日曜の授業 3
朗読が終わると、授業は佳境へと入る。
授業の後半は、作品に対して意見や感想をそれぞれ発表する。
様々な生徒達から意見が飛び交い、小学生ならではの自由な発想の見解が出てくるはずだった。
美和子先生はまず、この物語への感想を求める。
「それではみなさん、この物語を読んでどのような事を感じましたか?」
いつものように美和子先生はただ一人だけ、名前を指名し発言の許可をする。指された生徒は席を立つと大きな声で答えた。
「このお話のテーマは無償の奉仕です、利益を顧みない姿勢に僕は感銘をうけました」
お手本のような答えが返ってきた。素晴らしい発言に教室の後ろの方から自然と拍手が起こる。
教室の後方で見守っている保護者の方々には日常の授業風景と写るかもしれない。しかしこの光景は普段とはかなり違う。
まず意見を発言する際には起立などはせず、普段は着席したまま発言を行う。わざわざ立ち上がるのは授業参観ならではのアピールに他ならない。
それに発言の内容だが、普通ならもっと素直な子供っぽい意見が多いはずだ。
「面倒くさい、荒れ地のままで構わない」
「お金もらわないで仕事してタダ働き、疲れて馬鹿みたい」
こういった包み隠さない、人としての本音に近い意見が出てくるものだが、この回答は違う。
さまざまな発言を重ねて、意見の交流を繰り返し、考察を深めて授業の最後の方にようやっと出てくるのがふさわしいような、とても高い完成度をもった回答がいきなり飛び出してきた。
つまり、これはどういう事かと言うと、今回の質問の内容は事前に生徒達に伝えられていたのである。
しかも問題ばかりでなく回答者も誰が答えるか決められていた。それだけではない、答えの内容には美和子先生によって事前に精査までされていた。
今現在この教室に自由は微塵も無い。事細かな検閲が入った演劇のような状況だ。
この異質な問答を目の前にして、保護者の方々はどんな心境なのだろうか?
後ろをチラリと覗くと、素知らぬ顔が並んでいた。もしかしたら気がついていない可能性もありうるかもしれない。
保護者の方々にバレているのかいないのか、私には知る由もないが、美和子先生は順調に授業を進めていく。
「このお話で、なにか疑問に思った事はありますか?」
教室には次の質問が投げかけられれ、みんなが一斉に手を上げる。
この質問だけ聞くと、保護者の方々は自由な議題を提示しているように感じるだろう。
だが真相は違う、この質問も誰がどういった内容で答えるかが決まっていた。
こういった状況なので本来なら一人だけ挙手をすれば済む話しなのだが、他の生徒達も両親に少しでも良いところを見せたいのだろう。
指名されるはずは無いのだが、威勢のよい「ハイ」「はーい」といった声があちらこちらから上がる。
美和子先生はしばらく、誰にするのか悩んでいる振りをして、定められていた生徒を指名する。
そして、その生徒は規定どおりの質問をした。
「このお話は本当にあった話なのでしょうか? お話に出てくるウェルコン地方とは実在するのでしょうか?」
「良い疑問ですね、ウェルコンという場所は実在します」
突然ふられた疑問にも関わらず、美和子先生は何故か前もって用意していた資料が存在した。
A3用紙に印刷された風景写真を教壇の下から引っ張り出してくる。
写真には緩やかな山を携えた、田舎の村の風景が写っていた。
中心部には古い家々が寄り添うように集まっており、その周りを囲むように畑が広がっている。田舎の集落というものは似通うらしい、建物は洋風だが日本の人里と構造的にはさして変わらない。
そしてお話のテーマとなる森なのだが、写真には広大な森が広がっていた。
人里の外側は森が絶え間なく続いており、山の裾野から山頂に至るまで深緑が埋め尽くしている。
お話の中では具体的な森の大きさには触れられていない。
ひとりの人間のできる作業などたかが知れている。おそらく読者として想像できるのは、こじんまりとした雑木林程度のものだと考えるのが精一杯だろう。
だが写真に現れたのは風景の奥まで続く一面の森。
この光景を目の当たりにして子供達は純粋に『主人公はすごい』と受け止めるかもしれない。
だが、経験の豊富な保護者の方々は、この作業量はひとりでは不可能なものだと悟るだろう。そして、このお話しは『作り話』や『架空』だと、考えざるを得ないはずだ。
しかし授業は教科書の範囲を超えて進み始めた。




