糸
「……どうしたの?」
―――私を堕とすのはいつもその甘い声だった。
彼は1人、ベッドの上で体を横にしてくつろいでる。こっちを見ながら、抑揚はないが、どこか甘い声で誘う。そんな彼を、視線を感じながらも無視して、私は課題をするため、パソコンに向かう。
「そんなんでいいと思ってるわけ?」
なんのことだろう。いや、本当はわかっている。彼の性格など嫌というほど知っている。それでも私は気付かないフリをする。
「ねぇ。」
再び甘い声が向けられる。
甘い、甘い、毒の蜜。
私はたまらずパソコンをぱたん、と閉じてベットにいる彼の首に腕を絡めた。
「いい子だね。」
その言葉とともに、彼の手が私に伸びる。
やさしいようで、丁寧なようでいて時に荒い。
その手が私に触れる度、甘い吐息が漏れる。
「えっち。」
その言葉に私は非難の目を向けるが、無視される。決してキスは落ちてこない。最後まではいかない。遊ばれているのは分かってる。それでも私は徐々に夜へと堕ちていった。
「ねぇ、かな。まださい先輩、家にいるの?」
あやからの不意打ちの質問に、私はかなり動揺した。楽しいはずのランチに、あまり楽しくない話題がふられた。
「うん。もう、半月くらいかな。住み着いてるよ。」
苦笑いしながら答える。実際少し困っているのだ。好き嫌いは多いし、好きな時に出ていって好きな時に帰ってくる。猫みたいな人だ。
「かなはさ、好きなの?さい先輩。」
息が止まるようだった。
答えたくない。現実を見たくない。そんな想いとは裏腹に、口は動いていた。
「好き、だよ。」
口にした瞬間泣き出しそうだった。それをこらえながらも、取り繕うような言葉は止まらなかった。
「わかってるの。最低な人だよね。女遊び激しいし、サークルの女の子とも何回か噂たってるよね。私生活もだらしないし。」
でも、と続けてしまう。
「好きなの。止められなかった。」
最後は涙声になってしまった。我ながら情けない。
「そっか。」
あやは微笑んでいる。優しく穏やかな彼女の笑顔が好きだった。でも、今日ばかりは少し悲しそうだった。
「でも、いや、だからこそかな。言っておくね。」
ひと呼吸おいて、あやはすべてを教えてくれた。
「こないだの土曜日ね。何回もお誘いがあって、断ってたんだけどしつこくて諦めてさい先輩とデートしたんだ。そしたらね、
さい先輩から、告白されたの。
かな、さい先輩と一緒にすんで半月ってさっき言ったでしょう?かなと住んでる時も私と遊んで、私に告白したんだよ。しかも、私彼氏いるのに。」
私は何も言えなかった。わかっていた。別に彼は私を愛してなんかいない。彼にとっての“トクベツ”には、私にはなれないのだ。それでも、“トクベツ”になれるかもしれないと思っていた私は馬鹿だったのだ。
薄暗い夕方の部屋。
彼が帰ってくる気配がした。
「………かな?いるの?」
私はベッドで丸まったまま、応えない。
彼はベッドの端に座る。
何も動かず、応えず、しばらく経った。
すると、やはり甘い声が降ってくる。
「ねえ、
このままでいいと思ってるの?」
愛してくれないくせに。
私を、想ってくれないくせに。
私に振り向くように仕向けてくる。
私はしぶしぶ布団から顔を出した。
変わらない甘い声。変わらない甘い匂い。
彼の大きい手が私の頭を撫でる。
「頭痛い。」
「うん。」
「お腹も痛い。」
「うん。」
聞いているのか聞いていないのかわからない。抗議の声をあげようとしたが、それより早く彼の体が覆いかぶさってきた。
「痛みを和らげてあげる。」
彼が私に触れる。
やさしいようで、丁寧なようでいて時に荒い。
甘い吐息が漏れる。
「好きじゃ、んっ、ない、くせに。」
「好きだよ、俺なりにね。ここに帰ってくるのが何よりの証拠じゃないかな。」
息を荒らげる私とは対照的に、彼は微笑みながら耳元で囁く。そのまま唇は耳におちてきて、私を舌先で刺激しながら下へ下へと落ちていく。私は次第に夜へと堕ちていった。
その日は、最後まで。
私は彼と、赤い糸で結ばれてしまった。
「……?」
寝ぼけ眼で見上げると彼は身支度を整えていた。彼が私より早く起きるなんて珍しい。そう思いながらもむくりと起き上がって玄関先まで見送る。
「いってくるよ。」
「いってらっしゃい。」
それは、私達のたった1つの約束事だった。見送るときは必ず「さよなら」じゃなくて「いってらっしゃい」ということ。
この日に限っては「さよなら」でもよかったかもしれない。
彼はいつものように出ていった。
そして二度と戻ってこなかった。
ふと、小指を見遣る。
結ばれたはずの糸は引きちぎられていた。よくみると、綺麗な赤なんかじゃなくて深い黒色をした糸だった。