35章
一節
話は少し遡る。
「後は任せろ、少年。君は、リアラとリディエルを頼む。」
練極にそう告げられ、《赤斬》を預けた俺は、一歩下がって戦場を離れた。
胸の奥にまだ戦いの熱が残っている。それでも、今は仲間の無事を確かめることが先だった。
少し離れた場所に、倒れているリアラとリディエルの姿が見える。
リアラはすでに草葉や苔を払い落とし、何とか身体を起こしていた。
振り返った俺に気づいた彼女が、声をかけてくる。
「……マスター……。」
だがその言葉を運ぶ声音には、喜びも安堵もない。
喜怒哀楽でいえば、ただひとつ、哀。
胸が締めつけられるような悲しみだけしか、リアラの囁きからは伝わってこなかった。
その理由は、もう一人の仲間リディエルだ。
彼女はまだ意識を取り戻していない。
それどころか彼女の体は、胸から伸びる《パラディソ=ラストリア》の根に絡め取られ、草葉や苔と半ば同化していた。
夢の列車の中で、夢災に操られた練極が突き立てた刀の一撃、それが現実に反映されたのだろう。
根は胸から突き出て、そこを中心に身体が少しずつ取り込まれている。
息はある。
それは確かだ。
だが、このままでは安全とはとても言えなかった。
夢の中で、自分が口にした台詞を思い出す。
『リディエルは降臨者です。たとえ命を落としても……大都市に戻れば復活させられる。』
けど、本当にこの状態で復活できるのか?
「リアラさん。この状態でも、街の神殿に行けば?」
言いかけた俺に、リアラは無言で首を振る。
そういえば、数日前ロマーリアで聞いた、リアラの言葉を思い出した。
復活には七割以上の肉体、特に頭頚部が残っていなければ、魂を入れる器として成立しない、と。
沈黙の中、リアラはうつむいたままリディエルの顔を見つめ続けている。
その腕を突然、同化したリディエルの手が、ぎゅっと掴んだ。
「っ……!」
驚きに息を呑むリアラ。
恐怖よりも先に、涙がにじむ。
その時、まだ瞼を閉じたままのリディエルの小さな唇が、かすかに動いた。
「……マ……マ……。」
次の瞬間、リアラの胸の奥に、微かな光がともったような感覚が走る。
手のひらを通して伝わる温もりが、まるで心臓の奥へ入り込んでくるようだ。
意識が、触れた。
どこか遠く、やさしい闇の底で、小さな声が彼女を呼んでいる気がした。
二節
やさしい闇の底で、小さな声が呼んでいる気がした。
耳ではなく、心の奥で響く声。
その呼び声に導かれるように、リアラの意識は沈み、やがて一気に視界が白く染まった。
それは温かい光の中に溶け込むような感覚だった。
あの子が初めて自由になった日の喜びを、まるごと抱きしめたような、そんな明るさ。
白い世界の中で、思考が流れ込んでくる。
リディエルの記憶だ。
宿屋で一緒に食べた温かい夕食の味。
《大工房》で服のサイズを直してもらったとき、くすぐったそうに笑った小さな肩。
三人で歩いた、荒野の長い道。
《パラディソ=ラストリア》の中で過ごした、ほんのひとときの幸せ。
それはまるで、母に旅の思い出を語る子どもの心そのものだった。
この子には、もう本当に時間がない。
リアラはそう悟る。
次の瞬間、目の前に姿を現したのは、健康なリディエルだった。
まだ幼く、どこか儚い光をまとった、一糸まとわぬその姿。
彼女は無邪気に駆け寄ると、迷いなくリアラの胸に飛び込んできた。
『……ママ……!』
小さな心が、そのまま言葉になる。
『お友達、できたよ……!優しい人。……マスターと、リアラさん。お兄ちゃんと……ママみたいで……すっごく、うれしかったの……。』
心の中に、花が咲き乱れるような笑顔。
その光景に、リアラは涙をこらえながら、静かに笑顔で受け止めた。
ありがとう。生まれてきてくれて。
そう言葉にするより先に、溢れる喜びとあたたかさが、胸いっぱいに広がった。
やがて、リディエルの心は、光の粒となってリアラの胸に流れ込んでいく。
抱きしめた小さな体は、やさしい光に変わり、白の世界に溶けていった。
三十五章 三節
精神世界の白は消え、現実の森が戻ってくる。
リディエルの小さな体は、まだ根に絡め取られたままだが、もう苦しむ気配はなかった。
さっきまで握っていた手も、力なく落ちている。
リアラは、そっとその小さな髪を撫でる。
涙が、止まらなかった。
「……マスター……。」
震える声が、夜気に溶けた。
俺はただ、言葉を探しながら彼女を見つめるしかない。
リアラは、ゆっくり顔を上げる。
涙で濡れた瞳の奥に、静かな決意が宿っていた。
「……リディエルを……クリスタルに……。」
胸が締めつけられる。
彼女は続けた。
「このままでは……あの子は……もう。……せめて、魂だけでも……私達の手で……守らせてください……。」
言葉が、喉の奥で詰まった。
それでも理解できた。
これが、最期の優しさだと。
俺はゆっくりと膝をつき、リアラの震える手を握る。
目で「わかった」と伝えると、彼女は小さくうなずいた。
夜の森に、風の音だけが残る。
二人で、祈るようにリディエルの体に手を添えた。
俺は召喚器を装着した左手で、リディエルの小さな腕にそっと触れる。
所有権を持つ転生者が、意識を正しく保ったまま、肯定的に命じなければならない。
深く息を吸い込み、静かに目を閉じる。
「リディエルを、クリスタルに。」
瞬間、召喚器がかすかに震え、淡い光が溢れた。
光はリディエルの体を優しく包み込み、輪郭が透き通っていく。
まるで眠るような安らかな気配を残しながら、体は小さな光の粒に変わった。
やがて、その光はひとつに集まり、俺の掌に収まる透き通る蒼のクリスタルとなる。
淡く脈打つ温もりが、まだここに彼女の心があることを告げていた。
リアラはそっと両手でクリスタルを包み込み、震える唇でささやく。
「……大丈夫。もう、誰にも傷つけさせません……。」
涙がぽたりと落ち、蒼い光に吸い込まれていく。
掌の中でかすかに脈打つ温もりは、まるで小さな心臓の鼓動のようだった。
ごめんね、リディエル。もっと、抱きしめてあげたかった……。
森は静かだった。遠くで風が梢を揺らし、胸の奥の空洞にだけ鼓動が響く。
小さな光は、夜の闇の中で一番星のように淡く輝き、その温もりが、胸の奥に残った痛みと涙を、そっと抱きしめてくれる気がした。




