10.歓迎会(アラクネからの贈り物)
しばらくすると、その全容が明らかになった。
《地底の主》あるいは《奈落の女帝》――誰がそう呼び始めたのか、あれを表現するにはいくつかの言葉がある。
A級の魔物、アラクネ。
漆黒の巨体と八本からなる足を持つ。
全身は薄く黒い体毛で覆われ、足と同じく八つの目を持つ。
洞窟や地底に限りS級の魔物と同格と呼ばれるほどの危険な魔物だ。
木々を揺らしながら、真っ直ぐこちらへとやってくるのが分かる。
あれほどの大型となると、地上でもS級の魔物に匹敵するかもしれない。
レインは即座に感じ取った。
(あ、これ戦ったらいけないやつだ……っ!)
そんな心配をするレインをよそに、
「おかしいな、本来ならこんな昼間に森に出てくることはないはずだが……」
「何かあった、と考えるのが自然ね」
そんな魔物と相対しながら、まったく焦る様子のないリースとセン。
それどころか、冷静に戦い方を話し始めた。
レインは静かに、その様子を眺めていた。
どうしてこんなに冷静でいられるのだろう、これが強者の余裕というものなのだろうか。
レインは今すぐにでも逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
「どうやって攻める?」
「左右から行くのが定石じゃない? 足は四本ずつで、本体はレインに任せればいいわ」
「それなら正面からレインに道を作ってもらって突破する方が早くないか?」
「あれほどの大型だとわたし達では倒すのに少し時間がかかるんじゃない? まあ、それを判断するのはレインになるのだけど」
「確かに……そういうわけだが、レインはどう思う?」
レインが戦いの前提に組み込まれている――そんなことをレインが看過するはずもなく。
リースに話を振られて、レインは待ってましたと言わんばかりにすっと手を上げて意見をする。
「まずは撤退して態勢を立て直そう!」
レインを三人が同時にこちらを見る。
そして、三人はそのまま視線をアラクネに戻した。
レインの意見は何事もなかったかのようにスルーされる。
(何で僕がおかしいこと言ってるみたいな目で見られるんだ……!)
リースもセンも退くつもりはないという目をしていた。
当然、この場で戦う以外の選択肢はないという考えだ。
これだからパーティというのは、とレインは思わずにはいられない。
「態勢ならとっくに整っているじゃないか」
「そうよ、温まってきたところなんだから」
そんな風に言いながら肩をまわしたり、屈伸をし始めたりする二人。
(僕は冷え冷えだよっ。氷使いなめんなっ)
そして、準備万端といった様子でリースとセンは構える。
何とかしなければ――レインはとにかく考えた。
アラクネとまともに戦う人数ではない。
レイン自身、まだ実力を完全に把握しきれていないことと、そもそも危険を冒すにしてもそれに見合ったものがほしいと考える。
アラクネを討伐すればそれなりの報酬はあるだろうが、酒代に使うのならそれに見合うとは思わない。
今にも駆け出しそうな二人の前にすかさずレインは立った。
「ストップ!」
「ん、何か思いついたのか?」
何も思いついていない。
ただ、レインはそれでも二人を止めるべく、考えを巡らせる。
まだ作戦か何かを考えていると思っていたらしいリースに、レインは思いついたことを口にした。
「僕は……ギルドに報告すべきだと思うっ」
「ギルドに……?」
リースとセンがそれを聞いて構えをといた。
これは非常にまともな意見だ。
アラクネがこのまままっすぐ進むと考えると、間違いなく町の方へと向かうことになる。
先のワイバーンに続きこれほどの魔物がやってくるというのは異常なことだが、町にいる冒険者にも協力してもらうのが妥当なところだとレインは考えた。
むしろそれが一番安全だ、と。
「なるほど、一理あるわね……」
「そうだよね!」
「アラクネが町に迫る可能性か……この進行方向だとあり得るな」
センもリースも頷いた。
今の状況では、戦うよりも正しい選択のはずだ。
これはいける――二人とも納得してくれそうだったが、
「大丈夫だと思いますよ」
先ほどまでは意見をしなかったというのに、ここでまさかのシトリアが口を開いた。
(このタイミングで……!?)
「ど、どうして?」
「これだけの大型なら森を抜けた時点で分かるでしょうし、それにアラクネがどうしてここにいるか分かりませんが、自ら広い場所には出るとは思えません」
シトリアの言うことも正しい。
アラクネは確かに洞窟などの暗い場所を好むという。
そもそも洞窟から出て森に出てくること自体が稀で、さらに森から出てひらけた土地に出るとは考えにくいのは確かだ。
それでも、レインも食い下がる。
「そ、そうかもしれないけど! 念には念を入れた方がいいって!」
「言いたいことは分かりますが、今町に戻っても間に合うかどうか……。むしろ、ここで最低限足止めはしていくべきでしょう」
「シトリアの言う通りだな。すぐ連絡をしにいったところで、むしろ用意が間に合わない可能性の方が高い」
「そうね、わたし達でやるべきだわ。どのみち、あれと戦うなら前線でやり合うのはわたし達なんだし」
その『わたし達』にはレインも含まれてしまっているのだろう。
シトリアの言葉に完全に賛同してしまった二人は、再び臨戦態勢に入る。
もう、レインには止められる状態ではなかった。
それでも、何とかレインはここでの戦闘は止めようと説得しようとする。
「え、えっと、二人とも落ち着こう? そんなに死に急ぐには若いって……」
「落ち着いているし死に急いでもいない――が、その前にレイン。もう少しこっちに来るんだ、狙われているよ」
「え?」
それは不意の言葉だった。
レインが振り返ると、八つの目を赤く光らせたアラクネはこちらを凝視し、口元をもごもごと動かしながら液体のような何かを飛ばしてきた。
三人は当たらない距離まで後退したが、わずかに反応が遅れたレインだけそれをまともに受けることになる。
「あぶっ」
想像以上の水量でねっとりしたものがレインの身体を包んだ。
匂いは強い酸性で、くさいわけではないが、強い刺激臭がした。
それに、物凄い嫌悪感に襲われる。
レインの本気をSランク相当の冒険者だと思っていた三人は、そもそも防御か回避は間に合うものだと考えていた。
それがまともに食らってしまったので、センは驚く。
「ちょ、まともに当たっちゃったじゃない!」
「溶解液の類か。まあ、シトリアの結界があるから心配はないだろう」
シトリアの扱う聖属性は毒に対して非常に高い耐性を付与することができる。
魔物の放つ溶解液も《毒》の類だ。
それらに対してもシトリアの魔法は有効になる。
シトリアは頷き、
「はい、大丈夫ですよ。尤も――レインさんはああいった類のものはそもそも効かないようですが」
「え、それじゃあわざと避けなかったってこと? 随分余裕があるのね」
センの言葉に反論したかった。
避けなかったのではなく、当然避けられなかったわけだが。
レイン自身も気づいていないが、上昇した魔力は外部からの攻撃に対しては無意識のうちに高レベルの結界を張っている。
シトリアの結界がなくとも、アラクネの溶解液によるダメージはない。
それについてはシトリアは気付いていた。
だが、魔法に関しての能力は段違いになっていても、レイン自身の敏捷性については変わっていない。
レイン自身の身体はアラクネの溶解液でもやけどすらすることはないが、ドロドロの液体を直撃してしまい――見た目的には何とも言えない状態になってしまっただけだ。
そんなレインの状態を見ても冷静な三人に対し、レインはすでに限界だった。
「もう無理! 帰る!」
どろりとした液体を振り払いながら、レインはそう言い放った。
どう思われようがもう関係ない。
レインはとにかくこの状況から逃げたくなった。
「レイン、落ち着くんだ」
「これが落ち着いていられるか! 何が歓迎会だ! あんなのに歓迎されて誰が喜ぶんだよっ! 虫取りにきた子供でも喜ばないよっ!」
レインは思っていたことをぶちまける。
そもそもアラクネなんかと戦って嬉しい奴なんていない――いや、ここにはレイン以外はいるのだけど。
そんなレインをなだめるように、リースが声をかける。
「いや、そのだな。君のためを思って言っているんだよ?」
「何が僕のためなんだ!?」
興奮したレインに、シトリアが説明するように続けた。
「レインさん自身は大丈夫ですが、着ている洋服の方は……」
「――え?」
シトリアにそう言われて、レインは自身の姿を見る。
どろりとした液体と一緒に、着ていたローブから中の服までまるで水の溶かした絵の具のようになってしまっていた。
「っ!? な、なにこれ!? ちょ、ちょっと、みないでっ!」
レインは顔を真っ赤にしてその場に伏せる。
その反応だけ見ると完全に女の子のようになってしまっていたが、レインはそれどころではない。
見られては困るものがある。
実際にはなくなっているのだけれど、ある。
「わたし的には本物の女の子で見たかったのだけれど、こうしてみると女の子みたいね」
「君は何というか……そういうのが好きなのか?」
「そ、そういうことを言ってる場合じゃなくてっ! いや、ほんとにあっち向いて!」
「アラクネを視界からは外せないわ。諦めて?」
「……っ!」
女の子みたい、ではなく今は女の子になっている。
レインはできるだけ見られないようにと背中の方を向けた。
「まったく……仕方ないな。シトリア、悪いが君の上着を貸してあげてくれ。私はそういうのを持っていないから」
「そうですね、さすがにそのままだと風邪をひいてしまうかもしれないですし」
そんなことは心配していない。
レインはシトリアから上着を借りようと大事な部分だけ隠して立ちあがる。
そのとき、足元に何か巻き付いた感覚があった。
「え、何か巻き付い――てぇ!?」
アラクネの方から白く伸びた糸がレインをとらえ、そのまま力強く引っ張ったのだった。
勢いよく空中へと飛ばされていくレイン。
センとリースは即座に動こうとしたが、助け出すのが遅れてしまった。
「ちっ、意外にはやい」
「……どうしてレインばかり狙うのかしら?」
「おそらくですが、溶解液は獲物を栄養にしやすいように溶かすつもりで使っているのでしょう。ですが、レインさんが溶けないのを見て、アラクネは別の価値を見出したのでしょうね」
「別の価値?」
アラクネが栄養とする以外にレインを狙う理由。
リースの問いにシトリアは少しだけ悩んで、やがて静かに答えた。
「……子供の母体、みたいなものでしょうか」
「え、だってレインは男でしょ?」
「……」
「いえ、それでもあり得ない話ではありません。あくまで魔力の豊富な身体が目当てなわけですから」
リースはレインのことを知っていたので黙っていたが、シトリアが続けた。
魔力が十分に高いと判断されたのならば、あり得ることだった。
アラクネは他の魔物を栄養として自身の子を作る。
レインほどの魔力の持ち主ならば、ちょうどいい栄養として持ちかえるとしても不思議ではない。
三人が顔を合わせる。
しばらくの沈黙のあと、一緒に頷いた。
「さすがにまずいわよね」
「ワイバーンの戦いでも見せたが、あれだけの魔法が使える以上問題ないとは思いたい――が、レインはかなりドジだからな。見ていて分かっただろうが」
「それにかなり運もないですしね。とにかく、助けるなら急いだ方がよさそうです」
そうして、リースとレインは今度こそ戦うために駆けだそうとする。
だが、その行く手に小型のアラクネが複数現れる。
巨大なアラクネを守ろうというように、森の中からぞろぞろと向かってきた。
「なるほど、女王を守る騎士というわけか」
「こっちは囚われのお姫様を……この場合王子様なるのかしらね。急いで助け出さないといけないの。だから――」
二人は駆けだす。
小型のアラクネが同時に吐き出す溶解液をかわしながら、小型のアラクネを切り刻み、刺し殺す。
次々とやってくるアラクネの大群に対し、
「「通してもらう!」」
リースとセンの声がそろい、一斉にアラクネとの戦いが開始された。
レイン不運回ですが、次回はちゃんと戦う予定です。
次回、アラクネ「お前がママになるんだよ!」
うそです。