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悪魔との契約 そして3分間

-1-


ある日、ふと目覚めると、部屋の中に「何か」がいた。

誰かが家の中に入ってくるわけもなく、まだ寝ぼけているのかと思い目をこすった。

それでもやっぱり「何か」がいる。


 「よう。」


その何かはあいさつをしてきた。


 「はじめまして。 あなたは何者なんですか?」


不思議と、驚いて叫んだりすることもできなかった。


よく見ると、それは異形の姿をしていた。

私が知っている限りの言葉を捜すと、『悪魔』という存在になるのだろう。


 「その通り、私は悪魔だ。 お前の心の中も読むことができる。」


これにはさすがに驚いた。


 「どんな用ですか? 僕の命を取りに来ましたか?」


こんな状況でも、やはり心は落ち着いている。 不思議だった。


 「私はお前と契約をしに来たんだ。 もちろん、これは童話の中の話ではない。」


目の前にいる悪魔をもう一度じっくり観察してみる。

結論は、「やはり悪魔なんだろう」というところに落ち着いた。


 「契約とは?」


 「そうだな。 私がお前に5つの願いを叶えさせてやる。」


 「ええと、はい。」


 「しかし、時を戻すことだけはできない。 他にもいろいろと条件はあるが、その時になったら教えてやる。」


 「わかりました。」


 「その代わり、1つ願いを叶えるごとに、お前の五感をもらっていく。」


 「え? 視覚や聴覚、ということですか?」


 「ああ。 視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の5つだ。」


見ること。 聞くこと。 味わうこと。 かぐこと。 感じること。 この5つか。


 「それと、5つめの願いを叶えてから3分後に、お前の魂を食らわせてもらう。」


 「そうですか。 僕はこんな契約をしたくないのですが、それは可能ですか?」


 「それはできない。 お前は選ばれた。」


きっと大変なことになっているんだろう。

それでも、なぜかあまり心に緊迫感は無かった。


 「ただし、願いを使わずに天寿を全うすることもできる。 その場合も契約が生きている限り、魂は頂くがな。」


 「イメージはできませんが、この契約は不可避ということですね。」


 「それは間違いない。 そして、契約はこの説明を聞いた直後から有効だ。」


ということは、既に契約期間に入ってしまっているということなのか。

避けようもない運命ということだ。


 「願いがあるときは、私に対して強く願うがいい。 確認をした後、その願いを成就させてやる。」


 「はい。」


 「その願いが叶ったとき、差し出す五感を指定するがいい。」


 「わかりました。」


そう答えた瞬間、悪魔はまるで最初からその場所にいなかったかのようにかき消えた。

姿は見えなくなったが、最後の声だけは響いた。


 「願うがいい、人間よ。 お前は今、願いを成就させる力を手に入れた。」





-2-


あの日から1週間ほどがたったある日の夕方、街を歩いていると目の前の空間がポカンと開けた。

見てみると、2人の若者が激しく殴り合っている光景が見て取れた。

周囲の人間はその光景を見ているのだろうが、関わりたくないのかその場を避けて通っている。

気になってしまったので、その光景を眺めていた。

どうやらどちらか一方の若者が優勢になってきたようだ。 かなり激しく、相手を殴打し始めた。

このままだと危ないかもしれない。 それでも、周囲の人間は無関心を装う。

とはいえ、自分でケンカを止めに行く勇気も、今の自分には無い。


 「悪魔さん。 あのケンカを止めるという願いをした場合、どうなりますか?」


 「そうだな。 あの2人の存在を消し去ることになるだろう。」


存在を消し去る?


 「もともといなかったことになるということだ。 全ての人間の記憶から、あいつら2人は消え去る。」


そんなことをしてもいいのだろうか?

いや、いいわけがない。


 「それなら、自分で止めるしかないですね。」


 「お前にその勇気はあるのか? 同じように殴られることを嫌がっているではないか。」


心の中を読まれていたのだろう。


 「お願いします。 僕だけではなくて、周囲で様子を見ている人たちにも、ほんの少しの勇気を。」


 「それは誰のためだ?」


 「今殴られている彼と、殴っている彼、そして周囲で勇気を出せない僕たちのためです。」


 「わかった。 今すぐに願いを叶えよう。」


悪魔がそう言った瞬間、自分にケンカを止める勇気が沸いてきた。

周囲の4〜5人の人も、どうやら自分と同じらしい。


 「ケンカをやめなさい。」


自分でも驚くほどに、大きな声が出た。



ケンカはあっけなく終わった。

誰かが呼んだ警察官が現場に訪れ、双方を同行していった。

自分がやったことは無駄だったのかもしれない。

それでも、痛々しい場面を少しでも短くすることができてよかった。


後ろから肩をポンポンと叩かれていることに気づいた。


 「やっぱりそうだ。 久しぶりだね。」


大学時代の同級生だった女の子。 ふわっといいにおいが漂っていた。


 「止めに入ることが出来るなんて、すごいね。 私は見ているだけだった。」


 「大したことではないよ。」


 「ううん。 すごいことだと思う。 大勢の人が見て見ぬふりをしていただけだもの。 私もだけど…」


 「僕だって同じようなものだよ。 気にすることはないさ。」


 「そうね。 もし時間があるなら、再会を祝して夕食でもどう?」


 「そうだね。 それもいいかな。」


 「何を食べに行こうか?」



そんな会話を楽しんでいると、頭の中で悪魔に話しかけられた。


 「さて、1つ目の願いは叶った。 どの感覚をもらえるんだ?」


非常に迷うことではあるが、普通の生活に影響が少ないのはこれだろう。


 「嗅覚を。」


 「わかった。 お前は今から嗅覚を失う。 次の機会にまた会おう。」



 「きっと僕より色々なお店を知っているだろうし、お任せするよ。 行こう!」


彼女のにおいは、感じなくなっていた。






-3-



あの日をきっかけに、彼女と付き合うことになった。

大学を卒業してからもう5年、お互いにフリーだったことと、趣味も合うことがわかったから。

彼女に聞くと、実は昔から僕のことが少し気になっていたそうだ。

そんな素振りはまったくわからなかった。 彼女からは、「イメージ通りの朴念仁だね」と言われた。

あの出来事から早1ヶ月、今日は何度目かのデート。


 「今日はあまり人がいないのね。」


 「そうだね。 日曜なのに思ったより人が少ないね。」


平日だとスーツを着た人間が闊歩しているけれど、日曜のオフィス街は思っていたよりも閑散としていた。


 「でも、本当にいいの? 誕生日にこんな高価なものをもらってしまって。」


 「君が欲しかったものだろう? そういうものをプレゼントとして贈れるこっちも幸せなんだよ。」


 「うん。 ありがとう。」


そう、今日は彼女の誕生日だった。

高価なものとは言っていたけど、それは2万円と少しのブランドものでもないバッグ。

値段ではなく、彼女が欲しいと思ったところに、このバッグの価値はあるんだ。

こんなことで、彼女と僕の2人が幸せでいられるなら、こんなにも安い買い物はない。



そのまま歩いていると、道路を挟んであちら側が騒がしいことに気づいた。

なんなんだろう。 気になったので様子を伺ってみる。

群衆の何人かが上を指差しているのが見えたので、上を見てみた。

男性か女性かもわからないほど高いところにある屋上に、1人の人間が立っていた。

耳をすまして聞いてみると、「思いとどまるんだ」「落ちちゃダメだ」という声がかすかに聞こえる。


 「あの人…」


どうやら彼女も気づいてしまったようだ。

そしてその刹那、屋上にいた人はそのまま落下してしまった。

現場には悲鳴が重なった。 隣では彼女も息を飲んでいる。

そのことに気づいた瞬間、僕は悪魔を頭の中に呼び出した。


 「悪魔さん。 今落ちてしまった人を、存在を消去せずに助けることはできますか?」


 「慌てなくても大丈夫だ。 サービスで時間くらいは止めてやろう。」


感覚的にはわからないが、回りの景色は止まっているようだ。


 「ルールを伝えておくが、対象が1人なら助けることはできる。 2人以上の場合は1つの願いでは無理だ。」


 「よかった。 それならあの人を助けてあげてください。」


 「でもな、落ちたあいつをただ助けるだけか?」


 「え?」


考えてもいない問いだったので、とても驚いた。


 「そのまま助けるだけではいけないんですか?」


 「それもできる。 だが、あいつは助けを望んでいないかもしれないんだぞ?」


確かにそうかもしれない。

そんなことは本人にしかわからない。


 「どうするんだ? 存在を消すのであれば、その方がいいのかもしれないぞ。」


それでも。


 「助けてあげてください。 生きていれば、必ずいいことがあるはずです。」


 「わかった。 それならばあいつを助けることにしよう。 時を動かすぞ。」


ふわっとした感覚。 そして景色は動き出した。

ドサっという音と共に、周囲が固唾を飲んでいる様子がわかる。

そして、様子を見ていた群衆の1人が大きな声を上げた。


 「無事だぞ。 早く、救急車だ!」


先ほどまでは無かったはずだけど、下には大きなマットが敷いてあった。

よく見ると、消防車やパトカーも路上に止まっている。

きっと悪魔の所業だろう。 しかし、そのことをわかるのは、たぶん自分だけ。


 「大丈夫なのかな?」


彼女は心配そうに呟いた。


 「きっと大丈夫。 助かるはずだよ。」


そう、あの人は間違いなく助かる。


 「よかった。」


安堵した彼女を見ていると、悪魔が頭の中で話しかけてきた。


 「今回はなぜこのようなことをしたのだ?」


 「彼女が、自分の誕生日に目の前で人が死んだなんて記憶は持って欲しくなかったからです。」


 「そうか。」


 「あとは、僕の自己満足のためです。」


 「わかった。 今回はどの五感を頂けるんだ?」


これから美味しい食事を取ろうと思っていたから残念ではあるけど。


 「味覚を。」


その日から、彼女が作ってくれる食事も味が無くなってしまった。

でも、仕方がないことなんだろう。





-4-



1年後、彼女とは結婚していた。

お互いに納得済みのことだったし、周囲の人も祝福してくれていた。

そして、彼女のお腹には子供もでき、とても幸せな毎日を送っていた。


さらに7ヵ月後、彼女の出産予定日がそろそろ近づいていたある日。


 「今日は早く帰ってこれそう?」


いつもはあまり聞かれない言葉。


 「そうだね。 佳恵には負担をかけてばかりだし、今日は早く帰ってくるようにするよ。」


 「ありがとう。 でもお仕事は頑張ってきてね。」


 「ああ。 いってくるよ。」


佳恵にそっと口づけて、玄関のドアを開け放った。



もうそろそろ4時になろうかという矢先、見知らぬ番号から携帯電話に連絡が入った。

どのようなことかと用件を聞いてみると、それは産婦人科からの電話だった。


 「奥様が破水をしたという連絡がこちらに入りました。」


 「え? は、はい。 それで妻は大丈夫なんですか?」


 「ええ。 今救急車がご自宅に到着したところです。」


状況がはっきりしないだけに、とても不安だった。


 「ただ…」


 「え?」


 「いいえ。 追って連絡します。」


 「は、はい。 わかりました。」


更に不安になった。




 「少し早産です。 それで、母体とお子様に負担がかかってしまっているようです。」


5分後、先ほどの医者から再度連絡が来ていた。


 「それで、妻と子供は大丈夫なんですか?」


 「大丈夫だと思いますが、それほど楽観できる状況ではないんです。 もう少しで病院に到着されます。」


とても頑張り屋の佳恵のことだから、少し具合が悪いくらいでは家事を休むことも無かったんだろう。

佳恵が自分の異変に気づいたときは、既にかなり悪い状況にあったのかもしれない。

今朝ももしかするといつもと少し違ったかもしれない。

どうして、そのことに気づいてあげられなかったんだろう。

どうして、無理なんてしないでいいんだよと言わなかったんだろう。


 「わかりました。 それでは僕は…」


これから急いで向かいます、と言いかけたとき、僕は久々に悪魔のことを思い出した。


これから病院に向かうとなると、きっと1時間半以上はかかってしまうだろう。

そして、きっと佳恵はすごく不安になっている。

元々、あまり体が強くはない。 きっと、とても不安だろう。

大丈夫だろうとは医者も言ってくれている。 でも。


 「近くにいるので、入れ違いくらいには病院に行けると思います。 それでは。」


急いで電話を切った。 そのまま、会社に早退をする旨の電話をした。



 「悪魔さん。 お久しぶりです。」


 「ああ。 今回はどんな願いだ?」


きっと母子共に無事に出産してくれることを祈るのがベストなんだろう。

それで全て大丈夫なんだ。

それでも僕は、まったく別の願いを悪魔に告げることにした。


 「僕を、今すぐ佳恵が向かっている病院に送ってください。 いいえ、救急車に乗っていることにしてもらえませんか?」


 「そんな願いでいいのか? さっきまでお前が考えていた願いの方がいいのではないか?」


これこそが悪魔の囁きなのかもしれない、と非常時にも関わらず考えてしまった。


 「いいえ。 結果として母子共に無事に生まれても、佳恵はたった今が不安で一杯だと思うんです。」


 「確かにそうかもしれないな。」


 「この願いでお願いします。」


 「わかった。 一応聞いておくが、これはなんのためにだ?」


 「当然、自分のため、彼女のため、そして生まれてくる子供のためです。」


体がふわっと浮くような感覚。

気づいたときには、救急車の中だった。 佳恵は少し苦しそうに僕を見つめている。

安心させるために、佳恵の震える手をぎゅっと握った。


 「大丈夫、大丈夫。」


あとは、悪魔ではなく神様。 よろしくお願いします。




 「無事に生まれてきましたよ。 女の子です。」


看護師さんからそう告げられた。 ほっと安堵する。

少し早産ではあったが、迅速な対応のおかげなのか、母子共に健康という結果だった。

こういうとき、男は分娩室の外でただ祈るだけという無力な存在なんだと痛感させられた。

そして直後、頭の中に悪魔の声が響いた。


 「無事に生まれてきたのか。 悪運の強い奴だ。」


 「ええ。 でも、たぶん僕の運ではなく彼女と子供の運です。」


 「そうか。 それはいいとして、次はどの感覚をもらえるんだ?」


さすがにそろそろ選ぶことが出来る感覚も減ってきてしまった。

視覚と聴覚と触覚。

生まれてきた子供の姿も、その成長もしっかりと見てあげたい。

その産声も、初めて喋ったときの声も、聞いてあげたい。

そうすると、初めて抱き上げたときの感覚は、犠牲になってしまうだろう。

それでも、僕は業を背負ってしまった。

自分を納得させて、悪魔にこう告げることにした。


 「触覚を。」


その瞬間から、椅子に座っていることすら感覚がなくなった。

全てにおいて自分が存在しているかどうかがわからなくなった。

暑くもなく、寒くもなく、そこに風があることすら感じられない。


わが子を抱き上げた瞬間、その重みを感じられないことに涙が出そうになった。

それでも、代償を払って得られた幸せがあるんだ。

だからこそ、僕の心は折れなかった。





-5-



それから5年、本当に幸せな時間が過ぎていった。

佳恵は早産が原因だったのか、子供ができない体になってしまった。

何度、佳恵の体を直してあげたいと思ったかわからない。

それでも、私たちには大切な娘がいるんだ。

それだけでも、十分に幸せなんだ。


娘には「美知ミチ」と名づけた。


美しく生きて、色んな物事を知ろうとする人間になって欲しいという思い。

字は違うが、私たちが通っていく『道』の1つになって欲しいという思い。

そういう思いを込めて、この名を選んだ。



相変わらず、触覚と味覚と嗅覚はない。

味覚と嗅覚は考えていたほどでもなかったが、触覚はやはり重要なのだということがわかった。

妻に、そしてミチに触れていても、感触はこの手に伝わらない。

それでも、熱いものに触れれば火傷をしてしまうし、どこかに体をぶつけてしまうと怪我をする。

幸せの代償というのは、やはりとてつもなく大きなものだったのかもしれない。

それでも、自分の選んだことについては後悔する気はなかった。


佳恵とのささいなケンカも増えてきた。

最近は少しだけ仲が悪くなってしまったのかもしれない。

自分としては非常に残念だけれども、これは全ての夫婦が通る道なのかもしれない。



しかし、その日は少し趣が違った。

いつもはどちらかが折れてケンカは終わる。

しかし、自分でもよくわからないうちに、大きなケンカになってしまった。

少し自分を落ち着かせようと思い、散歩に出ることにした。


 「パパ。 あたしも行っていい?」


子供ながらに何かを感じ取ったのかもしれない。 少し不安そうな表情のミチ。

もしかすると、気を使ってくれているのかもしれない。


 「ああ。 ママにいってらっしゃいをしよう。」


この子を安心させるためには、今は一緒に出かけるのが一番だろう。




 「あんまり走っちゃダメ。 ほら、こっちにおいで。」


こうしてミチと一緒に歩いてみると、実は2人で歩くのはとても久しぶりだということを思い出した。

さっきまでのケンカの中で「あなたはミチのことを本当に大事にしている?」と佳恵に聞かれた。

もしかすると、まだまだ佳恵やミチのことを考える時間が足りなかったのかもしれない。

少し反省した。


もう1つ思い出した。 今日は2人が再会した記念日じゃないか。

こんな大事なことも忘れているなんて、自分は夫として失格だな。

帰ったら、佳恵に謝ろう。

そして、どこか食事にでも行くんだ。



感触はないが、ミチの手を握って歩いている。

そろそろ落ち着いた。 家に帰ることにしよう。


 「ミチ、そろそろおうちに帰ろうか。」


 「うん。 ママが待っているもんね。 急いで帰ろう!」


パッと感触のない手から娘が逃げていった。


 「待ちなさい。 走ったら危ないよ。」


そのまま少しだけ追いかける。

昔はよちよち歩いているだけだったのに、ずいぶんと早く走れるようになったもんだ。

これは、将来陸上の選手にでもなれる? なんていうのは親バカな考えなんだろう。


ようやく捕まえられるというところで気づく。

そこは横断歩道の端っこだった。

ハッと気づいて信号を見ると、色は赤だった。


 「危ない!」


横からは大型のトラック。

このままだと確実にミチは轢かれてしまう。

考える間もなく、体は宙を飛んでミチに覆いかぶさっていた。



何時間後か、何分後か。 もしかすると何日後なのか。

感覚が全くない中で、本当に久しぶりに聞いた声が頭の中に響いている。


 「今は時間を止めている。 久しぶりだな。」


ああ、悪魔か。


 「時間を止めてくれてありがとうございます。 きっと、トラックにぶつかる直前なんですね。」


 「ああ。 ククッ、それにしても軽率な行動を取ってしまったな。」


少しだけ笑いを含んだ声。


 「軽率な行動?」


 「ああ。 お前は何も考えずにそのまま突っ込んでしまっただろう?」


確かに、悪魔のことなんて頭には無かった。


 「あの状況で俺を呼んでいれば、娘を助けるだけで済んだんだ。」


確かにそうなのかもしれない。

そこで、7年前の悪魔の発言を思い出した。


 『対象が2人以上の場合は、1つの願いでは無理だ。』


なんということだろう。 ようやく自分が今置かれている状況を理解した。

娘を助けるために願いを1つ使うと、自分が助からない。

更にもう1つの願いで自分を助けようとしても、結局五感を全て失い3分後には悪魔に魂を食われてしまう。



 「娘を助けなければ、自分だけ助かって視覚と聴覚のどちらかを失うだけで済むんだ。 もうこの選択肢しかないだろう。」


悪魔が耳元でそっと囁く。

確かに、自分が助かるためにはそうするしか他にはない。

悪魔の囁きのせいで、自分が飛び込んだことが、とても軽率な行動だと思ってしまいそうになる。


でも。 そうじゃない。

ミチは自分自身が守ってあげなくちゃいけない存在だったんだ。

だからこそ、後悔なんてしちゃいけない。



 「悪魔さん。 もう少しだけ考えさせて欲しいんです。 それでもいいですか?」


 「ああ。 思う存分考えるがいい。」


どうすればいいんだろう。 どうすれば佳恵やミチが幸せになれるんだろう。

考えている時間が永遠のように感じられた。



悪魔になんて頼らずに、自分の娘を助けるために身を投げ出した覚悟は本物のつもりだ。

この状況で娘を助けずに、自分が助かりたいなんて思わない。


何が一番なのかなんて、いくら考えてもわからなかった。

だからこそ、こうしてあげたいと思う方法を悪魔に告げることにした。



 「待ってくれてありがとうございました。 1つ聞いてもいいですか?」


 「どんなことだ?」


 「例えば、願いを1つ誰かに譲渡することは可能ですか?」


 「それは可能だ。」


 「それで、その譲渡された人間はどうなりますか?」


ここが一番の問題。


 「そうだな。 願いを託されたことは教えてやることができない。」


 「というと?」


 「その時に一番強く願っている願いが成就されるだけということだ。 願いが叶うということは、その人間にはわからない。」


 「そうですか。 それでは魂や五感のことはどうなりますか?」


 「それはお前からもらうという契約になっている。 他の人間から魂や五感を奪うことは俺にはできない。」


 「ということは、私が願いを託した人間が願いを叶えても、五感や魂を奪われるのは私だけということですね?」


 「その通りだ。 さあ、話は終わりだ。 どうするんだ?」


こんな状況だけれど、知りたいことは知ることができて安心できた。


 「それでは、娘を助けてあげてください。 できれば無傷でお願いします。」


 「わかった。 気分がいいからそれくらいはサービスしておいてやろう。」


これで、まずは一安心。




さあ、最後の願いを叶えることにしよう。



 「悪魔さん―」






-6-




どのくらいの時間が経ったのだろう。

いや、それよりもここはどこなのだろうか。

真っ白な世界。

もしかすると、これがあの世? それとも悪魔の胃袋の中?


何も見えず、何も聞こえず、何も感じられない。



でも、ふと気づくと、頬にわずかな温もりが2つ。

肌に感じられる温もりなんて、もう5年も感じていなかった。

手にもほんのわずかな温もりが感じられた。

この温もりはなんなんだろう?


口の中は、少し懐かしい味がした。

これはたぶん、血の味だろう。


そして、かすかに懐かしいにおいがした。

こんなにおい、いつどこでかいだんだろう。

思い出した。 佳恵のにおいだ。


最後の最後に、悪魔はどうしてこんな体験をさせてくれるんだろう。

これもサービスの一環なのだろうか。




 「ねえ、目を覚まして! お願いだから!」


 「パパ、パパ。」



何度も、何度も聞いた声。

今はもう、なぜか懐かしく聞こえる2人の声。


まぶたが動かせるようだったので、目を開けてみることにした。




そこは白い部屋、病室のようだった。


 「あなた! あなた!」


 「パパ! パパぁ。」


見慣れた顔が2つ、大泣きに泣いていた。

佳恵とミチだった。


悪魔は最後の最後に魂を奪うことができなかったのか?

いいや、きっと3分後には魂を奪われて死んでしまうのだろう。

トラックに轢かれて助かるわけが無いんだ。

そう、これは悪魔からの粋なプレゼントなんだろう。

それならば、3分で伝えられることは伝えきっておかないといけない。


 「佳恵、ミチ。 聞いてくれないか?」


 「うん。 どうしたの? 体が痛いの?」


心配そうに聞いてくる佳恵。


 「いや、そんなことじゃないんだ。 まずはミチ。」


ミチは大粒の涙を流しながらこちらを見る。


 「来年からは小学校だな。」


 「うん…」


 「友達をたくさん作ってくれよ。」


 「うん、わかってるよ。」


 「それと、お母さんの手伝いはきちんとすること。 お前はいい子だからわかるな?」


 「大丈夫だよ。 パパ。」


 「そうか。 安心した。」


そして。


 「佳恵。 今まで苦労をかけてすまなかった。」


 「そんなことはいいの! なんでそんなことを言うのよ!」


 「いいんだ。 たぶん俺はそんなに長くない。」


 「そんな…」


本当は安心させてやりたかったが、おそらくそんな時間もなかった。


 「勝手なお願いだけど、ミチを頼む。」


 「ええ。」


 「あと、これからは自分の幸せも考えて欲しいんだ。 僕に縛られる必要はない。」


そう。 他に好きな人ができるのであれば、その人と幸せになってもいい。

忘れられてしまうのは少し寂しいけど、佳恵やミチの幸せの方がずっと大事。


 「…」


 「いいんだよ。 君には苦労をかけっぱなしだったから。」


 「…」


 「これからも苦労をかけると思う。 本当にごめん。」


いつしか、自分の頬にも涙の熱さが伝わっていた。


 「それと、今まで一緒にいてくれて、ミチを生んでくれて…」


たぶんもう時間は3分。



 「ありがとう。 佳恵、愛している。」



静かにまぶたを閉じた。






-7-



 「ぎゃはははは。 魂を食い損ねたってのもひどい話だな!」


何人かの悪魔が騒いでいる。


 「仕方がない。 イレギュラーもあったし、何より天使との契約がある。」


本当にうっとうしい契約だ。


 「前まで聞いてた話じゃあ順調だったろ?」


 「ああ。 少し目の前で不幸な出来事を作ると、その度に消費してくれたからな。」


あれだけ他力本願だったのだから、きっと魂は食えるはずだった。


 「7年もかけておいて、最後の最後にお前が失敗したということだろ。 ぎゃははは。」


本当にうるさい奴らだ。


 「いいんだ。 あんな真っ当な人間の魂なんて食ってもうまくない。」


 「負け惜しみだろ。 ぎゃははははは。」




天使との契約が無ければ、あいつの魂は俺のものになっていた。


 『5つの願いの中に【利己的なだけの願い】がある場合のみ、人間の魂を奪うことができる』


この契約のせいで、俺はあいつの魂を食い損ねた。



最後の願いだってそうだ。


 「最後の願いは妻に譲渡してください。」


なんてあいつが言わなければ良かったんだ。


それにあいつの伴侶もそうだ。

自分の幸せでも願っていれば、特例で俺があいつの魂を食うことができただろうに。

よりによって、『あの人を五体満足で返してください』なんて願いをしやがって。

せっかく奪った五感もあいつに戻ってしまうし、魂は食い損ねるしで酷い目にあった。

これで契約は反故。 あいつが天寿を全うしても魂を食うことはできなくなった。



ふと下界を見てみる。

あいつが家族に囲まれて楽しそうに笑っている。


 「ケッ、胸糞悪い。」


独り言を呟いてみるが、ここからでは負け惜しみでしかない。





 「さて、次のターゲットを探すか。」



そう何度も食いっぱぐれることもないだろう。


大多数の人間は、欲深いから。

これは以前書いたショートです。

少し手直ししましたが、根幹はそのままで掲載することにしました。

ありがちなようでありがちじゃない物語というのをコンセプトに書きましたが、きっとありがちです。


条件等わかりづらいところもあると思いますが、その辺は脳内で補完してやってください。


読んでいただきありがとうございました。

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[一言] バッドエンドじゃなくてほっとした。 奥さんがお願いでハッピーにしてくれると思ってたよ
[一言] すごく暖かいお話でした。 純粋な主人公の気持ちと、そこから生まれる悪魔への願い。短いお話でしたが、読み終わるまでの間、何度も目頭が熱くなりました。 読み終わった後も、まるで童話を読んでいたか…
[一言] 色々と考えさせられました。面白かったです。
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