夏野
「沙夜は、神様を信じてる?」
母と五歳で死に別れた私を引き取ってくれたのは、碧い瞳の老夫人だった。クリスチャンじゃないもの、と返す私に彼女は笑って、
「森の中の参道を抜けて大鳥居をくぐると、そこは妖たちを支配する山神様の領域。もし会えたなら、一つだけ願いを叶えてくれる。貴方の母親は信じてなかったみたいだけど」
歌うように紡がれた言葉を、彼女を失くした今になって思い出す。こんなおとぎ話、信じているわけじゃない。けど、もし本当に会えるなら、お願いしたいことがあった。
私の右腕を、喰ってくれるように。
夕顔の蔓が巻きついた石灯籠が左右に続く、森の中の参道。木立の先に見える大鳥居を目指して、石畳を踏み鳴らすように登っていく。
「お嬢様―!? どちらですか、お嬢様―!」
私を呼ぶ女中たちの声が、木々の間から聞こえてくる。振り切るように、歩を進めた。
大正十二年。夏。波のように、蝉の声が響いていた。
右腕に血のにじんだ包帯、左手にぶ厚い本のような木箱を抱いて、早足で参道を登っていく。義母がつけた女中をまきたくて、参道を逸れて森の中を走ってきたけど、おかげでまた参道に出る頃には汗だくになっていた。セーラー服が背中にはりついて、気持ち悪い。
女学校の夏休み、私が五歳の時に死んだ母の実家を父が買い取った。見に行こうと誘ってきたのは、十六の私より四歳上の義母。前妻が死んで一年も経たずに後家に入った若い女は、前妻の残したしきたりが色濃く残るあの家に居場所がないのだろう。庶子の私を味方につけようと、やたら機嫌を取って母親面してくるのが鬱陶しかった。怪我してるとはいえ、散歩程度で女中をつけなくて良いのに。
ちら、と後ろを振り返っても、もう女中たちの声は聞こえない。あきらめて帰ってくれただろうか。私を伴わずに帰って、義母に怒られる様を想像すると、小さく胸が痛んだ。ごめんなさい、と呟いて、更に一歩踏み出したその爪先、踏んでいた濃い影に顔を上げた。
荒れた石畳の参道の先に、古びた大鳥居が鎮座していた。その向こう側には、傾いた社を囲むように、小さな湖が広がっている。
「こんなとこ、あったんだ」
三日前に来た時は、湖なんてなかったのに。道を間違えていたんだろうか。
涼やかな風が頬を伝う汗を冷やして、ほっと息をつく。大鳥居をくぐって水際に近づくと、岸に沿って咲き誇る水連の花。水面で光の粒が瞬いて、全く別の場所に来たようだ。
不意に、右腕に痛みを感じて立ち止まった。見れば、包帯を染める赤が濃くなっている。木箱を地面に置いて結び目をとくと、風が包帯をほどいて、隠れていた傷を露わにした。
いくつもの細かな切傷と、ひとつ、腕の外側に沿う、大きく裂けた傷口。白く変色した皮膚から、じわじわ血がにじんでいく。
私の、罪の形。
突然、背後で響いた下生えの鳴る音に肩を上げた。無意識に右腕を抱くように振り返って。そのまま、動けなくなった。
木々の間に、白い狐の面が浮いていた。
不気味な笑みを形作る、大きく裂けた口と朱で縁取られた三日月形の瞳。夏の日差しが作る濃い影の中、そこだけ闇の色が違うよう。
短い悲鳴がのどを焼くその寸前、狐の面が私の顔と腕とを交互に見遣るように動いて、そのまま後ろに傾いた。土の上に面が届く直前、ごん! と物凄い音が響く。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
「え。ちょ、もう、もおおお!」
助けるか放ってくか、数瞬躊躇してから、結局、下生えを踏み分けて走り寄った。
近寄ってみると、狐面からは白い小袖と藍色の打掛が繋がっていた。打掛は女物みたいだけど、体型から見るに、多分男の人。大の字になって倒れた頭の近くに木の根があったから、多分ここにぶつけたんだろう。
「あの、大丈夫ですか?」
顔の横に座り込んで、怖々口の近くに手を伸ばす。きちんと呼吸が触れて、ほっと肩の力を抜いた。もう一度、今度は軽く肩を叩きながら呼びかけると、ことり、膝頭に身じろいだ彼の横顔が載って、狐の面が外れる。
長くて濃い睫毛が、血管が透けて見えそうなほど、きめ細かい白い肌に夜色の影を描いていた。すっと通った鼻筋、形の良い薄い唇。
今まで見たことがないほど、綺麗な男の人。
不意に長い睫毛が揺れて、二重のまぶたがゆっくりと開かれた。私を映したのは、澄んだ湖のような、碧い瞳。
―――サラ!
「ぎゃーーーーーー!!!」
彼はすごい勢いで飛び起きると、物凄い早さで狐の面をつけて後ずさった。さっき頭をぶつけた木の幹に勢い良く背中からぶつかると、ぶんぶん両手を振りはじめる。
何か、ちょっと傷ついた。
「ご、ごめん! 血の匂いがしたから出てきたんだけど、想像以上にズタズタでびっくりして。気がついたら膝枕で動揺して」
腕を見遣ると、血のにじむ面積が大きくなっていた。いくつか赤黒い血が不規則に線を描いていて、確かにこれは正視にたえない。
「あー、と、ごめんね。今誰か呼んでくるから、念のため診てもらって」
包帯を雑に巻きつけて立ち上がったその時、
「あ、待って!」
私の右手を彼は慌てて掴まえた。反射的に脊髄を走りぬける痛みに身構える。けど、しばらく待っても痛みはやってこなかった。
恐る恐る片目を開けると、腕にあった傷は、最初から何もなかったように消えていた。
「え……」
「はい。忘れ物」
そう言って、打掛の袂から木箱を取り出す。私が手を出さずに呆けていると、彼は戸惑った様子で首を傾けた。組紐でゆるく束ねた細い黒髪が、さらさらと肩を滑る。
「大切なものなんでしょう?」
「――……貴方、何者?」
「……え?」
「だって、あんなひどい傷一瞬で治しちゃったし、木箱いつの間にかここにあるし、暑いのにそんな恰好で汗一つかいてないし!」
「ちょ、ちょ、顔近いよ、顔」
「もしかして、妖?」
湖の方へと逃げる彼を追いかけて、彼が抱えた木箱に、指をかけて背伸びする。
「貴方が妖なら、お願いがあるの」
じりじり距離を詰める私に、彼は困り果てた様子で水際へ後退していく。
サラが言っていた。母の生家は、妖が栖まう神様の森の近く。もし彼らと出会えたら、一つだけ願いを叶えてくれる、と。だったら。
「私の右腕を喰ってほしいの」
は? と気の抜けた声が洩れると同時に、彼の膝ががくりと崩れた。豪快な水飛沫が上がって数秒後、ゆっくり狐の面が浮いて来たのだった。
「ごめんなさい」
土の上に正座して謝る私の後ろで、彼は気にした様子もなく着物を絞っていた。
不思議な力で乾かせないのか訊いたら、あれは自分には使えないそうだ。意外と不便。
裸になっている彼を視界に入れないよう、湖に落ちた木箱の中身を草の上に並べていく。色とりどりの絵具と、まだ新しい絵筆。
「それは、絵の道具? 綺麗だね」
振り返ると、彼は皺だらけの着物を着ていた。狐の面からも長い黒髪からも水滴が滴っていて、申し訳なくなる。
「腕を喰われたら、描けないよ?」
「良いの。描けなくなって」
「だって、怪我はもう治ったのに」
「あれは自分で窓ガラスを割ったの。昨日」
「まさか、絵が描けなくなるように……?」
頷くと、彼は口元をひきつらせた。
でも、あれは義母が悪い。母がアトリエとして使っていた離れから勝手に絵を持ってきて「お金にはならなそうね」とのたまった。
「気がついたら、思い切りこう、パリーンて」
「……ご、豪快だね」
「よく言われるわ。でも良いの。あれで義母も私にちょっと距離を置いたし、今度同じこと言ったら、次は顔から突っ込んでやるから」
私が傷ものになって困るのはあの女の方だ。父は今、私を子爵家に嫁がせるために、東奔西走しているんだから。
「いや、それはやめた方が良いよ」
「あの女が父に怒られるなら平気」
「もったいないよ。可愛いのに」
不意打ちを食らって瞳を瞬かせた。まじまじ見返すと、彼の耳が真っ赤に染まっていく。
「照れるくらいなら言わなきゃいいのに!」
「ごめん!」
お面ごと顔を覆う彼に、荒くため息をつく。
「……そういえば、名前聞いてなかった。私は本村沙夜。あなたは?」
「初音。初めての音で、初音」
「初音は、何でお面つけてるの?」
濡れた時くらい外せば良いのに。
それに、澄んだ湖面と同じ、光を弾く碧い瞳。隠してしまうのがもったいなかった。
「面をつけてないと、君の顔が正視できない」
「……?」
「人見知りなんだ……」
ぽかんとしてから、盛大に噴き出した。
「変なの! 妖なのに!」
耳を赤くして、仕方ないだろ! と反論する彼に、更に笑いが止まらなくなる。父に引き取られてから、久しぶりに笑った気がした。
母の実家は、平屋建ての簡素なものだった。庭の奥に洋風の離れがあって、その背後に鬱蒼とした森の影がせまっている。視線を上に動かすと、緑の中に大鳥居がのぞいていた。
「何だか、ちゃんとしたお嬢様みたいだね」
その日、母の墓参りを終えてから薄青の小袖に白いパラソルで湖を訪れると、のほほんとした調子で初音に言われた。失礼な。
「お嬢様ですよ、一応」
爵位も何もない成金の娘だけど。
あれ以来、私は初音と湖で過ごすようになっていた。初音は人間の世界にすごく興味があるみたいで、一度、ラムネを持っていくと、ビー玉みたいに目をキラキラさせてた。
願い事は、のらくらとかわすだけでまだ叶えてもらってないけど。めげない。
「右腕、もらってくれる気になった?」
「何でいつもは洋装なの?」
話逸らした。軽く息を吐いて、袖を振る。
「制服の方が涼しいし動き易いもの。それに、女学校に通えるのもあとちょっとだけだし。サラのためにも、ちゃんと卒業しなきゃ」
ミッション系の女学校。サラが私のために、理事長に無理を言って入れてくれた。
「サラさんって?」
「私の育ての親。英国の人だったの」
母の死後、私は親類の家を転々としていた。母は父が番頭を勤める貿易商に出入りしていた英語の教師で、好色な父が母を無理やり犯して私が生まれた。
そんな子供、どの家も引き受けたくないのはわかる。最終的に私は、母に英語を教えていたサラのところに預けられた。
「私も可愛げなかったし、所構わず落書きするから、疎まれても仕方なかったんだけどね」
「所構わず?」
「ふすまとか、畳とか。しかも、油絵具で」
「あー……」
サラの家は当時の私には珍しい西洋風の造りで、玄関ホールから板の間が広がっていた。
「私ね、そこに絵を描いたの。思いっきり」
サラは居間に広がった海を見て目を丸くした。それから「素晴らしいわ」と笑ったのだ。
「沙夜、金魚も描いてちょうだい! って」
サラの真似をして片言で言うと、初音は、小さく笑みをこぼした。
結局、海の絵は大家さんに怒られて消したけれど、サラは私がどこに何を描いても怒らなかった。一緒に落書きして、大家さんに怒られていたくらいだ。
私は、彼女と絵を描くことが大好きだった。
「これも、十五の誕生日にサラがくれたの」
木箱に入った、立派な絵の道具。嬉しくて、一番にサラの絵を描くことを決めた。
「サラさん、今は?」
「……去年亡くなったの。それから、絵は描いてない」
「苦しくない?」
言葉に詰まった。未だ捨てられない絵の道具。心が揺れるような景色を見れば絵に落としたいと思う。けど、もう描かないと決めた。
「そんな資格、私にはないから」
盆を過ぎて、夏は急速に老いていく。
ノウゼンカズラの熟れた朱色の花が落ちて、蟻が庭に長い列を作る。照りつける日差しだけが、往生際悪く力を振り絞っていた。
その日、騒がしい話声に目を開けた。
東京に戻る準備をしている間に、いつの間にか寝入ってしまったらしい。ぼんやりする頭を持ち上げて、弱々しい橙色が差す部屋を見渡す。瞬間、一気に眠気が引いた。
木箱が、ない。
「うそ、やだ、何で……」
おろおろと部屋を見回すその途中、鮮やかな炎の色が網膜を焼いた。開け放った障子の向こう、スーツを着た後ろ姿が見下ろしているのは、炎に包まれた木箱。
「父さん?! 何してるの?!」
裸足のまま庭に飛び出して、迷わず火の中の木箱をつかむ。女中と、義母の悲鳴。次いで、私の腕を乱暴に引き上げる父の手の平。
「……っ痛! 離して!」
「八千代に迷惑をかけていないか見に来てみれば、これか。はしたない」
夢中で父の手を振りほどいて、木箱に残る火を消した。表面が黒く変色してしまった木箱をかき抱いて、きつく父を睨みつける。
「絵はもう辞める約束だったはずだが?」
実の娘を見るとは思えないほど、父の瞳は冷たくて、暗い。私の、大嫌いな色。
「見合いが決まった。女学校も来月で辞めろ」
「そんな。卒業はさせてくれる約束で……」
「あの女はもう死んだ。早く忘れろ」
女中を伴って門から出ていく父の背中を呆然と眺める。私が大切にしていたものを、こんなにも乱暴に踏みにじるのか。
零れそうになる涙をこらえて、木箱を抱きしめる指に力を込めた。何も言い返せないことが、ひどく悔しかった。
「初音! お願い出てきて、初音!」
石灯籠の並ぶ道に出ると、先を促すように銀の光が灯る。夕顔の花びらが光に透けて、参道がぼんやりと闇に浮かび上がる。
お嬢様、という静かな呼び声に目をこらすと、石灯籠の側に着物姿の女中が立っていた。
ざわ、と神経が逆なでされる感覚。こんな時くらい、一人にしてくれたって良いのに。
帰って、と叫びかけて、ふと違和感が首をもたげた。何故彼女の方が先にいるのだろう。私は誰にも言わず飛び出してきたのに、女中の着物にも髪にも、慌てて追いかけてきた様子は全くない。それに、こんな顔の女中が、家の中にいただろうか。
「……あなた、誰?」
足元に伸びる影が濃度を増した気がした。感情が全くうかがえなかった表情がわずかに動いて、薄い唇が笑みの形を作る。
背筋を悪寒が走る。踵を返して走りだした瞬間、物凄い力で髪を引かれた。石畳に叩きつけられた衝撃で、派手な音と共に木箱の中身が散らばった。上手く息ができない。絵筆に伸ばした右腕に、ねっとりと、生ぬるい影がまとわりつく。
忘れていた。妖が、本来どうやって言い伝えられている存在なのか。
「右腕を、喰われたいのでしょう?」
耳元に囁き声が吹き込まれて、ざらりとした感触が首筋を伝う。頭のすぐ横に何があるのか、恐ろしくて目線すら動かせない。心臓を凍らせていくようだ。喰われる。
私の、絵を描くための腕。
「いや……。嫌! やめて、お願い!」
「澄」
凛とした声がして、体にのしかかる影が力を弱めた。ゆるゆると視線を上げると、参道に落ちる薄青の闇。そこに初音の姿が浮かびあがる。表情がない彼は碧い瞳に石灯籠の薄い光を宿して、いっそう現実離れして見えた。
「離れなさい。その子は私の客人だよ」
穏やかなのに、有無を言わせない響き。小さな舌打が聞こえて、ふっと体が楽になった。
初音が私を呼ぶ声が聞こえて、ゆっくりと血が巡りだす感覚がする。助け起こしてもらった時には、手のやけどは綺麗に治っていた。無事で良かった、と笑いかけられて、ぼろぼろと涙が零れる。
「来るの遅い!」
「ご、ごめんなさい!」
「もう、描けなくなると思った。本当に、腕がなくなるかと思った」
「うん。間に合って良かった」
「……何で、何で手放せないの」
失くしたいのに。いざ腕がなくなるかもしれないと思ったら、怖くて仕方なかった。
浅ましい。二度と描かないと決めたのに。
「本当は、絵を描きたいからでしょう?」
「ダメなの。描かないって、決めた」
「何で」
「……サラの絵を描いたから」
見上げた碧い瞳が、優しく先を促す。
「私は、サラが私のために買ってくれた絵筆で、死んだ彼女の姿を描いたのよ」
サラが亡くなったあの日、あの時間、穏やかな春の空気が満ちていた。柔らかな日差しは砂金みたいにきらきら輝いて、指を組んで目を閉じたサラが光を纏っているようだった。
死んでいるなんて嘘みたいで、寝台の側に座りこんで、すがる思いでサラの姿を描きだした。描き上がったら、またサラが笑ってくれる気がして。けど、彼女は目覚めなかった。
その事実と、残った絵を見てがく然とした。
「あんなの、人のすることじゃない」
だから、絵を描くことを辞めた。手駒にされるだけだとわかっていて、今更私を引き取りたいと言ってきた父の手を取った。
自分が、絵から遠くなるように。
「……『助けて』って、そう聞こえた」
「……え?」
「あの日、助けて、って叫ぶ君の声が聞こえた気がした。だから、僕が出てきたんだよ」
初音は立ち上がって右手を差し出す。疑問符を浮かべつつも手の平を重ねると、彼は淡く笑んで、狐の面を私の顔にかぶせた。
「いつか、見せたいと思ってたんだ」
一体何を。これじゃ視界が狭い上、面の中に蟠る闇のせいで何も見えないのに。
「良いよ。外してみて」
初音の声に面を外すと、足元に地面がない。
暗闇にたゆたう湖面が見えて、思わず短い悲鳴を上げて初音に抱きついた。頭の上で、軽く笑う気配がする。
「手を離さなければ大丈夫だから。ゆっくり、見回してみて。沙夜」
言われた通り、ゆっくり視線を巡らせると、上下左右、全方向に星空が広がっていた。湖の澄んだ水面が星空を反射して、まるで星空の中に浮かんでいるよう。
「……い、凄い凄い! 初音!」
抱き寄せられるような格好になっていたせいで、初音の顔が近い。私を見つめる瞳があまりにも優しくて、胸がきゅうと痛くなる。
「ここはね、昔はもっと立派だったんだよ」
「このお社?」
「そう。いつもお供え物や花が置いてあった。僕の力も今よりずっと強かったし、未来だって見えた」
見上げる紺碧の空に、ほうき星が光を描く。
「いつか忘れられることは、わかってたんだ。でもずっと待ってた。僕は人が好きだから」
そう言って、初音は寂しそうに笑う。
「だから、沙夜が本当に望むなら、腕を取り上げることもできるよ。けど、それは本当の願いじゃないでしょう?」
言って、私の手の中に絵の道具を握らせる。
「逃げても向き合っても苦しいなら、君はどちらを選びたい?」
その日の夜遅く、湯浴みを終えてから庭に出た。広い庭には生垣に沿って白い百日紅が植えられていて、三角屋根の小さな離れは、花びらに埋もれるように建っていた。静かに木の扉を開くと、古い油の匂いが鼻を掠める。
入口の花台に置かれた洋燈に火を入れて裸足で板の間に入る。北側にある鎧戸を少し開けると、夜風と一緒に星明りが差しこんだ。
母がいなくなった後も、大事に手入れされていたことが伺えるアトリエ。イーゼルも画布も、すぐに使える形で置かれていた。
窓に背を向けて、画布の前に腰を下ろした。パレットに絵具を出して、混ぜる。画布に絵筆を下ろす寸前、ためらって手を止めた。
「……サラ」
絵を描くことは自分と向き合うことだ。心の奥、一番深い場所と。そこに目を背けたかった感情がある。だから、逃げちゃいけない。
目を閉じてゆっくりと呼吸する。東側の壁の前に立って、思い切り絵筆を押し付けた。
漆喰の壁に絵の具が飲み込まれる。油の匂いが部屋にも胸にも満ちてきて、空気まで色が付いていくようだ。飲み込まれる。自分の衝動が、目の前に色をつけて広がっていく。
ぞっとするほどの、描くことへの、渇望。
サラの絵を描いて以来、絵から逃げた。
自分の薄情さが許せなかったし、何より、大切な人を失くした時でも描かずにいられない、自分の内側にある衝動が怖かった。
手放してしまえば楽になると思ったのに、怪我をした時も、妖に喰われそうになった時も、失くすと思ったら怖くて仕方なかった。
浅ましいと思う。身勝手だと思う。
けど、こんなにも私は描くことを求めてる。描いてないと、上手く息も出来ないほど。
逃げても向き合っても苦しいなら、私は絵と、自分の衝動と向き合う苦しさを選びたい。
夢中で筆を動かし続けて、ふっと気を抜いた時には、鎧戸の隙間から朝陽が射していた。
戸を開けると今朝生まれたばかりの風が吹き込んで、絵具まみれの髪や浴衣を揺らしていく。裸足の指をくすぐる、百日紅の花びら。
朝の光に照らされた壁の絵は、絵とは呼べないような代物だった。ただ、心の中から濁流のように溢れてくる気持ちをぶつけただけ。
綺麗に交じり合っていない、不完全な碧。
「……ひどい絵」
サラが見たら何て言うだろう。
『素晴らしいわ』
笑う声が聞こえた気がして、泣きそうになったのを笑って打ち消した。首を振って、下駄をひっかけて庭に出る。
初音に会いたい。一番に報告したい。
「初音!」
湖のほとりで面も付けずにぼんやりしていた初音は、私を見つけると、転びそうな勢いで走ってきた。乱暴に打掛を私に巻きつける。
「君は、もう少し慎みを持ったほうが良い」
「あー」
言われてみれば、着ているものは浴衣だけ。走ってきたせいで乱れているし、浴衣にも髪にも顔にも絵具が付いたままだった。
私の指についた絵具の跡を初音の細い指がたどる。ひどく無防備な場所に触れられた気がして、大げさに胸が跳ねた。
「絵。描いたんだね」
見上げると、サラと同じ、澄んだ碧い瞳が、柔らかな光をたたえて微笑んでいる。
「うん。描けた。描けたの、初音。物凄い雑で酷い出来だったけど、ちゃんと向き合えた。描き終えたら、サラが笑ってくれた気がしたの。勝手な妄想かもしれないけど、でも」
帰ってきた気がした。一番、大切な場所。
言葉をつまらせてうつむくと、初音が打掛の襟もとで頬についた絵具をぬぐってくれた。
見上げた視線が交わって、頬に添わせた手がためらうように輪郭を撫でる。整った顔が近付いて、生まれて初めて、男の人の唇にふれた。宝物みたいにそっと抱き寄せられて、嬉しくて胸が苦しくなる。
「……初音。私ね、今度、父と喧嘩してくる」
「け、けんか?」
剣呑な言葉に顔をひきつらせる初音に、軽く笑って頷いた。ちゃんと向き合うと決めた。
見合いの話はなくならないかもしれないけど、せめて絵と学校は続けていけるように。
「東京に帰ってからだから、まだ先だけど」
「東京に、帰る?」
「? そうよ。だって、九月から女学校が始まるもの。ここには夏の間だけって約束で」
「僕は反対だ」
いつもふんわりした彼の、決然とした様子に戸惑う。縋るように彼の腕に触れると、それを信じられないほど強い力で掴まえられた。
「東京に帰ったら、もうここに来られないかもしれないよ。絵だって続けられるか……」
そこまで言ってから、初音ははっとした様子で口元を覆った。もともと白い面が、みるみるうちに青ざめていく。
「初音?」
その次の日から天候が荒れて、東京に戻れないまま夏休み最後の日を迎えてしまった。
ようやく嵐が去った日の朝、湖の畔に行くと、初音は睡蓮の咲く水際に立って、静かに水面を見つめていた。面をつけて朝靄に包まれた彼は、神様みたいに遠く見える。
「初音」
振り返った口元に親しげな笑みが浮かんで、それで少しほっとした。小走りに歩み寄る。
「初音。私、明日の汽車で帰ることになったの。来年も来るから、また会ってくれる?」
訊くと、初音は淡く笑んだまま頷いた。
「初音は昨日までの嵐、大丈夫だった?」
「何も問題なかったよ。沙夜は?」
「平気。ねえ、初音」
「うん?」
「何か、隠してる?」
訊いた瞬間、面の奥の瞳が揺れた。
嵐の間、ずっと考えてた。穏やかな彼が何で頑なに私を東京に帰したがらなかったのか。
碧い瞳が、どんな未来を見たのか。
「何も、隠してないよ」
「じゃあ、ちゃんと私の目を見て」
狐の面に手を伸ばすと、輪郭が戸惑うように揺れる。一瞬ためらって止めた手は、初音が面ごと下ろしてくれた。
「良くわかったね。全く見えなくなった訳じゃないって、言ってなかったのに」
そう言って、初音は困ったように笑う。
「僕はもうすぐ消えるよ、沙夜」
朝露が睡蓮の花びらを伝って、水面に正円を描いていた。清涼な風が髪を揺らして、静かに、体が冷えていく。
「……何、言って……」
「言葉の通り。消えてなくなるんだ」
「なに、それ、もしかして私のせい? 私に未来を教えたから?!」
「ううん。僕が、自分の為に力を使ったから」
君を東京に行かせたくなくて、人の為の力を使って君をここに足止めした。穏やかに話す初音の声を、胸の音が飲み込んでいく。
消えて、なくなる?
「……いや。そんなの嫌!」
「遅かれ早かれ、僕は消える運命だったんだ、沙夜。もう、人間に僕は必要ないから」
「だけど」
言い伝えだけが残る山神様の森。傾いたお社、緑に埋もれかけて荒れた参道。必要とされる時を、彼はどのくらい待ってたんだろう。
泣きそうな私の髪を、細い指が優しく梳く。
「でも、君が来た。君が、僕の願いを叶えてくれたんだ」
温かな碧に胸が痛んで、声が出ない。初音の腕をつかんだまま、子供みたいに首を振る。
「そんなの、叶えたうちに入らないよ」
「じゃあ、君の右腕を僕にくれる?」
「初、音……?」
すらりとした白い指先が、そっと私の右手を持ち上げた。手の甲に彼の唇が触れて、目眩がするような甘い痺れが体を伝う。
「いつか、取りに行くから」
待ってて、と柔らかく綻んだ笑顔。
次の瞬間、ざっ、と乱暴に舞い上がる風に目を閉じた。波の音が響いて開いた瞳の先には、見渡す限りの草原。湖はない。ただ、古びて傾いたお社があるだけ。
「……初、音? 初音!? 初音!!」
銀色の風が、夏草をさらって吹き抜けていく。いくら呼んでも、答えはない。
嗚咽の漏れる喉が、胸が痛い。
へなへなと座り込むと、足元に寄り添うように狐の面が転がっていた。零れる涙が一瞬だけ蒼穹を映して、面の上を滑って行く。顔を上げて見上げた先には、一面に広がる、碧。
零れる涙はそのままに、彼の温度が残る手を碧に伸ばした。爪先に絵具がついた白い腕。
「一生、手放せなくなったよ。初音」
無理やり笑って、右腕ごと面を抱きしめた。笑おうとしたのに、涙が零れて止まらない。
「……ありがと」
貴方が、私の願いを叶えてくれた。
ずっと待ってる。この胸に残る痛みも、愛おしさも、全部抱えて生きていく。
忘れない。忘れないよ。