28章
一節
ヴァルムの村。霧の谷。
聞き慣れないその地名を手がかりに、俺たちは足を運んでいた。
向かったのは、《転生者ギルド》ではなく、その表に隣接するもうひとつの建物、冒険者ギルド。
ここは転生者ではなく、ノクティヴェイルの土地に生まれ育った者たちの集う場所であり、俺たちのようなよそ者には疎い「この世界の常識」が集まる場所でもある。
リアラの言葉が、判断の決め手になった。
「本を一冊ずつめくるより、現場で動いている人の声のほうが、確かだと思います。」
たしかに《大図書館》で地名や歴史を調べることもできたかもしれない。でも、今回のように《大工房》で噂になった程度の話なら、冒険者ギルドの方が情報が早い。
実際、訪ねてみて正解だった。
再び立ち寄った、フクロウカフェ。
昨日とはうって変わって客が少なく、静まり返った店内で、中年のマスターがひとり、カウンターを拭きながら空を見ていた。
俺たちが「霧の谷」の名を口にすると、その視線がふとこちらを向く。
「……ああ、あの場所か。忘れもしねぇ、ラピスラズリ大陸の山のほうだよ。」
彼の話によれば、霧の谷はこのサザンクロスベイから山脈を越えた先にある、深く霧の立ちこめる峡谷。
その入口へ向かうには、徒歩で二日ほどかかる街まで移動し、そこから列車に乗らなければならないという。
そして、谷を越えたその先に、ヴァルムという名の小さな村がある。
「昔はもう少しにぎやかだったがな。今はそんなに人も来ないって話だ。」
その言葉を、リディエルはじっと聞いていた。
小さな手がテーブルの端に添えられ、青く直されたローブの裾がわずかに揺れる。
瞳には何かを探すような、不安と希望の入り混じった光。
そして、ほんの少しだけ微笑んでいるように見えた。
それは、彼女の“知っている世界”へ、初めて繋がるかすかな糸だったのかもしれない。
話を聞き終えた俺たちは、礼の代わりにそのままフクロウカフェで夕食をとることにした。
湯気の立つスープと、香ばしく焼かれた肉料理。
リディエルが遠慮がちに差し出されたフォークを手に取り、一口、口に運ぶ。
「……ママ、早く会いたいな……。」
ぽつりとこぼれたその言葉に、リアラと目を合わせ、そっと微笑んだ。
ささやかだけど、旅の前の静かな夕餉だった。
お腹が満たされる頃には、店の窓には夕暮れの色が差し込み始めていた。
三人でホテルへ戻る道すがら、少しずつ、リディエルの足取りも軽くなっていた。
谷の向こうに、何が待っているのかは分からない。
けれどそれでも、俺たちは向かうつもりだった。
二節
夜が更けていく。
ホテルの一室。灯りを落とした部屋の中で、静かな寝息がひとつだけ響いていた。
リディエルは、ふかふかの枕に顔を埋めるようにして眠っている。小さな手が胸の前で丸まり、長くなったまつげが頬に影を落としていた。
安心して眠ってくれてるんだな。
その寝顔をそっと見守ってから、俺はリアラの隣に腰を下ろした。
シーツの上に仰向けになりながら、天井をぼんやりと見つめる。そして、ふと口を開いた。
「リアラさん。……ひとつ、気になることがあるんですけど。」
隣から、やわらかな返事が返る。
「はい。なんでしょう?」
「リディエルの話……彼女の故郷、霧の谷にある“ヴァルムの村”とか、母親が“霧の龍”に変身する能力を持ってたとか……。」
「ええ。私も、気になっていました。」
リアラは俺の言葉を遮らず、ただ静かに聞いてくれる。
「降臨者って、前の世界の記憶を持ってることがあるのは分かります。でも、ノクティヴェイルのこの世界と、それがここまで一致しているなんて、偶然なんでしょうか?」
「……確かに、不思議です。」
リアラも同じことを思っていたのだろう。語尾に揺れる迷いが、同じように戸惑っているように感じられた。
リディエルが語った母の力、“霧の龍”という存在。彼女が生まれ育ったという霧深き谷と、いま俺たちが向かおうとしている場所。
どちらかが間違っているのか。どちらも真実なのか。
けれど、答えは出ない。
二人の頭で考えても、その謎を解くにはあまりに材料が足りなかった。
「たまたま似てるだけ、かもしれませんね。」
そう言った俺に、リアラはそっと同意するように囁いた。
「はい。でも……あの子の嬉しそうな顔を見たら、もう、それで十分な気もします。」
「……はい。そうですね。」
もし本当に、リディエルの思い出と繋がる場所がそこにあるのなら、それを確かめに行く価値は、きっとある。
明日からは、広野を越えての旅になる。
この街の外は、もう《世界樹の加護》が届かない。モンスターも、罠も、思わぬ事故もある。
だから、まずは眠ろう。
俺は目を閉じる。
同じように、リアラも静かにまぶたを下ろした。
夜の帳が、そっとふたりを包んでいく。
そのすぐ近くで、小さな寝息が、変わらず穏やかに響いていた。




