ブラジル人の嫁をデキ婚で貰って、双子の父親になった事も、突き抜けて話題性が高いのに、悪意の無い、明るい話題になっているのは、俊希君の見た目が大きいと思う。

 しかし佳苗さんは、事情は抱えているが、穂高先生も優秀だと褒めていた。患者さんの評判も良いナースらしい。弟の今回の件を悪し様に言った様子も無い。自分が酷い事を言われても、弁明もしない。

 俺の経験からすれば、口を閉ざす人は叩かれる。自己主張をする人は、表立って叩くと後始末が大変だからだ。

 見た目ですら自己主張の激しい俊希君に、何か言うなら、佳苗さんに当たる方が楽な筈だ。

 佳苗さんは、仕事を辞めるに辞められない。ローン返済があるからだ。

 何処の銀行でローンを組んでいるのか知らないが、話を聞ければ、俺が助ける事が出来るかも知れない。

 しかし、大きな問題がある。

 事情を知らない小竹に、佳苗さんのローンの見直し提案をいきなりさせるのも難しい。

 小竹も佳苗さんも、『何故?』となるのは目に見えている。でも事情を話す事は出来ない。俺が佳苗さんの事情を知っていると言う事は、知られてはならない。

 担当当時に立ち聞きした話を、引き継ぎ営業が吹聴した……なんて事になれば、俺にとっても死活問題だからだ。

 銀行の信用を失いかねない。取引先をそんな事で失えば、俺は叱責を受ける事になる。

 佳苗さんの事は、放置するしかないのか……非常に後味が悪い。

 苦労している女を、更に窮地に追いやって……放置とか、凄く恰好悪い。

 だからと言って、何ができると言うのか?

 そもそも口も利いた事すらない。そんな女の手助けなんて、出来るとも思えない。

 忘れるべきなのかも知れない。

 そんな風に考えている間に、暑い夏が過ぎて、秋になった。

 小竹が指導している新人がミスをして、二人では手に負えないと泣き付いて来たので、同行する事になった。

 その帰り道、まるい整形外科に、久々に立ち寄る事になった。昼なので、休憩時間で挨拶できるかも知れない。

 そう思って、穂高先生に挨拶をしようと受付に行くと、手術が入って居るから、午後三時まで会えないと言う話になった。

 仕方ないので、よろしくお伝えくださいと言い残し、小竹と新人を連れて病院を出た。

 少し歩いた場所に、結構美味い蕎麦屋があって、今日はそれを二人に奢ってやる事にした。

 新人の失敗なんて、良くある事だ。俺が顔を出して謝罪するだけで済んだ。もっと上を引っ張り出せと言われなくて、本当に良かった。

 俺はそんな気分だったのだが、小竹も新人も、迷惑かけたのに奢ってくれる良い上司だと思ったらしい。

「二度目はないぞ。しっかりやれ」

 当然、釘を刺すのも忘れない。

 二人は上手そうに蕎麦をすすっている。

 すると、横のナース服の若い女四人組が、こちらに筒抜けの声で話をしている。

「佳苗さんに、点滴の針の後が大きく残ってる患者さんの事で注意された」

「あんたが針指す場所が悪かったのに、佳苗さんだと文句言うの?」

「あの人、中途で元エリートなんでしょ?そう言う人に言われると、ムカつく」

 笑い声が起こる。

「分かる。何か嫌だよね」

「他の人に注意されるまで黙って置けばいいのに、わざわざ口出すからダメなんだよ」

「そうそう。黙って働いていればいいのよ。いくらエリートだったにしても、今は、中途採用の年増なんだから」

 酷い話になっている。もう、年下のナースが全く佳苗さんの言う事を聞かなくなっているらしい。

「そうそう、俊希さん、赤ちゃんを見せに行って、締め出されたんだって」

「え~!それ本当?」

「わざわざ、例のお高いマンションまで連れて行ったのに、扉すら開けなかったんだってさ。外国人の義理の妹とか、余程嫌だったんだろうね」

「うわぁ、赤ちゃんには罪無いのにね」

 俺は、一気に食欲を失った。

 去年の夏、俺は暑い最中、三沢姉弟の話を全て聞いた。

 いきなり話を切り出して、出て行った俊希君が悪い事を、誰も知らないのだ。激怒しながらも、家電のお金を折半して渡す約束までちゃんとしていた佳苗さん。

 そして、絶対に家に入れないと宣言していた。知っているのは俊希君と佳苗さんと……俺だけだ。

 俊希君が、約束を破ったのだろう。いきなり押し掛けたりしたに違いない。そして、締め出された話だけを、病院関係者にしたのだ。

 それでは、完全に佳苗さんが悪者だ。

 恐るべし、三沢俊希。

 見た目だけでなく、中身にも問題がある。無神経な黒帯。……家族に居たら最悪だと思う。

「江中さん、食べないんですか?」

 小竹に言われて、慌てて蕎麦をすする。……味が全くしなかった。

 結局、俺は小竹と新人を先に帰し、穂高先生に個人的に話がある旨を受付に伝えた。

「何時でもいいので、都合が良い時間にお話ししたい事があるので、連絡を頂ける様にお伝えください。奥津銀行の江中です。よろしくお願いします」

 そう告げると、受付は素直に承諾した。

 それから、営業で一件出先を回って帰る途中、穂高先生から携帯に電話が来た。俺は、個人的な用事で、銀行も病院も一切関係無い事を事前に告げた。

 穂高先生は不思議そうに、何の用なのか、聞いて来る。

「実は、紹介して欲しい人が居るんです」

『病院の人ですか?』

「はい。私では接点が無いので、是非とも穂高先生に縁を取り持って頂きたいんです。お力添え頂けないでしょうか?」

 こう言うしか無かった。

 事実、佳苗さんとの縁なんて、全く無いのだ。

 単なる罪滅ぼしなのだが、俺が佳苗さんと知り合うには、こんな方法しか無いのだ。

 俺は独身で、平々凡々な容姿と性格だ。飛び抜けた所が何処も無い。不細工と言う程でも無いが、特筆する程の容姿も才能も無い。

 近眼で眼鏡をかけているのだが、眼鏡が無いと、顔が平凡過ぎて印象に残らないから、メガネの人と客に言われる。

 それなりに付き合った女も居るが、結婚には至らなかった。女達は皆一様に、面白味が無い。と言うのだ。

 面白い奴が良いなら、お笑い芸人とでも結婚すればいいのだ。付き合った過去三人の女に、同じ理由で別れを切りだされた。だから、俺は結婚を諦めた。上司や親からの見合い話も、全部断った。今では、誰も俺に結婚しろと言わない。

 見合いで結婚にこぎ着けた所で、死ぬまで、つまらないと言われて生きるなんて、ごめんだ。俺は面白くなる気なんて無いのだ。

 幸い、こう言う事情を穂高先生は全く知らない。俺みたいな独身男が、病院のナースを紹介して欲しいと頼むのは、不自然では無い筈だ。

「万一の場合にも、ご迷惑はおかけしません。小竹には何も言いませんので、銀行のお付き合いとは別に考えて頂けますでしょうか?」

 営業の舌が、なめらかにリスクを除外して行く。……穂高先生にリスクを背負わせてはいけないのだ。

『三沢佳苗さんですか?』

 電話口から、ズバリな名前が出て来る。

「ご存知でしたか……」

 疑問に思っても、口にしてはいけない。ここでそれを口にすれば、交渉を停滞させてしまう。長年の経験で培われた勘だ。

『前々から、江中さんと佳苗さんの組み合わせは面白いって思っていたんです。……そう言う話なら、人肌脱ぎましょう』

 穂高先生は、あっさりとそう言った。

 面白い?

 何が面白いのか、俺には分からなかった。

 翌日の夜、穂高先生と直接会って、話をする事になった。場所は料亭だった。穂高先生のとっておきのお店だそうで、本部長なんかとは、来ていると言う話だった。

 とりあえず、穂高先生が時間をセッティングしてくれるので、俺が選んだ場所で、佳苗さんと二人で会う事がほぼ確定した。

 佳苗さんが拒絶したら中止だから、『ほぼ』なのだ。

「佳苗さんには、カジュアルなお見合いって事で、話をしておきます」

 カジュアルなお見合い……。先生の発想にはついていけないが、頼んだ手前、素直に頭を下げる。

「よろしくお願いします」

「いやぁ。楽しみですよ。結婚式」

 穂高先生は、上機嫌で日本酒を口にする。

「相手の居る話ですし、そこまでのお付き合いができるかは、分からないです」

 俺がそう言うと、穂高先生は笑った。

「いやいや、私の勘では、あなた達は相性が良い筈です」

「医学的な根拠でもあるんですか?」

 医者だから、そう言うのを経験的に分かるのかも知れないと思って聞くと、穂高先生は爆笑した。

 余りに笑うので、暫く待っていると、涙を流しながら穂高先生は言った。

「佳苗さんが結婚して、あなたの苗字に変わったら、上から読んでも、下から読んでも、同じになるでしょ?」

 先生はそう言って、鞄から大きめの付箋を出して、ボールペンで、漢字とひらがなの名前を書いた。

 江中香苗

 えなかかなえ

 漢字で書いたら普通なのに、ひらがなで書くと、酷く間の抜けた逆さ言葉になった。

「あの……もしかして、相性が良いって言う根拠は、これですか?」

「そうです。縁起良さそうじゃないですか」

 穂高先生は、本当に面白がっているだけだったのだ。相性が良さそうだなんて、適当な事を、さも信憑性があるみたいに言っただけで、実際何の根拠も無かった。

 これが紹介理由だと知ったら、佳苗さんは間違いなく俺には会ってくれなくなる。

「三沢さんには、この事は言わないで下さい」

「言いませんよ。気付いた時が楽しそうなので、その時まで楽しみは取っておきます」

 穂高先生はサドだ。間違いない。

「江中さんは、この名前に気付いて、佳苗さんを紹介して欲しいと思った訳では無さそうですね」

 女の名前を気にして、紹介して欲しいとか頼む方がおかしいと思う。そんな発想は俺には無い。

 しかし、よくよく考えれば、俺と佳苗さんには接点が無い。穂高先生は不思議に思った様だ。

「ちょっと、気になってしまったんです」

「どんな所が?」

 先生はやはりサドだ。困る俺を見て、ニヤニヤしている。

 俺は苦し紛れに答えた。

「……弟に恵まれていない所が」

 穂高先生が、納得した様子で頷いた。

「可哀そうだと、私も思っていたんです」

 俊希君が、まるい整形外科に新人として入った頃の話を、穂高先生は教えてくれた。

「柔道を真面目にやっていたから、自分に自信があるみたいですね。……うち、暴力団の幹部が入院した事があるんですよ」

「え?」

 唐突な話題の転換と、話題の重要性から俺が驚くと、穂高先生が笑った。

「大丈夫ですよ。もう来ませんから」

「そもそも、何で来たんですか?」

「私が、テレビの番組に出ているせいですよ。普通、そんな人は知り合いの病院に行くと思うじゃないですか。だから呑気にしていたら、ドラマで見るみたいな、真っ黒な車に、黒い服の構成員を連れて、やって来たんですよ。穂高先生に診てもらいたいってね」

「他の患者さんに見られたんじゃないですか?」

「ええ。外来が大変な事になりましたよ」

「私は聞いていませんよ?何時ですか?」

「江中さんが担当する前の……津田さんが担当していた頃です。俊希君がリハビリステーションに来た年の話ですから」

 どうやら、課長がまるい整形外科の担当だった頃の話らしい。

「仕方ないので、受診してもらったら、上手く足が動かないのは、小さな脳梗塞の後遺症だって分かったんです。整形外科の出番では無いと言ったのですが、リハビリをここでされると言い出しまして……リハビリステーションへ、行ってもらう事にしました」

 テレビの影響と言うのは、良い事ばかりでは無いらしい。悪い事もあるのだ。

「もう、所長の河野君が泣きそうでしたよ」

 それは当然だ。俺も泣きそうになると思う。

「それで、どうされたんですか?」

「警察に最悪通報する事にして、リハビリの担当で揉めた時に、俊希君が立候補しました」

 新人なのに、いきなり暴力団の幹部のリハビリとか、とんでもない話だ。空気を読む読まない以前に、無謀だ。

「その後、色々あって、一週間で暴力団の方は来なくなりました」

 色々って……俊希君は何をしたんだ?

「先生、思い切り話を端折りましたね?」

 穂高先生は、ははっと笑ってから言った。

「ビリーズブートキャンプって知っていますか?」

 ひと昔前に流行った、体を鍛えるエクササイズDVDの名前だ。知っているので頷くと、

「俊希君のリハビリは、あれに近かったみたいです……私は見ていませんが」

 と言う答えが返って来た。

「俊希君、良く無事でしたね」

「大学生の頃は県の選手だったから、新人だった頃は引退したてで、今よりも筋肉が多かったんですよ。腕も足も、はち切れそうでね」

 今でも十分に強そうなのに、当時はもっとだったのか。

「筋トレさせた挙句、人間の首の骨は、素手でも簡単に折れますよ。リハビリ中のうっかりは事故ですから、なんて俊希君が言ったものだから、逃げ出したみたいです」

 他にも色々あったのだろう。先生は、遠い目をしている。

「警察も呼ばずに、暴力団を一人で追い返しちゃったでしょ?俊希君が変な自信を持ってしまって……当時を知っている職員も、俊希君に頭が上がらなくなってしまいました。難儀な事です」

 俊希君は、新人でありながら、まるい整形外科の窮地を救った武勇伝持ちになってしまったのだ。それは、周囲もやり辛い。

 いざという時に居てくれると助かるのは身に染みているが、普段は無神経で付き合いたくない人間だから。

「じゃあ、佳苗さんの就職も、俊希君絡みのコネだったと言う話は、本当ですか?」

「そうです。三月から佳苗さんは再就職したのですが、既に四月から来る新人に、多めに内定を出していたので、中途採用は取らない予定だったんです」

「俊希君は、どうしてわざわざ佳苗さんを同じ職場に連れて来たんですかね」

 穂高先生が、苦笑した。

「ハローワークにも情報誌にも、中途採用の募集は一切出していませんでした。ただ、一枚、外来に張り出したままになっていた看護師募集のチラシがありました。もう、何年も前のものです。ある日、チラシが消えていて、俊希君が姉を就職させたいと言ってきました」

 それは……何というか……。

「誰もが、風景の一部だと思っていました」

 よりにもよって、俊希君が、それを見つけてしまったのだ。

「大変でしたね」

「ええ、本当に大変でした。会議を開きました。俊希君の姉が来るぞってね。全員、俊希君のナース姿を想像していました。履歴書をもらったんですが、写真が添付されていなかったんですよ。見れば分かると思って急いで持ってきましたとか言ってました」

 それは……怖い。

「会ったら、佳苗さんは礼儀正しくて、普通の人でした。しかも、優秀なナースでした。採用して良かったと医師は皆すぐに思ったのですが……ごり押しのコネ就職だったのは事実ですから、事情を知っている経理やナースは、ここに就職する前から、佳苗さんに悪印象を持っていました。表向きは普通に接していても、何処かで言ってやろうと思っていたんでしょう。それが今、爆発しています。病院の空気がギスギスですよ」

 弟のゴリ押しで、中途採用された佳苗さん。何故かマンションを持っている佳苗さん。有名な大学病院に居たけど辞めた佳苗さん。

 これだけの情報を小出しにしておきながら、弟は姉を庇わない。

 佳苗さんは事情を話さない。……正確には話せない。

 佳苗さんは、まるい整形外科に就職すべきでは無かったのかも知れない。

「先生は、佳苗さんの味方になってあげないんですか?」

「庇ったりしたら、もっと酷い状況になるでしょう?女の人は怖いんです」

 大勢の病院職員の筆頭に立っている以上、一人を贔屓には出来ない。穂高先生の判断は、間違えていない。

「佳苗さんに抜けられても困るんですけどね。患者さんの評判は良いですし、口ばかりで仕事をしない若い看護師二人分以上の働きをしてくれていますから」

 有能であるのに評価されない。それは不憫だ。俺の様に、才能が無くてもそれなりにやっている人間とは違うのだ。

「俊希君は、柔道部のコーチとかやろうと思えばできると思います。けれど、佳苗さんは間違いなくナースが天職です。だから、変な辞め方をして欲しくないと思っていた所に、江中さんのお電話を頂いて、本当に嬉しかったんですよ」

 変な辞め方……佳苗さんは、辞めてしまうかも知れない程の劣悪な環境に居ると言う事だ。

「私がどうにかできる問題とは思いませんが……先生は、楽観視されている気がします」

「そうでないと、やっていられません。失敗したら、反省してまた前に進む。それの繰り返しですよ」

 切り替えがうまく、頭の切れる人なのだと改めて思う。

 その後、雑談をして、料亭を出た。

 先生にとっては、あくまでもビジネスの話だったのだと思い返して、気付く。

 佳苗さんの事をストレスのはけ口にしている奴らが一番悪いのだが、数が想像以上に多かったのだろう。

 佳苗さんを取り巻く雰囲気が悪くて、病院に悪影響が出ているのだ。それをどうするか思い悩んでいた所に俺が現れた。だから、先生は様子を見る事にしたのだ。

 佳苗さんが辞めるのが一番簡単だろう。けれど、悪質なナースを職場にのさばらせて置くのも、病院的には問題がある。

 とにかく変化の一手として、俺が頼りにされているらしい。俺は病院の関係者じゃないのに。……関係者じゃないから都合がいいのか。先生は頭が良過ぎて、俺の計算できる範疇を超えた事を考えている。

 俺は、単に佳苗さんと住宅ローンの話をしたいだけで、お付き合いする気はありません。

 俺がそれを穂高先生に言う日は来るのだろうか。サディストな先生に、重たい物を一杯背負わされてしまった。

 俺は紹介を頼んだだけの筈なのに。

 大変な事になってしまった。

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