表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

空に燈る

作者: 七篠

「なぁ、由佳(ゆか)。うちの金魚、知ってるだろ」

「あぁ、何年か前のお祭で……たしか何にも取れずにおまけでもらったやつ」

「そこまで覚えてなくていいんだよ。その金魚がな、実は」

 勿体ぶって、康弘(やすひろ)は口を閉じた。

 無言がしばらく続くと、放課後の人の居ない教室ということもあって、緊張のワンシーンの様になる。

 まるで映画やドラマみたいだ。そんなことを由佳はぼんやりと考えていた。

 運動部程ではないが、康弘はそれなりに短めの髪型をしている。それでも少し顔を伏せていると目元に影がかかって、痩せ気味の康弘であっても妙な迫力が生み出されていた。

 そんな姿を目の前にしているのに全く怖いと思えないのは、幼馴染の彼の事をよく知っているからかもしれない。

 由佳は退屈しのぎに耳の後ろでまとめていた髪を、解けてもいないのに丁寧にくくりなおしていた。

 どうせ大したことではないだろうから、さっさと言ってしまえばいいのに。そう思って由佳はスマートフォンの点滅を見た。

 告白なんてものでないことは、相手が康弘の時点でとっくにわかっている。その上、金魚の話だ。

 金魚の話よりは、友人から来たメッセージの内容を確認したい。けれど流石に目の前で幼馴染みが真剣な表情をしているのに、堂々と触ることはまずいだろう。

 早くしてくれないかな。そう思いながらもう一度康弘の顔を見ると、ようやく彼は重い口を開いた。

「あの金魚がな。……光ったんだ」

 こいつ、ついに受験のプレッシャーで脳が壊れたんじゃないか。それが由佳の正直な感想だった。

 高校三年にもなって何を。あぁいや、まだ一学期も半ばを過ぎた頃だというのに、進路やら模試。その後は補習に、夏期講習の申し込み。

 二年の頃とは比にならない程、うるさく言われているのは由佳も一緒だ。気持ちはよくわかる。

「康弘」

「何だよ、信じてないだろ」

「とりあえず、ジュースでも飲もう。購買で買ってくるよ」

「お前、信じてないな。お前にも見てほしいんだよ、光る金魚」

 じとっという音がしそうな程、粘りつくような恨みがましい目線が向けられた。そんな風に見られたとしても、簡単に信じられる様な話じゃなかった。

 康弘は嘘がバレやすい。それどころか正直者なので、これは嘘ですと顔に大きく書いてある程だ。

 本人もそれを自覚しているので、いつの頃からか、わかりやすい嘘はつかなくなっていた。かなり誇張した話はするけれど。

 だから全てが嘘ではないだろう。半分くらいは本当かもしれないけれど、それでも半分が本当とも思えない。

 冗談にしても、気楽でいいなぁ。そんなことを思いつつ、由佳は康弘の恨みがましい目線を受けとめつつ笑い返した。

「康弘は冗談は言うけど、嘘は言わないってことはよーくわかってるよ。でも信じられないんだもん、仕方ないでしょ」

「あー、もう信じてもらえねぇことはよくわかった!」

 座っていた椅子から急に立ち上がると、康弘は「行くぞ」と促してくる。

 どこへ行くなんて一言も言わなかったけれど、康弘がどこに行こうとしているのかは何となく由佳にもわかる。

一真(かずま)も信じないと思うけど」

 そういった類の話が好きな、もう一人の幼馴染である一真であっても、多分信じられない筈だ。

 そう思って由佳が自分の席から腰を浮かさないまま口に出すと、康弘は一瞬だけ身体を固くした後、教室の外へと出ていってしまった。

 あーあ。行っちゃった。

 開け放たれたままの教室の扉をしばらく眺めた後、由佳は自分の鞄と、それと康弘が自分の席に置きっぱなしにしている鞄を掴んだ。



「――は? 金魚が光った?」

 一真の所属している部活の部室が存在する古い特別棟は、少し不思議な空間の様に由佳には思えていた。流石に木造では無いけれど、それでも普段勉強している教室のある校舎とは年季が違う。

 だから康弘の言う光る金魚の話であっても、ここに来ればありふれた話に変わる様な気もしていた。

 康弘には一真も信じないと思うと言ったけれど、もしかしたら特別棟では普通の話の一つの様に扱われるんじゃないか?

 由佳がちょっとだけ抱いていたそんな期待は、一言で切り捨てられてしまった。

 夕日が入り込んでいても薄暗く、古い着物であったり扇子であったりが室内のあちらこちらに見える。そんな部屋の中であっても、康弘の話はやっぱり信じてもらえないらしい。

「カズまでそんな反応かよ」

 むっとした後、康弘は机に突っ伏してしまった。頬を天板にぺたりとくっつけて、そのまま先ほど由佳へと向けられたあの恨みがましい眼差しを、今度は一真に向けている。

 一真はその視線にも慣れたもので、気にした様子もなく頭を掻いていた。

「いや、そんな簡単に信じられる訳ないだろ。第一あれだ、金魚ってうちにも同じ屋台でとったやつが居るけどそんなことはないし」

 一真に言われて、そういえばと気が付いた。

 あの祭りの時に由佳はしていなかったけれど、一真と康弘は二人でどっちが多くとれるかと勝負をしていた。

 あれは小学校くらいの話になるから、もう六年程は前の話になる。金魚ってそんな長く生きるんだっけ。猫又みたいに化けた?

 そんなことを考えつつ、いつもよりはテンポが悪くうまく弾まない二人の会話を、由佳は少し離れた椅子に腰をかけて静かに聞いていた。

 申し訳ないけれど、由佳も意見を言うよりは、一真一人に任せた方がいいはずだ。

 三年のこの時期で部活動に打ち込んでいられる余裕もあり、由佳よりも遥かに頭がいい。

 そうして静かにジュースを飲んでいると、一真から一度睨まれた。そんな気がするけれど、由佳は気が付いていない振りをした。

「由佳もカズもさー。俺達、幼馴染だろ?もっと真剣に聞いてくれてもいいだろー」

「真剣に聞こうと思ったけど、信じにくい内容だったから仕方ないだろ」

 音が聞こえてくるほど、大きな溜息を一真はついていた。「俺だって練習したいんだから」と付け加えられた言葉に、由佳は何のことか理解ができなかった。

 部室に押しかけたことは申し訳ないと思うけれど、練習することがあっただろうか。

 一真はこちらの様子には気が付いていないのか、先ほどよりは少し小さめの溜息を吐き出している。

「大体、何で俺に相談? 他にもこういう話好きそうな奴いるだろ」

「え?だってここ、オカルト研究部じゃないの?」

「ここはオチ研! 落語研究部!」

「えっ!?」

 珍しく声を荒げた一真の言葉に、由佳は思わず声をあげてしまった。ぎょっとした目で一真に見られたけれど、由佳自身もきっと同じ様な表情を浮かべているはずだ。

「違ったんだ」

「どうしてそんな風に思われてたのか、全くわからないんだけど」

「だって、怖い話とか昔の話に詳しいし」

「落語の中にはそういう話もあるから勉強してたんだよ!昔の話ってそりゃそうだろ、落語なんだから」

「ご、ごめん」

 力が抜けた様に椅子へと身体を預けた一真の姿に、由佳は流石に申し訳ない気持ちになってしまった。

 この時期に部活として打ちこんでいる程好きなものを、長い付き合いの自分に理解されていなかったらきっとショックだろう。

 説明がなくても、相手が気が付いていると思っていることは多い。それは嫌と言う程、由佳がよくわかっている。

 ずきりとしている様で締め付けられる様でもある痛みが、由佳の胸の内に広がった。

 どう謝るべきかと由佳が考えていると、康弘が「なんだ」と明るい声を出した。

 そんな声を出せる場面でもないはずだ。見ると康弘は、由佳の様に焦ってはいなかった。明るい声の印象通りの表情をしている。

 もしかしたら康弘は知っていたのだろうか。知らないのは自分だけだったのかもしれない。

 由佳がそんなことを思っていても、康弘は気付いた様子もなく、明るい声のまま言葉を続けていた。

「でもさ、落語とかはとりあえず置いといて、俺の友達の中で一番怖い話とか不思議な話に詳しいのはカズなんだ。こんな話信じてくれるとしたらお前ら二人しかいないんだよ!だから頼む、俺の金魚を見てくれ!」

 勢いよく両手を合わせて拝むようにした康弘の様子に、由佳まで脱力させられてしまった。

 とりあえず、で済ましてしまっていいんだろうか。拝まれている一真を見ると、彼は諦めた様子で「わかった」と小さく呟いている。

「いいの?」

「いいも何も。ヤスがこうなったら聞かないだろ。諦めていくしかないって」

 頭を覆っていた手ぬぐいを解いて、一真は髪を掻き毟っている。諦めたと言うわりに、一真の表情は少しだけ嬉しそうにも見えた。

 その一真よりもはっきりとわかる程嬉しそうな表情を浮かべた康弘は、今度は忘れずに自分の鞄を掴んで立ち上がっている。

 そのまま直ぐに部屋の外へと駆け出したかと思うと、一歩出たところで立ち止まって、上半身だけがまた部屋の中へと戻ってくる。

「由佳!絶対カメラもってこいよ!お前のカメラで決定的瞬間を撮るんだ!」

 それだけ言うと、康弘の姿は今度こそ完全に扉の枠から消えた。バタバタとした足音が徐々に遠ざかっていく様子は室内にも届いていた。

「これじゃだめかなぁ」

 由佳がポケットから取り出したスマートフォンを一真に見せると、一真はゆるゆると首を横に振った。

 画素数も正直対して変わらないはずだから、こちらでもいいはずなのに。それを知っているかはわからないが、康弘は絶対に由佳の持っているカメラがいいと譲らないだろう。

「由佳は一度家に帰って、それからヤスの家に集合だな」

 一真はそういうと、机の上に置いていた何冊かの本を片付けている。きっと落語の本なのだろう。

 しっかりと謝るタイミングを逃してしまったけれど、一真には気にしている様子はない。

 せめて手伝いくらいはと手を伸ばすと、気にするなといった具合に手をひらひらと振られてしまった。

 手持無沙汰になった由佳の目に一真の頭から解かれた手ぬぐいが目に入ってくる。タイミングがいいとでもいうのか、それはよく見てみると金魚の柄をしていた。

 机の上を泳ぐ様にしているその金魚すら、今の由佳には少し苦々しく思えてしまった。

 


 由佳は写真が好きだった。三年に上がるまでは、写真部に所属していた。

 腕はそれなり、と言えたらいい方だろう。

 下手の横好きという程ではないが、コンテストで賞をとったことはまだ一度もない。

 それでも写真を撮ることが好きだった。自分だけが切り取れた世界の一片を見ることができる様な気がして、夢中でシャッターを切っていた。

 貯めていた貯金と、アルバイト代で購入した初心者向きの一眼レフカメラは撮らなくなった今でも大事にしている。そのカメラを、康弘はご指名だ。

 ケースにしまっているので、カメラにはホコリ一つついていない。手入れは片付ける前にしっかりと行っていたので、レンズも綺麗な状態を保たれている。

 懸念はバッテリーがあがっていないかだったが、それも問題はなかった。

 ――問題があってくれたら、持っていかなくてもよかったのに。

 そう思ってしまう程、今の由佳には楽しくて仕方が無かったはずのカメラは、あまり触りたくないものに変わってしまっていたらしい。

 あまり遅くなると、康弘からきっとメッセージが一気に送られてくるに違いない。

 たった数軒向こうの幼馴染の家までの道のりは、歩き慣れたものだというのに遠く思える。肩から下げたカメラバッグがやけに重くて仕方が無かった。

 由佳がそんな気持ちで来ていることに気付いているのかいないのか。康弘は「遅かったな!」と普段と何一つ変わらない明るい声で、玄関のドアを開けてくれた。

 暗い声で迎えられるよりはよっぽどまし。由佳が気を取り直していると、康弘はカメラバッグを見てにかりと笑った。

「ちゃんと持ってきたよ」

「ん、ありがと。一真ももう来て俺の部屋に居るから、行こうぜ」

 夏が近付いているとはいえ、夕方の室内になると薄暗い。電気がなくても十分歩いていける明るさではあるけれど、見知ったはずの康弘の家なのに不思議な気がした。

 まぁ、この後光る金魚と対面すると分かっているからだろう。

 少しくらいオーバーリアクションをした方がいいのだろうか。でも一真もそれに合わせてくれるかはわからない。

「……なんで部屋の前で待ってるの」

 部屋で待っている、と言われていた一真は廊下に立たされていた。一真がもたれているすぐ横には康弘の部屋の扉があるけれど、それはぴったりと閉ざされている。

 由佳の指摘に、一真は「俺に言うなよ」と苦々しそうに言葉を返し、顎で康弘を指している。まぁ、彼の所為以外はありえないので、それはそうだろう。

「二人一緒に見てもらう方がいいからに決まってるだろ」

 示された康弘は、けろりとした顔で告げた。

 わからなくもないけれど、エアコンも効いていない場所に立たせたままでいるのはどうかと思う。

 由佳が軽く頭を叩くと、康弘は痛くもないはずだというのに、痛そうな声をあげていた。

「で、さっさとその金魚と会わせてくれよ」

「わかってるって」

 そういう康弘の目はうずうずとしている様に見えた。元々子供っぽいところのある康弘が、より幼く見える。

 今から開かれる扉が、びっくり箱のフタの様にも思えてきた。これから見るものが中から飛び出る様なものでなくても、ドキドキする。

 半分ひねられたドアノブが押されると、扉の隙間からは光が漏れたりはしなかった。

 てっきりその光る金魚から眩い光が漏れてくると思ったら、真逆だ。

 遮光カーテンをぴったりと閉めているのか、薄暗かった廊下とは比べものにならない程、康弘の部屋は真っ暗だった。

「暗いな」

 一真がそう言って、入り口脇にあるスイッチへと手を伸ばすと、すぐに康弘に止められている。

 急に暗い部屋に入ったので、康弘の表情ははっきりとは見えないけれど、多分笑っているのだろう。由佳にはそう思えた。

「暗い方が見えやすいと思うから、我慢して」

「そんなこといっても、これじゃカメラ取り出せないんだけど」

「……もうちょっとだけ我慢して」

 どうやらすぐには明りをつけてくれないらしい。廊下から一歩入り込んだところで、一真と顔を見合わせる。

 一真に肩をすくめられてしまったので、由佳も諦めるしかないだろう。部屋に入って扉を完全に閉めてしまえば、光は一切なくなった。

「ヤス、金魚は?」

「ちょっと待って。いてっ」

「お前がぶつかってどうすんだよ」

 一真の呆れた声には返事を返さずに、康弘は真っ暗な部屋の中を進んでいるらしい。部屋の主がこれなら、一真と由佳は動くと危ないだろう。

 じっとその場で待っていると「よし、お待たせ」と康弘のどこか楽しげな声が聞こえてきた。やっと金魚の水槽に辿り着いたらしい。

 衣擦れの音がすると、ぼんやりとした光が真っ暗な室内に広がった。

 照明に照らされているみたいだ。そんな風に由佳は思った。

 いつか見た水族館の深海コーナーのクラゲの様に、ほのかに青白い光と金色の光を纏いながら金魚は小さな金魚鉢の中を悠々と泳いでいる。その中には光を帯びている一匹だけが居て、他の金魚は見当たらない。

 金魚が光源になるなんて初めてだけれど、その明るさのお蔭で隣にいくらか大きな水槽があることに気が付いた。中には何匹か、光っていないごく普通の金魚が泳いでいる。

「二人とも、驚いただろ?」

 口を開いたままぼんやりと金魚を眺めていると、康弘が薄明りの中で笑っていた。驚かせられた、と嬉しそうにしている。

「あ、あぁ。まさか本当とは思わなかった」

「やっぱ信じてなかったのかよ」

「全部が嘘とは思わなかったけど、ヤスが何かの仕掛けを作ってると思ってたんだよ。なぁ?」

「うん。私もそう思ってた」

 今だって、実は下からライトで照らしているんじゃないか。と思っているくらいだ。

 安っぽい、急いで買ってきた様な金魚鉢でなければそれもありえると思う。けれど、そういった何かを仕込める様な厚さの砂利が敷き詰められているのは、隣の水槽だ。

 多分、こちらが元々金魚を飼っていた水槽なのだろう。水草や石も入れられている。

「一昨日くらいに、急に光ってさ。俺も驚いたけど、それ以上に他の金魚が怯えてる様な気がしたから、急いでこいつだけ移したんだ」

 そういって康弘は小さな金魚鉢を覗き込んでいる。薄い、淡い光であっても、丸い金魚鉢に拡散されたのか、康弘の顔がはっきりわかる程の明るさだった。

 それを見ていて、急に肩からかけていた鞄の存在を由佳は思い出した。忘れるなと言われた様に、ずしりとカメラの重さを覚える。

 この不思議な光景を撮りたいという、うずうずとした気持ちと、それと正反対の気持ちが同時に由佳の中で揺れ動いた。

 淡く光り輝いている不思議な金魚が尾を揺らす度に、隣の水槽の金魚が少しでも離れようとする様に見える。その気持ちが、何故だか由佳にはわかる様な気がする。

 多分、この金魚も怖いんだ。そう思えた。

「由佳」

 静かに、一真に名前を呼ばれた。隣を見ると、一真は少しだけ困った様な表情を浮かべている。

 早く撮れ、とは一真は言わなかった。それに、カメラを持ってこいと告げた本人も。

 鞄に指で触れると、たしかにカメラの存在は覚える。けれどどうにも出すことが怖かった。

「暗いし、上手く撮れないかもしれないからやめておいてもいいかな」

 口から出たのはそんな言葉だった。由佳自身、それは思っている。本音だ。けれど、言い訳にすぎないこともよくわかっている。

 そしてそれは二人にも伝わっているんだろう。金魚鉢を覗き込んでいた康弘が、由佳を見た。

 康弘は一真の様に困った様な表情を浮かべている訳ではなかった。放課後の教室で見た時よりも、真面目な表情をしている。

 あの時なんかより、今の方が由佳に緊張を与えてくる。そんな眼差しを向けられていた。

「俺はただ、嘘みたいなこの金魚を由佳と一真に見せたかっただけだから。由佳が撮りたくなかったら撮らなくていい。それに上手く撮ってもらいたい訳じゃない」

 その言葉を聴いて、由佳はバレているんだという少し恥ずかしい気持ちと、どこか息を付けた様な気がした。

 光る金魚があぶくを吐き出して、それがするすると水中を泳いで上がっていく。そのあぶくが割れると同時に、肩にかかるずっしりとした重みが少し軽くなる。

「本当に、下手かもしれないけどいいの」

「ピンボケしてても、ぶれまくっててもいいんじゃないか?どうせこれを写真に撮って見せても、誰も信じないだろうし」

「……康弘も他の人信じないと思ってるんじゃない」

 呆れてそんな言葉を返すと、康弘はそりゃそうだろといった表情を浮かべている。何だか毒気が抜かれてしまった。

 馬鹿みたいだなぁ。そう思うと、鞄からカメラを取り出すことに何の躊躇いもなくなった。

 取り出して、レンズキャップを外す。由佳が覗き込んだ向こう側には、淡く光る金魚のいる不思議な四角い空間が広がっていた。

 見慣れていたはずの四角い枠が、懐かしくて、それでいていつもと違う。

 不思議と落ち着いているけれど、どきどきする。何度も調整を繰り返して、由佳は夢中でシャッターを切っていた。



 独特の小さな音が響く中で、康弘が「よかった」とぽつりと呟いた。そちらを見ると、康弘は金魚を見ている訳ではなく、由佳の姿を見つめている。

「俺さぁ。由佳やカズみたいに、そんな真剣に打ちこんでるものとかないんだ」

 一真が言葉の意味を問いかけるよりも早く、康弘は口を開いた。話しかけた一真に見られていることはわかっているだろうけれど、視線はシャッターを切り続けている由佳に向けられたままだ。

 康弘のどこかぼんやりとした、それでもほっとしている横顔だけが一真には見えている。

「カズが落語好きなの、由佳が知らなかったのは驚いたけどさ。二人ともそれぞれ好きなことをやってただろ。羨ましかったんだ」

 初めて聞いた言葉だった。

 由佳はともかく、康弘は同性だ。殴り合いの喧嘩は流石に最近はなくても、昔はしたことがある。今は殴り合わなくても、言葉で伝え合っているから、一真は康弘とはある程度はわかりあえている様な気がしていた。

「羨ましがってるとか、初めて聞いたぞ」

「そりゃそうだろ。言えるかよ、恥ずかしい」

 苦笑いでこちらを見た康弘は、夕方よりも大人びている気がする。

「だから、由佳が上手くないって反対されてからカメラ全然触らなくなったの、勿体ないよなぁと思ってたんだ。こいつが光ってくれて、ちょうどよかった」

 そういって由佳が撮った写真の確認をしている間に、康弘は金魚鉢を軽く指でなぞっている。

 金魚も飼い主のことはわかるのか、それとも餌と見間違えているのかはわからないが、指の動きにつられるように泳いでみせていた。

「ちょうどいいって。まぁ、わかんなくもないけどさ」

 一真も同じ様に指をガラス面に沿わせてみせても、金魚が追いかけてくることはない。

 可愛くねぇな。呟くと康弘が自慢げに笑っていた。

 金魚が尾を揺らすと、こぼれた光が波に揺られている。どういう理屈なのかは、近付いて覗き込んでもさっぱり分からなかった。

「なぁ、これってヤスが何かしてるのか?」

「……お前は俺にできると思うのか?」

「いや、思いつかない。金魚に塗料を塗る程、やばい奴じゃないとは思うけどな」

 そう返すと、康弘はむっとした表情をすぐに緩めた。

「ま、いいじゃん。不思議は不思議ってことで」

「それもそうだけど。あ。いっそ、お前が調べたらいいんじゃないか」

 思いついて口に出すと、康弘はぽかんと口を開いた。目の前にいる金魚によく似た仕草だ。一真は思わず噴き出しそうになってしまった。

「お前な」

「いや、悪い。けどさぁ、これならヤスも夢中になれそうじゃん。何が原因か調べるの、面白そうだと思うけど」

 そう告げると、康弘はゆっくりと金魚鉢へと向きなおした。そうして覗き込んで、また口を少し開けている。

「でも、それって相当難しくないか。俺、頭よくないんだけど」

「知ってる。けど、馬鹿でもやるだけいいだろ。下手でもいいじゃん、て由佳に言ったのお前だろ」

 康弘からの言葉は返ってこなかった。どんな返事が返ってくるのかは、横顔を見ていれば何となく予想はつくので一真は催促せずに待つことにした。

 しばらくすると、ずっと黙っていた由佳が小さく嬉しそうな声をあげた。そちらを見ると、金魚が映り込んだカメラの小さなモニターが一真と康弘へと掲げられた。

 小さく切り取られた一枚には、丸く円を描く様に浮かび上がる金魚の姿が写っている。

 金魚だというのに、暗く青い水の中を、青と金の光を纏って淡く輝いている。

「満月みたいだな」

「うん、綺麗に撮れた。けど、これは他の人には見せられないね」

 こんなものを他の人に見せたら、きっとCGだと言われてしまうだろう。それは写真に疎い一真にもすぐにわかる。

 由佳はてっきり残念そうな表情を浮かべているのだろうと思ったけれど、顔を見ればそんなことはなかった。

「でも、自信作。やっぱり写真、好きだなぁ」

 そう言って笑う幼馴染の姿をみて、一真は少しほっとした。多分、隣のもう一人の幼馴染も同じことを思っているだろう。

「由佳はそんな下手じゃないと思うけどな」

「そうそう。一真の落語よりはよっぽど上手いだろ」

 一度も聞いたことがないはずの康弘のその言葉に、一真がちらっと横を見ても先程まで隣に居た康弘の姿はなかった。

 足音と人が動く気配だけはしている。そちらを向くとパチンという音がして、室内が一気に明るくなった。

「好きでやってるなら、気にするなって。俺もやってみたいこと決めたし」

 眩さに瞑った目をなんとか開けると、電灯のスイッチに指を伸ばしたまま、康弘は明るく笑っていた。

 してやったり。そう言わんばかりの表情に一真が苦情を告げようとすると、金魚が跳ねた水しぶきが頬にかかる。

 淡い光はいつの間にか消えて見慣れた姿の金魚が一真に見せつける様に、ゆらゆらと鮮やかな赤い尾鰭を水に浮かべていた。 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ