29章
一節
こうして、俺たちの《サザンクロスベイ》での日々は、静かに幕を下ろした。
《ロマーリア大陸》からこの街へ渡ってきて、約二週間。
街での暮らし、アクアバウトや腕相撲大会、仲間達との出会い……いくつもの出来事が、もうずっと昔のことのように思える。
けれど、旅は終わらない。
再び、《世界樹の加護》の届かない広野へと足を踏み出す。
霧の谷へ向かうための、小さな三人旅の始まりだった。
食糧は、保存食を一日分多めに持ち出した。
前とは違う。今は、俺とリアラだけじゃない。リディエルの分まで、しっかりと準備する。
装備も整えた。
小さな肩にも合うように調整された背負い袋と、軽い水袋。リディエルの装備は、街の店で選んだものをリアラが丁寧に手直ししてくれた。
万一に備え、いくらかの現金も必要になると考えた。
俺は念のため、早朝のうちに《銀行》に立ち寄り、百ゴールドを手元に用意しておいた。
そして午後。
西の門。
街の出口へと続く広い道の先、開けた草原の地平を、俺たちは並んで見つめていた。
太陽は高く、旅立ちを祝うようにその光を落としている。
その隣には、リアラと少し緊張した表情のリディエル。
けれど、ふたりともしっかりと前を向いていた。
今この瞬間が、新たな旅の始まりだった。
二節
風の抜ける草原の小高い丘に、俺たちは今夜の野営地を選んだ。
街を出てから半日。舗装のない道を抜け、世界樹の加護を離れた広野に入っていくと、空の色が少しずつ変わったように感じた。
あの、安心感の根付いた大都市の景色は、もうはるか後方に沈んでいる。
丘の上は、ささやかだが風の通りがよく、見晴らしもいい。
遠く、雲の向こうに、ほんの一瞬だけ赤い光が揺れた。
列車の灯りのようにも、燃える花のようにも見えたが、それもすぐに夜風に呑まれていった。
焚き火の準備は、リアラとリディエルが手際よく進めてくれた。
俺も、せめてと思って枝を拾い、簡易の火口箱で着火すると、ぱちり、と小さく乾いた音が弾けて、火がともった。
食事は、保存食の煮込みと硬めのパン。
リディエルはまだ緊張しているのか、小さく口を動かしているだけだったけれど、リアラがスープをそっと勧めると、おずおずと手を伸ばした。
そして、眠りの時間。
夜風が冷たくなりはじめ、毛布を広げると、リディエルは小さく体を丸めてリアラの腕の中にもぐりこむ。
最初はなかなか寝つけなかったが、リアラが小声で子守唄のような節をくちずさむと、やがて安心したようにすうすうと寝息をたてはじめた。
その横で、俺とリアラは焚き火を前に並んで座り、空を見上げていた。
「……星が、近く見えますね。」
リアラがそう言って微笑む。
「ええ。あの街にいた頃より、ずっとはっきり見えますね。」
そして、ふと思い出す。
リディエルの“ママ”のこと。霧の谷のこと。あの、まだ見ぬ村のこと。
「……もし、リディエルの母親が本当にそこにいるのだとしたら?」
言葉の続きを探す俺に、リアラはそっと目を伏せた。
「きっと、喜びますね。あの子が、笑って『ただいま』って言えたなら……それだけで。」
それだけで、いい。
きっとそれだけで、リディエルはずっと心の中で抱えていた小さな祈りを、叶えられる。
火がぱちり、と小さく鳴る。
風の音が重なり、その向こうからかすかに、誰かの歌のようなものが聞こえたような気がした。
風のせいだろうか。
それとも、この広野に満ちる“何か”が、俺たちを導こうとしているのだろうか。
いずれにせよ、明日にはまた歩き出す。
世界樹の加護のない場所で、ただ俺たち三人だけで。
けれど、それでも。
この道はきっと、間違っていないと、思えた。
三節
空は澄んでいた。
昨日の夜とは打って変わって、陽光が広野をくっきりと照らしていた。
草原の道を、俺たちは順調に進んでいた。
リディエルはリアラに手を引かれ、昨日よりもずっと穏やかな表情をしている。背中の小さな荷物も、自分でちゃんと背負っていた。
昼を過ぎた頃、草むらの中に動く影が見えた。
三体? いや、四体……さらに増えて、ゴブリン、五体。
くすんだ緑色の肌。ひしゃげた金属のナイフ。獲物を見つけたようなにやりとした表情で、こちらにじりじりとにじり寄ってくる。
声をかけるより早く、彼女はそっと俺とリディエルの前に躍り出た。
「ここは、私に任せてください。リディエルと一緒に、下がっていてくださいね。」
柔らかな声とともに、リアラの背に風が吹いた。
腰に挿していた、あの工房で選んだばかりの二つの鉄扇が、スッと抜き払われる。
カチン、と金属の音が空に弾けた。
次の瞬間、リアラの姿が風のように消え、ゴブリンたちの間に、すでに踊るように踏み込んでいた。
シャッ。
鉄扇がひとつ、宙を裂いた。
切っ先ではなく、まるで面で払うような動き。それでいて、鋭さをまったく失っていない。
「鉄を舞わせる」とは、こういうことを言うのかと、俺は思った。
一体、二体、三体。
それぞれの間合いを測るように、扇が翻る。
そのたびに、ゴブリンの喉元や膝裏に小さく切り込みが入り、地面へと崩れていった。
「いけっ……!」
最後の一体が突撃してきた。
ゴブリンの剣が、真っ直ぐにリアラの胴を狙って伸びる。
扇を翻したリアラだったが、その間合いではわずかに遅い。
俺は思わず息を呑んだ。
その瞬間。
リアラが、そっと足を踏み込んだ。
バチンッ!
乾いた音と共に、彼女の右脚を中心に青白い雷光が奔った。
まるで帯電するように、彼女のふくらはぎからつま先まで、青い光が踊る。
剣を構える間すら惜しむように、彼女はそのまま飛び上がり、渾身の回し蹴りを放った。
ズガァアァァン!!
雷を纏った足がゴブリンの側頭部に命中した瞬間、落雷の如き爆発音が響き渡る。
次の瞬間には、ゴブリンの体がビリビリと震え、そのまま真横に吹き飛んでいた。
焼け焦げた匂いと、うっすらと煙が漂う。
リアラは空中で軽く姿勢を整え、ふわりと地に着地する。
その脚からはすでに雷光が消え、残ったのは焼き跡と、動かぬゴブリンの影だけだった。
「……ちょっと、焦りました。」
そう言って微笑む彼女の横顔に、俺もリディエルも、しばし見とれるように黙っていた。
リディエルが、ぽつりと呟く。
「……足、でも……魔法、つかえるんだね……。」
その声に、リアラはそっと頷いた。
「はい。これは、マスターのために考えた、私の“もう一つの舞い”です」
それは、誰かを守るための一撃。
ただ速く、ただ鋭く。
守ると決めた相手に刃を向けさせないための、彼女だけの技だった。
4節
陽は、ゆるやかに傾いていた。
森を抜ける小道を、俺たちはしばらく無言で歩いていた。
枝葉の隙間から漏れる橙の光が、俺たちの影を長く伸ばしていく。風は優しく、鳥のさえずりもどこか眠たげに聞こえていた。
そんな中、ふいに視界が開けた。
木々の間を縫うようにして続いていた小道の先で、景色がぱっと広がる。
そこには、斜面に沿ってこぢんまりとした木造家屋が並び、深い茶色の瓦屋根が折り重なるように連なっていた。
その中腹に、小さな駅舎と旅人を迎えるための静かな広場が、夕暮れの光の中に浮かび上がっていた。
石畳の路地には、かすかに湯気の立つ細い水路が流れ、軒先では干された果実や布が風に揺れている。
井戸端で立ち話をする老婦人たちの笑い声が遠くに響き、どこからか味噌汁のような、懐かしい香りがふんわりと漂ってきた。
「……本当に、あったんだ……こんな、きれいな村が……。」
リディエルが俺の袖をそっと引き、目を丸くしながら呟く。まるで童話の中に迷い込んだような景色に、胸の奥まで照らされるような表情をしていた。
坂の下、駅前の広場には木製のベンチと、湯気を立てる足湯があった。
年季の入った屋台がぽつんとひとつ。その横で、炭火を扱うおじさんが串焼きをゆっくりとひっくり返している。
気付けば俺たちは、そのあたたかな暮らしの中に、違和感もなく溶け込んでいた。
この村にたどり着いたことが、まるで最初から決まっていた旅の道順のように思えた。
五節
駅舎の近くまで来ると、木造のホームの端に立てられた鐘が、カラン……と澄んだ音を響かせた。
「おや、ちょうどよかったね。これが発車15分前の合図だよ。」
串焼きを返していたおじさんが、俺たちの方に笑いかける。灰の中に埋められた焼き芋が、香ばしい甘さを風に乗せて運んできた。
その向かいには、木製の台を組んだ仮設の屋台があり、そこには湯気を立てる弁当がいくつも並べられていた。
煮込み肉に厚焼き玉子、香草の炊き込みご飯。
丁寧に詰められたそれらは、まるで「旅に出る人のために作られた風景」の一部だった。
「お弁当、買っておきましょうか。旅のお供には、やっぱり温かいご飯が一番ですよね。」
リアラが柔らかな声で言い、財布代わりの革袋を手に取りながら屋台へと歩く。
売り子の老婆と何か微笑ましい会話を交わしながら、目移りしている様子だった。
「うわ……すごい……!ぜんぶ美味しそうです……!」
リディエルは目を輝かせて、片足をぴょこんと浮かせながらお弁当を覗き込んでいる。
その姿は、肩の力が抜けた小動物のようで、見ているこちらの頬もゆるんだ。
俺は二人に声をかける。
「ちょ、ちょっと待って下さい。列車の確認の方が先ですって。霧の谷のヴァルム村行きの列車がどれか、先に見とかないと。お弁当買ってからまた駅に戻るのは、ちょっと効率悪いですって。」
その声に、リアラとリディエルが同時にはっとして、顔を見合わせてから小さく笑い合った。
「……すみません、私、すっかり浮かれてましたね。」
「えへへ……わたしも……。」
なんというか、この数日の緊張が解けて、ふたりともほんの少しだけ、旅人ではなく「旅を楽しむ女の子」に戻っていた気がした。
俺もそれに引っ張られそうになっていたのかもしれない。
その時、駅舎の奥から、やわらかな汽笛の音が聞こえた。
それはまるで、寝息のように静かな合図だった。
「おっ、来たね。あれが《パラディソ=ラストリア》、霧の谷への寝台列車さ。」
屋台の老婆が指差した先には、霧の色に染まった山あいをゆっくりと進んでくる、古風な列車の姿があった。
深い緑の車体に、ところどころ真鍮の飾り。
丸みを帯びた窓と、優雅な曲線を描く屋根。煙突からは白い蒸気がほのかにたなびき、まるで過去の時代から抜け出してきたかのような、静かで、気品ある寝台列車だった。
「わぁ……きれい……。」
リアラが、目を細めながら小さく呟く。
「これが……私達が乗る列車なんですね。」
リディエルも息をのむように見つめていた。
列車はゆるやかにホームへと滑り込み、車掌帽をかぶった男性が片膝をついて、乗降の踏み台を丁寧に設置していく。
まるで舞台の幕開けのような、丁寧で、無駄のない動作だった。
切符売り場の窓口に立った俺たちに、車掌がにこやかに語りかけてくれる。
「霧の谷、ヴァルム村行き。《パラディソ=ラストリア》は間もなく出発いたします。ご乗車の方は、どうぞ夢を包む毛布と、温かなお食事をお忘れなく。」
どこか詩的で、心に残るその言葉に、俺たちは一瞬だけ見合わせて、そろってうなずいた。
旅はまだ、続いていく。
でもいまこの瞬間だけは、癒しの村と柔らかな夜汽車が、確かに俺たちを優しく包んでくれていた。
六節
こうして、俺たちはその列車に乗り込んだ。
夕暮れの村を背にして、木造の改札を抜けた先に待っていたのは、どこか懐かしく、けれど見たことのない名前を冠した列車、《パラディソ=ラストリア》。
それは鉄道というより、絵本の中から現れた旅の馬車のようだった。
誰に呼ばれたわけでもなく、誰に案内されたわけでもない。
けれど俺たちは、ごく自然に歩を進めていた。
リアラは小さな切符を手に、リディエルは抱えた弁当を大事そうに抱いて。
列車の扉が開くその瞬間、どこか旅立ちの日のような、胸の奥がじんと温かくなる感覚があった。
ドアが開き、吸い込まれるように中へと入っていく。
重なる足音と、ゆるやかな機械音。
どこか遠くで鳴る鐘の音のような、それは静かな旅の始まりだった。




