神の落とし物
明るく笑える部分が一切ないと思うので、苦手な方はお控えください。(10/8に完成としました)
<0.書き換え>
目の前に、血が広がっていく。
親友の死は、ただ冷たく、重く、リリィの心を蝕んだ。
「い、いや……スノー……」
伸ばす手が触れるのは、失われていく体温。
「ちっ、また失敗か」
それを見ていた青年が舌打ちする。
自分の兄である彼を見上げ、リリィは呆然としたまま問いかけた。
「いつまで、続けるつもりなの? お兄ちゃん……」
「成功するまでさ、もちろん」
長い銀髪、紫の瞳。そして、綺麗な顔立ち。それを補って余りある、マージ。
天才と謳われた男は、外見の特異も相まってか、甘やかされて育ってきていた。
誰も彼を責めない。誰も彼に逆らわない。
こんな事が許されている時点で、おかしいのに。
リリィはきつく手を握る。怒りがそのまま血となって滲んだ頃、ようやく彼女は言葉を紡いだ。
「許さないわ……」
ポツリとこぼれ落ちる言葉に、兄は怪訝そうな顔をする。
だが、歪んだ笑みを浮かべる妹が何をするのか、気付いて声を上げた。
「止めろ、リリィ! それは神の領域に触れる事だ!!」
「それでも、構わないわ。あんたにこの先、のうのうと生きられるよりマシよ!!!」
あと少しで体温が全て消える親友の体に触れ、リリィは全力を使って、マージを組み上げた。
「スノーをこのまま死なせない。あんたが一人で幸せになることも、許さない!!!」
強烈な光が、リリィから発せられる。
魂そのものを使ったマージは、全てを一瞬にして歪め、そして白紙に戻した。
<1.決められた事柄>
一体、何が起きたのか分からなかった。
ただ、両親が目の前で倒れている。大量の血を流して。
「父様……母様……?」
触れた体が動くことは、もう二度となく。
雷が寝室を白く一瞬照らした時、スノーはようやく、その存在に気付いた。
「だれ……?」
知らない相手。だが、何故か自分が死ぬということは感じられず、幼い少女はなおも問う。
「どうして、ここに居るの」
「あなたを殺しに来たかった。それだけです。……失敗しましたが」
返された答えは、単純でいて意味が分からなかった。
「彼女が死んだのなら、あなたを殺す意味はありません。あなたを生かしておきたくはありませんが、時間が無いので私は失礼します」
相手の言っている意味も、ほとんど分からない。
スノーが呆然としている間に、彼は消えた。
あとには、ただ孤独だけが残り。
「っ……わぁ――――――っっっ!!!!」
その孤独を受け入れながら、彼女は嘆きの叫びをあげた。
コルエの民、と呼ばれる人間が居る。
死に、汚れに、常にまとわりつく忌まわしき鳥の色を纏う民を、この国――イルピアの人間はそう呼んでいた。
旧世界が滅んだ時の神話は、各国で諸説ある。
他の国では、コルエの民が逆に神格化されていたりもするらしい。
だとしたら、その国に移住出来ないだろうか。
スノーはふと、歴史の授業の最中にそう思った。
(学院に居るより、ずっと楽しそうだよな)
一々姿を偽る必要もない。有り余る力を遺憾なく発揮することも出来るだろう。
何より、母親はその国の出身である。
どういう過程であからさま過ぎる差別を強いる国に来たのかは知らないが、人目をはばかって森で暮らしていた事からも、好んでここに来たというわけではなさそうだった。
そもそも自分だって、好きでこの学院に居るわけではない。
隠れ暮らしていたところをある男に見つかって以来、ここでの生活を余儀なくされているだけだ。
(家は燃やすわ、あいつに正体をばらすわ、ホントにろくでもねえ……)
友人と思ってよく会いに行っていた少女に姿をばらされ、彼女にとっての拠り所を絶たれてしまった時は、本気で殺意を抱いた。
あの少女もまた、神話を盲信している一人だった。それだけのことなのに、10日経った今も胸は未だ痛む。
そして、そんなスノーにとって、よく分からない事が一つある。
「スノー! 次、移動教室よね! 一緒に行きましょ!」
授業が終わるなり飛びついてきた少女に、スノーは困惑を浮かべた。
彼女がその「よくわからないこと」である。
「リリィ……」
「なぁに?」
茶色の瞳、茶色の髪。この国では至って普通の色を持つ彼女は、何故か最初からスノーになついていた。
それは姿も性別も知らないからなのだろうが、恋心を持たれるのだけは勘弁願いたい。
本当の自分の姿は、この国のどこにでも居るような金髪碧眼の少年ではないのだから。
「離れろ」
べりっ、と少女を引き剥がし、スノーは次の授業に使う道具を持って席を立つ。
「あーん、そんな冷たくしないでよーっ」
「オレは他人に興味ねえ、って何回言わせるんだよ」
「知ってるわよ。でもあたしは、スノーと居たいの」
めげずにリリィという少女はスノーのあとをついて歩いた。
「居たって損するだけだ。他探せよ」
「違うわよ。スノーがいいの。誰に対しても平等なあなたがね」
にっこりと微笑むリリィ。そこに邪気はなく、スノーは言い返せない。
確かに自分はある意味で全員に平等に接している。
それは特別な相手がいないからというのもあるが、下手に関わって自分の本来の姿を見せたくはないから、という理由もあった。
「だったら尚更だ。お前と仲良くするつもりはねえよ。オレは一人が好きなんでね」
すたすたと少女を置いて先に行くスノーを、少女はまたも追いかける。
「もー、待ってってば、スノー!」
これが、スノーの入学初日から続いていた。
べったり、という表現に近いような彼女の接し方を、教師が微笑ましく思うわけもない。
それが彼女の兄ならば、なおのことだ。
「いい加減にしてください、リリィ」
「あら、居たの? 馬鹿兄」
教室で実験の授業が始まってもスノーの傍に居るリリィを、クレイスが咎める。
しかし当人はそんな事お構いなしだ。
リモワ――記憶を閉じ込めるアイテムを作る作業中、やってきた兄を睨み返す。
「こっちは何もないんだから、他の生徒のところにでも行きなさいよ。邪魔しないで」
とても目上に対するとは思えない態度で教師を邪険に扱う少女に、クレイスもさすがに苦い顔をした。
「あなたがスノーを気に入っているのはわかりますが、少々過ぎるところがあるのでは?」
「気のせいでしょ」
スノーはフラスコに薬品を足しながら、うんざりした顔をする。
(どっちもどっちだ、このアホ兄妹)
直後。
「同列にくくらないでもらえませんか、スノー」
何故かいきなり文句がこちらへ向かう。
普通ならぎくりとするところだが、彼のことを知る人間ならば、慣れていた。
「読むな」
「近くなので聞こえてきました」
「ちょっと、またスノーの心を読んだのね? 他人の心を盗み聞きするその悪癖直しなさいよ」
リリィが不快そうに兄を睨むと、彼はにこりと笑った。
「生憎と、制御しきれるものではないので」
「嘘ばっかり。天才様に出来ないことなんてないでしょ?」
刺すように、あざ笑うように吐き出された言葉。
瞬間、クレイスの瞳が細められる。
紫水晶を思わせるそれは、だが暗く冷たいもので。
「誰がそんな嘘を教えたんでしょうね」
どこかぞっとする声音で、彼は静かにそれだけ言い返すと、他の生徒のところへと向かっていった。
思わず手を止めていたスノーは、はっとして眉を寄せると、隣で平然と実験を続ける少女へと苦言を呈する。
「お前、大概にしとけよ。いくら兄妹でも、限度があるぞ」
「あたしはいいのよ。言う権利があるもの」
「八つ当たりがオレに来てもか?」
「……ごめんなさい」
彼女の為に言っているわけではないのだ。
あくまでも、スノーの基準は自分。
自分が後々になって痛い目に遭うかもしれないと思った時だけ、言う。
それでもリリィはすぐに反省の色を見せて謝罪する。
あまりに素直なその態度に、スノーの方が悪いことをした気分になった。
「分かりゃいい。……オレは出来るだけ、あんな化け物と関わりたくねえんだよ」
だが、吐き捨てる言葉は侮蔑。
同時に苦いものも混じっていた。
「……そうよね。誰だって、天才の化け物なんか、嫌よね」
「……家族のお前が言う事じゃねえだろ」
「ロードナイト家の誉れとして育ったお兄ちゃんと、平凡なマージしか持って生まれなかったあたしとじゃ、家での扱いの差が違い過ぎて、家族なんて言えないわ」
神から与えられたとされる、古代の力――マージ。
それを持たない人間は居ない。だが、持って生まれた器の大きさだけは、どうしようもないものだった。
「平等に不平等なこの世界に生まれた以上、仕方のないことだけど」
小さくため息をつきながら、リリィはフラスコを置く。
つまみ上げた水晶の欠片を放り入れた途端、フラスコの中身がぎゅうっと固体化して縮んでいく。
「それでも、あたしはお兄ちゃんが大嫌い」
ころん、と赤く透明な玉がフラスコの底に転がった。
それを取り出して明かりに透かしながらの言葉に、スノーは何も言えなくなって口をつぐんだのである。
<2.禁忌の罪人>
両親との記憶は、優しく温かいものばかりだ。
対する他人との記憶は、冷たく暗く、そして残酷で。
『あなたの両親を殺した存在は、私が消しました』
ある日突然現れた青年の言葉に、彼女は目的を失ってしまった。
これまでずっと彼女は、両親の残した森で隠れ暮らしながら、犯人を探していたのである。
それが一瞬にして終わった事を告げられた今、何の為にここまで生きてきたのか、わからなくなった。
『証拠はありますよ。記憶の欠片を分けましょう』
ころりと手に転がり落ちた、一粒の赤い玉。
記憶を閉じ込めたそれ――リモワを握った瞬間、彼の視点からなのか、犯人の姿も会話も、全て知る事が出来て。
そして同時に、絶望した。
『何故、教えてくれなかったんだ』
もっと早くに知っていれば、違う道へと歩めたのに。
そんな言葉が出るより早く、彼は答えを返す。
『事情がありまして、先月までここへ来る事は出来ませんでしたから』
曖昧な言葉で濁すかのような内容は、少女の怒りを煽った。
『ふざけるな! 殺してすぐに来れば良かっただろう!』
『幼いあなたが、それを受け入れられましたか?』
当然の言葉に、それ以上は言い返せない。
『そして今のあなたなら、学院に保護もできます』
『何……?』
『あなたがこの国で生きる術は、そう多くありません。……目的が失われた以上、隠れて暮らすメリットは何もないでしょう?』
一歩街中へ入れば、石を投げつけられ、ひどい言葉を浴びせられる。
姿を変える術を手にした今、それも無くなったが。
『母親の学び舎が、どんな場所だったか知りたくありませんか? スノー=コーラル』
その言葉に、確かに揺らいでしまった。
孤独に耐え切れる程、彼女は成熟していない。
学院に入れば、せっかく出来た友人から離れる事にもなる。
姿を偽ってでも、彼女は友人が欲しかった。
傍に居る存在が欲しかったのだ。
しかし、彼はそんな彼女の心情さえも見透かす。
『夢を見るのは止めなさい。……あなたは黒の民です。この国では最も忌み嫌われる死の色を纏うあなたに、本当の友人など作れません』
容赦なく打ちのめす言葉は、少女を衝動に導いた。
『っ、黙れ!!』
打ち出した水の塊が、彼の胸へと当たる。
直後、青年はくずおれた。
まさか殺してしまったのか、と青ざめたのも束の間。
『……遠慮のない攻撃ですね。さすがは彼女……ルビィの娘です』
けろりとして立ち上がった彼の衣服にさえも、傷一つついていなかった。
一瞬防御結界で防いだのかと思ったが、違う。
『……き、貴様……一体何者だ』
防御したのであれば、そもそも目の前で弾けるはずだ。
なのに今、確かに彼に「当たった」。
驚愕と畏怖を同時におぼえたスノーの問いに、彼は答える。
『私は、禁忌を犯した者――クライ・マイネの罪人ですから』
そしてその男は、クレイス=ロードナイトと名乗った。
『学院へ、スノー。あなたはそうするしかありません』
パチン、と指が弾かれた直後、爆発音のような音が、背後にあった自分の家から響いて。
『!!!!!』
スノーは、目の前の自分の家が勢いよく燃えていることにパニックした。
急いで火を消すためのマージを使おうとした、その隙を突かれる。
『ぐ、っ……!?』
意識が、急速に落ちていった。
何のマージを使ったかは知らない。
だが気がつけば彼女は生徒寮の一室に寝かされていて。
『学院入学の手続きが完了しました。あなたはもうすでに、ここの生徒です。スノー』
涼しい顔をしてそう告げる男――クレイスの姿が、そこにはあった。
途端に、スノーは泣きそうな顔をして飛び起き、彼に掴みかかる。
『勝手な事をするなっ……! 私の、私と、両親の家を返せっ!!!』
あの場所を一瞬で奪った男を、簡単に許せるわけがない。
しかし、クレイスがその手に触れ、言う。
『あなたこそ、ルビィを返してください』
『な……!?』
『あなたが生まれたせいで、彼女はこの学院にいられなくなりました。そして、殺されました。……あなたを殺してでも、学院に引き止めるべきだったと、今でも思います』
暗い光を揺らめかせる紫の瞳。
そこにあるものの感情が分からず、だがスノーはぞっとした。
『っ……離せ!!』
勢いよく手を弾き、彼から離れる。
そして、続けざまにマージを発動させた。
『貴様のような男に殺されるなど、冗談じゃない!!』
少女の手には、金色に輝く細い杖。
それがそのまま細い剣と化し、切っ先は迷わずクレイスの心臓へと向かう。
『っ……』
肉を貫く、鈍い感触が腕を伝った。
それでも、目の前の男は、衝撃に少しうつむいただけで。
『――ひどいですね。二度も殺されるとは思いませんでした』
やがて、平然と言葉を放つと、顔を上げる。
同時に剣は霧散して消えてしまった。
傷一つ残らないその姿を見てスノーは、やはり化け物だと心の中で吐き捨てる。
『私がこの姿になったのは、本当ならばルビィと永遠に居る為だったのですよ』
にこりと笑い、不意にクレイスが言う。
『彼女に不老不死のマージを組み込み、私を愛するまで永遠に生き続けてもらうつもりでした』
スノーの母親であるその女性はもう死んだというのに、まだこの男は母を想い続けているというのか。
いや、想いなどという綺麗なものではない。
まるで泥のように足元をすくう、気分の悪い感情だ。
『ですが、それももう出来ません』
スノーの不快さを意に介さず、彼は続ける。
『あなたは彼女によく似ています。あなたが代わりになっても、構いませんよ?』
その言葉で、スノーは容赦なく再び、彼の心臓に今度は氷柱を突き刺したのだった。
<3.謝罪>
――何度殺したって、殺し足りない。
そう思われるだけの素質が、彼にはあった。
「最低、最低よ……」
しゃくり上げながらも兄を罵るリリィは、いつかと同じように、慕う少女にしがみつく。
だが、前とは一つだけ違っていた。
それはスノーが、まだ生きていること。
死と呼ばれる色をまとい、それでも彼女の鼓動は、再び動き出していたのだ。
――すぐそばに佇む、兄によって。
「あなたも望んでいたでしょう? 彼女が死なないで欲しいと」
いつも通りの口調で、兄は言う。
彼の心も、とうに死んでしまっているに違いない。そうリリィは思った。
思わなければ、到底こんなことは受け入れられない。
「マージの器を大きくするよりも、この方がはるかに早いですし」
あの時もそうだった。彼は平然として、自分が手を下した少女を見下ろしていて。
キッ、とリリィはクレイスを睨みつけると、怒鳴りつける。
「ふざけないでっ!!!」
「おや、あなたがそれを言うのですか? リリィ」
「……っ、あんたが……あんたさえ、いなければ……っ」
ぼろぼろと涙がまたこぼれる。それは青ざめた親友の肌を濡らした。
分かっている。自分が彼の事を責める権利は、本当はないのだと。
それでも、変えられない運命を変えたかった。こんな形ではなく。
後悔するリリィへ、不意に兄は問うた。
「では、また書き換えますか?」
「!?」
「あなたの存在と共に、私も消しますか?」
暗い紫の瞳が、まっすぐリリィを見据える。
それでも構わない、と彼は思っているのだろう。
だが、そうすればきっと、自分は彼の思い通りになる。
それだけは、許せなかった。
「……誰が、するもんですか。あんただけ楽になろうなんて、許さない」
唇を噛み締め、リリィは拒否を示す。
すると彼は、にこりと笑って頷いた。
「ええ、それで構いませんよ。あなたが消えても、私が責任を持って彼女と幸せになりますから」
「ルビィさんに執着してたくせに、何を勝手な事を!!」
「あなたがそうしたんでしょう? 愚かですね。自分を犠牲にして他人の幸せを願おうなど、偽善もいいところではないですか」
何も、言い返せる余地などない。
全てはリリィ自身がしたことだ。
この世界を歪ませたのは、間違いなく自分。
だが、その報いがこれだというのか。
「スノー……スノー、ごめんね……っ」
自分のせいだ、とリリィは泣く。
それさえも自己欺瞞だと、冷え切った頭の奥では聞こえたけれど。
「り、りぃ?」
声が聞こえたのか、スノーが目を覚ます。
どうしたのかと不思議そうな彼女は、だがすぐにはっとして起き上がった。
「どういうことだ! これは一体……、何故、私は生きている!!?」
蒼白な顔色で、悲鳴のような問いを上げる彼女。
それにクレイスが答えた。
「不老不死のマージを、あなたの魂に組み込みました。受け入れた以上、あなたもクライ・マイネの罪人ですよ、スノー」
断罪のような言葉に、彼女の体がこわばる。
心臓の音も弱く、呼吸さえも浅いその姿は、一見すれば死人と間違うだろう。
リリィは罪悪感に苛まれながら、スノーにしがみついていた。
「ごめん……なさい、スノー……っ」
「何故泣くんだ……貴様は関係ない……」
彼女だけが、知らないでいる。
真実を知ったら、きっとスノーは自分を憎むだろう。
あの時、一瞬の衝動に駆られた自分を、今の自分が憎むように。
「それよりも、何故こんなことをした。私は死ぬつもりだったのに」
「だからこそ、ですよ。あなたを死なせたくなかったので」
それはリリィの方だ。彼は本来、スノーを殺しても素知らぬ顔で過ごしているはずなのだから。
他人の感情さえも歪めてまで、欲しかった運命はこれじゃない。
リリィにとっての願いはだが、全て手遅れだった。
「下手な嘘は止めろ。貴様が私を殺したがっているのは知っている」
「ええ。なので、一度で死なないようにしました」
「……心も化け物と成り果てたか。哀れな男だな、貴様は」
「いずれあなたにも理解できますよ。その化け物と同じ体なのですから」
――つい数十分前、二人は殺しあっていた。
理由などリリィは知らない。だが、彼女が来たその瞬間、スノーの体は床から生えた大きな棘に串刺しにされて。
その直後、兄の浮かべた笑みをはっきり見てしまった。
自分がいつか浮かべたそれと、恐らくそれは同種のもの。
彼はむしろ、そのつもりで彼女と殺し合いなど始めたのだろう。
そして、スノーは望まない願いに縛られた。
常にマージを汲み上げ、修復を行い続ける忌まわしい体へと変えられてしまったのである。
自分がいなくなったら、誰も彼女を守ってくれない。
何度もクレイスに殺されるか、もしくは彼のように国の研究実験のモルモットにされ、永遠に繋がれてしまうかもしれないのだ。
不意に蘇るのは、彼に押し付けられた残虐な記憶。
薬を始めとした、ありとあらゆる実験の記録が、彼女にも植えつけられている。
それは常人には遥かに理解しがたく、また、耐えられるようなものではなかった。
(スノーまで、そんな目に遭うかもしれないなんて……)
かたかたと震えるリリィを見て、スノーはさすがに不審に思ったらしく問いかけてきた。
「何をそんなに、怯えているんだ……?」
「ああ、私が実験された話でも思い出したみたいですね。彼女にはその記憶を分けてあります」
「それが何……っ!!!」
はっ、とスノーが息を飲む。さすがに気付いたらしかった。
彼女の体が強ばるのがわかる。想像までは行き着かなくとも、嫌悪と恐怖は十分に理解出来たのだろう。
リリィはぎゅっとスノーにしがみつき、言う。
「お願い、スノー。あたしの傍に居て。離れないで。お兄ちゃんがした事の償いは、あたしが請け負うわ。だから、だからっ……!!」
必死の懇願が、空気に溶ける。
ややして、彼女はため息をついた。
「……そこまでして、何故貴様が私を庇う? リリィ」
次いで降ってきたのは、当然の問い。
だがリリィは、力なく首を振ると、弱々しい声で一言、返しただけだった。
「あなたが、誰よりも大事だから」
彼女にはその意味が、伝わらなかったけれど。
<4.忘却>
――最近、奇妙だとスノーはふと思った。
不老不死になってから数日。
相変わらず姿をごまかし、不老不死になったことを隠しながら生きているのだが、どこかがおかしい。
そう、まるで何かを忘れそうな。
「スノー!」
その時、聞きなれた声がして我に返る。
ぱたぱたと駆け寄ってくる少女を、だが一瞬、誰だろうと思いながら立ち止まると。
「……あ、ああ、リリィか」
ようやく至近距離になって、その存在を思い出した。
最近、彼女の事を忘れる機会が増えたような気がする。
この学院では一番多く付き合いがある彼女の事を忘れるなんて、どうかしているのか。
「うん。一緒に行きましょ。次、実習でしょ?」
当然のように腕を取る少女の体温は自分より高い。
それこそが、人と自分との違いになってもいた。
以前のようには振りほどかず、スノーもただ頷く。
「……ああ」
この先、彼女とは何年一緒に居られるだろうか。
コルエの民と知っても、不老不死になっても、ほとんど一緒に居てくれる存在。
彼女は、徐々にスノーの中で特別な存在になりつつあった。
だからこそ、彼女を忘れるということが認められなくてそれを口にする。
「……なぁ、オレ、最近変なんだよ」
「え?」
「たまに、お前の事を忘れるんだ。さっきも一瞬、誰だっけ、って」
「……え」
スノーの言葉を聞いたリリィは、一瞬悲しそうな顔をした。
慌てて、スノーは取り繕うように続ける。
「あ、いや、嫌いとかってわけじゃなくて……ただ、何ていうか……」
「ううん、いいの。仕方ないと思う」
首を横に振って、リリィがそう返す。
禁忌を犯した以上、友人さえもできなくなるのか、とスノーは少しだけ憤慨を抱いた。
大事な存在こそ忘れてしまうのが罰ならば、それは確かに重くのしかかる。
しかしリリィは、強くスノーの腕を掴み、言った。
「あたしも、時々自分のことを忘れちゃうもん。あたし、誰だっけ? って」
「……おいおい、大丈夫か?」
さすがに心配になったスノーがそう問うと、彼女は頷く。
「スノーのことは覚えてるから、大丈夫よ」
「そういう問題じゃねーだろ……」
自分のことを忘れてしまえば、誰が他に覚えてくれるというのか。
スノーは苦い思いをしながら、少女と一緒に歩く。
この穏やかな時間さえも忘れたくはないと思いながら、スノーはまた忘れてしまうのだが。
「えー……この問題を……ん? 誰だね君……あ、ああ、リリィ君か」
「はい」
教師が一瞬怪訝そうな顔をしてリリィを見、次いで思い出したように名前を呼ぶ。
心配そうに自分を見るスノーに、笑って大丈夫と口をぱくぱくさせて返すが、頻度は次第に増していき、ついには。
「……おや、どなたですか?」
廊下で会った兄にさえもそう問われてしまったリリィは、さすがに苦笑を浮かべるしかなくなっていた。
今は傍にスノーが居ない。もし居たら、きっと怒って彼に掴みかかってくれたりしていただろう。
だが、それももうじき見れなくなるのだ。
「あーあ……早かったなぁ。潮時かしら」
「……リリィ?」
ようやく思い出したらしいクレイスだが、さすがに自分の妹を忘れていた事には違和感を抱いたようで、妹に困惑混じりに問うた。
「あなた、何をしたのですか?」
「あたしはもう、何もしないわ。……願いは叶ったもの」
「……なるほど。報いというのは、これなのですね」
妹の答えですぐに意味を理解したらしいクレイスだが、直後に苦い顔をする。
それを見ても、リリィは苦笑したまま。
「さすが天才。話が早いわ。……あたしを忘れても、あなたは犯した禁忌の為に償い続けるんでしょ? お兄ちゃん」
「スノーもそうです。恐らく、あなたの記憶だけは消えますが」
禁忌を犯した者の運命は恐らく、変えられない。
そうしてしまえば、罪そのものがなかったことになる。
それを望まれてしまえば、罪そのものの意味など失われてしまうのだ。
彼女が消えても、罪は消えない。その証として、彼らが居る。
「そろそろ、みんなにお別れしなきゃならないわね」
「……あなたは、それで本当にいいのですか? リリィ」
これ以上抗うつもりがないのか、と彼は問いたいのだろう。
だが、リリィの心は決まっていた。
「いいの。……自分のした事の償いだもの」
片時でも、大事な人間と過ごせた時間があった。
それがいずれなかった事にされても、幸せを抱いて消えられるのなら、それもいいとリリィは思っていた。
運命を書き換えた者には、等しく消滅の時が訪れる。
存在はおろか、魂そのものも消え、人々の運命はそれによって新たに書き換えられるのだ。
神が下した運命に逆らえる者など、誰も居ない。
「それに、あたしの願いは全て叶ったわけじゃないわ。……けど、それも……あたしが居なくてもいいこと」
クレイス一人が幸せにならないこと。それはもう、スノーの存在一つで埋められる事だ。
彼は犯した禁忌をスノーと共有することで、永遠を歩く。
そこに、リリィの存在は必要ないとみなされたのだろう。
「じゃあね、お兄ちゃん。まずはあなたに、さよなら」
滅多に見せない柔らかい笑みを浮かべて、リリィはその場を立ち去った。
クレイスはその姿を見送り、やがて彼女の姿が見えなくなった頃、はっとする。
「……?」
今、何かを忘れた、と思いながら辺りを見回し、頭を振って歩き出す。
例え天才でも、神の力からは逃れられない。
<5.喪失の彼方に>
リリィが来なくなって、数日。
スノーはそれに気付いて、悔しげにクレイスを問い詰めた。
「どういうことだ! あいつはどうしたんだよ!」
「……あいつ?」
きょとんとする彼に、スノーは怒りをそのままぶつける。
「お前の妹だよ! リリィ! まさか忘れたとかてめえまで言うつもりか!」
「……ああ、そうですね。忘れますよ。当然です」
「何でだよ! リリィを忘れるのは、オレの罰じゃないのか!?」
最初は、自分だけが忘れるものだと思っていた。
だが、違うのだ。
自分も、他の生徒も、教師さえも、彼女の事を時折本当に忘れている。
それにようやく気付いて、スノーは慌てて彼女の兄であるクレイスの元へと来たのだが。
「あなたではなく、彼女の罰です。彼女はもうじき、消えるのですから」
彼は悲しむでもなくそう冷静に答える。
当然と受け入れているその態度が理解出来ずに、スノーは怒鳴った。
「……っ、何でだ!!」
自分は何も知らない。
彼女が泣いていた意味も、何度も謝っていた意味も、そして、忘れられる事を受け入れていた意味も。
「知りたいのであれば、どうぞ。……もっとも、じきにこれも消えるのでしょうが」
ころりとした赤い玉が、クレイスの手のひらに転がっている。
スノーは迷わずそれをひったくった。
回想にも似たその記憶を見て――愕然とする。
「……オレは……お前に一度、殺されてたのか?」
「そうですね。そしてその運命は、結果は違えど同じのようです」
「っ、てめえはそれでいいのかよ!! 大事な妹が消えても、記憶から居なくなっても……!」
大事な家族を失った痛みは、スノーが一番よく知っている。
だが、彼はその喪失に痛みを抱かないかのように返した。
「どうせ失われる存在です。……今あなたが悲しんでも、私が悲しんでも、それはもうじき、無かった事になりますから」
言いたいことはわかる。しかし。
「っ……もういい!!」
スノーは耐えかねてそこから消えた。
辿り着くのは、彼女の部屋。
扉も無視したその到着に、部屋でただ座っていた彼女は驚いた顔をする。
「す、のー?」
その声は人のようには聞こえず、だが確かに彼女の声。
体も砂のように脆く、少しずつ崩れている。
「リリィ!!」
だが、スノーは構わず彼女の傍に行く。
「何で黙ってたんだよ!! お前が消えるなんて、どうして!!」
「あたし、神の、領域に、触れた、の」
知っている。だからこそスノーはここに居るのだと。
それでも、納得出来ない。
「ね、スノー。見せて。あなた、の、ほんとの、姿」
「リリィ……なぜだ。何故……私を……!!」
言われて元の姿に戻ったスノーを見ながら、リリィは笑ってその問いに答えた。
「言った、でしょ。あなたが、誰より、も、大事だか、ら」
「私はどうなる! お前が居なくなったら、私はまた一人になってしまうだろう!!」
「……ごめ、んね。おにいちゃん、の、こと、おねがい」
時間がない。だが、助ける術もない。
「嫌だ。もう嫌だ! 私を一人にするな!! 一人ぼっちは、もう、嫌だっ……!!!」
叫ぶスノーをよそに、彼女の体は更に風化を激しくしていく。
急速にマージを組み上げようとする思考。可能性を引き出そうとスノーは必死で考えた。
そこに、クレイスが現れて残酷に告げる。
「クライ・マイネの罪人に、救いはありません。あなたがしようとしていることも、無駄なんですよ、スノー」
どこか悲しげな声と共に自らの行動を見抜かれ、スノーはクレイスを睨む。
「貴様がっ……! 貴様さえ、いなければ!!」
「……あなた方は同じことを言いますね。ですが、私も好きでこうなったわけではありません。……リリィ。最後にもう一度だけ尋ねましょう。本当に、このままでいいのですか?」
クレイスの問いに、リリィは一度瞬き、だが笑って首を横に振った。
「できない、のに、いわな、いで。できても、いや」
「……そうですか。あなたは本当に、かわいくない妹でした」
「あたし、も、だい、きら、い。おにい、ちゃ」
最後まで、憎まれ口しか叩けない。そんな関係でも、彼らは確かに繋がっていたのに。
「リリィ……私を、置いていくな……! 傍に、もっと傍に居ろ!!」
少しでも引き止めたくて手を伸ばすスノー。だが指先が触れるか否かの瞬間、ぼろ、とひときわ大きく彼女の体が崩れ。
「あり、がと。すのー。さよな、ら」
乾いた感触と共に、彼女は消えた。
「――――……っ!!!」
直後、すうっと、頭の奥から何かが消えていく。
嫌だと抗う暇もなくそれは終わり、そして。
「……ここは、どこだ?」
ぽつりとスノーは呟いた。
「空き部屋のようですが……何故、私たちはここに居るのでしょう?」
クレイスもしきりに首をかしげている。
がらんとした殺風景な部屋。
まるでそこには、初めから何もなかったかのような空気が満ちていて。
「……どうでもいいな。貴様が居る以上は、することなど一つしかない」
スノーは立ち上がると、何故か抱く悲しみを振り払い、その手に杖を現した。
クレイスもくすりと笑って、同じく杖を現す。
「そうですね。では始めましょうか、スノー。化け物同士の遊びを」
「……貴様のその性格が直らない限りは、私は貴様を一生許さん、クレイス」
「構いませんよ。私としては、あなたが居るだけでそれなりに楽しく永い時間を過ごせそうですから」
互いを狙ったマージがぶつかり合う。
氷が、炎が、水が、風が、いくつも交錯し合い、消えていく。
――しかしスノーは、何故か喪失感を抱いていた。
それはどの記憶を辿っても行き着かない、完全な欠乏。
目の前の相手へ対する殺意が、急速に萎んでいくのを感じて、スノーは攻撃を止めた。
ふっと杖を消し、呟く。
「……退屈だ」
「?」
「貴様は楽しいだろうが、私は退屈でならない。殺しても殺しても生き返るような奴を倒しても、何も面白くない」
言いたいことはどこか違うような気がしたが、他に思いつかない。
そして告げる言葉もまた、偽りではないのだ。
不機嫌なスノーに対し、クレイスはどこか面白そうにそれに頷く。
「そうですね。ただ殺し合うだけでは確かにつまらないです。では、こうしましょうか」
彼も杖を消し、一歩スノーへと近づいて。
「殺し合う代わりに、愛し合いましょう、スノー」
突如として出てきた提案に、スノーは唖然とする。
天才と呼ばれる男の考えは全くもって、理解出来ない。
「断ると言ったら?」
精一杯の拒否を込めての問いに、彼はすぐさま返す。
「もちろん、逃しません」
「そうか、だが断る」
「分かりました。大人しくなるまで何度も殺してあげます」
どう拒否をしても、諦めるつもりはないらしい。
結局行き着くところはそうなるのか、とスノーは顔をしかめた。
この先、こんな男に付き合い続けられる自信は皆無である。
永遠の命を得た分、罪は重い。
楽になれるわけはないのだが、だからといってこれはないだろう。
「……その性格を直してから出直せ」
あまりに酷すぎてそう投げやりに条件を押し付け、スノーは自室へ戻る。
何かを忘れていたような気がするのだが、やはり思い出せない。
ころり、とその時、床に何かが落ちた音がした。
「ん? リモワ……か?」
どこから落ちたのか分からないが、赤い透明な玉は確かに記憶を閉じ込めて分け与える為のもので。
拾い上げた途端、頭に滑り込むように入ってきたのは――知らないはずの、少女の記憶。
『――スノーを死なせない! あんたが、一人で幸せになることも許さない!!!』
魂そのものを賭した願いの言葉に、声に、スノーは戦慄した。
ぽろり、と勝手に涙があふれる。
もはや何も覚えていない彼女を、どこかで助けた少女の名前は、リリィ。
スノーが死なない運命とは、死ぬ事が出来ない運命ということか。
彼女が、それをしたというのなら、何故その彼女はいないのか。
何もかもが、分からないまま、スノーは一人叫んだ。
「っ……なぜだ。私は……こんな運命など、望んでいなかったのに!!!」
――全ては、もう、変えられない。
<6.神の落とし物>
――ころり、と手のひらに転がり落ちた赤い玉を見て、クレイスはきょとんとした。
「何ですか? これは」
「貴様に必要なものだ」
翌日になって、珍しく自室を訪ねてきた少女が何も言わずに手渡してきたのは、リモワ。
彼女の心に深い悲しみがあるのを読み取って、クレイスはそれ以上何も言わずに記憶を受け取る。
そして――愕然とした。
「これ、は……」
有り得ない、そんなはずはない。だが、こうして証拠がある。
いっぺんにあふれた情報が処理しきれず、クレイスは頭を押さえた。
あるはずのない記憶。消されたはずの存在。
それが意味するものなど、一つしかない。
行き着いた答えは、だがにわかにはまだ信じられないもので。
「……あなたは、もう理解しているのですか? 彼女が何者かを」
問えば、スノーは困惑を浮かべて首を横に振った。
「リリィ、という名前と、私をただ助けたかった事しか……分からない」
「……知識上で良ければ、推論が出来ましたが」
聞くかとまた問うと、今度は頷かれる。
クレイスはそれを見て、ひと呼吸置くと口を開き紡ぎ出す。
「彼女は――……」
今はもう確かめようがない、一人の少女の話を。
「……神の落とし物、と言います」
話を終えたクレイスは、手にした赤い玉を見つめてそう呟くように言う。
「神の?」
聞いた推論をただ呆然と受け取るしかなかったスノーが、首をかしげた。
「ええ。取りこぼした存在の欠片です。……このように、記憶として閉じ込めてあったりすると、見落としやすいものですから。……神も決して万能ではないのですよ」
禁忌が行える魂を創りだす時点で、それは否定しようがないだろう。
だからこそ、行う人間には罰を与え、見せしめを行うのだ。
神の領域に触れる事は、許されないのだと。
「ごくまれに、謎の存在を示す文書や、こういった記憶を閉じ込めた物が発見されるでしょう? それらは皆、同じ呼ばれ方をして、研究を続けられています。ですが、真実に辿り着ける人間はまずいません。私たちはその点、運が良かったとも言えますね」
この記憶の存在を知り、そして末路も理解出来るのだから、と彼は続ける。
「もっとも、逆に運が悪かったとも言えます。……忘れたままでいれば、私たちは彼女の存在に苦しむ必要はありませんでしたから」
「私は、そうは思わない」
彼の言葉に、すぐさまスノーは否定を返した。
「例え私が貴様に化け物にされたその事実が、彼女の願いによるものでも……彼女の心を踏みにじる事までは、出来ない」
何度も繰り返し見た彼女の悲しみは、今やスノーにも同じだけの苦しみを与えている。
もはや何も無かったようには出来ない。
「そうですか? 私はそれなりに怒ってますよ。勝手な事をしてくれたと」
「もう罰は与えられた。……存在そのものは、消えてしまっているのだから」
「ええ。だからこそ腹立たしいのです。ぶつける相手があなたしか居ないので」
しれっとして八つ当たり宣言をするクレイスを、スノーは睨みつけて言った。
「ふざけるな。貴様はもっと猛省しろ。貴様がくだらん事を考えなければよかっただけだ」
「そうですか? ……生憎、この記憶だけでは、何故あなたを殺したのかわからないのですが」
「貴様の事だ、ろくでもない理由だろう」
吐き捨てるスノーにそれ以上の思考の余地はない。
クレイスは苦笑して短く返した。
「そうかもしれませんね」
記憶の中の彼は、今よりろくでもない人間だったのが分かる。
スノーにしてみれば、それでもまだ合格点などとても下せないのだが。
「さて、これは壊してしまいましょう」
「!?」
言うが早いか、クレイスは「パキン」と軽い音を立ててそれを壊してしまう。
「貴様!!」
何をする、と掴みかかるスノーを逆に引き寄せ、彼は囁いた。
「もう存在しない少女には、何も出来ません。あなたが彼女を想ったところで、魂は戻りませんよ、スノー」
「っ……それでも、忘れたくない!!」
自分たちまで忘れてしまっていたそれを、どうしてまた忘れることができようか。
そう思っていても、容赦なく記憶は薄らいでいくのだ。時間によって。
苦しく哀しく重い感情が、スノーの心に覆いかぶさる。
だがそれは、新たにわずかな熱によって更に覆われた。
「!!」
驚く彼女を、相変わらず暗い紫の瞳で見つめてクレイスは囁く。
「……私が、いつでも思い出させてあげましょう。ですから今は、忘れなさい」
優しくも冷たい口づけが下りて、スノーはきつく目を閉じた。
忘れることが正しいのか、覚えている事が正しいのか、今となっては分からない。
ただ、失っていたものが何なのか、少しだけ理解出来た。
「っ、……貴様ごときに、忘れさせるものか」
冷たいはずの体温が少しだけ上がったような気がして、スノーはそれを振り払うように彼に言う。
「貴様が、私の母様を忘れないように、私も、彼女を……リリィを忘れない。永遠にだ」
「愚かですね。自ら、罰を増やすとは」
嘲笑うような声で、だが優しく彼はまた口づけた。
彼を真に愛するまで、この永遠は続くという。
呪縛が解ければ、彼も自分もこの世界から跡形もなく消えるのだとも。
この先、いつまで続くのか分からない関係に、スノーは苦い思いを抱く。
――もしも、彼女が今でも居たら、自分はどうなっていただろうか。
そんな考えも、何故か次第に薄れていった。
神が落としていった小さな欠片は、もうない。
――あとに残ったのは、それを覚えている永遠だけ。
-fin-
バッドでもハッピーでもありません。これが正しいかと問われたら、首をかしげます。でも、希望はひとかけらでもあった方がいい。そんな話が、私は好きなんじゃないかなと思った次第です。
あ、ちなみに百合じゃないですよ。純粋な友情です。