34章
一節
気がつくと、俺は森の中に寝ていた。
風に揺れる枝葉の隙間から、柔らかな光が差し込み、周囲には苔むした大地と落ち葉が広がっている。草葉がそこかしこに敷き詰められ、しっとりとした湿り気が肌にまとわりつく。
ぼんやりした頭の奥に、少しずつ記憶が戻ってくる。
そうだ……俺はリアラとリディエルを連れて、霧の谷の向こう、リディエルが故郷と呼んだ場所、ヴァイルの村を目指していた。サザンクロス・ベイから谷へと通じる列車に乗るため、森を抜けて駅のある町を目指していたはずだ。
だが、よく考えればおかしい。
仮にも駅がある町なら、もっと安全な街道があったはずだ。俺たちは情報を頼りに進むうち、知らぬ間に森の奥深くへ迷い込んで……そして辿り着いたあの村と駅。
最初から、あれが異常だったのではないのか。
目の前の景色は、一夜前に列車へ乗り込む直前に見た森と、ほとんど変わらない。
ただ、ひとつだけ違うのは、仲間の姿だった。
少し離れた場所で、リアラとリディエルが倒れている。草葉や苔に覆われ、まるで森の一部になりかけているようだ。おそらく、目を覚ます前の俺も同じ状態だったのだろう。
さらに奥の茂みには、列車の中で戦った練極の姿が見えた。
……彼女まで、いるのか。
となれば、これもまた夢の続きなのか。
まずは立ち上がる。
起き上がった瞬間、しわがれた声が耳を打った。
「ほう……これは驚いた。まさか、破亜死の夢の世界から抜け出す者が現れるとはな。」
ハッとして振り向くと、そこには異様な光景があった。
巨大な列車を模したかのような草のオブジェの上に、一人の老人が立っている。
白髪を垂らした長身、深い皺と影を刻んだ顔。黒と白の長い外套を翻し、片手には杖、もう片方の手をこちらに向けて差し出していた。
その眼光は、森の薄明かりの中でもはっきりと俺を射抜く。
冷たい威圧感が、ぞくりと背筋をなぞった。
三十四章 二節
老人は、まるで舞台の幕を開けるように、ゆっくりと口を開いた。
「……ふむ、まずは敬意を払わねばならぬまい。よくぞ、破亜死の夢から目覚めたな。我が名は夢災。寄物樹、夢災だ。」
その声音は静かだが、耳の奥にまで染み込むような響きがあった。
不気味なはずなのに、どこか甘い。
「お前のような者は初めてだ。……一つ、その心の強さに免じて、戦いの前にチャンスをやろう。このまま、もう一度眠りに落ち、永遠の夢の管理者にならぬか?」
その言葉はまるで、どこぞの魔王が「世界の半分をやろう」とでも告げるかのような口調だった。
「思いのままだ。仲間も、富も、名誉も、永遠の命さえも。約束しよう……お前はかつてない幸福に満たされる。」
甘美な誘い。心の奥にまで浸透してくるような囁き。
けれど、俺の答えは決まっていた。
「嫌だ。」
短く、力強く。
夢災は、空気を吸うようにその言葉を受け入れ、薄く笑った。
「やはり、そうか……。そこに倒れている剣士も、同じことを言ったよ。我が《パラディソ=ラストリア》を狩りに来た剣士がな。」
視線の先、苔に覆われた練極の姿が目に入る。
夢災は楽しげに話を続けた。
「面白い話をしよう。この列車《パラディソ=ラストリア》はな、食虫植物に似た構造を持つ。栄養は、人間の“幸福な記憶”と“喪失の痛み”だ。」
「……何だって……?」
思わず声が漏れる。夢災は愉快そうに顎を上げた。
「列車だと思ったか?あれは幻だ。村も駅も、全てがな。我がパラディソ=ラストリアは、森に身を溶かし、幻惑で旅人を誘う植物。お前たちが見た景色は、すべて夢にすぎん。」
背筋が冷たくなる。
なら、あの駅も、あの村も……全部……。
「一度夢に落ちれば、そいつの記憶を抽出し、“理想の人生”を再演させる。現実への意志はやがて失われ、最後には“核の記憶”を根に吸い上げられて完全に取り込まれる……。」
夢災は俺を見据え、目を細める。
まるで、珍しい実験動物でも観察するかのような目だ。
「だが……お前は違った。夢の二層まで到達しながら、そこから脱出したのはお前が初めてだ。」
そこで夢災は言葉を止めた。
……まるで、こちらがどう出るかを観察しているかのように。
俺は、何も言えず立ち尽くすしかなかった。やがて老人は、ゆっくりと次の言葉を紡ぐ。
「そんな者が万一、あの世界で暴れられては、破亜死の精神が崩壊してしまうかもしれない。だから私は、練極に仮初めの体と魂を与えた……。」
夢災は口元に笑みを浮かべる。
「そして、お前たちを十号車へ導き、油断したところで彼女を操った。着実に養分にするためにな。」
「……っ!」
息が詰まる。視線を向けると、練極はもはや半ば植物のようだった。
緑色の苔に補強され、呼吸の気配さえ薄い。
「赤斬……業冥は……どうした?」
かすれた声で問うと、夢災は鼻で笑った。
「夢の中で振るっていた刀か?あれは栄養にならん。気になるなら、まだ女剣士の腰にあるだろう。」
恐る恐る近づき、錆びた刀を抜く。
赤斬の声はもう、聞こえなかった。
「さあ、もう一度チャンスをやろう。」
夢災は、ゆっくりと手を差し出す。
「その女性への想いも、少女の母を求める心も、剣士の苦しみも……夢の中なら全て叶う。この手を取らずともいい、意思を見せるだけでいい……どうだ、少年?」
心が、わずかに揺れる。
真摯な眼差し、甘美な誘い。
……だが、次の瞬間。
(どうした少年? もう終わりか?)
聞き覚えのある声が、雷鳴のごとく心に響いた。
三十四章 三節
(……赤斬さん……!)
心に響く声に、思わず胸が震えた。
歓喜と安堵、そして戦意が同時に沸き上がる。
(ありがとう、少年。やはり君こそが、目覚めの鐘だったのだ。)
脳内に響く赤斬の声は、かつての練極の構えや呼吸をも呼び覚ます。
頭の奥に、戦士の記憶と技が一気に流れ込んでくる感覚。
(少年……お前の純粋さ、私は好きだ。だが覚えておけ。)
(この先、苦難が訪れるたびに、強敵が現れるたびに――相手の言葉を鵜呑みにするな。)
(目の前の夢災もそうだ。事実は語る……だが、なぜ今それをお前に告げるのか。考えてみろ。)
幾重にも重なる《赤斬》の声。
遺言と走馬灯が重なるような意識の嵐。
時間がない。伝えたい。
消え去る人が、最後に伝えようとする願いのように、俺の心へと深く刻まれる。
はっとした。
夢災が長々と語った真実めいた話。
だが、それを語るには必ず裏の意図があるということだ。
(かつて、練極も同じ手で夢に囚われた……やつの狙いは単純、時間稼ぎだ。)
(夢災は、パラディソ=ラストリアに寄生する寄生植物のような存在……複数の《ラストリア》に根を張り、夢を喰らいながら生き永らえている。)
全てを伝え終えると、赤斬の声は低く鳴り、静まった。
ほんの一瞬の会話。それでも俺には、全てが理解できた。
「……なるほど、そういうことか。」
俺は夢災の言葉を最後まで待たず、口を開いた。
その瞳に宿る確かな光に、初めて夢災が揺れる。
「……ほう。」
老人の口から漏れるのは、驚きとも感嘆ともつかぬ吐息。
やがて、ゆらりと立ち上がると、顔に浮かぶのは諦観の色だった。
「……どうやら、時間稼ぎも無駄だったか。」
次の瞬間、重力を無視するかのような軽やかさで、老人が俺の目の前の地面へ飛び降りる。
その動きは、年老いた身体からは想像もできないような、まさに化け物の如き跳躍だった。
三十四章 四節
異様な気配を漂わせているとはいえ、相手はただの老人。
そう思い、俺は刀を握り直した。
だが、その瞬間。
「……立ち上がれ、破亜死。」
夢災の口から、聞き覚えのある名が放たれる。
「……え?」
次の瞬間、俺の視界に衝撃が走った。
これまでただの朽ちたオブジェだと思っていた、樹木と蔦で形作られた、巨大な列車のモニュメント。
それが、ギギ……ギギギ、と不気味な音を立てながら立ち上がったのだ。
そして。
列車の先頭に浮かぶ顔。
忘れもしない、夢の中で出会った破亜死、そのもの。
「僕を呼んだのは貴方ですか? ドクター・トップハゲ・ゼンブ先生?」
あまりに場違いな、のほほんとした声。
思わず脳が混乱する。
「……ああ、忘れていたな。」
夢災は一拍置いてから低く笑う。
「なるほど。夢の中で作った仮初の私が、お前の現実に重なったか。……破亜死よ、私の名は夢災だ。覚えておけ。」
「分かったよ、ハゲ!」
にこやかに返す破亜死。
夢のソード島で、彼にとって“ドクター・トップハゲ・ゼンブ先生”は心から敬愛するインプラント・マスターだった。その呼び名は愛情の証。だが、現実ではただの無意識な愚弄にしかならない。
「……もういい。行け、あの少年を蹴散らせ!」
わずかに眉をひそめた夢災が命じると同時に、巨体が動き出す。
草と鉄の脚が大地を踏み鳴らし、蔦の根が地面を抉る。
想像以上のサイズと迫力に、思わず数歩後ずさった。
ムギュッ。
後ろに柔らかい何かが当たり、反射的に振り返る。
そこは……半分樹木と同化した、練極の胸の谷間の中だった。
「よく頑張ったな、少年。そして、ありがとう。……おかげで、《赤斬》の真の呼び名を思い出せたよ。」
「……練極、さん……。」
彼女の様々な箇所はすでに樹木と融合し……いや、樹木をベースに人の姿を再構築したようにすら見えた。
それでもその瞳は、戦士としての誇りと、優しさに満ちている。
「あとは任せろ、少年。君は、リアラとリディエルを頼む。」
そう言うと、俺が両手で差し出す赤斬を、練極はゆっくりと、まるで儀式のように受け取った。
その瞬間、刀身に赤い光が一閃し、森の空気がぴんと張りつめる。
風さえ止まり、木々のざわめきが消えた。
まるで、次に起こる死闘を予感するかのように。
蔦に覆われた破亜死が、愉快そうに喉を鳴らして巨体を揺らした。
「やあ、練極。また会えて嬉しいよ。……さあ、ニーアと5トンの仇、きっちり返させてもらうからね!」
その瞬間、破亜死の矛先は完全に練極へと向いた。
巨大な影が、ゆっくりと俺たちを覆い始める。
三十四章 五節
木々が唸った。
破亜死の草の脚が、ずしん、と地面を踏みしめるたび、根が這い回り、周囲の大地ごと軋ませる。
鉄の車体と植物の化け物が混じり合ったその巨体は、ゆっくりと頭をもたげ、にやりと笑った。
「やあ、練極。また会えて嬉しいよ」
破亜死の声は無邪気に響く。
「……さあ、ニーアと5トンの仇、きっちり返させてもらうからね!」
次の瞬間。
ドゴォンッ!
破亜死の前脚が、巨木のように振り下ろされた。
圧倒的な重量と風圧が襲いかかる。
俺は反射的に目を閉じた。
風切り音の向こうで、鋭い金属音が響く。
ガキィィィィン!
練極が赤斬を掲げ、巨脚を弾き返していた。
木と鉄が混じった破亜死の脚を、赤く光る斬撃が押し止めている。
「……遅い!」
練極の瞳が、燃えていた。かつて夢に囚われ、敗北した退魔士の面影はもうない。
今ここにいるのは、己を燃やして巨悪を断つ剣の魂。
「三の太刀、《焼龍連破》ァ!」
言葉と同時に刀が唸る。
ズバァッ!
一閃。
破亜死の右前脚の蔓が、数本まとめて吹き飛んだ。
黒い樹液のような液体が飛び散り、地面にじゅうじゅうと煙を上げる。
「いたっ!……でも、楽しいねぇ!」
破亜死が笑う。
恐怖と興奮が入り混じった笑い声。
まるで遊園地で遊ぶ子供のような声色なのに、巨体は容赦なく迫る。
「さぁ、第二ラウンドだよ、練極ぅっ!」
巨体が跳んだ。
足元の岩石が飛び散り、地面が波打つ。
目の前の光景は、現実離れしているのに、汗と土と鉄の匂いが本物の戦場を告げていた。
俺はただ、息を呑むしかできなかった。
三十四章 六節
破亜死の巨体が、再び宙を舞った。
木と鉄の混じった脚が、影を落としながら迫る。
それは、落ちてきた瞬間に森ごと押し潰しかねない、圧倒的な質量だった。
来る!
練極は、赤斬の柄を強く握り直した。
樹木の混ざった体を動かすたび、夢災との心の綱引きが生じる。
それは意志を引き裂こうとする粘つく圧力だったが、もう怯むことはない。
赤斬の鼓動が、彼女の心臓と一つになっていた。
「……今こそ呼ぼう、《赤斬》。お前の真の名を!」
足元で蔓が軋む。破亜死が着地する、その一瞬前。
練極は地を蹴った。
「込み上げる感情、爆発する怒り……斬魔魂殺!運命を照らせ、《赤斬》!」
彼女の叫びが森を震わせる。
瞬間、手にした斬魂刀が炎に包まれたかのように形を変えた。
簡略化した俺の呼び方などとは違う、真の解放。
漆黒の柄に紅の菱目が浮かび、刃は血のような深紅に染まる。
鈍く輝く鍔は闇を裂き、柄頭の三つの金色の鍵が、鎖のように揺れながら光を放った。
解錠の刃。
カチリ、と小さな音がした。
鍵のひとつが跳ね、彼女の右腕に突き刺さる。
熱い痛み。血が吸い上げられる感覚。
だが、練極は微塵も表情を変えなかった。
吸血刀、《赤斬》、最終開。
刃が唸る。
血の匂いが濃くなる。
そして、彼女の口から、さらなる言葉がこぼれた。
「人神一体!」
その叫びは、血と魂を燃やし放つ、ただ一度きりの奥義、《打ち斬り》。
《最終開》のさらに先にある力を解き放ち、この一撃に全てを賭ける、命を削る技だ。
瞬間、残る二本の鍵も飛び、彼女の左手と仙骨の上、尾骨のあたりに突き刺さる。
稲妻のような衝撃が、練極の全身を駆け抜けた。
鍵は赤熱し、液体金属のように溶けて、燃え立つ小手と脚甲へと変わり、彼女の四肢を覆う。
炎は衣服を焼き尽くし、やがてその姿は、赤い炎の翼を背負った戦乙女のようなシルエットに変わった。
不死鳥のように、彼女は宙へ舞い上がる。
さの姿に、植物の要素は、もう一片も残っていなかった。
「はああああああっ!!」
破亜死の背に飛びつく。
炎を纏った小手で巨体の腰を抱え込み、空中で大きく反り返る。
「メテオスープレックスッ!!」
炎と魂が共鳴し、巨体が宙で翻った。
次の瞬間、地面に向けて一直線に落下。
大地を砕く、炎の隕石投げ。
轟音と共に地面が爆ぜ、土煙が天を覆う。
木々が悲鳴をあげるように揺れた。
やがて煙が晴れた時、そこには、頭を地面にめり込ませ、動かなくなった破亜死。
その隣には、斬魂刀が静かに元の刀の形へと戻り、見に纏う衣類は、炎に焼かれた布地がわずかに残るのみの練極の姿があった。
三十四章 七節
信じられない光景だった。
「な、なんだと……っ!?」
夢災は、破亜死の巨体が頭を地面にめり込み、微動だにしなくなった姿を見て、思わず声を漏らした。
さっきまで暴れ回っていた破亜死が、まるで壊れたおもちゃのように動かない。
破亜死の命の灯火が消えかけるにつれ、それに寄生していた夢災の魔力も、目に見えて削られていく。
今までの圧倒的な余裕は、もうどこにもなかった。
視線の先で、練極が膝をつく。
炎に焼かれた衣服は、わずかな布地だけが辛うじて身体を覆っている。
肩で息をしながら、刀を地面に突き立て、かすかに震えていた。
「……まだ……だ。」
喉の奥から、夢災は獣のような唸りを漏らした。
かつて二体もの《パラディソ=ラストリア》を、目の前の退魔士によって、ほんの一瞬の隙で失った。
背筋に冷たいものが走る。このままでは、また奪われる。
危険な女は、生かしておくわけにはいかない。
夢災は決断した。
自分の持つ最後の二体の《パラディソ=ラストリア》を呼び寄せ、全力で練極を葬る。
それしかない。
背後で、黒い夢の霧が渦巻く。
闇の中から、巨大な列車を模した二つの影が現れ、軋むような音を立てて並び立つ。
夢災はゆっくりとポケットに手を入れ、古びたマイクを取り出した。
握った瞬間、周囲の空気がぞくりと震える。
「……さあ、フィナーレだ……。」
演歌歌手のように力を込め、夢災は呪文を、いや、歌を歌い出した。
重く、ねっとりとした声の波が森を満たす。
呼応するかのように、黒い渦がさらに広がっていく。
だがこの時の俺には、その光景を気にする余裕など一片もなかった。
なぜなら、それよりもっと大切なもの、仲間の命が失われようとしていたからだった。




